年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

14歳の夏 中田芳子著から

2020年11月30日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の特攻の最後宴会場(今の台北紀州庵・当時は台電クラブ)に飛び入り参加していた14歳の台湾生まれの少女の記憶と叔父と最後の晩餐を共にした特攻隊員候補と戦後に縁があって結婚した話で生き残った特攻隊員の苦悩を知ると複雑な読後感が残る。
 生きて帰ると約束し、飛行機に乗って埼玉の自宅上空を旋回し、台湾に向かった時の遺族はどんな気持ちか想像を超える。もし順番がずれ生き残ったら中田芳子さんの御主人と同様の戦友に対して悔いる気持ちが残って一生心の傷となると思える。やはり60年以上の歳月が必要かもしれない。叔父達の特攻で戦死や負傷した米国の軍人たちもネット検索すると戦後60年位は戦友会の活動があったが今はもうほとんど停止しているようだ。最も米軍は日本との戦争後、朝鮮・ベトナム・湾岸戦争・イラク・アフガニスタンと戦争を休んでいる期間が少ない。兵器は戦争によって進化し、かつての特攻のような攻撃は無人化され、兵士の心の痛みは感じないだろう。だから次の戦争は恐ろしい。心の抑止力が消える。
 戦争が無くても市場開放という圧力が武器と共にやってきそうだ。
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探していた湾生の中田さんは90歳のユーチュ-バ-だった

2020年11月29日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今月2020年11月23日、特攻した叔父の墓に行った。過去の調査したことを住職に話し、墓前で2019年7月4日日本テレビで夕方放送された台湾特攻隊員を世話した中田さんという女性を見つかるように祈った。
 すると過去に検索した時は出なかった中田さんという女性が検索に当たった。
今は90歳になって、逆さ歌で動画を出しているユ-チュ-バ-だった。ダメで元々という事でメ-ルを送ったところ、返信が来て陸軍飛行204戦隊の特攻が二回あったが、二回目の笠原さんのことは詳しく知っているようだ。
(逆さ歌 中田芳子) でユーチュ-ブで検索すると出てくる
 前に下北沢の地域の歴史を調べていて、信州で疎開していた下北沢の小学生と交流のあった陸軍振武隊員の特攻兵との交流を本にした(鉛筆部隊の子どもたち )著者きむらけんさんによると台湾の特攻で一番納得のいかない笠原さんが搭乗していた7月の特攻と言う。飛行204戦隊の名誉のための攻撃で4名の意味もなく命が奪われた。
 靖国神社の図書館で戦友誌が40冊ほど所蔵されているが204戦隊の同期の文章を読むと、7月の無駄な特攻で死なせたという想いが残っている。
 笠原さんは14歳の台湾生まれの中田芳子さんには優しかった様だ。75年経った今でも鮮明に記憶があるようだ。90歳の動画は(逆さ歌・中田芳子)で検索すると出てくる。(後に中田さんからメ-ルが来て、笠原さんと叔父を間違えたようだ)
 叔父はまだまだあの世で成仏していない様だ。墓で祈って一週間もしないで探していた人が見つかるとは恐ろしい。次は何で驚かしてくれるのだろうか。
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特攻した叔父の墓のある寺を訪問し、現況を聞く2

