年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

林試の森から松陰神社へ

2022年10月30日 | 宅老のグチ
目黒の自然教育公園に行ったとき、予定時間が過ぎて歩いて林試の森に行けなかったので晴天時に行く計画を実行した。一応始まりはJR五反田駅西口バス停から渋谷行きの東急バス渋72で出発。頭の中で考えていたコ-スは環状6号線を通ると思っていたら、大崎広小路・桐ケ谷・不動前の道に行った。桐ケ谷は都内屈指の葬祭場で何度か行っていのだがバス便で通過したのは初めてだった。目黒不動尊境内に東急渋72のバス停があってそこで下車。目という文字の下に色の名前が付く不動尊が東京にある。五色不動様。目黒が一番有名で東急目黒線に不動前という駅があるが解かりにくい。この駅の夕方は桐ケ谷へ行く喪服姿の人が多い。京成お花茶屋駅も同様だった。
 目黒不動尊前の掲示板で青木昆陽の碑があるようだ。なにか薩摩芋を手にした像が見える。不動尊を参拝後、境内の隅に226事件の北一輝がいた。顕彰碑で大川周明氏が建てたようだ。この辺りは説明不足でかなり昭和史を気にしている人しか関心ない。多分中国と韓国が騒げば有名になるだろう。日本人の戦友会の活動を見ていると60年で過去になり、百年過ぎてやっと歴史となりそうだ。節目で騒がないと忘れ去られる。今年は鉄道開業150年で見事に歴史の範疇に入った。
 不動尊を出て林試の森へ歩いてゆく。地図的には東急目黒線武蔵小山駅に近い様だが歩いて目黒通りに出る。地図無しで遠くを眺め、高層ビルがあるところが目黒通りと判断して、例によって阿弥陀くじ歩きをしたら、環状6号線からかなり離れたところに出た。ニトリの店があった。
 バス停を探しながら目黒駅方面を向かう。この通りに左側はどうやら古家具の店が多い。目黒通りはインテリアの通りなのだろうか。大鳥交差点で渋谷行きのバスに乗り、246号線大坂上バス停で三軒茶屋行きのバスに乗り換える。三軒茶屋駅で目青不動を探すが見つからない。後で調べると三軒茶屋駅に近い所にあるが掲示もなく人気もない。東急世田谷線三軒茶屋駅 で電車に乗る。パスモで147円。バスの乗り方と同じで電車の入り口で支払う。三軒茶屋駅はプラットフォームに入る前に払う。これは都電荒川線王子駅と同じ方式。
 松陰神社前駅で降りるがまた迷う。道の表示を見ていたら松陰神社通りとあって進む。神社で案内を見ると吉田松陰が処刑後に遺体をこの地に埋葬した様だ。神社参拝後に豪徳寺に向かうが地図の様子では歩いたほうがよさそうで世田谷区役所・世田谷城・豪徳寺の順に訪問する。駅名のある小田急線豪徳寺より世田谷線宮の坂駅の方が豪徳寺に近い。
 豪徳寺は今は招き猫が有名である。境内には井伊家の墓地があって安政の大獄の井伊直弼と吉田松陰の墓がやたらと近い。豪徳寺から世田谷線宮の坂駅より三軒茶屋駅に向かう。この電車はシルバ-パスの利用が出来ないので、休日の車内は若い人が多い。世田谷線の半分は歩いたが高い建物が少なく、若い上京した人の住むところを感じた。
 
