年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

九段下駅から満開の桜を眺めて千代田図書館へ

2021年03月31日 | 宅老のグチ
図書館横断検索で千代田図書館に(暁斎画談)が所蔵されていることを知った。他に何ヵ所かあったが千代田図書館なら満開の桜を見ることが出来るし、人出の少ない日に本を読もうと出かけた。武道館前の桜は散りかけていて、堀には花イカダとなっていた。先の東日本大震災で死者が出た九段会館が外壁を残して、高層となる建物を作っていた。年内には上まで届くだろう。図書館で暁斎画談のコピ-を取って、すぐに退散。15分もいなかっただろう。以前訪問した時と変わって、名前の申告を入館時に提出するが個人情報という事で、選挙の投票箱のような所に記入した紙を入れる。15日ほど経てば処分するだろうが処分方法がどのような基準か解らない。
 千代田図書館から以前訪問した二番町の長井家の跡地へ行った。今は一番町プラザという千代田区の高齢者施設である。その後日テレの跡地付近を歩いたが少し前と激変していて空き地が目立った。市ヶ谷で都営新宿線に乗り家に戻る。交通費はゼロ。
 今になって世間のドタバタ感が気になる。多くの国民がコロナを煽られても、身内に高齢者がいる人以外は危険と思わなくなっている気がする。政府と医師会の利権を維持しようとしている姿が感じる。そして追及する人たちも立ち位置が不安定で、ある時は飲食店閉鎖の強化を叫び、ある時は時間短縮による顧客不在を言い放す。今必要なのは国民が救済・支援する正確な情報を教えることで、不法な情報で給付金の犯罪者を量産した。
 コロナで危険なのは普通のケガ・病気でも病院はコロナを疑っている。そこの差は大きい。弱者の集まる病院の危険性を2月に知った。
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古いTV番組が消えて

2021年03月30日 | 宅老のグチ
もう年金等の統計で専業主婦という基準がコロナで消える気がする。コロナでかなり出産(予想では3万人程度)が減り、空いた保育園の募集強化で専業主婦が仕事をするように政治経済が仕向け厚生年金適格者となる。子供が親から離れる時から平均90歳まで生きる長生きした女性は国民年金では低年金で苦労するが働ける環境が整えば家に閉じこもる必要はない。小学校でのPTAの役員等の人選で専業主婦が狙われるが働いていることで逃げる人も多い。
 3月で打ち切りの情報番組が目立つ年だった。長年リ-ドしていた人たちが消えた。契約でない世界の闇が消える。デジタルの時代は数値が直ぐに出るし、分析も早い。コロナで家にいて何処も高齢者の感覚に合わない同考異局の忖度番組を流している。宣伝費が削減されたため、経費の掛からない番組が増えたようだ。無名の人たちのオ-デション番組があっても良いのではないのか。TV局の役目は公序良俗に反しないかを審査するだけでよい。アメリカなどはどんどん新しいスポ-ツが生まれる。音楽でも独立系の演奏者発掘番組があって良い。応援団とか路上演奏者の発掘とか。江戸時代は多くの趣味的なものが増えた。今は消えて文献だけ残っている。
 美人コンテストが多数あるのに発掘コンテストは少ないと感じる。リスクが採れないのだろう。衛生放送は通販だらけで隙間の放送時間に15分程度の企画することが可能だ。出演者から金銭をもらっても良いはず。
 貧すれば鈍すという言葉があるが同じ学歴の集合体で勉強ばかりの人たちの発想法が同じでは、コロナ以後の時代も変化はないだろう。非学歴社会のお笑い系が頑張っているのはコストが安いだけではない気がする。縁故・学歴だけのTV幹部に新しい発想の種は尽きた気がする。もう日本人はその気になればどこの国へも行ける。
 アクティブシニアと言う言葉がある。誰も関心を持っていないようだ。なぜなら彼ら、彼女らは動くけれどお金が動かない。ファッションでも他人を若い人ほど他人を気にしないで生活している。お金は動かないが工夫・節約の情報が動く。
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浅野長祚

2021年03月29日 | 福神漬

嘉永5年浅野長祚 (あさの-ながよし)は浦賀奉行を辞任した。浦賀奉行史では浅野が浦賀奉行に就任してから、現地の状況を把握し、幕府に海岸防備が備わっていない実情を上申したが無視され続け、辞任した。浅野 長祚が浦賀奉行に就任した事情はアメリカ船ビットル号事件処理の不手際から急に戸田氏栄と浅野長祚 が浦賀奉行になったという。

 横須賀の中央図書館は開国関連の史料が多い。ビットル号が退去したのち、また異国船打ち払い令の復活の検討が始まったようだが種々問題があって、ズルズルと時間が経過し、ぺリ-が来てしまった。この間に株仲間の再興があって、筒井と阿部との間で頻繁なやり取りがあったようだ。

