年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地の青果棟も消えて

2019年01月28日 | 築地市場にて

環状2号線仮設通路入り口の築地市場青果棟が消えた。見ると瓦礫の山となる。豊洲の電気点検も終わる。築地より明るいので風が吹かなければ普段と同じ。8時20分頃主電源が消え、11時35分再点灯。ただしエレベ-タ-の電源が再稼動したのは夕方5時少し前。従って重い荷物はゆりかもめ駅のエレべ-ターを利用する。大回り。

 築地の電気点検は年々予定時間より遅れ、最後の年は夕方暗くなって再点灯した記憶がある。

 終わってしまえば何でも言える。これで築地からの豊洲移転が本当に終わった。

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準備期間8ヶ月

2019年01月26日 | 築地市場にて

築地にいるときから、1月27日の豊洲市場の電気点検の準備をしていた。築地では20年以上の経験があるが豊洲ではNTTの電話回線が基本は光なので停電では電話回線によるデ-タの取出しが出来ない。後数年でメタル回線は廃止計画があって安全に関する設備だけメタルを使うように豊洲では設計されていた。このメタル回線は停電に強い。電気は電話局からやってくる。築地では経験済みであるが実際のところ豊洲で停電時メタル回線で想定通りデ-タが取れるかやってみないとわからない。

 テストではうまくいっていたのだが26日に事前テストをしたら不具合があって、予定変更。

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時は進む 沼津市戸田で

2019年01月25日 | 築地市場にて

豊洲移転の混乱も終わり、再び史料調査へ。近場の割りに時間がかかる沼津市戸田へ行った。東京から3時間ほど色々な交通を使ってもかかることがわかり、車と言うことになる。昼の戸田はバス便の少なさで行動制限がかかる。

 丁度ロシアと日本の交渉が始まっていてNHKが戸田の造船資料館で撮影していた。安政の大地震でロシアの外交団が下田にいたとき、船が津波で破壊された。この船の再建計画で戸田が選ばれたが、下田から戸田への回航途中で沈没し、新規に建造をすることとなった。この西洋の形式の造船が近代日本の造船業の始まりとなる。外洋航海の気候に耐える構造を持つ船の建造は江戸幕府が禁止していたため、日本船の遭難が多かった。

 浦賀の与力たちは西洋の文献で西洋の構造を持つ船を浦賀で作っていたが、細かい部分が不明で、浦賀与力の中島三郎助が戸田に見学にいったようだ。ロシア船を再建した戸田の船大工は石川島の水戸藩造船所にいき、君沢型という戸田で作ったロシア船と同じ構造を持った船を作った。この石川島への人の斡旋は中島が関係しているという。

 戸田でのロシアの乗り組み員と戸田の大工との通訳は堀辰之助と本木昌造が日本の担当者であった。本木は日本活版印刷の始祖でその弟(平野富二)が石川島造船所を発展させた。平野富二はいま忘れられつつある人物だが築地と戸田の縁で休眠の危機のあった石川島造船所を復活させた。

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TVのキムチ番組ははずれ

2019年01月24日 | キムチ

国内キムチ製造者は昨年暮れより野菜安の影響であまり売れ行きが良いとはいえなかった。日本と韓国の関係悪化も加わって、過去のTVでキムチを取り上げれることも少なくなった。そこでTVで取り上げられることになって期待していたようだがどうやら通常の注文より少し多いだけで終わりそうだ。

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キムチの情報

2019年01月21日 | 築地市場にて

今日の夜TVでキムチの番組があるという。量販店は用意して明日を待っているようだ。予定した番組が消え、過剰在庫となったこともある。

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中央区長の退任

2019年01月18日 | 宅老のグチ

長い間東京都中央区の矢田区長が次の選挙に出ないで退任するようだ。32年区長だったがこの間築地に勤めていたので区政の変遷は傍観者と気になっていた。初期のころは中央区が約人口7万人でそのうち築地市場関係者が半分近く中央区に住んでいたと思われる。築地の問題は中央区の存亡の問題でもあった。当時は他の区との統合もあった。行政の統合はそこで働く人たちのもっとも嫌う問題でもあった。中央区の都市再開発とITの発達により24時間化が進み、郊外に住むことの不便が増すことが増え、中央区に17万人と住む人が増えた。人口が増えれば、築地が移転しても他の区との統合問題が消える。今では中央区・港区・千代田区も統合問題が発生しなくなった。これから少子問題で周辺区での学校の廃校問題が増えるだろう。同様に中央区では子供・周辺地域は高齢者問題と行政需要が変化する。