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練馬大根いまむかしという特別展へ

2022年10月30日 | 宅老のグチ
またシルバ-パスの利用でコロナの静かなときに出貯め計画をしていて、港区の郷土歴史館で見た練馬区のダイコンで急遽行動計画を立てた。11月の6日までなので時間は少ない。早速石神井公園の側にあることは知っていたので、前回訪問時には大江戸線練馬駅で下車し、西武線で石神井公園駅へ行った。駅前はゴチャゴチャしていて、バス乗り場が無いと思っていたので、練馬駅でバス便を探したがネットでは見つからず、止む得ず現地で誰かに聞けばよいと思った。練馬駅で降りてバスの停留所が数か所あって、一周してみたところ無さそうだった。仕方なく、駅を見守っている3人の警察官、二人は女性に尋ねた。親切に聞きに行ってくれて、4番乗り場で大泉学園行きがあって、途中の近い所で降りるしかないと教えてくれた。4番乗り場へ行くと時刻表ではほぼ2時間後のバスなのでシルバ-パスの利用はあきらめ、パスモで西武線に乘った。190円出費。石神井公園駅は数回来ているので迷路の駅前に再開発反対とあった。西武線の駅前はどこも電車優先と思っていて、駅前は混み入っている。消費を池袋・新宿にもっていこうとしている。東急は途中の繁華街を育成しようと思っている感がある。
 先に石神井図書館まで行き、途中の三宝寺池の所にバス停があって、行き先を見ると阿佐ヶ谷・荻窪駅行きだった。帰りはこれに乘ろうと決め、図書館へ入って、昔の建て替え前の石神井図書館の地下というところに郷土資料の所があって、そこに小学校の教師らしい人と開架だった本を見ていたのを思い出した。今は石神井図書館から郷土資料は移され、近所に出来た練馬区立石神井公園・ふるさと文化会館の二階にある。
 石神井図書館から道の反対側へ移って、福祉の作業所の売店があった。梅干しの広告があって、石神井公園の梅かと思ったが良く見ると和歌山の梅干しを詰め替えているようだ。梅干の加工を福祉で行うという考えは良いと思う。

練馬区立石神井公園ふるさと文化館(ねりまくりつしゃくじいこうえんふるさとぶんかかん)は、練馬区の郷土資料館である。都立石神井公園に隣接する。
 高齢者の証明の免許証を掲示し、無料の入場。誰もいない。じっくり見るとどこか抜けていると感じる。それは戦前の練馬のタクワンが繁盛したのは軍隊需要でこの研究が誰もしていないので展示もない。さらに板橋区ではみの早生大根となっていたのに練馬区では美濃早生大根となっていた。これも練馬区独立運動の影響なのか?漬物業界人が美濃早生大根と書いていて、美濃の国大根と昔は思っていたが宮重大根というのが愛知岐阜にあって混同する人は少ない。
 最後に常設展の所をめぐり、練馬区独立運動の年表を見ると、練馬区の惜しさが感じる。中仙道から外れた練馬は蔬菜の供給地で帰りは下肥の車で賑わっていた。そこに西武線の黄色の電車は戦後は下肥の色と揶揄されていた。
 練馬地域の人は一度都心の池袋まで出て区役所に行って戻りも時間がかかった。そこで練馬に板橋区の支所が出来、さらに支所の分所ということで石神井に分所が出来た。この経緯から練馬区は練馬の名前が東京では有名で、タクワンで農業と加工産業発展していて、練馬区となったようだ。つまり練馬大根が無ければ石神井区という区名の可能性を排除できない。
 石神井公園に戻り、三宝池バス停で時間を確認すると5分待ちだったので阿佐ヶ谷行きに乗った。JR阿佐ヶ谷駅でまたバス停をめぐり新宿行きがあるかもしれないと思っていたら渋谷行きがあった。渋谷はバス停の位置を知っていたのでこれに乗って帰る。
 次は石神井公園へは渋谷・阿佐ヶ谷経由で行けば無料になる。ただ時間が3倍以上かかりそう。
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多摩川スカイブリッジから京急六郷土手まで歩く

