年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 11

2009年10月31日 | 福神漬
日清戦争と醤油
日清戦争の後、日露の関係が悪化しつつある時、陸軍量抹廠(軍隊の食糧等を用意するところ)では醤油が液体の状態では大量に中国大陸を兵隊が運搬するのに何かと不便で液状でない状態にして運搬したいと考えていた。「醤油エキス」というのもあったがとても完全なものでなく、明治36年陸軍量抹廠は当時すでに発明家と知られていた鈴木藤三郎に工夫の依頼をしてきた。
 鈴木藤三郎は即座にこれを引き受け醤油の製造改良方法を研究した。醤油は摂氏40度以上で加熱すると固形体になるがその滋養分であるたんぱく質は変質してしまうため,これを水で薄めても元には戻らないのである。そこで真空中に低温度で水分を蒸発させる方法で完成させた。
醤油エキス製造機(明治37年3月特許7202号)
すでに日露戦争が始まっていたので,製造機械を作り明治37年7月より一日300貫製造し戦地に送った。

鈴木藤三郎伝より
鈴木藤三郎は明治22年(1989)静岡県森町から東京の小名木川に砂糖の工場を移して鈴木精糖所と名付けた。その会社が明治29年に資本金30万円の日本精糖株式会社となり、明治39年には資本金400万円の我が国第一の精糖会社となった。日本精糖が発展すると競合会社が現れ、激しい販売合戦をはじめ互いに苦しんでいた。
 日本精糖会社では社長の鈴木藤三郎が台湾精糖の経営や醤油の改良に没頭しているスキに経営を任せていた人に株を買い占められ、明治39年7月の臨時株主総会で自ら辞任してしまった。その前年にすでに台湾製糖が安定した経営になったのを見届けて日本精糖社長を辞任した。辞任後、鈴木藤三郎は製塩法や醤油醸造の改良に向かった。日本精糖株式会社は現在の大日本明治精糖株式会社の前身である。
 鈴木藤三郎は「醤油エキス」の製造法の研究中に、その原料となる醤油そのものの製法の研究をした。すると江戸時代から当時までほとんど進歩がなく、醤油醸造に一年半から2年の歳月かかかるのを知って、戦争が長引いたら醤油エキスを作るための醤油そのものが尽きてしまうだろうと考えた。そして、間もなく醤油を短期間で製造する促成醸造方法(明治37年4月特許7247号)を発明した。
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福神漬物語 10

2009年10月30日 | 福神漬
明治の砂糖価格の下落
福神漬は数種の野菜を醤油と砂糖で味付けたものが基本です。従って、醤油と砂糖の歴史、特に酒悦が創製した時代の明治を知らなければなりません。静岡県周知郡森町出身の鈴木藤三郎をとりあげねばなりません。
今では地元の人以外忘れてしまった明治の発明王、特に日本の食品工業の近代化における業績はかなりのものがあります。ただ晩年の醤油醸造業の失敗が過去の人にしてしまいました。
明治初期の砂糖状況
砂糖の輸入額は明治初年から15年頃までは綿花類、綿織物、毛織物についで第4位であったがその後輸入額が増加し、明治の終わり頃は綿花類に次ぐ第二位の輸入品となっていた。そして綿花類は綿糸綿布に加工して再輸出するから正貨(外貨)問題ないが、砂糖は全部が国内消費されるもので,正貨流出の最大の問題となっていた。当時は富国強兵のため海外から輸入する物資の資金が不足していた。
 鈴木藤三郎伝より
1883年(明治16年)には静岡県森町の鈴木藤三郎が現在の氷砂糖のもととなった氷砂糖製造法を確立しました。この製法で作られた氷砂糖は氷のようにきれいな結晶であり、従来品と比較して良質な甘さと安い価格が評判になりました。その後精製糖(白砂糖)の生産へと進み、1890年(明治23年)以降には東京・小名木川に日本製糖株式会社の設立、更には台湾製糖株式会社を設立し、近代日本の砂糖産業に多大な貢献をした。
 『砂糖の消費量は一国の文化のバロメーター』といわれ、明治元年には砂糖の輸入額は87万円だったものが10年後には278万円となり20年目には571万円、明治31年には2837万円の輸入額となっていて我が国第二の輸入額となっていました。富国強兵を目指す明治政府は外貨を浪費する砂糖消費を抑える必要があったが幕末の不平等条約によって関税の自主権が無く、砂糖の輸入を抑えることが出来ず、かえって安価な輸入砂糖によって国内の砂糖生産地を衰退さてしまった。
 砂糖の国産化は外貨浪費を防ぐため、国の産業育成の方針となっていた。明治25年には鈴木精糖所の氷砂糖は中国産の輸入を抑えたくらい品質が向上した。そして日清戦争のあと、台湾が日本領土となり台湾精糖の強化が国の方針となった。
 明治中頃から砂糖の価格は江戸時代よりはるかに安価になったから漬物にも使用されまでなり、福神漬となったのである
また日清戦争までは砂糖の貿易は中国人経由ほうが多かったが日清戦役後は日本人の貿易商の時代となった。日清戦争後の好景気は明治の産業革命となった。
 日清戦争後、砂糖の生産地と知られていた台湾が日本領土となり、この地の原料糖の生産を発達させれば輸入糖を精製していた日本の精糖業は自給自足の望みが出た。更に中国に輸出する可能性も出てきた。
 明治政府の井上馨と三井物産は台湾に精糖会社を作ることになり、鈴木藤三郎が社長となった。
 井上馨の当時の考え方。
およそ人間の生活が向上するに従って消費は増えるものであるが中でも飲食物の中で砂糖のごときは一ヵ年の消費額が3000万円にものぼりその内2000万円も外国から輸入されたものである。輸入が輸出を超えており決済にあてる日本銀行の兌換紙幣が危険となる。従って正金=金貨を海外に流失を防ぐには内地の精糖業を振興し、輸入を減少させることである。