2020年11月28日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
住職と雑談後、墓地に行くため、玄関を出ると、上空を飛ぶ飛行機の騒音がした。まるで昭和20年2月に叔父が台湾の任地に出発するとき、川辺村上空を低空飛行し旋回をしたという話をしていたので、またいたずらかと思ったが住職の話だと、ここは羽田空港へ着陸するため、シバシバ飛んでいるという。そういえば自宅上空はヘリの通路で、万一の時は河川に着陸する様だ。江戸川と利根川にはさまれている地域なので河川の洪水調整の原っぱの土地は広い。多分秋田とかの太平洋に回らない飛行機だろう。もし生きて飛行機に乗って下に生家が見えたらどう思うのだろうか。それとも今でもあの世からなかなか調べてくれない子孫を見てイライラしているのだろうか。
 GHQの問題から、戦後の時間軸を考えると、敗戦で日本の国内の食料が不足し、餓死が出る寸前だった。埼玉の地方新聞の地域版の記事を読んでいると、ヤミ市といかに政府に協力して食料を供出するかという政府寄りの記事が目立つ。要は戦前も戦後も新聞は政権寄りだった。食料が安定したころ、地域制限が消え、野菜の過剰生産となった部分は漬物となり、食の不足している東京市場に乱入してきた。この時期の規制緩和の歴史が今忘れ去られ、漬物の裏面表示に残っていることがあまり知られていない。
 廃業した厩橋のたもとにあった父が勤めていた漬物業者はGHQの監視の目が遭って廃業したというが敗戦後で食が間に合うと軍隊納めで生きていた業者は闇市の商売にはなれなかったと思われる。
 昭和21年に和歌山県田辺港に帰国した、陸軍飛行二百四戦隊の軍人たちは、それぞれのつてを頼り生きてゆくことになる。記録によると特攻作戦の隊長は特攻死した隊員の遺族を訪問し、最後の状況を話したという。これがいつだかまだ解らないが、その話で特攻遺書が処分された気がする。住職の話では地域の人たちは沖縄での叔父の特攻の戦果があったことを知らないようだった、戦後の犬死論が親族で話されていたのは近所の進駐軍に叔父の最後の話が漏れることを恐れたのだろう。
 学校の記録も消え、あるのは写真のみである。卒業した埼玉師範学校(今の埼玉大学教育学部)に成績記録が残るが、野田市の野田農工学校には既に記録がない様だ。川辺小学校には記録だあるのだろうか。忘れ去れた叔父はいま知覧と靖国神社・京都・埼玉の護国神社に名前が残る。


 
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湾生の中田さん

2020年11月27日 | 宅老のグチ
叔父の特攻隊の世話をしていたというTV番組を偶然見ていた。アメリカ独立記念日の2019年7月4日の夕方だった。最後の所で今は台湾台北市の記念建築となっている日本料亭での特攻前の最後の晩餐の写真があった。陸軍飛行204戦隊の隊長を中心に前列に座った6人は昭和20年5月20日に陸軍八塊基地を夕方出発し、ほぼ同時間に鹿児島知覧から出撃した陸軍振武隊の十数機と沖縄嘉手納沖を目指した。
 父の写真帳にこの最後の晩餐の写真があって、誰の写真か不明だった。この写真の入手の経緯は次のように考えられる。敗戦後昭和21年に台湾から引き揚げた同僚によって写真が叔父の実家に届けられたが、関心の無かった叔父の実家から直兄だった父がもらったと推測される。時期的にはまだ確定していないが昭和22年頃だろう。今後の親族の聞き込みでなぜ叔父の記録が消えてしまったかが解明できる。
 戦争は当事者とその遺族にも打撃を与える。対処の仕方として忘れるしかない。しかし誰かが記憶を戻させる。台湾生まれの中田さんは今90歳となった。コロナ下でも話を聞かないといけないと感じる。会えるのだろうか。

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外に出るなと言われても

2020年11月26日 | 宅老のグチ
コロナ感染者の拡大で政府は不要の不急の外出は避けるように言っているが、コロナだけでなく、インフルエンザ感染者の数が見えず、全体として町医者が閑に見える。患者のコロナ感染を恐れ通院自粛で医療従事者のボ‐ナスが減ってしまうという。ある程度高齢者の死者の急増は黙認する時期に来たようだ。命の選別は戦時には医療によって必要な行為である。そこには打算というものがあって、通常なら倫理の問題で許されないが戦時なら許される。もう戦時宣言をする時期に来たようだ。命の護送船団方式は高齢者数が巨大となった今では無理が生じ、高齢者を維持するため、経済が低迷する。高齢者は経済を発展させたという自負があるため、経験値が高く、人脈も持っているがネットの世界は忖度が無く、情報の検索条件が当たると、安価に取引が始まる。そこは自己責任の世界で、失敗も多いが失敗によって進歩が始まる。今中国韓国が急速に発展しているが、アメリカ日本の失敗経験値を経験しないで進んできているから発展は早い。しかし先端に行けば経験の前例がないので進歩は遅れるだろう。歴史は大国の油断の歴史である。多くの失敗が75年間のささやかな日本のみの平和があった。これからもあるとは思えない。なぜなら失敗経験のない時代に入ったからである。自国で操作し他国の人を殺す。無人機だから特攻しても自分は無傷である。原爆を投下したアメリカ兵は任務を果たしただけで心はすぐに痛まない。最近の紛争を見ていると短期間だけ戦闘破壊し、停戦となる。
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年寄りの繰り言