 浅野長祚は明治に死去したのだが評価としては浦賀奉行としての業績が反映していない。これはペリ-来航時の直前に京都町奉行へ転任していた。その後は大老となった井伊が浅野を一橋派とみなし京都町奉行の職から閑職に左遷し、今は蔵書家、芸術鑑定家としての 浅野梅堂としての名が残る。浦賀の歴史を調べている人達はペリ-来航以前に対外関係で武力の不備の危機感を持っていたのが浅野長祚 という。この浅野を抜擢の具申をしたのが老中阿倍正弘(備後福山藩主)だった。天保14年に老中に抜擢され、水野忠邦の改革の失敗の後処理に尽力した。阿倍の手足として活躍したのは石川和介(関藤藤陰)で浅野長祚を推薦したようだ。
 福神漬を調べていて、浦賀奉行と与力たちのペリ-来航時の関係が戸田伊豆守氏栄から調べていたが、水戸藩との関係がつかめず、さらに戸田の浦賀での評価があまり良くないので、戊辰戦争箱館の最後の戦闘で浦賀与力衆と共に千葉行徳の漬物商人が戦死した関係がうまく説明できず、今日まで来てしまった。
 ある時、浦賀で地方史を研究している所で浅野長祚を知り、彼が幕府上層部に資金がないので浦賀の警備が出来ないと言って嘉永5年に転任願を出したようだ。この上申書を見たいと思っていたが正月用に借り出した本にあった。
幕藩制国家の政治史的研究・藤田覚著1987年
 浅野長祚(海防策再稿)
どうやら多くの海防に関心のある人の検討を入れて、幕府幹部に上伸したようだ。しかし浦賀に金がなく、塩関係の株仲間再興で資金を作り、その後日本初の洋式帆船を浦賀で建造した。やっと行徳の漬物・塩と浦賀の人たちのつながりが理解できるようになった。
 浅野が京都町奉行から離れる時期に贈答品のやり取りがある人の名が老舗の御菓子(虎屋)のHPに載っていたので、図書館で借り出し読む。
  京都東町奉行日記 岡部 豊常著
ひょっとしたら漬物の贈答のやり取りがあるかもしれないと思い読むが記録は無い様だ。
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40頁X120冊 

2021年03月28日 | 福神漬
埼玉県蕨市図書館郷土資料室に所蔵されている、研究誌(暁斎・キヨウサイ)120冊をコロナ感染封鎖の隙間を狙って8回位通ってようやく読了とはいかないが目を通した。多分もう一度確認で数回通うだろうがおおよその河鍋暁斎をめぐる美術関係者の関心がどこにあるかが知りえた。自分の関心事は暁斎画談を瓜生政和と河鍋暁斎がどのような関係で評伝を書いたことに関心があった。この画談の出版は明治20年という事で暁斎絵日記に瓜生政和がいつ打ち合わせしたか気になるところだがそれでも明治19年のことだろう。そうなると瓜生政和(梅亭金駕)が酒悦主人に命名依頼された時期が明治18年なので福神漬命名の方が先となる。
 福神漬の命名由来の調査を始めたとき、台東区中央図書館郷土資料の所で河鍋暁斎の晩年が根岸の笹の雪付近に住まいを構えていた。そこで河鍋暁斎の絵を調べたら、画集に多くの七福神の絵が見つかった。そこで西川口駅から歩いて、河鍋暁斎美術館へ行き、七福神の絵を見て、特に毘沙門天の絵を学芸員に見てもらったが、福神漬に入っているナタマメを想像できる暁斎の絵は無かった。15年ほど前の話で西川口は普通の人には馴染みのない町のように見えた。並木にカリンの実がついている時期だった。美術館の中に入ると普通の家の様で不思議な感覚がした。学芸員に七福神の絵を見せてもらったのは応接間にあるソファ-のようなイスだった。ここは美術館ではないなと今でも思う。河鍋暁斎の子孫が如何に日本より外国で有名であることから、日本人に存在を知らせる前線基地で司令塔は館長と思った。
 そこに美術知識の欠けている自分が七福神の絵を眺めて妄想にふけっている。暁斎画談に文章を書いた梅亭金駕は明治政府の弾圧を避け、さらに面白くする戯作者として何をたくらみを入れたのだろうか。素直に読んではいけない気がする。
 明治期に狩野派の画家は幕府の庇護が無くなり、生活維持に苦しんだ。こだわりの薄い暁斎は年末になると商家に七福神の絵を買ってもらっていたようだ。多くの暁斎の絵は商家へ行き、物と交換された。確か灘の酒を扱っていた新川の酒問屋鹿島本店の人は河鍋家に店員が常在しているときもあったという。なんでも依頼があれば絵にしていたようだ。
まだ未発見の河鍋暁斎の絵が多く、また偽物が膨大で鑑定には難儀しているようだ。
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江戸時代の漬物業者の酸欠事故