新渡戸稲造
台湾糖業意見書が明治35年に新渡戸稲造によって出されます。日本の領土となった台湾は砂糖をつくることによって農業をいかしてゆくべきだというのが新渡戸の意見書だった。その方針に従って台湾総督府は台湾で砂糖きび栽培をどんどんすすめてゆきました。

1 品種の改良 在来種より生産性の高い品種に変更する。
2 ショ糖の栽培方法の改良。
3 灌漑を行なう。
4 水利の不便な田畑を砂糖栽培に転換する。
5 精製糖での技術改良を計る。
6 日本に入る輸入外国糖に関税を引き上げにより。砂糖産業育成の税制。
7 交通路の整備及び輸送費の補助政策。
8 砂糖販売網の拡充。
9 ショ糖の公定価格の安定。
10 糖業教育の充実。
11 産業組合の整備。(今の農業協同組合のような組織)
12 出版物による糖業の啓蒙。
13 甘蔗保険の充実。
14 副産物の奨励(アルコールの製造)
新渡戸稲造によって台湾農業振興政策が列挙されている。台湾糖業は明治政府の保護育成が必要だと説いた。
新渡戸稲造全集第4巻より

昭和3~4年ごろの記録によると、台湾の生産額は世界の砂糖生産におい第2位になりました。第1位はハワイでしたが、2位というところまで台湾の糖業がのびたのです。その結果、昭和はじめには日本は砂糖では自給自足となりました。
1901(明治34)年1月、政府は、衆議院に北清事変費・建艦費補充などのための増税諸法案(砂糖消費税法・麦酒税法・酒税法)を提出しました。
人工甘味質取締規則(明治34年内務省令第31号)サッカリンの販売用飲食物への使用禁止。鈴木藤三郎は砂糖消費拡大のため政府にサッカリン使用禁止運動をし、また砂糖消費税の税収確保のためにサッカリンを禁止したといわれる。

鈴木藤三郎が日本精糖の社長を解任された後、日本精糖の新経営者は無謀な積極策を取り、精糖所の買収・砂糖関税改正・精糖官営をたくらんで代議士20数名の買収をおこない、日糖事件を起こした。
 
砂糖は世界商品で、江戸時代でも茶道の普及で砂糖の輸入がふえ銀貨の国外流出が激しかったため、国産化を進めたこともあった。
 
 明治半ば以後砂糖の価格の低下で漬物に使用できるような環境になった。醤油と砂糖の価格の低下が福神漬の普及に必要となる。

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福神漬物語 9

2009年10月29日 | 福神漬
七種類の野菜の番外
きゅうり
きゅうりは江戸時代の初期はへたの部分が苦かったため、下品の野菜とされ初物競争の野菜にならず、従って作付け制限が無く本格的に普及したのは江戸時代の後期からです。江戸時代初物を競争している時がありました。幕府は過剰な競争のため米の作付が減ることを恐れて作物によって色々制限を設けました。
江戸では「胡瓜の切り口が、徳川家の三つ葉葵(みつばあおい)のご紋に似ている」というので旗本直参連中は食べるのを断り、同じく切り口が三日天下で終わった明智光秀の家紋「桔梗」にも似ているので縁起が悪いと敬遠されました。江戸時代は、輪切りにすると徳川家の家紋である葵の御紋に似ているところから、それを食べるのは不敬であるとして、キュウリを輪切りにされることは慎まれていたという。