2020年11月25日 | 宅老のグチ
年寄りと話すとき昔から同じ話を何回も聞いていたのにまた話す。今何度も同じ話をしていた老人と同じ年齢となった。過去に書いていたブログを検索すると気が付かないうちに同じ話を書いている。全部が同じという事は無いが一部が違っていて、記憶の劣化を認識する。
 このブログは過去の記憶の取戻しを目的にしているので、同じことがあるかどうか検索する。自己検索である。すると十数年ようびになるので過去知らなかったことも今は検索でかなり出てくる。それでもマイナ-な漬物歴史は文献が少なく困難が伴う。劣化する記憶能はここに吐き出すことで、記憶を残す。
 仕事では今日は何日かは記録上必要なのだが、引退した今しなければならない用も先送りできる。
 コロナで入館証に日付を書くのだが月は覚えていても日はわすれる。そこで退化したことを自覚する。多くの年金老人の日付の記憶は偶数付きの15日を基本としているように見える。金融機関の老人の長い行列は支給日だったと思い出す。まだまだ現金は必要な老人が多い。
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特攻した叔父の墓のある寺を訪問し、現況を聞く

2020年11月24日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の命日でもないのに、墓のある寺に電話し、慰霊のことをお願いし、23日に済ました。十数年来不思議なことが周囲に起きていて、何か叔父がまだ成仏していないで騒ぎをおこしていると感じていて、一応コロナの拡大前に区切りをつけておこうと行動した。
 父の最初の就職先の子孫からGHQの話が出て、叔父の特攻遺書が親族によって処分された感じがした。あとは地元の図書館で戦後の混乱期に何が起こったのかを解明すれば、忘れ去られた叔父も浮かばれるだろう。住職も戦後生まれなのでまた聞きの話しかないがどうやら地域全体が戦後の海外からの引き揚げ者等の話から、終戦を後らした特攻という行為は伝えたくない歴史かもしれない。でも事実は事実として残さないといずれ必要な時代が来て、評価の見直しがあるかもしれない。
 図書館で借り出したインパ-ル作戦の記録を書いた著者は無残な戦争を書くことによって、ビルマの山岳地帯に死んだ仲間の記録を残すことで、同期の仲間として死ねなかった自分の最後の仕事と考えていたようだ。主観だらけの個人記録は資料としては価値が無いと思われるが少なくとも記録を残そうとした人物がいたという事を示していた。
 昭和20年秋には米軍の兵士の五十名弱が叔父の実家から歩いて15分くらいの所に駐留した。戦前の服部時計店が砲弾の信管を作っていた工場跡地であった。そこは空襲もなく戦後は工員の宿舎が空いていたようだ。日本人によるテロの警戒から周囲の情報収集をしていたと思われる。台湾の陸軍飛行隊が日本に引き上げたのは昭和21年のことでまだ戦死情報しか遺族には届いていなかった。同期の仲間の隊長が遺族訪問し、特攻時の詳細な話を聞いたのち、米軍に多大な損害を与えたことを知り、秘かに叔父の写真以外を処分したと思われる。このことを後から聞いた父が怒り、生まれ来る子供に作戦名の一部をつけたと思われる。しかしこのことを聞いて知っていた母は怒っていて父の死去後、子供呼び名を変えた。もう65年ほど前の話となる。
 キラキラネ-ムなどの流行も同じ流れかもしれない。
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明治元年上野彰義隊の戦争時の天気