2022年10月29日 | 宅老のグチ
JR蒲田駅から京急バスで空港行きのバスに乗り、弁天橋で降りた。50Kのコ-スの始まりだが今回は新規に開通した橋を渡り川崎側を京急六郷土手まで戻るコ-スで歩く。
 弁天橋バス停はかなり蒲田寄りにバス停があって失敗したと思った。スカイブリッジへは羽田空港第三タ―ミナルで降りて、広い駐車場を横切ってゆくのか天空橋駅で降りたほうがよさそうだ。多摩川上流羽村までの50kコ-スはやはり弁天橋から始まる。
 橋を渡ると鳥居があって、由来と空港に敷地を提供したことへの怨念を感じる。鳥居の部分まで東京都の管轄で、それより海側が国土交通省の管轄となる。
 そこから本来は50Kのスタ-トだがスカイブリッジを渡るのが目的なので今回は距離はカウントしない。上流よりの歩道を歩いていたら歩行者も一方通行と言われたがあとで家で調べると自転車は一方通行で、橋の通路にも表示があった。自転車道と歩道は段差があって、歩道上は走行禁止のようだ。海側の歩道に回り空港を見ると千葉木更津上空から着陸する旅客機の前照灯が見えた。夜なら次々と着陸する飛行機の明かりが見えるはず。
 川崎側に渡るとヨドバシカメラの物流センタ-見える。この橋が出来て環状8号線と大鳥居交差点の混雑が減ったと思う。空港行きのバスが比較的に定時運行となった気がする。
 京急大師線小島新田駅まで行くと、産業道路の踏切が消えていた。駅の工事案内で地下化の工事があるようだ。ドンドンとマンション開発が進むと思われる。空港従業員はスカイブリッジを渡れば圧倒的に早い。いずれ24H運用なれば深夜早朝も近いし、歩いても行ける。弁天橋付近の道は昔の漁村の道で歩道もなく危険だ。
 大師線終点から川崎大師へ行き、門前の漬物屋を見つける。奈良漬が名産のようだ。ひっきりなしの咳止め飴の切る音が聞こえるが景気付けの音である店ではテ-プから音を出していた。大師を過ぎて味の素の工場がある鈴木町を過ぎ港町へ入る。港町13番地という美空ひばりの唄はここで、横浜ではない。鈴木町の名前の由来は味の素の経営者名から来ている。味の素の工場が途切れたところから多摩川に向かって歩く。土手に上ると湾曲した多摩川から空港と川崎市のマンションが見える。どうやら川沿いはマンション立地としては良い様だ。六郷橋を渡り東京都側に入り、京急六郷土手付近のイオンのマックスバリュウ―というス-パ-の前の所にシルバ-パスのを利用できる東急バス停があってJR蒲田駅まで行ける。
 次回は弁天橋から多摩川を出来るだけ遡る。川崎よりだったら武蔵小杉か新丸子駅か。川崎臨港バスか川崎市営バスの利用も想定しないといけない。
 あとは午後3時過ぎに入れる銭湯を探せば汗を洗い流せる。大田区は銭湯で温泉体験が出来る所がある。
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農協の闇(ノウキョウ ノ クラヤミ)を読んで

2022年10月28日 | 梅干
書評で気になっていて、また郵便局の自腹営業の話で、本屋で買う必要がなく、図書館で借り出せば良いと思っていて、他の都内の図書館は蔵書している所がすべて貸し出し中でさらに都立中央図書館はまだ検索不能だった。そうこうするうちに図書館の検索システムに農協の闇が引っかかり、借りることが出来た。
農協の闇 窪田 新之助著2022年8月

 書評ではやはり郵便局のノルマから保険等の自腹営業と同じと感じていて、これは奥深いが地域を衰退させる運動をしているように見える。円安と海外農産物高騰でもコメは減産傾向が変わっていない。思い切って小麦等の輸入農産物を上げ、コメ関連食品の販売促進に税金を使うべきなのに総花的な食品政策で困窮国民を助ける意思が見えない。