 福神漬の最初の日本農林規格(JAS)には原材料としてきゅうりは入っておりません。上野寛永寺で栄えた門前町としては徳川家の家紋に似た切ったきゅうりを入れることは明治に入っても避けたのでしょうか?
江戸時代に農書『農業全書』によると、黄瓜(きうり)又の名は胡瓜(こうり)、これ下品にて賞翫(しょうがん・味のよさを楽しむこと。賞味すること。)ならずといえども、諸瓜に先立ち早くできるゆえ、田舎に多く作る物なり。都にはまれなり。
 従って、胡瓜は江戸時代初期には完熟になり黄色くなった後、食していたらしい。
最近改定された福神漬のJAS規格に胡瓜が原料として入りました。多分キュウリにまつわる話が知らなかったと思われます。
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福神漬物語 8

2009年10月28日 | 福神漬
了翁禅師
 平成12年3月20日の日本経済新聞の朝刊記事で、江戸時代初期に自ら考案した万能薬を販売して巨万の富を得、その私財をすべて慈善事業につぎ込み学校や文庫を作った僧侶がいた。その僧侶こそ秋田県湯沢出身の了翁禅師である。
 上野に僧侶の寄宿舎兼学問所『勧学講院』を開き、宿舎では大量の野菜屑が出たが,了翁は食べ物を粗末にするのを嫌い、すべて漬物にし、これが福神漬の元祖といわれる。
 台東区中央図書館には了翁禅師の本が郷土史料の所に3冊あります。しかし、どの本にも福神漬の記述はありませんでした。江戸時代の武士や町民の家計簿なんかを読むと酒・塩・味噌・米の購入の記録はあっても漬物を購入した記録はありません。
了翁禅師は秋田県湯沢の出身です。湯沢は地元ということで湯沢市民は福神漬の元祖を了翁禅師としています。でも、了翁禅師は上野の山に勧学講院(寄宿舎つき学校)をつくり、寄宿生のために野菜屑を美味く漬けていたのでしょう。その話を上野・池之端の酒悦主人が知り、明治の味に工夫したのではないのだろうか。そうなれば了翁禅師は福神漬元祖とも言える。
 河村瑞賢や了翁禅師の漬物は今の日本農林規格(JAS)の定義だと農産物塩漬の分類となります。

 秋田県湯沢市の人々は了翁禅師を慕っているが彼が全国的に有名でないのは僧侶が医薬品を販売し収益をあげたことと、その販売方法が僧侶らしくなかったから嫌悪されたのでしょう。彼は4度ほど毒物で殺されそうになりましたが、残り物を食べていたせいで、弟子が亡くなっています。