 築地の豊洲移転でこれだけの行政の需要の変化を知った。今後も変化するだろうが役所はまだ日本人しか対応できないようだ。異国人が新宿区の成人の日の半数を占めていたという。魅力の無い都市は異国人はすぐ去ってゆく。そして移動できない日本人高齢者が残る。地方山魚村・離島などはその先行事例でもある。ITの時代で地方も同時期に情報を得ることが出来るようになった。ただこれを生かすことは出来ないようだ。行政の成功事例で補助金がつき、新規参加するところが多いようだが過当競争で数年後に休眠事例となる事に気にかかる。

大分県の一村一品運動で漬物製造者が増えたが今どれだけ残っているのだろうか。

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致富の鍵 大倉喜八郎

2019年01月17日 | 福神漬

致富の鍵(チフ ノ カギ)

明治の豪商だった大倉喜八郎の本を今読み始めた。防衛省の史料で明治28年に福神漬の文献が出て大倉組の大阪支店の名前が出る。なぜ東京名産の福神漬と書類にありながら大阪の大倉組が献納したか長い間不明だった。小説で大倉喜八郎の話はかなり誇張されていて文献としては役に立たないと思っていたが都下の国分寺にある東京経済大学の責任編集で致富の鍵を読むことが出来た。

 戊辰戦争で特に上野戦争のときの大倉喜八郎の逸話が小説でも引用されていたが実話であったことをこの本で知った。

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幕臣の古沢庵漬

2019年01月15日 | タクワン

大谷木醇堂 おおやぎ-じゅんどう)関連の本を読んでいる。どうやら下級幕臣の家では沢庵漬を購入することも無く自家製で大量に漬けた沢庵漬を変色し黒くなったものまで食していたようだ。少し上の階級の幕臣は使用人も多く、肥料となる下肥が練馬の大根農家との契約で安定した沢庵を食することも出来たようだが使用人の少ない幕臣でさらに肥料となる下肥の品質評価も少なく、契約農家が少なかったようだ。今は下肥は利用されず、文献として残っているが。あと少し経てば歴史の記録として残り、実物を知る人は消える。

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週一ほど韓国大使館前を歩くので

2019年01月10日 | 宅老のグチ

昔なら日本と韓国の関係悪化でキムチの売れ行きを心配していたが、近年の感情悪化でもキムチの売り上げには殆んど無影響で国産野菜で作られているものが売り場を占めている。もちろん韓国製もあるが韓国の貿易統計が示すように減るか停滞する状況である。これは日本の漬物業者の節操の無い対応で今は国産製造をパッケ-ジに記載し、さらに乳酸菌を加えて加工している。

 韓国製はこだわりが強く、自然の乳酸菌で味にばらつきが生じやすい。日本の漬物は今では自然の乳酸発酵を待つのは京都のスグキだけが残った気がする。スグキさえ昔のつくり方が減っている。

 都立中央図書館から麻布十番駅に歩くと途中、韓国大使館前を通るとき、この先いつまで工夫しなければならないのだろうか考える。

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石井研堂の缶詰のはじまり7

2019年01月09日 | 福神漬

石井の缶詰の始まりに北海道関連の記述がある。ここは開拓使缶詰製造だと普通は思われるが八雲町、伊達町とかの北海道の市町村の維新後の歴史を缶詰の始まりに入れても不思議ではない。

尾張藩の幕末明治の始まりの大混乱(徳川の御三家なのに青葉松事件で佐幕派を弾圧し、戊辰戦争では明治政府側について戦ったこと)で北海道八雲町に尾張藩士族が移住開拓民となった。いま明治事物起源をこの観点で読み始めている。蛇足記事の多い、石井の缶詰の始まりは他に雇い米国人、工部大学、津の守、島原の乱、溜り漬、近藤重蔵、紋別漬、缶詰輸出の初め等が記載されているので何か隠された意味があるのだろうか。

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石井研堂の缶詰のはじまり番外3

2019年01月08日 | 福神漬

石井研堂の著書の中で中村正直伝というのがある。明治の初期に年少者の投書雑誌があった。明治10年穎才新誌という雑誌である。少年の投書を掲載する雑誌であった。この当時は少年という言葉が今と違って男子だけでなく年少の女子も含まれていた時代だった。雑誌の初期は3割ほどの女子が投書していたという研究もある。(立身出世の社会史・キンモス著)