2020年11月23日 | 宅老のグチ
今のように天気の記録がある時代でなく、江戸から明治の天気は日記などから見つけるしかない。
最近刊行された(不忍池ものがたり 鈴木健一著)から下谷上野に住んでいた漢詩人大沼沈山が当日の漢詩で当日は小雨が降っていたようだ。今は新暦だが当時の記録は旧暦なので新暦換算すると1868年7月4日(土)
出典沈山先生遺稿
 大沼沈山の父は幕臣で沈山自身は終生髷を切らなかったという.。下谷上野は寛永寺の門前町と下級武士の住むところで、幕末には金銭で武士の権利を譲ってもらっていたので、幕府が崩壊すると過去の金銭が無になるので佐幕的考えとなる。樋口一葉の父も同じように武士の権利を買ったが、明治になって失業し、病死したため戸主となってしまった一葉の厳しい人生が始まる。
 江戸時代末期の武士の家計簿を見ていると贈答品の占める割合が高い。文献に残る食品は菓子類が多い。浦賀奉行から京都町奉行へ転身した浅野長祚は菓子老舗(虎屋)のホ-ムペ-ジで贈答品としての菓子を記載している。丁度井伊大老が就任したばかりの時期で、一橋派を排除し始める時期で文献から当時のひっ迫した様子が見える。浅野はその後政治の世界から離れ、今は浅野梅堂として図書館に文献を残す。文献が残っていても残った原因を知っていないと何か整合性がとれないと感じる。
ただ人の判断はとっさの場合、当然予想される行動をとらないことが良くある。とっさの場合の判断は民族の歴史観はかなり風土自然に支配されるとおもう。
 浅野梅堂の文献は図書館で読めるが知りたいことが記述されているのだろうか。朝野纂聞・浅野梅堂雑記 を読むため、都立中央図書館のネット予約して借り出し読むが出された本は元の本を写真撮影したもので崩し字が読めないので開けたとたん絶望感が出た。それでも読める範囲で見るが、肝心の嘉永5年前の浦賀の様子が見つからなかった。どこかにあるのだろう。



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埼玉県蕨市図書館で河鍋暁斎研究誌を読む

2020年11月22日 | 宅老のグチ
幕末明治で活躍した、河鍋暁斎の美術館が蕨市内にある。電車的にはJR西川口駅から歩いた方が近い。暁斎美術館に研究誌が置いてあるので読むことが出来るのだがここはあくまでも美術館なので本を読み、長い間イスを占拠するには不都合と感じていて、どこか適当なところが無いかと調べたら、蕨市図書館があった。研究誌は数冊ごとにまとめられ所蔵されていて、今は十三冊ほどある。じっくり読むと1冊が2時間ほどかかる。今は根気が2時間ほどしか保てないのであと数回訪問するだろう。そしてメモしたことを学芸員に聞くしかない。
 ここで読んでいると研究誌暁斎には福神漬で出てくる人物と共通する人が多い。一番は福神漬を命名した瓜生政和(梅亭金駕)で其の外に万亭応賀を始め、幕末明治の戯作者、画家もある。書画会の服部波山は鶯亭金升は塾の師である。山岡鉄舟なども出てきた。輪王寺関係では暁斎の妻が関係しているようだ。一番驚いたのが沼津兵学校を始末した人が築地の三菱UFJ銀行築地支店に江戸時代あった蘭学の家桂川家出身の人がいた。養子に行ったため、暁斎の研究誌を読まないと理解が進まない。
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再封鎖の恐れで外出を急ぐ

2020年11月21日 | 宅老のグチ
東京のコロナの数字が上がって、各施設が再封鎖の恐れがあって、日程の予約を決めかねる。東京のコロナ感染者が急増しているが、デ-タ確認していないがコロナの理由で収入が減ったなどで前途を悲観し自殺者が急増している現在ではコロナ患者は増えていても死者は急増していないのでまだまだ前のような封鎖は出来ないと感じる。さらに封鎖となれば給付金枯渇の今、何が出来るのだろうか。

 東京のコロナ患者が激増しようがもう東京都には金がないので、お願いしかない。そのうち地方の昔あった神社に厄除け願いするしかない。
 車での外出に変更するしかないのだろうか。
都知事が乱心し、築地市場の跡地を給付金の財源としたら、何のための築地移転だったのだろうか。汚染が残ったまま開業し、今でも汚染があるのに地下の汚染で豊洲の商材が汚染したという証拠はない。なぜならもし汚染があったら、勤める人の中で過敏な人から症状が出る。
 予約制度のない図書館でも席が少なく、滞在している人も少ない。
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写真付きカ-ドに健康保険証も