了翁禅師略歴
了翁禅師は幼いとき母を亡くし、次々と預けられた人が亡くなり不吉児といわれ、親戚が相談して12歳の時、寺に(雑用をする)小僧として預けられた。しかし、彼自身仏門に入る意思がなく度々逃げ帰った。不吉な子といわれたがある人は寺の仕事を丁寧にするので見所のある少年だと思って住持に小僧として扱うのでなく弟子として扱うように頼んだ。最初は出家を拒んだが了翁は次第に(不吉児)といわれた頑な心が仏弟子になることでようやく落ち着き,経巻を精読し僧侶の道に向かった。幼いときの処遇が後の彼の行動となって現れて来るのである。彼が経巻収集・経蔵復興の発願したのは14歳の時、奥州平泉の中尊寺の荒廃を見てからのことである。了翁自身の不幸な生い立ちと諸行無常の仏教的人生観が彼の心を経巻収集・経蔵復興の発願に向かわせた。
 (日本の公共図書館の始まりと言われる=不忍経蔵=上野不忍池にあった)
色々な寺で修行の後、あるとき荒行の途中、故郷の貧しい父を思い出し、なにも世話が出来ないのでせめて貧しさゆえ売ってしまった田畑を買い戻そうとして江戸に出て托鉢しながら、雑労働をして黄金3両を貯め故郷の父に書状と共に送った。了翁が23歳の頃である。僧侶でありながら労働して金を稼ぐ。後に彼の始めた薬『錦袋円』の販売事業はここからはじまる。
日本文庫史研究 下巻 小野則秋著より
承応2年(1653年)隠元禅師が中国から日本に来た。了翁は彼に師事したので了翁禅師と呼ばれるのであろう。
寛文4年宇治山田の黄檗山万福寺を出て(了翁35歳)諸国を回り江戸に向かった。そこで積年の厳しい修行による体のいたみが出、昔湯沢で世話になった人の処方した薬を飲んだところ痛みが治まった。そこで了翁はこの薬を広く江戸市民に施し同病の人を救うのも功徳となりと、またその利益をもとにすれば大蔵経を納めた経蔵を一国に一蔵置きたい了翁の希望がかなう時期も早められるだろうと思った。
 了翁は浅草の観音に参篭し薬の名前を占ったところ何度占っても『錦袋』と現れたので『錦袋円』と名づけた。『錦袋円』を販売するに当り僧侶の身分で商売するにはいささかためらいがあり親戚の者の力を借り,東叡山下不忍池畔に薬舗を開き、了翁が自ら店主となり、『錦袋円』を売り始めた。薬の販売は莫大な収入をもたらしたので、禅師はかねてからの大願の実現に専心した。(寛文5年了翁36歳)。
了翁禅師の経営している『錦袋円』の薬舗は現在の台東区池之端通仲町の地にあった。屋号は「勧学屋」といい、上野・不必池に接していた。
 彼は僧侶に似合わぬ販売方法で『錦袋円』を販売していった。薬の効能書きは、水戸光圀の揮毫になる「万病錦袋円」の文字に左甚五郎の額縁で「一人一度きり二度は売らぬ」と病人の心理を捕らえる宣伝と美少年を利用して江戸市中を売り歩かせるという販売政策で成功した。このことは当時でもかなり有名であった。
 了翁の商売には大助という美少年を抱えて「勧学屋」という屋号で商いをした。かの美少年は間もなく亡くなったが後にもまた大助といって前と同じような美少年が商いしたので薬を必要とする人ばかりでなく美少年を見るために「勧学屋」は混雑した。了翁の商売は直ぐにニセ薬が現れたり、僧侶の商売としての営利行為に対して世間の批判が絶えなかった。

 池之端 男ばかりの 総籬(そうまがき)

総籬とは江戸吉原で、最も格式の高い遊女屋。入り口を入ったところの格子(籬)が全面、天井まで達している。
 
 「勧学屋」開業6年後、黄金3000両の収益があったという。
この3000両を基にして,さらに寛永寺の支援により、最初に不忍池弁天島の南方に小島を作り小さな経蔵を建立し、大蔵経を納められた。この池は、経堂を建てた島と言うことで、経堂島と呼ばれた。(今はない)不忍経蔵(しのばずきょうぞう)を造った。
 この経蔵には大蔵経を中心に仏教ほか多くの書籍が収集され、しかも自由閲覧としたほか、仏典や儒教等の学術講座を開講したことから、我が国最初の図書館と言われている。了翁禅師42歳、寛文11(1671)年のことで、この年が我が国最初の図書館開設年とされている。
 了翁禅師の造った不忍経蔵は寛文12年(1672)に増築したが、間もなく地震によって倒壊してしまった、経堂島は人工島であったため地盤が弱かったためで、了翁はくじけることなく経蔵は再建された。とにかく地震・火災で度々経蔵は被災し、再建された。また、不忍池の中にあるため経巻が湿気で傷むこともあった。
 了翁49歳の時、『錦袋円』の繁盛をねたんだ同業者により寺社奉行所に「僧侶にあるまじき所業」と告訴された。寺社奉行所も一応尋問したが直ぐに無罪となって、かえって日頃の所業を賞賛したという。
勧学講院の創立
 延宝8年(1680)四代将軍家綱公が死去した。霊廟を上野の東叡山に造営することになり、代地を別に賜わった。その時了翁は代地の余地に経蔵をつくりたいと願い出た。請願以来2ヵ年半を要した後、天和2年(1682)東叡山の領地54間四方を賜わり勧学講院を創立した。北寮は3百に58間瓦葺で、其他南、西、東、に三寮あり、不忍池中の一切経蔵並びに文庫は、勧学講院に移された。ことに注意すべきは、東叡山の地にあった東叡山所化寮も勧学講院に合同されたことである。ここまで了翁の計画が進行したことにつき一部の根強い反対があって了翁はあやうく毒飯を食する様な危険な事件が4回もあった。