 農協の闇の第三章で梅干しの価格談合の話しがある。著者の追求は鋭いがやはり日本農業新聞の記者だった経歴からどうして今も続いている談合もどきの分析が出来ていない。この梅干しの問題でも日本の農業は日本の問題であっても外国、特に中国と韓国に対して甘い。中国に梅の品種(南高梅)が流出し、技術支援したのは日本人の梅業者である。日本の各都道府県で農業試験場があるが国内志向が強く、品種登録が費用が掛かるから海外登録の意識が薄く、流出し評判になってから騒ぐ。そろそろ農業試験場の統合も必要で余った人員は特許要員にした方が良いと思う。
 取材先の守秘義務がある記者の書いた内容は梅業界と関係ある自分にはどの人かおおよそ推測できるが、不正もどきが今なぜ続けられているか分析が甘いし、解決方法も見当たらない。和歌山県元南部川村長で南部町と統合し、初代のみなべ町の町長になった人が生きていればここまで梅価格の低迷になることを遅らすことは可能だったと今は思う。安いものを要求してくる量販店バイヤ―の圧力に屈し、地域全体が落ち込み、仕入れ価格を抑えるために農家から買い入れる価格を再生産価格以下にした。また梅農家も梅バブル時の消費行動が消えず、不良品の販売(つぶれ梅・傷物)の誘惑に勝てなかった。

 今秋田県では漬物業への規制があって、販売好調の燻りガッコを地域特産品として価格維持しようとしている。このような行政の介入が今から思う和歌山の梅業界に必要だったかもしれない。梅干しでは和歌山県業界の意思で保存料を梅干しに添加しないように法規制した。従って梅干しの宣伝文で保存料を一切添加していませんと言う宣伝は誤りである。保存料を入れれば梅干しと名乗れない。
 2018年の東京の梅雨明けは6月29日でそれ以後TVでは熱中症報道が続き、塩分補給のため梅干しが取り上げられ、さらに量販店等も梅干しの売り場が拡大し、折からの中元時期のため、贈答品の梅干しも売れた。そこで和歌山の梅干し業者は利益の出ないス-パ-への出荷を抑えた。
 ここで行政と生産者はまとまれば価格維持をして、再生産価格に引きあう梅干しの復活もあるだろう。中国もすでに安い物しか買わない日本向けから御菓子的な甘い梅に向かっている。

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白金台駅そばの港区立郷土歴史館へ

2022年10月27日 | 宅老のグチ
シルバ-パスの利用で白金台駅へ行くとしたら、パスが使えそうにないので使える都営浅草線高輪台駅から歩いて向かうことにした.
前に畠山記念館へ行ったことがあって、高輪台駅を降りて、歩いて国道1号線に出るコ-スを取った。高輪台駅では出口が一つしかなく、改札口までは超長い登りのエスカレ-タ-がある。エスカレ-タ-の所に盗撮とあって(あいまいな記憶)、不思議な思いがエスカレ-タ-を乗っている時に気になった。低い位置に掲示があって、この位置だと注意に役に立たないと思っていた。駅を降りて女子高の前を通過する。この名前を検索すると頌栄女子学院中学校・高等学校 という。どうやら都内の女子中学校制服人気ランキングの一位のようで狙われているかもしれない。高輪台駅出口よりダラダラ下ってどんどん狭くなった道の途中に白い大きな建物がある。暇そうなテラスの警備員がいる。ここは噂で有名な白いテラスという。この消防自動車も大型が入らない狭い所にいわくつきの建物が建っている。
 畠山記念館という美術館はポンプのエバラの美術館で今は長期休業中でカレンダ-のみ販売しているようだ。創業者畠山一清は東大を出て、日本醤油醸造という今の感覚だと食品のベンチャ―企業に技師として就職した。日本の古来の醤油醸造を機械化して在庫回転率を上げ、安価に醤油を販売する会社だった。しかし技術と味とが整う前にサッカリン使用の告発があり、さらに工場で醤油を絞った後の布を放置したため、出火し会社が破綻した。その後畠山は恩師の手配でポンプの開発に向かい成功した。福神漬を調べるうちにこの記念館へ行った。茶道具のコレクションで千宗旦の道具をここで見た。
 警備員のいるところから西へ歩き遠方を見ると階段があって、行きどまりなのでまた阿弥陀くじのように歩いて広い道路に出た。出るとドンキホーテの店で白金台駅だった。この店は外苑西通りの行きどまりの店でいずれ都道が高輪の街を貫く予定のようだ。
 白金台駅から港区立郷土歴史館で鉄道開業150年の特別展があって、400円支払った。領収書がQRコードで入館券となっていた。第二節の日本人の鉄道利用と鉄道知識の広がりで西洋新書初編之二と西洋見聞図解で瓜生政和(梅亭金駕)の紹介があって、ついでに福神漬の命名者として書いてあった。予期せぬことで驚く。鉄道錦絵の所で井上安治と小林清親が紹介されていた。
 今回の展示で佐賀藩の鉄道知識、明治天皇が10月14日鉄道開業時に初めて鉄道に乗車したのではなく、荒天で東京に戻れなく仮開業していた横浜から品川まで乗車していたという。
 ロシアとアメリカから提供されていた鉄道模型の本物は今どこにあるのだろうか。
 港区の施設を出て国立博物館の自然教育園に行く。高齢者は無料なので園内は高齢者ばかり。自然教育園の様子はつくばの実験植物園と同じ作りと感じた。出た後に都バスのバス停を見ると大井競馬場行きのバス便があって不思議な時刻表と感じ乘る。土日のバス便が増えているように見えた。多分目黒駅から大井競馬場に行くのだろう。大井競馬場に着いたとき、水曜日でギャンブルホリデーでお休みだった。仕方なく品川区の公園を突き抜け、鈴ヶ森の刑場を見て、八百屋お七が敷石に建った柱に縛られ火刑となった石があった。生きていて火を点けられた。
 刑場の後にすぐそばの品川水族館のバス停からJR大森駅へ向かう。交通費は無料だった。最初の予定では目黒区の林業試験場の後の公園を予定していたがまだ紅葉には早い。
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都内のモミジ狩りの下見