2020年11月20日 | 宅老のグチ
マイナンバ-カ-ドの普及がいまいちでまだ20%程度の普及のようだ。政府は健康保険証とか運転免許証からマイナンバ-カ-ドと一体化しようとしているがネットの反応を見ていると情報漏洩を心配している声が大きい。しかし写真無しの健康保険証は不正利用が見抜けない。要は他人の健康保険証を使って、医療サ-ビスを受ける事例が報告されている。旅先の治療なら顔も解らないからあり得る話と思える。
 卒業した大学の本を利用しようとして図書館カ-ドを作成した。閑な時期だったので手数料1000円を支払い、15分から20分経って写真付きカ-ドが出来た。これで貸し出しが可能となる。
 健康保険証も写真付きで有料発行にすれば個人情報の漏洩問題と不正使用の問題が消える。ここでコストだがたぶん1000円では済まないだろう。子供も老人もいて顔も変わるので5000円くらい一人の費用となるかもしれない。いやならマイナンバ-カ-ドを利用して医療サ-ビスを受ければよい。健康保険組合はカ-ドの管理業務が減りコスト削減となる。
 こんなことを思ったのは先日、郵便局留めの書類を受け取るため、免許証を出してもらう予定だったが免許書の住所の一部に不備があって受け取れなかった。それで健康保険証などで対応しようとしたが写真が無いため受け取れなかった。免許の無い人はマイナンバ-カードが郵便局で必要となる時代が来た。ハンコはまだいる様だ。
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古文書扱いから

2020年11月19日 | 宅老のグチ
親族の戦争時の行動を調べているが、埼玉県文書館でタブレットで新聞の縮刷版を写真を撮ったが一応コピ-した所を書類で提出する。その時のチェック項目で昭和の20年の人事異動の部分は75年前で、古文書の扱いとなるようだ。
 築地の大谷図書館で戦後の歌舞伎台本を出してもらったが、それぞれ時代が異なっていて昭和30年代の台本は謄写版で紙質がわら半紙のように見える。劣化したからわら半紙のように感じるのだろうか。もう少し後の年代の台本は謄写版で印刷され、紙質は向上していた。台本なので少部数という事で謄写版を選んだろう。ふと思ったのだが歌舞伎等の台本はどのくらい出すのだろうか。
 平成の遠山桜天保日記(国立劇場)の台本はタイプ印刷で製本もしっかりしていて読みやすい。台本なので文字も大きくなっている。演劇の台本を収集している所はあるのだろうか。映画はあるようだが日本は政治の世界を始めとして記録を重視しない国のようだ。行政の文書は結果として法律となるのだが多くの役人の手を経て、訂正したり加えてりして法律となる。そこにはまた隙間が現れる。
 コンピュ-タの世界もアレだけの人数を使ってソフトを作っても、テストの例外的なところから他者の侵入を許している。リモ-トワ-クと他人の侵入は同じ過程を使うので、どこで安全性を確保するかが問題だ。
 個人的には絶対安全は無い。従って過程の部分でも未完成のようにして置き、完成系は紙で残し、デジタル系のデ-タとして残さない方が良いのではないか。
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千葉県野田市興風図書館で

2020年11月18日 | 宅老のグチ
野田市にある興風図書館で(興風会図書館50年史)を借りて読む。この本をわざわざ東京から行って読むことになったのは、特攻に行って戦死した叔父が埼玉県師範学校へ入るときどの様な受験勉強をしたか確認したかった。
昭和3年
野田醤油(現キッコ-マン)の支援の千秋社が財団法人興風会を作り、それまであった野田市図書館の事業を引き継いだ。この名目は昭和天皇即位記念事業とされていた。しかしこれは表向きの名目で大正12年から昭和2年まで続いた戦前の労働争議で最大最長の野田争議を鎮火させる目的があった。
民風作興
教化、救済、社会事業の後援。その他共同生活を円満ならしむるに、各種事業を遂行し、もって風を興し、俗を更へ麗しき社会事業に碑補せん。(社会教育)
興風図書館
昭和16年 15676冊 昭和6年時は3225冊と5倍に増えた。
1日平均147人
昭和6年の全国平均の図書は950冊、昭和11年末は2456冊だった。

戦後、キッコ-マンの援助で図書館が運営されていたが、寄付金が税金の控除ならず、キッコ-マンが厳しくなった時、興風図書館は再び野田市立図書館となり、今に至る。

 貧しい農家出身の叔父は興風図書館から歩いて15分ばかりの距離にある、野田農工学校(現・千葉県立清水高校)に通いつつ、図書館から本を借りて勉強し師範学校へ進んだと思われる。親族の言い伝えでは興風図書館で恋愛して結婚した親族もいるという。男女の交際の目が厳しい戦前では図書館デートはあり得る話だった。