 
東京都文京区千駄木にある駒込学園の前身は勧学講院で、天和2年(1682年)に了翁禅師によって上野・寛永寺境内の不忍池のほとりに創立されました。社会に大きく開かれた「寺子屋」だったようです。
駒込学園の学校案内より
天和(てんな)の大火は、1682年(天和2年12月28日)に発生した江戸の大火。八百屋お七火事とも称される。勧学講院がまだ工事中にかかわらず類焼し「錦袋円」の薬を販売していた勧学屋も移転の予定していた経蔵に入れる経巻1万4千巻も火災に遭ってしまった。
この大火は父母や親戚を失った孤児や行き先を失った浮浪者が街にあふれ,了翁はこれを無視することできず,私財を投じてこれを救済した。
了翁禅師は被災者を救済するに当たって食事を与えたりしていた。勧学講院でも学ぶ貧しい人にも食事を与えている。このとき野菜クズで作った漬物をだしていた。(秋田県湯沢の伝説=福神漬元祖)
勧学講院の焼失と再建
 元禄16年(1703)11月、江戸大火があり勧学講院は類焼した。天和2年勧学講院が建立されてから21年を経たのであるが諸宗の学徒が競い学び、天台学徒の修行道場の中心となり東叡山寛永寺においてもその重要性を感じていた。ここにおいてニ品親王公弁門主に請願し、将軍綱吉に願出て、再建は幕府建立とする将軍の命令があった。一方再建のため宇治より江戸に来た了翁は法親王に御礼の言上をなし、親王は了翁を丁寧にねぎらい、その後、幕府による勧学講院となった。このことが了翁を忘れさせた原因の一つでもある。
了翁禅師は今ではあまり知られていない人だがその原因としてやはり江戸時代の士農工商の中でいかに仏道成就の為とはいえ僧侶が薬の商売をしていることの批判があったのだろう。

秋田県湯沢で伝わる了翁禅師の福神漬伝説
上野・勧学講院から生まれた福神漬
 了翁禅師は、1630年(寛永7年)3月18日に秋田県湯沢市八幡に生まれた。
 了翁様は砕指断根の苦行中に神佛の霊夢に授かった「錦袋円」という薬を作りたくさんの民を救った。薬の売り上げは膨大であった。その利益金で日本で初めての一般公開図書館を建て授業料、食事、宿泊料一斉は了翁負担で世界に類例のない教育文化施設を作った。
  毎日の質素な食事に大根、なす、きゅうりなど野菜の切れ端の残り物をよく干して漬物にした。存外美味であった。この漬物のことが寛永寺の輪王寺の宮様の耳に達して、「福神漬」と名前をつけていただいた。これが福神漬の始まりである。 
『輪王寺の宮様』の記事以後は明治19年福神漬をつくった酒悦の名前の由来と似ています。どこかで混同されたと思います。

酒悦の主人は福神漬創製時に了翁禅師の漬物を知っていたのではないのでしょうか。「錦袋円」を販売していた勧学屋は大正の大震災まで上野・池之端付近に店がありました。酒悦と同じ町内です。了翁禅師の漬物は福神漬の考案の端緒となったと思われます。江戸・上野の地の漬物が明治になって醤油と砂糖で味付けし、缶詰に入れて販売するなど工夫し,大正に入って全国的な漬物になったのが福神漬です。
           

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福神漬物語 7

2009年10月27日 | 福神漬
福神漬物語 7

河村瑞賢と福神漬
江戸時代の豪商・河村瑞賢は13歳の時伊勢から江戸に向かい、車力(一般には荷車または手車とも呼ばれる)から身を起こして近世実業家になり、数々の創意工夫により江戸時代の物流の中心となった海運を安全・確実な運搬方法に変えてゆき、産地・消費地の物価を変えたといわれました。
 彼の人生を変えた漬物は福神漬の元祖とも言われている。

