年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治後半期に於ける沢庵業の発展

2006年03月29日 | タクワン
参考 練馬大根 練馬区教育委員会発行より
明治も20年代に入ると世情も落ち着き、東京の人口も増大し、練馬が再び大根の産地となった。維新のあとで奨励された茶、桑、藍の採算が取れなくなったためもある。東京に出来た工場の寮、学生の宿舎、軍隊の糧食の需要があらたに生じた。
明治30年3月刊の(日本園芸雑誌第80号)によると当時の沢庵漬・一反歩(10アール)の収支
支出の部 合計22円75銭
内訳 種子代 80銭・ 整地人夫代 60銭・播種及び施肥人夫代 45銭・ 肥料代 8円55銭・間引及び1番作人夫代 45銭・補肥及び2番作人夫代 30銭・収納人夫代 75銭・干燥人夫代 1円50銭・沢庵漬人夫代 60銭・塩及び糠代 5円・干し葉取人夫代 45銭・運送費 1円50銭・その他・樽代? 1円25銭・公費 60銭
収入の部 合計 26円
沢庵漬 24円 干し葉 2円
差し引き利益 3円25銭
収支をみると肥料代が収入の3割を占めている。各種人件費を加えると利益は少なかった。
この時代の沢庵漬の原価を分析すると、次のような対策が考えられる。
①大根栽培の中で肥料がコストの中で多いので削減する。化学肥料の導入
②塩及び糠代がかさむので、製造方法の革新。干し大根を漬け込むことから生大根を塩蔵し、仕上げに糠漬け(沢庵漬)にする。技術革新
③運送費・荷車から鉄道を利用し遠隔地に得意先を確保する。量的拡大政策
④品質を安定させるため、大根の品種、製造方法の確立によって、ブランドの確立。安定大量消費の軍隊・寄宿舎等の得意先の確保。
⑤自家製造の沢庵漬と明らかに品質の差が出る商品の製造。製品の差別化。
以上のような理由で練馬の農家の干し大根販売から野間稼ぎとしての沢庵製造が明治の半ば以後、沢庵工場化していく。

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