年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

年越し本

2017年12月31日 | 築地市場にて

今年の年越し本は長崎貿易の関連でシュガ-ロ-ド本と明治の政治家で政談の伊藤痴遊の本。江戸時代の長崎貿易で一番問題だったのは蘭学とかキリスト教でなく砂糖の消費の拡大と金銀が異国に流出することだった。

 砂糖は薬の一種として薬種問屋で扱っていた。砂糖の扱い量が増えるに従い、砂糖を扱う薬種問屋と従来の薬種問屋は混じりながら分かれていった。明治の東京で本町に薬種問屋・大伝馬町・小伝馬町・本町に衣料品問屋が集まった。恵比寿講という年末の祭りにべったら漬が売られ、明治になって暦の改変でほぼ一月違ってしまい甘みの少ない大根のために甘みを加えた。明治末期の新聞記事で人工甘味料使用のべったらが目だった。この研究は今から10年ほど前にべったら市の変遷で知った。

 漬物にサッカリンが今でも残っているのは明治の遺産でもある。

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天気に恵まれた平成29年末の築地

2017年12月30日 | 築地市場にて

明日の天気が気になるが今年の年末は先の日曜日に雨が降っただけで一番厳しい年末在庫過多が無事事故なしで終わりそう。心配していた配送遅れも何とかなった。来年は豊洲でこのような問題が生じても対処はやさしい。

 年明けに練馬の沢庵業者の弁護士から会社整理の書類が届く。年々へる漬物業者。特に都内は相続問題で廃業が増えるだろう。平成30年は明治150年となる。

 韓国の動くゴ-ル問題が再発でキムチの売れ行きも見通し改定となる。・多分和風を強調し、ブランド戦略の変更もありうる。安いキムチも中国産表示を大きくするかもしれない。

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最後の築地年末

2017年12月29日 | 築地市場にて

全般的に築地で扱うものが上がっているので荷物量も少ない気がする。いわゆるスーパーを含めた小売店は市場で先取りせりの前に産地で契約で市場に入らない。余りものを保険のように出荷しているように感じる。セリとは価格が不安定。システムで商品を提供しているところは材料費比率が少ないものは安定・安全供給を要求される。築地の問題で大手飲食店の対応の声がマスコミから聞こえなかった。温度管理のできない築地では衛生事故が起きたとき担当者は言い訳できない。八百屋や魚屋より、築地は飲食店需要が多い。青果でも都心の菓子店需要が多い。

 豊洲へ移れば青果のトラックも常温と低温管理の区分の時代となる。柱にある200V電源は未来の流通を感じる。

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混まない最後の築地

2017年12月28日 | 築地市場にて

何か変だな混まない最後の築地。一昨年まで年末の築地は混んでいた。それに比べれば混まない。交通整理が順調。バブル期の築地を知っている身としては寂しくもある。先日味の素食の文化センタ-である女子大の活動報告書を読んでいたら、築地の水産仲卸の人が学生に魚の話をしていた。多分2年前の話だが都内の魚屋(魚商組合)に件数が500軒位だという。当時の築地市場の水産仲卸は650軒程あった。最近の数字は530程になってしまった。バブル期は水産仲卸は1500軒を超えていた気がする。排気ガスを浄化できないガソリンタ-レ-が築地場内外や早朝の銀座を疾走していた。築地市場の外にあった2箇所ガソリンスタンドもタ-レ-の給油で長い列があった。タ-レ-の構造上進歩が無く、排気ガスのベンゼンは築地市場仲卸売り場内に充満していた。築地の空気は豊洲の地下より汚染度は酷かったと思われる。それでも都民からベンゼン空気で築地の魚が汚染していたというクレ-ムが無く、中国の新聞に揶揄された(その当時の中国は空気がきれいだった)。