2022年10月26日 | 宅老のグチ
老犬の夜中でもある排泄行為のため、先手を打って不穏な行動を見せたら、時間とか天候に関係なく水入りのペットボトルと始末のための紙を携え散歩に出る。26日午前1時には小雨が降っていたが、2回目の散歩時はほぼ快晴に近い天気だった。
 今日の晴天を利用して、目黒区周辺の植物園徘徊を狙う。普通に電車に乗って行けばよいのだがシルバ-パスの利用で行くとなると、連絡接続などの準備があってどこから始まったら効率が良いのだろうか。とりあえずJR品川駅辺りから始めれば良いように思える。五反田駅からのバスだとJR目黒駅には登り坂となるし、JR渋谷駅は谷底でどこへ行くにも登坂となる。
 高野長英の最後の終焉の地など文献で出てきたところも今はどうなっているか知りたい。江戸時代は今と違ってみんなが歩行者なのだ。

 築地市場にいた時は隣の浜離宮公園が近いのに殆ど行くことはなかった。記憶にあるのは2回ほどしかない。庭園内から見る汐留の高層ビルが異世界と感じていて、紅葉もあるのだが気にしてはいなかった。明治の初期には浜離宮の中で外交の宴会もあったことは中に入って知った。記録が無いと記憶から消える。
 もうじき消える命を意識していて、まだ知らないことが多いことを知る。動けば動くほど知らないことを自覚する。まだ引っ越しの整理があって腰を痛めて湿布薬を貼っている。明日も少用があり、その次は雨天予想もあって、意外と良い日は少ない。動けるときに動かないといけないがコロナの新規変異株が動き始めてワクチン接種券が届いていつ打つか悩みがある。インフルのワクチンは今年は打たない。
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カラスの羽は白い