2021年03月27日 | 宅老のグチ
藤岡屋日記の嘉永4年の記録を調べていたが、肝心の嘉永4年の上半期の市井の噂話の記録が欠本していて、念のため嘉永4年の後半部分を読んでいたところ、江戸の神田佐久間町の藤堂屋敷前にあった漬物業者の記録が見つかった。なかなか江戸での漬物業者の記録が無かったのだが新宿歴史博物館に記録があったので、注意すれば見つかるという事を実感した。
 嘉永4年7月1日 九ッ前(昼の12時前) 神田佐久間町三丁目 漬物問屋小川屋弥平衛
蔵に漬物を漬けこみ置いたところ、今日は(封してあった樽)入り口を開け、長い間蓋を開けていなかったので、(樽)掃除しようと入った。長く放置していたので(樽の底に貯まった)腐水の臭いがしたので、初めに小僧をハシゴで降ろしたところ、落下し、それを助けようと若者・倅・亭主も落下し、隣の大工も見舞いに来て、またも落下した。都合7人が樽の中に落下した。引き上げたところ倅(せがれ)二人・若者二人は医者の手当ての甲斐もなく4人死去した。最初に落下した小僧は助かったという。主人と助けに入った大工も助かったが二三日後死去したという。
 町名主の計らいで検視には及ばないという処置となった。若者二人には7月2日夜に使いを出して葬礼金10両を若者の親に引き渡したという。
7月3日 主人の子供の兄は輿に乗せ、弟は籠に乗せて並んで寺に葬送したという。
 藤岡屋日記には次のような句が書いてあった。
用心のためと頼みし穴蔵の
あな恐ろししきあなかしこなり

 その後漬物屋に化け物が出ると噂があって、夜分は(付近の)女中が銭湯に一向に行く気配が消えた。

 この記事は当時も樽の底に貯まった異臭が危険があると知っていたようだが空気の入れ替えを怠り、酸欠事故を起こしたと思われる。今でも空気の流れの悪い深い水たまりでは微生物の活動で酸素を消費し、酸欠事故が起きることが知られている。7月の事故なので新暦では8月となるので最も危険性がある。ただこの時期は夏野菜の漬け込み準備の時期で樽を洗浄する時期でもある。神田佐久間町は神田川沿いで狂句から漬物問屋小川屋はなら漬の漬け込み準備をしていたようだ。
 
嘉永4年の1両の価値を調べると、1両が6千円程度で葬礼金が十両なので6万円程度となる。命の値段が安いと感じるのは自分だけなのだろうか。



 
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近所に保育園が出来て

2021年03月26日 | 宅老のグチ
2020年7月に駐車場と畑が突然更地となって、工事が始まった。建築予定の告知内容も具体的書かれていなく、近所の床屋さんの情報から保育園が出来るという事だった。一応区の保育園情報によると2021年新規に認可でない保育園が認可保育園になるようで、4月1日からとなっていた。最近犬の散歩で保育園の所を通ると、数台のママチャリが置いてあった。まだ開業していないのでおかしいなと思って、保育園のHPを見ると、新入園の慣らし保育のようだ。
 日本経済新聞で今年度の新生児数はコロナの影響で激減という予想で、この予想が正しければ一年後には保育園が一気に過剰となる気がする。その時まだ人手不足が続いていれば新生児の数の減らないだろうがこればかりはコントロ-ル出来ないので数年前から社会問題となっている保育園の確保行動騒ぎが消える事もある。
 コロナの煽り報道は危機感を演出するため、偏っていたことが間もなくに判明するだろう。今は結果として、パート勤務の多い女性が弱者となっているがこのままで終わるとは思えない。フランスのような政策に追い込まれる時代が来るかもしれない。そこには婚姻しなくても子供を国が生存補償する制度の確立で、夫婦別姓などのこだわりが消える。今までのデキ婚のような婚姻しなければ財産権利の確保できないという圧力が消えて、婚姻と出生が分離されることに追い込まれるかもしれない。遺伝子検査が公認されれば書類だけの婚姻の意味が薄れる。明治期のフランス民法を拒否した日本が家制度を維持したがコロナで変わるのだろうか。PCRの変異検査のスピ-ドから遺伝子検査の進歩が法制度の想定を超える。そのうち離婚時に養育費を強制力のある裁定が普通となる気がする。
 犯罪捜査の裁判で遺伝子解析が認定されていて、民事の裁判で遺伝子解析が認定されるのが当然となる。
 法の上の平等な権利は結構重い判決となる。コロナの国内累計死者は今日までで約9000人だが生まれない子供の数字の予想は3万人以上予想されている。これが先送りの出生なら容認できそうだが、普通は無いという。すると今度は足りない労働者の確保の問題で移民問題が生じる。これも日本人が一番議論したくない問題で、戦前の大陸から日本に出稼ぎにきて戻ることが出来なかった人の問題がまだ解決していない。他国の問題だと無視していたことが現実問題となりそうだ。そして政府は仮定の問題は答弁しないと逃げる。
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特攻隊員の14歳の少女へのセクハラ