 あと2日で築地の年末が終わる。事件・事故が無い事を祈る。

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昭和の終り頃と平成の終り頃の比較。

2017年12月27日 | 築地市場にて

昭和の終り頃、都心の地上げが盛んで中央区の土地は築地市場へ通える範囲の小規模宅地が買い占められた。築地市場の職場が順調な人は売ることをしなかったので虫食い状態の土地が長い間残った。この土地が地下が下がり高層マンションとなったのはここ数年前からの話である。オフィス街には不適なところでも住む人と病院が揃っていれば築地周辺はまだまだ住める。

 銀座の土地価格がバブル期を越えたという。今はホテル需要で高騰しているが2020年の祭りが終わればどうなるかわからない。覚めている平成ホテルバブルはすぐに終わるのだろうか。

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茨城県鉾田市鳥栖の無量寿寺

2017年12月26日 | 福神漬

香取民衆史11(千葉県立中央図書館所蔵)に記述されている自由民権運動福島事件の6人の被告のうち、唯一福島県人でないのが花香恭次郎である。彼の経歴で親族からむりやり明治6年以後茨城の鳥栖村へ行かされた。しかし鳥栖には馴染めず明治9年頃までには東京に戻ったようだ。元二本松藩公用人服部撫松(誠一)の公益問答新聞に入社したようだ。花香の新聞社入社は大垣戸田家の縁があったと思われる。

 茨城県鉾田市鳥栖には浄土真宗の無量寿寺がある。この寺の住職が蛮社の獄のとき、過酷な取調べで死去した。小笠原渡航計画を立てたという理由だった。今は蛮社の獄の研究も進んだが、教科書に記述されている1839年洋学者弾圧事件と理解されている。

 花香家の人々が明治6年に死去した実兄長井昌言に替わって南茅場町や横浜で商人見習いに失敗した花香恭次郎を鳥栖村へ追いやったと思われる。鳥栖の住職がなぜ小笠原渡航計画を立てる必要があったのだろうか。利根川河口の都市は日本海運網の要所で自由に話せる地域だったのだろうか。

 史料学入門・著者名/東京大学教養学部歴史学部会には蛮社の獄の裁判経過が詳しく書かれている。当初は小笠原渡航計画の摘発から始まっている。

 

 

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ラスト築地?の25日

2017年12月25日 | 築地市場にて

カメラをもって築地市場無内の風景を見る。昨日夕方人の少ない水産仲卸大通路に数枚のパレットを置いてお節の食材を区分けしていた。豊洲ではこのような事はできないだろう。築地には暗黙のルールがあって部外者には理解できないことも多々ある。車の駐車位置も勝手に駐車しているのでなく暗黙のル-ルがある。これを知らない人があいていて以前駐車していた車が出たからといって時間によって定位置として駐車している人からの通報で移動してと場内放送される。

 特に日曜日の暮れは普段と使い方が異なるようで不思議な場内放送が気になる。もう年内無休で混む時期だ。暮れの象徴とも言うべき本物三浦大根が築地市場に入る。中太りの大根は練馬大根の系統である。最後の築地市場?の年末が今日から始まる。

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24日の築地

2017年12月24日 | 築地市場にて

年内の休市は今日で終わり。連日の晴れで仕事が多くても比較的楽だ。この雨不足の天気のツケは年明けからやってくる。ただ雨不足は消防團の防火訓練で散水すれば何とか間に合うだろう。昨年は甘酒と麹が不足していて難儀したが今年は通常の数量で済みそうだ。あと6日で年内の大方の仕事は終わる。25日に練馬の沢庵業者が廃業する。やはり相続税の重みだろう。いざ相続する段階で営業していたら財産処理ができない。今なら好景気で人手不足なので高齢者のパ-トでも順調に職探しが出来る。コンビニの早朝は高齢者の店員の所が増えた。これはバブル期と似てきた。豊洲へ移転すればかなり省力化できるので今は無理して仕事をこなすしかない。

 

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23日の築地

2017年12月23日 | 築地市場にて

来年の築地と豊洲市場カレンダ-の改定版がやってきた。10月のところだけ築地のカレンダ-が変わる。食品情報誌によると姫路中央卸売市場で水産仲卸が12月の開市日なのに水曜日を話し合いで休んだという。一人しかいない水産仲卸の声で休んだという。築地の弱小仲卸は暇な水曜日は休みたいだろう。そこが24時間営業のところと差がついた。独立心の強い人たちが組織に負けて豊洲移転は進む。ある程度の人数で運営しないと休日をほしがる若い人は早朝から働く市場には来ない。

