年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

江戸の交通事故

2006年03月12日 | 築地市場にて
練馬の農家は江戸時代、馬や荷車で江戸まで大根や沢庵漬を運んでいました。
馬を使った運送の方法は,馬の背に荷物を積んで運ぶ「荷駄」のみでした。幕府の物資運送を担当する「馬方」や「船方」の権益を保護するため,幕府が街道筋での車両の使用を厳しく制限したことによるようです。舟運の悪い地域からの輸送は荷車や馬なので時間に追われる青物市場や魚河岸は出入りの混雑によって,徒歩の速さでも交通事故はおきていた。
大石慎三郎『江戸時代』中公新書、1977年、によると
 正徳六年(1716年)、幕府は、頻発する「交通事故」を前にして、以後、雇い主の責任規定まで含んだ、歩行者優先の断固たる処置をとることを町民に通告している。私たちはそれを、『御触書寛保集成』(岩波書店、1976年)に見ることができる。「自今以後は、此等之類〔=車引き、馬引き等〕、たとひあやまちより出来候て人を殺し候とも、一切に流罪に行はれ、事の体によりて、猶又重科に行はるへき者也」、と。そして実際
子どもを死に至らしめた享保十三年(1728年)の車引きは遠島(流罪)にあい、雇い主は罰金を課せられている。
大八車
江戸時代初期に町を整備するために活躍した大八車ですが、それから100年後の1727(享保12)年に調査した結果では江戸には約2000両の大八車が存在していたそうです。
その台数はかなりの物で、その為に大八車が絡ん交通事故が頻発していました。
そこで
1695(元禄8)年には積荷制限令
1708(宝永5)年には駐車制限令
1716(正徳5)年には交通基本法が発令されています(徳川6代将軍・徳川家宣の時代

平成24年開場予定の豊洲新市場は、近代的な交通制御システムの導入が検討されてます。ただ、現在でも天秤棒で運搬している人がいたり、小車(人力)・ターレット等の車は築地より1.5倍広い豊洲ではどうなるのでしょうか?(ターレットは電動のみ許可の予定)
コメント
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