今週は井深八重のことを調べている。今小学校4年の教材に井深八重は出てくるようだ。井深八重は平成元年に亡くなっているのだが生前自分自身のことを語ることがすくなく、福島県出身となっているがそれは八重を捨てたともいえる父の出身地であった。母も幼少のとき亡くなり、縁者であった井深梶之助(明治学院2代目院長)によって何不自由のない生活を送っていて、同志社女子(多分会津出身の新島八重の縁だろう)を出て長崎で英語の女教師となり、結婚寸前までいったのだが体に変なものができ、長崎から当時日本では唯一のハンセン氏病患者を受け入れていた神山復生病院に強制的に入院させられた。当時はハンセン氏病が治らない病気と考えられ、さらに遺伝性と信じられていた。彼女の親族は世間体を考え八重の戸籍を抹消したという仕打ちをしたという。神山病院には見舞いに訪れる親族や友人もなく、唯一話せる人が同志社女子で同窓の『みどり』さんだった。このみどりさんは有馬頼寧が皇族から嫁いで来た妻(北白川貞子)と離縁してまで一緒になりたいと画策した女性だった。
神山復生病院に入って数年たってもハンセン氏病の進行が見られなかった八重は病院長の勧めで東京の病院で検査を受けた結果、ハンセン氏病というのが誤診ということがわかった。しかし戸籍等を抹消しハンセン氏病だと八重を捨てた親族を頼ることもできず、神山復生病院に戻り、患者を診る看護婦がいない病院で一生働くことを考え、看護婦の資格を取ったという。
ハンセン氏病は特効薬ができ危険な病気ではなくなったが、今でも世界中で発病している。戦前のハンセン氏病の対策は日本では隔離政策であった。国家による差別・偏見はごく最近まであって1996年[平成8年]に『らい予防法』が廃止されるまで、患者の隔離政策がとられました。
神山復生病院に入って数年たってもハンセン氏病の進行が見られなかった八重は病院長の勧めで東京の病院で検査を受けた結果、ハンセン氏病というのが誤診ということがわかった。しかし戸籍等を抹消しハンセン氏病だと八重を捨てた親族を頼ることもできず、神山復生病院に戻り、患者を診る看護婦がいない病院で一生働くことを考え、看護婦の資格を取ったという。
ハンセン氏病は特効薬ができ危険な病気ではなくなったが、今でも世界中で発病している。戦前のハンセン氏病の対策は日本では隔離政策であった。国家による差別・偏見はごく最近まであって1996年[平成8年]に『らい予防法』が廃止されるまで、患者の隔離政策がとられました。