 河村瑞賢は江戸で20歳頃までは仕事も上手くいかず、あきらめて上方(京都)に向かったが、小田原宿で老僧にたしなめられて再び江戸に戻る途中、品川付近の海岸にお盆の精霊送りで瓜や茄子が多数漂流しているのを発見するのです。そして、この浮かんでいる瓜や茄子を海岸で遊んでいた子供に拾い集めさせ、塩漬けにしたところ、この漬物が評判となり、莫大な利益をあげたということです。ある言い伝えでは、偶然にも品川の海岸で、誰にも拾われない瓜や茄子を、瑞賢は、これは福の神の仕業によるものと考え、「福神漬」と名付けられたという俗伝があります。
お盆は精霊棚、棚飾りともいわれ一般的な飾りには、野菜のきゅうりで馬、なすで牛を模して作られます。これは、お盆に、我が家にご先祖さまも里帰りいただけるようにと、馬で早くお迎えし、お帰りはゆっくり牛にゆられて、と言い伝えられています。終わった後、野菜の牛馬は川に流します。

 河村瑞賢は作った漬物を江戸の町を建設している労働者に販売しました。明治の中頃まで漬物は購入する食品でなく、ほとんど全部といってよいくらい自家製で文献には贈答か神社仏閣の門前で販売していたことしか記述されていない。つまり、漬物を売ることはとても難しいので誰も売っていなかったのです。彼は建設労働者にどの様にして販売したのでしょうか文献には出ていません。漬物は作るより販売する方が難しいのです。
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福神漬物語 6

2009年10月26日 | 福神漬

 名前の由来である七福神とは、江戸時代・享和の頃(1801-1804)から七福神めぐりがさかんとなり上野近辺の谷中七福神がその発祥地と言われます。
また福神漬に入っているナタ豆(刀豆)が毘沙門天の持っている宝剣の形に似ているとの説があります。上野は七福神めぐりの最古の地域でいまでもかなりの人が正月早々、地図を持ち田端の東覚寺か上野の弁天堂から始めます。上野の弁天堂と広小路の酒悦とはごく近く、漬物としてご当地ブランドとしては最適の名前だったでしょう。
上野護国院〔大黒天〕のパンフレットより
江戸時代から正月に七福神詣でといって上野近辺の七福神に詣でることが盛んになりました。これらの神様を福の神としたのが江戸幕府初めの宗教顧問の一人であった上野東叡山の開祖天海僧正であり、経典(仁王経)の七難即滅・七福即生の文に基づいて七福神の信仰を勧めました。
 後に徳川家康は絵師(狩野探幽)に七福神の絵を描かせ。これが評判となって宝船に乗った七福神が普及しました。
宝船とは
江戸時代初期から、七福神を乗せた宝船を、正月2日、枕の下に入れて寝ると、吉夢を見るということが、盛んにおこなわれるようになりました。宝船のことを「おたから」といい、おたからを江戸の町に売り歩くのを、お宝売りと言ったそうです。
 初夢の中に『なす』がありますが『物事を成す』と江戸時代初期温室栽培の無かったころ今の江東区砂町で堆肥の発酵熱で促成栽培をしていて、冬場に非常に高価な茄子がありました。冬季にナスを食べる夢は非常な贅沢で吉兆な夢とされました。れんこんはおせち料理にもあるように『先が見える=未来が明るい』とされ、たけのこは雨後のたけのこというくらい良く成長する意味があるのでしょうか。しかし、あまり竹の子の入った福神漬は知りません 

大根は練馬 言うまでも無い

茄子は駒込付近。駒込付近は土物の野菜の産地で江戸に幕府が移転してきて一番早く市場が出来た所でまた近所の滝野川三軒家は種子販売の集積地でもあった。

レンコンは不忍池(しのばすのいけ)が産地で『江戸砂子』享保7年によると江都第一の蓮池なりと記述されている。

しそは千住。千住にあった市場から入った。
しょうがは谷中 今でも谷中しょうがの名前は知られている。現在の台東区谷中でなく荒川区の谷中本村と新堀村・日暮里駅周辺が産地であった。

ナタ豆は葛西。しかしどこでも栽培されていたらしい。
福神漬に入っている変な形の野菜はナタ豆の鞘(さや)の部分です。ナタ豆の効能は色々伝えられていますがどうなんでしょうか?
ナタ豆の花は根元の方から咲いてゆき次に末の方から根元に向かって咲くので『もとに帰る』という意味で昔は旅立ちに祝いの膳にナタ豆をつけたところがあったそうで、四国八十八箇所めぐりの人はなた豆を二個お守りとして持っていったそうです。(たべもの語源事典・清水圭一編)
若ボケの予防に効果的な刀豆(ナタ豆)
さやが大きく堅いので、その形から鉈(なた)が連想されることから名づけられたなた豆(ナタ豆)。刀豆には、良質なタンパク質以外にも、アミノ酸、ミネラル食繊維、サポニン、コンカナバリンA、ポリフェノール、鉄分などが含まれており、健康茶として人気がある。腎機能の向上や、若ボケの予防、ストレス解消などに効果があるといわれている。また,避妊に利くとか、男性が食べると精力減退の恐れがあると書いてあるものがあります。