2021年03月25日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今日手に入った、台湾南部の産地のパイナップルを食べながら、もうじき東新宿の台湾協会に行く準備をしている。台湾生まれの日本人を湾生と言うが、昨年暮れようやく叔父の特攻を知っている中田芳子さんと言う湾生の女性とメ-ルで話すことが出来た。この人は今は90歳でユーチュ-バ-である。今はお互いにコロナの危険性が高い高齢者なので落ち着いたら会って、叔父の特攻の疑問点を聞きたいと思っている。ユーチュ-ブの検索で中田芳子・戦争と入力し、検索すると小学校3年生の授業で戦争の話をしている所や、叔父たちの特攻隊員の宴会で14歳だった少女が隊員たちの余興に飛び入り参加し、芸者さん達に混じって、尻文字を書いたという。今なら完全に未成年者へのセクハラだろう。もっと詳しく知りたい方は「14歳の夏・特攻隊員の最後の日々を見つめた私」中田芳子著 アマゾンで買えます。
 今の台湾女子高等学校で一番偏差値の高い台北市立第一女子高級中学・台湾台北市にある女子高校。 日本統治時代に台北における女子高等教育の拠点として設立された。2019年7月4日夕方日本テレビで特攻隊員の話がありこの学校の女生徒と交流があった。 芳子さんは戦前14歳なのでこの学校に行っていたとは思えないが多分姉が行っていたのだろう。
 中田芳子さんの話では叔父は芳子さんへはセクハラ発言は無かった様で優しい人と言う。多分いつ出撃命令が出るか解らない時に、最後の芸者を入れての決起の宴会で無垢な少女を入れたのは無礼講だったのだろうか。最後の宴会の台湾陸軍本部のあった花蓮港か台北紀州庵の記念写真は前列の特攻隊員は顔つきが厳しく、後列の隊員は同じ隊員にも関わらず、特攻日時が決まっていなく顔が穏やかと感じる。叔父の軍歴から写真の撮影時期は5月10日あたりだろう。後列に居た中田軍曹と芳子さんは戦後に結婚したという。中田軍曹は戦後同期の人たちと一緒に死ぬことを誓っていたのに生き残って日本に戻って、自殺未遂までしたが死にきれず、芳子さんと出会って吹っ切れ、結婚した様だ。あの宴会に飛び入りしなければ彼女の人生はどうなったのだろうか。特攻隊員は生きて帰っても大変だった。
 特攻死してから75年後にあの最後の宴会での少女のセクハラ証言がユーチュ-ブで動画の出るとは満開の靖国神社の桜の下でのあの世へ行った隊員たちの会話か想像できる。多分昔は良かったと言っているだろう。

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流人の子 三河屋幸三郎

2021年03月24日 | 宅老のグチ
やっと緊急事態制限が解除され、再度発動される前に埼玉県蕨市の図書館へ行った。郷土資料室には珍しく人がいたがそれでも2名であった。河鍋暁斎の研究誌があと40冊読んでいないので、残りを読む。第80号から100号までが一日の目標で約3時間ほどかかる。時々館内放送で長時間滞在はご遠慮くださいと言われるが、その時は一人しかいないので無視して読む。
86号 上野戦争で活躍した三河屋幸三郎と河鍋暁斎との関係が書かれている。暁斎絵日記には明治17年頃から出てくるようだが、絵ではちょん髷が書かれている。
 家では高野長英の判決で流罪となった人の行方を捜していて、近藤富蔵著八丈実記には近藤富蔵が明治の10年代にようやくIHIの創業者平野富二の尽力で赦免され、江戸から東京となったところへ戻った。その時の記録で三河屋幸三郎から富蔵へ多大な寄付があって、どのような想いがあったのか不思議だった。研究誌暁斎によると、三河屋幸三郎の父は流罪で八丈島に渡り、現地の女性との間に子供が生まれた。その後幸三郎の父が赦免となり、江戸に戻ったが当時の決まりでは子供は八丈島に残った。その後江戸の人たちの尽力で幸三郎が江戸に八丈島から出ることが出来た。明治15年5月に三幸は富蔵に八丈島の実父の記録を求めて一代記を作成依頼したようだ。幸三郎が有名になったのは、上野戦争の敗者となった幕府方の死者が新政府軍が監視していて山中に放置されたままでいるのを見て、西郷隆盛像の後ろで遺体を集め、荼毘にしたという。その遺骨を弔っている南千住の 円通寺 住職と共に遺体を片付けたという。その後の活躍は横浜での美術品輸出で活躍し、河鍋暁斎と関係ができた。
 結局福神漬の命名の経緯とか巷間に伝わる逸話はすべて上野周辺の人たちに繋がり、幕府の恩恵が消え、困窮していた江戸時代から住んでいて、文明開化に適応しない人たちへの支援という事が読み取れる。