 明治15年郡山の金透小学校の代用教員だった石井の投書が穎才新誌に掲載されている。明治15年8月19日号(扇説 福島県下郡山 金透学 石井民司 年齢不詳=多分18歳)数竹片を綴りて、手の形にし、紙を貼り付け、これを揺らし涼風を生じる物が扇である。

 大意は土の中のあるときの竹は地上に出てどの様な形になるか判らない。

明治の立身出世主義は福沢諭吉の(学問のすすめ)中村正直翻訳スマイルス( 西国立志編)から大きな影響を受けた。

 

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石井研堂の缶詰のはじまり番外2

2019年01月07日 | 福神漬

郡山の石井研堂のことを調べていると慶応4年1968堺事件と言うことを知った。この事件は鳥羽伏見の戦い後に起きた土佐藩とフランス軍との殺傷事件だった。この始末で西軍が攘夷という事を完全に放棄することになった。その堺事件の少し前に神戸事件があった。人は死んでいなかったが異国人に怪我を負わせ、外国人居留地に向けて備前藩士が発砲したようだ。この始末の過程で岩倉具視が主導し西軍が攘夷を公式に断念することとなった。このことが備前藩士に深い傷を負わせた。攘夷を信じて異国人が武士の行列の前を横切ったのは無作法として、傷つけたのが発砲事件となり、備前藩士が切腹したという。

 この事件の関係者が郡山市のはずれの磐梯熱海温泉のそばの、安子ヶ島と言うところに開拓民として移住したという。(NHK歴史への招待・列強 神戸を占拠す)郡山の安積開拓は北海道開拓と共に士族授産と言う意味で石井の心にどの様な影響があったのだろうか.

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石井研堂の缶詰のはじまり番外

2019年01月06日 | 福神漬

日本の雑学の集成である事物起源の本は明治の石井研堂の著書から本格的に始まった。明治は石井の著書が目立ち、大正年間から他の雑学者たちが本格的に出版されるようになった。大正の秋鹿見二や日置昌一,植原路朗などが知られている。缶詰の始まりに関しては山田箕之助が関係している本と長崎の松田雅典が始まりと言う本もある。雑学的には山田の方が面白いのだが一部に記述の誤りがあって、日本缶詰協会のホ-ムペ-ジでは松田の長崎を始まりとしている。日本の雑学は学者の世界から離れていて、権威も無く、異説の攻撃に耐えられるように、全てといってよいくらい(ほかに諸説あります)と逃げている。出典を明示しないことによって攻撃から逃げる算段をしているように思える。

 最近の事物起源の本で日本の缶詰の始まりに関して紀田順一郎氏の監修している本は山田箕之助が多いようだ。他の監修者富田 仁などは松田雅典となっている。フランス(松田)対アメリカ(山田)となる。最近では松田の方が長崎市の支援があって広く知られ、常識となりつつある。

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4日の豊洲で

2019年01月05日 | 築地市場にて

休日要員なので4日の豊洲市場内の金融機関へ小切手の預け入れを行う。11時頃に行ったのだがみずほ銀行東京市場出張所は5人目、同じく城北信用金庫豊洲市場支店は6人目だった。

 東京都の管理棟内に入る歩道橋からの入り口が閉まっていたので大回りしていくことになった。使い勝手の悪いエレベ-タ-は歩道橋を利用しにくい。何か豊洲市場と道路の設計の連携が悪いようだ。がらがらの道路が豊洲市場交差点の交差点で渋滞が出来る。右折2車線で直進1車線で右折の利用者が少ないのに。

新年早々に東京都の衛生試験所の職員が巡回に回っていた。まだカラスとネズミは見えない。ただ毒クモが豊洲で発見されたようでエレべ―タ内に掲示してあった。夕方渋滞のない豊洲市場へ九州から大型のトラックが直接入る。野菜が記録的に安いので漬物の売れ行きが悪い。

 

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元日に築地に行かないのは

2019年01月01日 | 築地市場にて

元日に築地に行かないのは20年ぶり。正月要員としていつも閑散とした築地市場内をカラスと戯れていた。解体中の築地が更地になるのも今年の終わり頃だろう。

 豊洲で数字が出る頃、昨年の築地場外がどうなっていたかがわかるだろう。まだ我慢比べが続いている気がする。オリンピックが終わるまで築地の我慢比べが続く気がする。気がついた時海鮮系のレストラン街になるように思える。築地周辺の変化の激しさは他の地域より早さが早い。

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