 野田の労働争議は日本社会主義運動では有名な争議だが周辺の地域にどのような事件だったか今は忘れ去られている。学生だった叔父は師範学校でどのような扱いだったかはまだ解らない。
 埼玉大学教育学部の百年史によると、専門学校内とか一般大学の学生の思想統制の仕組みがあったようだ。特に師範学校は他の大学に比べて教師育成という目的があって思想には厳しいと想像される。野田市の隣接の地域から通っていたので他の地域の人たちが同のように叔父の思想傾向を考えていたのだろうか。結果的に見ると叔父は何も無かったと思われる。
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ウオルマ-ト傘下だった西友が伸びなかったのを漬物から見る

2020年11月17日 | 宅老のグチ
日本の大手ス-パ-西友がアメリカの最大ス-パ-の傘下に入ったが安売りだけでは伸びなかった。大量の商品を陳列し、安価に売る。業者には成功すれば海外にも供給するので他社より安く納入してくれと持ちかける。
 しかし日本の消費者は毎日のようにス-パ-へ行くので少量購入だった。今この消費行動を壊し、好調なのはコストコと業務ス-パ-である。漬物は海外には日本人の関係者しか売れない。それによって現地言語の商品表示のコストがかかって量も売れないことが知れ渡っているので西友の甘い言葉には乗らず、純然たる国内販売者の地位にとどまった。ここに多国籍のいるアメリカと単国籍人日本と思い込みの違いが甘い戦略となった。日本人でも九州と東北では好みも違うし一律ではない。さらに戦後の工場が新規移転に伴った味の好みの変化もあった。これもデ-タ化されない日本ではそれぞれの業者が持っている機密でだった。
 漬物に関して特売は通常の価格に対して20%引きだと数量は約2倍ほど売れる。つまり0.8x1.2となる。すると売り上げ的には0.96となって実績は落ちる。そこで単価はこれ以上下げないで店の利益を上げるには、安く仕入れた漬物を定価販売すれば一月平均すると同じとなり、店舗実績から見れば無難な特売となる。そこで問題となるのが1.2しか特売時に漬物が特売購入の同期とならないことである。これは高齢者がタ-ゲットの食品で安いからと言って多くを購入しない。なぜなら毎日行くのに買うものが無いと困る主食でなく、コ-ヒ-のような嗜好品の食品である。無くてもかまわないがこだわりの物もある。そこにウオルマ-トがの伸びなかった原因でもある。
 千葉県習志野市に開業したフランスのカルフ-ルも見たが開店時のキムチの展示は大量陳列で温度管理されない所で山積販売されていた。10日ぐらい後再度訪問していったら、キムチの商品は少量陳列となった。その後はさらに小さくなり、通路がやたらと広くなった。やはり外国人には日本人の漬物購入行動は読めない様だ。
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妙に納得する幽霊400年説

2020年11月16日 | 宅老のグチ
今年の夏の話題で400年前の関ケ原の戦いで死んだ人の幽霊出現話が激減したという話題があった。普通の人が理解しがたい事象があって、幽霊などの仕業として納得させる。正解がないのも何らかの正解らしきものを作り出し、正解とすることもある。裁判の冤罪などは法の解釈は別として思い込みなどで誤審となる事例もある。時代劇などの創作の世界は別として、一応どの国の歴史でも主観が入っていてその分引いてみた方が良いかもしれない。
 多くの人間がいる世界では51%の人が幸福で49%の人が不幸のように思えるが見方によっては人は多くの食料を得ることで生きているので、他の動物を不幸にしているとも言える。
 金子みすずの詩で大漁のイワシの詩がある。浜のイワシの大漁は海の中のイワシにとっては理不尽な死だろう。でも人は他の動植物を食べて生きてきた。
(命をいただきます)
戦後75年では気持ちの揺れで幽霊の存在を想定した方が都合が良い。調べれば調べるほど特攻で死んだ叔父は理不尽な死で無念を訴えるため幽霊で戻ってきてもおかしくはない。
 何か幽霊の存在を脳の中で認めたい気持ちがある。でも他の人には見えない夢が医学の進歩で脳波を見ることによって何かを見て入ることが証明できる時代が来た。
 調べが落ち着いたら、靖国神社に参拝し、幽霊で出てこないように慰霊したい。
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