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デジタルマネ-や金には思想が無い気がする

2021年03月23日 | 宅老のグチ
どうもお金には思想が無いので巨大なデジタル企業の制御が難しくなっている気がする。あるいは情報の独占で価値の創造という思想で無理やり正当性を与えている気がする。
2020年11月13日
中国の電子決済サービス「アリペイ」運営のアント・グループが上海と香港の両証券取引所での新規上場を延期したことを巡り、中国の習近平国家主席が直接、上場中止を決めたことが12日、明らかになった 。
 一月ほど経って、ようやく中国の上層部が何を懸念しているかが報道で少し理解できる。今中国は過去の日本の不動産バブルをを警戒して、金融の制御をおこなうとしている。今までは安価な生産物と自国の経済を他国に開放しないで済まし、人口が多いことで将来性があるという幻想を他国にもたらし、開かれた貿易システムと環境に対して、放置し、安価な環境コストで経済を拡大した。中国人が日本に来ると晴天という事に驚くようだ。
 中国に進出していた漬物業者も最近環境問題で排水設備を増強している。日本から環境と労働力問題で中国に進出したが、コストが年々高くなって次の進出国がまだ見つからない。(日本での漬物に含まれている塩分を排水時に除去する基準が年々厳しくなっている)
 中国の歴史は政権末期の腐敗と周辺地域の待遇不満から始まり、さらに宗教勢力が反乱を起こす。今中国政権が反乱の目になりそうなところを潰している気がする。アントの上場禁止は政府の制御の利かない金融に来ると思われているようだ。中国本土の不動産バブルは国が制御していてまだ来そうにもないが香港は間もなく中国本土並みの自由経済となって利用価値が下がり、香港不動産バブルは崩壊しそうな気がする。香港の価値はいかがわしさに価値があって中国国内と自由度が統一となれば香港経由はコスト高となる。香港の価値は中国本土と華僑とのマネ-ロンダリング地で本土と同じとなれば中継地の価値が消える気がする。アヘン戦争前、香港は寂しい漁村だった。
 ミャンマ-でクーデタ-があったがお金の制御はどうなるのだろうか。
 
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救急車の発進の待ち時間

2021年03月22日 | 宅老のグチ
2月の中旬の土曜日夜に大きな地震があって、その後急に体調を壊した。下痢と続いて嘔吐があって、コロナ感染かと思ったが外出していなかったので体温計を図っても36度前後で時には35度台もあった。とにかく収まらないので近所の日曜日にも開いている医者に駆け込み胃腸炎という診断で薬を処方されたが、その後また嘔吐したので消防署に電話し、救急病院の所で点滴を受けることになった。
消防署の問い合わせで、一か所点滴を受けることが出来たがやはりピリピリしていて、体温が低いので優先順位が低く、点滴まで1時間待たされ、さらに点滴で1時間かかった。家に帰ったのが11時を回った。翌日最初の医者に行って、事情と経過を話し、血液検査をしたところ白血球の数値が異常で単なる胃腸炎で無いと診断され、近所の病院を探してもらった。
 今コロナで不急の患者でもコロナの疑いがあって、救急車が受け入れ先を探す時間が長くなっている。今マスコミはコロナを煽っているが末端の救急隊員が感染状況不明のまま仕事をしている。この様情報をどうしてTVが報道していないのだろうか。単なる家の中の骨折であっても救急隊員はコロナ感染の疑いから始まる。そして体温だけで救急患者の受け入れ先を探す。
 この救急時間は統計を取っていて、うまくすれば推移を明示することが出来る。いくら自粛と言ってももう若い人の行動は制御できない。これからは具体的な数字で制御していかないと感じる。
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三宅島流刑史