2022年10月25日 | 宅老のグチ
江戸時代の末期に比較的に景気の良い時期があった。文化文政期である学者はこの時期から今に至る経済成長の始まりという。出典 梅棹忠夫著作集 第13巻  
 今の学者は明治維新から考える人が多い様だがこれは明治期の薩長政権による歴史の正当性を形成するための論理であれほど急速に西洋文明を取り入れたアジアの国は日本以外では無理だった。識字率が高く、明治初期の投書新聞には今の小学生高学年位の男女が投書している内容を見ることが出来る。町田市の自由民権資料館には開架式の図書室で読むことが出来る。『穎才新誌』(えいさいしんし)は、近代日本ではじめての全国的子供向け雑誌 で明治10年の創刊、徐々に女子の投書が減ってゆく傾向が見える。一応明治維新で過去の秩序が破壊され、社会制度が再構成されるに従い女子の自由が消えていった。明治事物起源を著わした石井研堂は石井民司 という実名で18歳ころこの雑誌に投書しているのが読み取れる。
 香港の株が下がっていて、どうやら中国の金持ちが新しい習体制に不安があるようだ。カラスが白いと幹部がいえば白でないと部下は言えなくなるようだ。でも新しい仕事は評価が定まらず、色も決まっていないので物事は日本と同じように停滞する気がする。
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ナタマメを見るため房総のむらへ

2022年10月24日 | 福神漬
千葉県成田市付近に千葉県立(房総のむら)という体験型の博物館の公園があります。そこのところに福神漬に入っている刀豆があると旭市大原幽学記念館で聞いていたのでどのように展示しているか見に行きました。
ナタマメがあったのは下総農家の様子を展示してあるところで落花生(殻付き)小豆などの乾燥させ保存している所にありました。
 大きさを比較するため、入場時に頂いたパンフレットを添えて写真を撮った。パンフレットの大きさは長辺が21CMで短辺が10CMです。
 展示していたナタマメは日干ししたあとなので乾燥前は30CMは超えていたと思われます。またこの形からタバコの道具で清水の次郎長が愛用した刀豆キセルという煙管をタバコと塩の博物館で見たことがあります。本当に刀豆のさやの形に似ています。
最後に今現在において、千葉方面で個人の人が何のために刀豆を栽培しているか知りたい。
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べったら市の写真整理で

2022年10月23日 | べったら市
ベッタラ市を行った人も普段の宝田恵比寿神社の様子を知らないと驚く。神社の鳥居の所が境内の終わりで白布で覆われた台の所は通常は歩道となっている。明治末期には千数百の出店があって、アセチレンガスで火がともされ19日から20日にかけて賑わっていたようだ。当時の東京市電の中心地である本町からいくらも離れていないので娯楽の少ない時代に出かける祭りだった。
 この市の始まりは20日恵比寿で知られている関西の恵比寿購から来ていて、関西では十日恵比寿が有名である。江戸では11月19日(旧暦)で恵比寿購があるという。この恵比寿購のための諸道具と食品を商う市が自然発生し、その後に後付けに神社が出来たので境内は無かった。何しろ土一升金一升の繁華街なので余地はなかった。

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天気が良くて歩き始めて気が付く

2022年10月23日 | 宅老のグチ
散歩のときにIWATCHが反応して、運動ですかとくる。この頃のデ―タだと1KMが16分位の歩行速度が表示される。普通の女性に追い抜かれて5分もしない内に100Mくらい離される。昨年の時は1KMあたり14分50秒位だった。不動産屋の広告では1分は80Mで広告となっている。これを換算すると1時間では4・8KMとなる。つまり今の状態だと不動産広告の速さから離れている。高齢者の歩行速度は交差点の歩道の幅から、信号が変わってすぐに歩き出さないと間に合わないことを想定できる。
 ネットで検索すると前期高齢者は毎秒1.2Mで後期の人は毎秒0.98Mと書かれいた。平均として毎秒1Mとすると1時間では3.6KMとなり、不動産広告風に言えば1分60Mとなる。これでは追い抜かれる。これを無理して通勤時の歩行速度の流れに巻き込まれると、転倒の恐れも出てくる。今シルバ-パスの利用をして外出しているが階段歩行に端を歩かないと周囲の速さに巻き込まれる恐怖を感じている。
フレイルという言葉が気になるがじっとしていては身体が衰える。


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ダイコンの寺?神社?