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富津市大堀地区

2017年12月22日 | 築地市場にて

咸臨丸の小野友五郎が明治維新後、今の日本の鉄道網の測量を終えて、次に向かったのが塩製造だった。千葉県市川市行徳でテスト製塩をおこない、今の富津市大堀で製塩を行った。富津市史で内容をみると 友五郎は、大堀村の村有地8,000坪を借り受け、独自の製法(蒸散屋を工夫、天日だけによらず製塩する法)により、明治13年(1880)から3月から営業を開始した。その設備は、浪除の堤防270間(約500m)、蒸散屋(長さ20間8棟)など1万円余りの費用を要した。しかしその年10月3日の暴風雨によって施設は壊滅的な被害を受け、加えて明治14年1月には居宅類焼の災にあって、塩業は旧に回復することができなかった。友五郎は一部修復した製塩場を笠間の縁者たちに任せたようだ。小野はさらに製塩の質を上げ、水産博覧会で賞をもらい、特許を得た。この小野の作った塩により輸出用塩サバ、塩鰯などがニガリ分が少ないため好評だった。小野の製塩業は士族の授産として輸出を考えていたようだった。富津での失敗後、製塩改良をあきらめることも無く、明治以後得た資産をつぎ込んだ。小野の死去直前、小野の功績を知っていた人より褒章の話が出て、異例の速さで処理され、生前に授与された。死去の数日前だったという。

 笠間市の中央図書館入り口には郷土の人として小野友五郎の本が推奨されている。

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移転日内定の日に

2017年12月21日 | 築地市場にて

12月20日豊洲市場に入った。東京都の税金で費用が出るので未稼働の冷蔵庫の電気点検に立ち会う。台風による塩害を感じる。カビの事件があったので閉鎖していないところも目立つ。汚染対策工事のコンクリミキサ-車が出入りしている。一目で不備なところも目立つが徐々に直せばよいと思う。

 午後より新市場協議会に出る。来年10月11日開業が決まる儀式。騒ぐ人たちも少しあったがオリンピック開催という御旗に負けたようだ。江東区と水産仲卸も渋々承認となった。税金を投入する施設でこれ以上悪役にはなれない。夜のニュ-スが横綱暴行問題とかぶったので移転反対派の声も消えている。未完成で豊洲市場が発足する。水産仲卸の人たちはまだ15項目以上の改善要求をしているようだ。築地の営業終了日は10月6日土曜日で開業は大安の11日木曜日となる。ちょっと気になるのは11日以後の築地だが少しの時間利用できることを話あっているようだ。引越し荷物で間に合わないものの時間が取れるのだろうか。今でも地上の豊洲市場の空気はきれいでガソリンタ-レ-の築地よりベンゼンは少ない。

 やはり移転構想から50年の月日がかかる。青果部の幹部は親子二代でこの移転に関与した。築地市場は東京都の本場である。他の市場は分場されたので自負の念が強い。

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築地の解体工事

2017年12月20日 | 築地市場にて

京橋図書館へ行く途中、河双荘園のところに張り紙があった。隣接する店舗も閉まっていた。張り紙の内容から建物を解体するようだ。この一角が地上げになったようだ。また東銀座という名称がついたホテルができるのだろう。解体が終われば建築主の名前が出るだろう。もう一件築地の日通のあったビルも解体中。この一角では不景気も無いようだ。

 このところのミニバブルともいえるホテル建設集中で築地周辺はすし屋街からホテル街に変化しているように見える。気になるのは築地の中心地なのにビル名が東銀座という名前だ。建築主には銀座ブランドのほうになるのだろう。建設事故も多く、豊洲の追加工事の入札の混乱も続く。