2021年03月22日 | 宅老のグチ
東京都の中央図書館がコロナで入館制限があるため、都内の図書館の横断検索をかけたら十数か所の所がヒットした。その中でシルバ-パス利用で行ける所で中央区の京橋図書館と墨田区のひきふね図書館が出てきた。中央区だと今の所調べたい物が少なく、ひきふねを選んで雨の中で、多分空いているだろうと見越して訪問した。
三宅島流刑史 池田信道著1978年
 何か最新の出庫システムがひきふね図書館にあるようで検索して出庫票を出した、紙をカウンタ-の所へ出し、本の所在地のバーコ-ドを読み、引き換え票をもらい、出てくる3階へ行く。5分と言われたがもっと早い。何かボ-リングの球が出てくるような感じで、本が出てきた。この三宅島流刑史は高野長英の逃亡を最後で助け、流罪となった2名の行く先を調べる目的があった。嘉永4年4月に三宅島に流人を運ぶ船が到着したが、記録には載っていなかった。念のため嘉永4年11月25日の記録(5名)も見たがここにもなかった。1978年の発行ならば流罪の行方が判明し、鶴見俊輔氏の評伝高野長英にもお家断絶行き先不明とはならなかったと思われる。またこの2名の流罪の行く先を探すことが続く。なお11月25日の記録では5名のうち生きて三宅島に着いたのが2名だった。残りの3名は途中で病死となっている。
 流罪人の記録がなぜ残っているかと言うと島送りとなった流罪の人たちの動静の記録が正確でないと、島抜けとかで流人島から逃亡した時、誰も追跡が出来なくなる。従って島に来た時から恩赦で出るとき、病死した年月が記録に残っている。ただ島抜けで遺体が漂着しない事例もあって、完全に記録が残っているという事ではないが少なくとも三宅島に到着した時の記録は正確と思われる。
12代将軍家慶 嘉永4亥年4月12日 三宅島江流罪
 大塚孫左衛門様御掛かり 三宅島喜太朗船 合計8人
 この中には松下健次と‘ひで‘と言う女性の名前が無かった。
ここでこの2名の流罪先が見つからないと、都立公文書館へ行くしかない気がする。それと浦賀奉行所で一時、流人船の点検があって、記録があるはずだがどうやら横須賀市中央図書館の会議室の室温管理されていない部屋に市民より寄贈された古文書を放置しているようだ。せっかく浦賀奉行所の跡地を横須賀市が買収したのにまだ具体的な行動が見えない。浦賀奉行所を再建し、古文書を解読し、出版すれば幕末史も正確となって観光客を集めるだろう。浦賀奉行所跡地は京急浦賀駅より歩くには遠く、途中に何もなく観光施設になるのに横須賀市民は価値が解っていない気がする。
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新島村史 資料編⓷  新島役所日記

2021年03月21日 | 宅老のグチ
新島(にいじま)島役所日記-弘化~慶応 2003年刊行
 高野長英を匿い、南町奉行遠山左衛門尉によって、嘉永3年12月に流罪となった3人の記録を求めて借り出した。この古文書は新島に住んでいる人たちによって解読されたようだ。弘化2年から慶応4年までの本で一部欠けているが時代的背景が解説にあって、目的の文献は無かったが面白かった。特に江戸のコメ相場が新島の経済に関係していて、1両当りでいくらでコメが買えるか記載されていて、物価の変動の激しさを知る。さらに新島は黒潮の流れの中にあって、漂流船・漂着船や沖合を通過する異国船が頻繁に見られている様子が解る。
 弘化2年は高野長英が伝馬町牢獄から放火によって脱走した年であった。新島は日本本土と離れているが海という事で世界史の中にいるという事になる。
コメ相場
弘化2年2月5日 1両当り米 6斗5升
  12月19日    米 5斗7升 
 この年の最高は7斗2で最低は4斗5升だった。
安政3年3月7日 1両当り米8斗2升
  この年の最低は1両当り7斗2升だった。
文久3年1月21日 米1両当り4斗4升
1861年文久元年 米1両当り 3斗
1862年文久2年        4斗1升5合
1863年文久3年        4斗2升
1864年元治元年        3斗7升
1865年元治2年       1斗7升5合
 元治2年は1両でコメが少しか買えない。いかにコメが騰貴したか解る。
 明治維新直前の慶応3年4月18日 1両当り 米8升8合
        慶応3年12月13日    米1斗8升5合
 天候に左右される新島はコメも少しは取れるが主な食料はサツマイモだった。芋が手に入って餓死することが少なくなった。文化8年に新島から他の島へサツマイモ栽培が普及し、餓死が減り、人口が増えた。新島の人口の1割が流人で、幕府の慶事に恩赦があって、変動するが、流人の送り込みによって島の役人たちの島経営は大変だったようだ。
なぜコメ取れないのに江戸の米相場を気にしていたかと言うと新島は海から採れる塩を最初は上納していたが、後に金納となり、換算のためにコメ相場の情報が必要だった。今の日本でも、海外旅行に行かないのに米ドルの変動相場をニュ-スで流されているのと同じである。米ドルをコメと読むと理解しやすい。
 新島は人の出入りが少なく感染病の記録は少ないが天然痘がそれでも入ってきて、流人の医学的知識で防いだこともあった。
 