2022年10月22日 | 宅老のグチ
ブラタモリで見た東武博物館へ行く。目的は吾妻橋駅の明治の状況で、例によってシルバ-パスの利用で都営浅草線本所吾妻橋駅で降りて、金町行きの都バスに乘る。6番目のバス停が向島消防署で、博物館は東武線東向島駅の高架の下にある。博物館は不思議なつくりで、見学中の小学生が線路と同じ高さの目線で反対側を見ていたら、ちょうど東向島駅に到着する電車が目の前1M位に止まって歓声を上げていた。このような目線で今まで電車を見たことはない。よく線路の中心にカメラを置き通過する電車・列車の動画は見るが車輪の直近で見たことはなかった。
 中二階の所に昭和22年の焼け野原となった吾妻橋駅付近の写真があった。区画整理された道路とそうでないところも焼け野原であった。京島地域の道路が狭いのは関東大震災の時はまだ農地だったように思える。戦災後に区画整理が間に合わない内に家が密集して建ったと思う。いまは京島地区の再整備をしている様子が曳舟図書館へ行く途中に感じる。次の震災に間に合うのだろうか。
 東武博物館を出た後に向島百花園・白髭神社を歩き、X字型の桜橋を渡り、待乳山聖天を訪問する。後ろから行って、斜面を登る箱に乗り境内に行く。これは不思議な経験である。
 この寺は江戸時代は遊郭の吉原行きの隅田川の船頭の目印の丘で脇を水路が通っていた。寺の紋は巾着と交差する二股大根で、子孫繁栄と金運の寺で、詳しい御利益を書くと今の時代はセクハラとなる。お家の存続のために権妻を持つことは当然視されていた時代だった。
東武東向島駅から浅草駅まで歩いた。コロナ鎖国解除後の浅草寺境内にはまだ入っていない。来月だろう元の戻るのは。今日1ドル151円から144円に変わった。策の無い日本は1ドル180円を目指すのだろうか。戦後の77年の半戻しもありうる。
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墨田区の業平小学校から見る

2022年10月21日 | 宅老のグチ
墨田区の中央図書館的な京成曳舟駅前の曳舟図書館で戦前の漬物問屋の位置を探してもらいました。墨田区の都市化されている地域は関東大震災と昭和20年の米軍による無差別爆撃で地域が激変したところです。区画整理が進んでいても、町名変更があって、さらにスカイツリ―の建設によって、道路が拡張したようです。この業平小学校が図書館の保管していたところと漬物業者の位置が同じです。当然戦後に再建された位置には漬物屋の姿はありません。
 業平小学校前の道路名はタワ-ビュ-通りと言って、スカイツリ―が根元から写せます。学校に近づくと王貞治という名前が掲示してあります。どうやらこの小学校で王貞治少年が野球に目覚めたようです。
 位置確認したあとに近所にタバコと塩の博物館の案内を見たので、一街区隣で見に行きました。塩のことはここで知ることが出ます。入り口で建物が博物館らしくないので聞くと、元の専売公社時代にタバコの保管してあった倉庫のようでした。都営浅草線本所吾妻橋駅からシルバ-パスの利用で帰りました。
 業平は多分在原の業平から来ていると思います。伊勢物語の東下りです。

武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる川あり。
それをすみだ川といふ。
その川のほとりに群れゐて、
「思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな。」
とわび合へるに、渡し守、
「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」
と言ふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。
さる折しも、白き鳥の嘴(はし)と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。
京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。
渡し守に問ひければ、
「これなむ都鳥」
と言ふを聞きて、
[名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと]
と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。
 言問橋、業平小学校 伊勢物語の由来と思われます。大田道灌も同様の逸話があります。和歌の素養が無いと関東者は馬鹿にされていたのでしょうか。なお都鳥とはユリカモメのようで都営の路線名になっていると思います。
 築地市場で水産部のごみ集積場で白いカモメと黒いカラスがエサの取り合いをしていて、見ていると体の小さいカモメの方が強いとみていました。