 バブル期についで、古い建物の破壊が目立つ。

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年内最後の10日

2017年12月19日 | 築地市場にて

今年は野菜が年末に高く、築地に置き荷が少なく、荷卸が簡単で渋滞が少ない。殺気立った年末がないのは良いのだが暮れの雰囲気とはならず寂しい。

年内に豊洲開業日が決まるという。近日中に豊洲市場内に入って、設備の劣化状況を視察する。無駄な経費は都の税金で補償されるが空しい。年末の市場のテレビ報道も切り口が同じで目新しさが無い。

 週間天気予報でほ晴れ続きでほっとする。年々正月用の漬物が減って、酢はすとか万両巻などが築地しか見かけないようになった。洋風お節の時代となった。

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ライマンの文献確認

2017年12月18日 | 福神漬

近代事物起源・東京堂出版に記載されている、缶詰の起源に明治3年工部大学校米国人ライマという雇外国人を探した。文献探しで一番困ることは、この文献が誤りということを証明することで大量の文書を読んでいくしかない。今はネット検索で誤りを見つけることは簡単だが今でも誤りが残っている理由を探す作業が始まる。

 工部大学校は明治8年頃にできた学校で簡単に明治3年というのが誤りと解る。さらに明治3年頃からあったと思われる工部寮の雇外国人のリストは全部と言ってよいほどイギリス人で、フランス人は造船関係でアメリカ人は文部省と開拓使しかいなかった。近代事物起源に脚注で示された文献にはライマの根拠は無かったが開拓使のライマンだろうということで検索すると鉱山探索で活躍した人物ということが解った。鉱山ということで工部省ということになったと思われる。

 ライマンとなれば福神漬の逸話として森有礼の問題に絡んでくる。森本貞子氏の小説に出てくる。今の浜離宮のところにあった迎賓施設で開拓使仮学校女生徒が宴会で酌婦のようなことをさせたのだろうか。このことが前例となって北海道に移転後、開拓使の幹部の宴会で女生徒が酌婦のようなことをさせられた。女生徒の内部告発で松本十郎の怒りで開拓使女学校が札幌移転後、半年ほどで廃校となったという。武士の子女が生徒に多く、酌婦扱いされ、親が怒ったのだろう。(さっぽろ事件簿・さっぽろ文庫)

森有礼の妻となった広瀬常は開拓使仮学校の生徒で旧幕臣の子女だった。授業料は無料だったが卒業後北海道の人と結婚することが前提であった。違約金は高く、失業していた広瀬家は北海道へ行く前に、森有礼との結婚を急いだようだ。

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香櫨園駅

2017年12月17日 | 福神漬

味の素食の文化センタ-の図書室で砂糖業界の本を読む。明治末期の砂糖業界の混乱と株式相場の大荒れの状況を知る。これが福神漬の歴史となると阪急の小林一三の話に繋がるとは誰も予想はしないだろう。小林一三が阪急百貨店を開業したとき大食堂を設けた。まだ貧しく百貨店で買い物ができない人たちが大食堂でライスだけ注文し、自由に取れる福神漬だけで食事を済ます人が現れた。ライスだけでは売り上げに貢献しないので(ライスだけの客はお断り)の張り紙したところ、小林一三は百貨店の店員にライスだけのお客を歓迎しますと書き換えたという。なぜ福神漬なのかは今まで誰も検証していない。小林には福神漬に関してある思い入れがあったと思われる。この逸話に関して文献が多数あるが商人の考えのことで小林一三個人のこととは考えていないようだ。小林が甲州(山梨県)から東京に出て慶応大学に入った。身元引受人が下谷根岸に住んでいた。このあたりの調査が無いようだ。

香野蔵治という投機商人が持っていた鉄道株を担保として、三井物産が引き取り、北浜銀行へ株は分けられた。三井銀行を退社した小林は北浜銀行の岩下清周にある鉄道会社の経営を任せられた。これが阪急電車の小林一三の始まりとなる。小林一三の自叙伝は作家志望だった小林の脚色があるという。

 

香野蔵治と櫨山(はぜやま)喜一。2人の名から、阪神電車の沿線に作られた遊園地は「香櫨園」と名付けられた。

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