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やっと自粛が解除になりそうだが

2021年03月20日 | 宅老のグチ
2回目のコロナ緊急事態が終わる。一回目は買いだめと、コロナの性質が不明で不安だったが、ワクチンの見込みが立ち、前より不安が消える。今は運の世界で、時期と地域によって、普通の病気でも入院してPCR検査後治療が始まる。
 5月の連休までは感染が増えそうだが、さらに自粛期間を延ばしても、制御できそうにもない。従ってまた発動があると考え、解除になったらすぐに行くのは隣県となる。都内は一律となるがもう少し調べる必要がある。結構このコロナ下でも開いていたところがあったようだ。
 明日は雨になりそうで、22日が東京の桜の満開と言う。気分は外出、リスクは知らない。ケガしても救急車は来るが受け入れ先が見つかる迄動けない。従って、サイレンを鳴らしていない救急車を見る機会が増えた。

 何年か経って、あの頃はどう思っていたかを書いているが、日々気持ちは天気のように変わる。雨なら自宅待機。晴れなら散歩がてらの買い物。保育園の幼児の散歩と出くわすと、吉。苦し気に歩いている人を見ると不安。他の家の花が咲くと、小吉。TV報道のコロナ患者が減ると苦笑い。
 タレコミ報道が政治を動かしていて、議員の不勉強が目立つ。相変わらず国会での質問通告はアナログ通告の様だ。言い訳は情報漏洩を避けるとなる。格差社会と言われるが日本は99.7%(中小企業の割合)が貧者となった気がする。考え方も貧者思考となる。この行動は何処から来ているかを思うと二宮尊徳の思想だろう。田畑を限界まで、手入れし、収穫量を上げる。これは人件費と言う考えはない。今の10ア-ル当たり平均535KG(8.8俵)これではコメ専業では大規模でないと生活できない。今のコメ農家は趣味の世界かもしれない。副業が主であり、今コロナで仕事がへ減った人たちを先行している労働形態となる。一つの仕事で生計を立てるというより多数の仕事を季節によって変える農業的生計方法かもしれない。百姓は百生と漢字を変える時期が来たようだ。
コロナのワクチン注射器が日本の既存の注射器なら、5回分しか取れない報道から、各地で工夫が始まり、6回から7回まで増えた。今までのインフルエンザ注射で工夫する必要が無かったのだろうか。工夫だけでイノベ-ションの力が落ちた様だ。
 QRコードは日本の発明だが中国で発展した。英語圏でないので、アドレスを入力する工夫をしたと思われる。日本の工夫は親指シフトのキ-ボ-ドになるが間もなく消える様だ。今は音声入力もある。
 
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町の選挙用のポスタ-が新しくなって

2021年03月19日 | 宅老のグチ
7月の都議会選挙のために、立候補予定者のポスタ-が目立ってきた。コロナ以前の選挙運動は支持者を出来るだけ集め、演説することで組織の力量を示していたが今は数人以上の集合はコロナ常識無知と表現され、さらに個別訪問はマスクをしていても常識外れコロナの拡散者とみなされる。自宅で過ごしている人は高齢者が多く、コロナ以前の記憶では午前中のス-パ-はお金に余裕のある高齢者のジジババ・ストアだった。顧客も店員も年寄りだった。いまは町の通勤時間を除くとひっそりとしている。過去の選挙運動方法は通用しない。デジタル時代で有権者向けの演説でも、スマホで録音・録画されて、当選後に謝罪会見となりそうだ。つまらない演説は時々面白そうな話題を入れるが今では差別用語として糾弾される。そのうち工事現場の騒音のソフトがスマホに入れられ、音声と共に騒音指数がスクショされ、路上を候補者名を叫ぶことを糾弾される時も来るだろう。家で闘病している人も多数いるのだから。
 記録した行為は時間が経っても鮮度が落ちることなく復活する。国会でのヤジもマスクをしていても、コロナ拡散容認行為とみなされる時が来たようだ。国民に自粛を呼び掛けているときに、時間を過ぎて銀座で飲酒していた議員が批判された。国民の協力を呼び掛けている最中に自分は安全だからと言って模範とならない行動は批判される。何しろ赤ん坊から死の間際の人まで税金を支払っている。その税金で法案を審議する議会で働いているのだから国民への模範行為は要求される。役所に行くとどれだけデジタル化したか解らないくらい人がいる。多分役所の組合がうるさく、合理化できず、不足の時は臨時の職員雇用で仕事を回すツケが来たようだ。今後高齢者が増えると、DXに慣れない人たちという事でもっと大変な気がする。
昭和の20年代に生まれで大手企業の定年退職し、社会の基本を知っている人が見近な役所へのクレ-マ-が増えそうだ。彼らは組織と言うものを知っている。法律知識のあるクレ-マ-は無知な主婦相手と違って役所は手ごわいことを知るべきだろう。
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SNS世代の抵抗