本朝食鑑によると(ナタ豆の)若い時は鞘付きのまま塩漬したり糟漬にして香の物とするがそれ以外に用いるに適しないと書いてあります。江戸時代はかなり作られていたようですが今では福神漬用しか用途がありません。最近は健康食品として宣伝しているようです。童話の『ジャックとまめの木』の豆はナタ豆のことと記述している人がいます。
とにかく本当にナタ豆はなた(刀)の形に似ています。


しいたけの産地は不明 干ししいたけは軽いので精進料理が盛んであった池之端近辺では手にいれ易かったかもしれない。
竹の子は目黒川水運を利用して、目黒が産地であった孟宗竹の竹の子を運んだと思われる。『江戸の野菜』野村圭佑著より

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福神漬物語 5

2009年10月25日 | 福神漬
 
福神漬とは何かという基本に戻ると。
一般の食品の由来を書いてある本では明治19年に上野広小路・酒悦の主人が創製し、七種の野菜が入っていたので当時盛んだった七福神めぐりからとって福神漬と命名されたといわれています。この福神漬がJAS法(日本農林規格法・農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律)に法律用語としてあります。どうして福神漬が法律用語となったのでしょうか。
最初の日本農林規格(JAS)醤油漬の代表は福神漬でJAS規格にもある通り大根・ナス・しょうが・なた豆・レンコン・しそ・竹の子・もしくはしいたけを細刻したもの又はこれにしそのみ・もしくはゴマを配合したものを主原料とし、これに醤油又はアミノ酸液に砂糖・水あめ等の甘味料を加えた調味液に漬け込んだものをいう。(現在のJAS規格の福神漬には瓜・きゅうり・とうがらしも入っている・人工甘味料使用ではJAS規格外となる)

福神漬という漬物はよくカレーライスについて出されますので漬物が嫌いな人でも良く知られています。カレーライスの本には必ずといってよいくらい記述されていますがその福神漬が出来るまでどのような歴史があったかあまり知られていません。

 上野の山
徳川家康の宗教顧問であった天海僧正は寛永2年(1625)に天海の発意で、寛永寺が草創されました。寛永寺が完成すると(東京都台東区)下谷村は門前町として栄えるようになります。江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道沿いに発展し江戸時代は下級武士・商人の町として繁栄しました。上野広小路は、かつて下谷広小路とも呼ばれていた。下谷広小路は、現在の御徒町の松坂屋付近から上野公園入口までの現中央通りを呼ぶ俗称であった。明暦の大火(1657)の後、類焼を防ぐ目的で拡幅された。火除けのための空地が広小路と呼ばれ、上野(下谷)広小路は浅草・両国と共に三大広小路のひとつになりました。
 また上野と両国の広小路は、すぐ取り払えることを条件に露店や見世物小屋の開店が許可され、娯楽の集積地となりにぎやかな繁華街となった。
酒悦は寛永寺参詣の人や商人達の茶店から発展していったのです。
江戸時代末期には上野広小路には香煎茶屋が3軒あって激しい競争していて、狂歌にも詠まれていた。しかし幕末の動乱で明治まで残ったのは酒悦だけであった。
たべもの語源辞典 清水圭一編では次のように記述されています。
「上野・酒悦の創業者は伊勢山田より江戸に出て『山田屋』を名乗り《うに・このわた》など、酒の肴になる珍味類も扱うようになりました。東海方面から乾物も仕入れ業とし、初めは本郷本町に店を構えたが、後に上野池之端に移った。その店は香煎屋といわれた。江戸末期の大名・旗本屋敷などでは縁起を担いで茶を用いない風習があった。町屋の人もこれにかぶれて婚礼などの祝儀には茶は仏事のものとして嫌がった。今日でも結婚式に桜湯を飲んでいるのはその名残である。
 香煎屋は神仏両用のものを販売しているが一般に茶の代用品としては山椒や紫蘇(しそ)の実などの塩漬に白湯をさして飲んでいた。山田屋はやがて東叡山寛永寺の本坊である輪王寺の御門跡の白川宮から、「酒が悦ぶほどうまいもの」の意として「酒悦」の屋号を賜り、江戸名店の一つとなりました。」