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べったら市2022・10・19

2022年10月20日 | べったら市
都営浅草線の東日本橋駅で降りて、日比谷線小伝馬町駅を目指すが、すでに3回ほど迷子になった経験があって、今回も迷った。ウロウロしてぶつかったのが久松警察署で明治期のべったら市の食品衛生の取り締まりをしていて記憶がある。明治期は課税されていた砂糖の税収確保のためサッカリン入りのべったら漬を販売していた業者から違法ということで証拠品を集め警察署に保管したので久松警察署がべったら漬の臭いが充満している記事の記憶にある。久松警察の近所が人形町なのでこれからべったら市の会場への道はすんなり行けた。近づくと祭りの雰囲気があって、刷毛を商っている江戸屋の看板が見えた。今晩は路上の飲み屋街となるだろう。そこでべったら漬を買う。藁でまいた昔風のべったらもあった。
 コロナで休んでいた市と人出が戻ってきたと思うが昼過ぎでは先が見えないくらいと言えない。小伝馬町駅前にある梅花亭によるが明治の香りがする切山椒という和菓子は欠品していて一時間後という。また十思公園に来るかもしれないので次回ということで。家に帰る。今日も10KMほど歩いただろう。
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やっぱり雨か べったら市

2022年10月19日 | べったら市
昨日の天気予報では雨の確率が低く安心していたが老柴犬が午前2時半に起きて騒ぐので、外に散歩に出たら、小雨が降っていた。天気的には19日は雨量に関わらず雨の記録が残りそう。
 1978年(明治8年)から東京の天候の記録があるが明治8年頃の10月の平均気温が15度位で最近の東京のという気温の記録では20度平均年もあるという。今日は寒い。地球温暖化という風に書かれるが、主な気温の上昇は都市化と空調機器から出される排熱の影響が多いと思う。東京でも郊外の気温はまだ低い。

 日が出たころ、生ごみの集荷日なので6時過ぎの太陽が出たころ、様子見で外に出ると雨がやんでいて、これならべったら市の主催者は安心だろう。今はべったら漬を造る業者も減って店舗は今でも多いのだが味の差は昔ほど差が無くなったと言える。年々少しづつベッタㇻ漬の単価が上がって今年はいくらになるのでしょうか。縁起ものです価格は気にしないで。
 小伝馬町駅付近の梅花亭小伝馬町店の切山椒という和菓子とべったら漬を買いに行こう。

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19日20日は日本橋のべったら市で今年は晴れそう。

2022年10月18日 | 宅老のグチ
明治の改暦150年の今年はべったら市が新暦になって、明治6年から10月19日20日と変わった。暮の世田谷のぼろ市は年末の道具や食をそろえる市だったので、急に12月3日に明治6年の正月になって混乱があったようだ。市の準備していたのが急に消えて大騒ぎの様子が思い出される。ここに新政府の強硬姿勢で不満があって、ぼろ市は12月と1月の二回の開催となった。足して二で割るより実利を取ったようだ。当時の世田谷の人の気持ちはどうだったのだろうか。
 日本橋の人たちも幕府には恩義を感じていても、家の存続が大事で次第に明治末期にかけて盛大になった。これは日清・日露の戦争に勝って高揚している日本だった。
 暦の改暦150年のイベントが見当たらない。多くは鉄道開業150年である。市の開催日が一月ほど繰り上がって、10月19・20日となったのだが過去の天気状況から10月としては雨の特異日で二日間のうち雨が少しも降らない時は少なかった。今年の東京の10月は雨が多かったので予報では晴れそうだ。べったらは浅漬で日持ちがしないので雨が降って傘をさすと売れ行きが落ちる。
 明治の新聞記事でも雨が降りすぎ大量に残ったべったら漬の処分で嘆いている商人の話が出ている。
 ネットで改暦150年のイベントを調べたら、暦会館・福井県大飯郡おおい町名田庄納田終111号7番地 で開催されていた。どうして福井の辺鄙なところでイベントがあるのかというと陰陽師の子孫が住んでいた。明治維新は王政復古ということで、陰陽師が復活した。しかし明治なって急死したため、天文方が組織変更となり、旧派を一掃した。

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