2021年03月18日 | 宅老のグチ
コロナの非常事態宣言下、関東のコロナ感染者は政治家やTVの煽り報道にも関わらず、暖かくなると外出が増え、それに伴って感染者が増大している。予算を審議している国会中継も与党も野党も紙を配布し、さらに国会中継に写るように作られているパネルもデジタル化して無く、またマスクして不必要なヤジ要員(TVからコロナ感染が無くとも、国民には大声でヤジして良いと誤解を与える・その結果昼カラオケでクラスタ-発生)政治家の行動は模範となるべきなのに(国民に少人数会食を要請しながら自己は深夜の多人数会食)、国会の質問事前通告もまだFAXのようだ。そのためいつ質問通告が来るか解らないため、役人の残業が過労死基準を超えている。これは野党にも共同責任である。要は今の国会がDXしない、させないという事で戦後の国会運営が行われた。牛歩戦術や乱闘騒動も、デジタルとは相いれない。数の力で通しても、手抜きの論戦で法案を通しても時間がかかれば誤りだったことが判明するが、記録を残さない政治は失敗も検証されず次の法案に移る。この様な姿を見ているSNS世代は冷めていて、どうせ政治家のパフォ-マンスという事を見ていて、小池知事の夕方のTV緊急会見も下心が見えて、若者は自粛しないで秘かに動いている。今までのコロナ情報の感染リスクが若者がすくないし、死ぬ恐れも高齢者より少ない。あるのは友人や娯楽の楽しみが減って、経費節減で家で飲んでいるのではないのだろうか。それもTVを見ない、そもそもTVの無い家も増えてきた。入院していた時、病院にTVがあったが一日500円という事でレンタルモデムでネットを見ていた。1日350円だった。TVはコロナ報道だらけで院内感染が気にしていて、誰も見ていない。ネットならユーチュ-ブやギャオもあって、見逃した番組も好きな時間に見ることもできる。ニュ-スはヤフ-で知る。
 とにかく今の与野党の政治家はDXに不向きな人たちで世代交代が無ければ日本の明日が無い。この辺は中国・韓国が日本の欠点を研究していて進んでいる気がする。先日日本近代文学館へ行ったのだがそこにある検索用のパソコンのOSがWIN7のロゴが画面に出ていた。WIN7のOSは安定したOSだったが既にWIN10に替わって数年以上経つ。この件で文学館の人に聞くと外部との接続がないので使っているという。それに更新の予算もなさそうだ。ただこの文学館も、有料接続で運営費を稼がないと、本離れの時代に、文学研究者が減れば維持が出来ないと感じる。わざわざ東京に来て、本を出してもらうアナログ時代から、デジタル化した本を読むようにすれば東京へ来なくとも良いことになる。要は情報収集には今は東京が一番便利だが音声通訳の精度も上がり、異国語の会話も簡単になった。この変化はどんどん進む。
 DXの時代では新しい感性の若者に政治家の今のやり方のパフォ-マンスは通用しない。
 同性婚の裁判があった。どう考えても憲法改正しないと無理な問題である。70歳を過ぎて、女性の多い高齢者世界で、面倒を見る子孫が不在ならば同性婚という事で財産分与とか、手術の同意書とかの法的行為が進む。この点で共産党を含めて、憲法改正論議を始めるべきで、9条にこだわって現憲法を死守するのは時代遅れの、非革新的政党で明治維新時に王政復古と言う言葉があったが、暦も江戸時代に季節のずれが生じて直したのを、元に戻そうとした動きがあった。このたくらみは陰陽師の安倍晴明 の流れから来ていた。明治の初めの役所の改正で暦が大学の方へ移り、内田弥太郎と福田理軒によって太陰暦を明治5年12月2日までとし、翌日は明治6年1月1日とした。当然急な暦の変更は多くの混乱を引き起こした。
 政治家は正しいと思ったことは実行するべきで、混乱はじっくり対処すればよい。目先の選挙に追われ、高年齢の政治家は長い先を見ていないと感じる。
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