 上野公園
 幕末慶応4年五月の上野戦争で荒れた寛永寺は明治6年上野公園に指名され整備されていった。
明治10年第一回内国勧業博覧会が上野公園で始まる。約3ヶ月間(一日平均2000名の見物客)
明治11年 明治天皇 上野公園の桜花観覧 文明開化のファッションを見るため見物人が集まった。
明治14年第2回内国勧業博覧会
明治15年博物館 上野動物園開業
上野寛永寺門前町から文明開化・欧化思想の先駆地となる。
明治16年第一回内国水産博覧会が開催されます。

この上野周辺の商業の変化に対応すべく、「酒悦」店主は新しい時代のあう新商品の開発をしていました。何年か試行錯誤ののち缶詰に入れる工夫し、保存輸送できるようになりました。言い伝えでは明治10年以後の話です。

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福神漬物語 4

2009年10月24日 | 福神漬
新聞記者になるきっかけ
鶯亭金升が新聞記者になるきっかけは彼の日記によると少年の頃から家庭や学校で新聞を掲示していたという。そんな少年がが友人から團團珍聞という風刺雑誌を知り、投書をしているうちに梅亭金鵞に才能を認められ、明治17年7月編集者の仲間入りをした(17才)。明治時代は投書という事から新聞記者になった人が多かった。
 19歳の時、社主の野村文夫と伊勢紀州の旅行をしている。この時関西で活躍していた久保田米僊と知り合っている。下谷根岸の文化人グループ根岸党に久保田米僊を紹介したのは鶯亭金升だという。
 鶯亭金升の名前の由来は《おうてきなさい-会って来なさい》からといわれているが根岸に住んでいて鶯の里と呼ばれ江戸時代から風雅の里でもあったから名前とした。このような経歴から彼の大手町三菱ビル内での会合で明治18年の半ばの頃に師匠でもある梅亭金鵞が小石川指ヶ谷の家で福神漬の引札を書いているのを見たというのは事実だろう。
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福神漬物語 3

2009年10月23日 | 福神漬
福神漬の語り部
福神漬の命名の由来の語り部である鶯亭金升の人物研究はあまりなされていないが早稲田大学演劇博物館発行の「演劇研究・鴬亭金升研究 小山郁子」がある。
演劇研究 1993年第17号から20号にかけて載っている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)でも普通の人物事典でも鶯亭金升の経歴は「主に新聞記者として活躍し、落語・俗曲・都々逸・狂歌・狂句・雑俳に関する著書がある。市川佐団次や小山内薫も彼に師事した。明治の文壇や芸能界の事情に精通している。」となっている。この様な経歴の人物が突然三菱のビルで開かれた会合で福神漬の思い出話を出したのだろうか。
同じく缶詰業界の本(大正4年発行)大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 
「福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。」となっている。明治19年は16年の誤植と思われる。上野の第一回水産博覧会は明治16年3月より開催されている。
多くのカレー本の福神漬創生年が明治19年説となっているのがここから由来していると思われる。

鴬亭金升の話や缶詰業界の本から福神漬が梅亭金鵞のところに酒悦主人が缶詰に入れて持ってきたのは明治16年夏頃から18年夏の間となろう。


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福神漬物語 2

2009年10月22日 | 福神漬
一丁倫敦と丸の内スタイル展から
 2009年に復元新築した旧三菱一号館はお雇い外国人ジョサイア・コンドルの設計だった。一丁倫敦と呼ばれた三菱のビル街に大正12年鶯亭金升(長井総太郎・長井金升)会合のため三菱商事の会議室に入っていった。1894年(明治27年)竣工の赤レンガのビルには明治26年に発足した三菱合資会社が入っていた。そして何年か後には東武鉄道が一号館のビルが本社となっていたこともあった。
 鶯亭が三菱のビルに入って福神漬の話を始めたのは訳があるである。明治22年、彼は新婚生活を池之端茅町2丁目18番地の借家で始めていた。大家は池之端御前と言われた福地桜痴(福地源一郎)だった。そして福地の隣に住んでいた(茅町2丁目16番地)日本郵船重役浅田正文に借地借家を買われ間もなく転居することとなった。福地の経営していた東京日日新聞が経営危機となり財産を失うこととなった。
 その茅町の借家からすぐの距離に明治11年(1878)三菱の岩崎彌太郎により購入され 岩崎茅町本邸として使用されていた。この土地は江戸時代には越後高田藩の城主榊原家の中屋敷で上野戦争の時はここからアームストロング砲で彰義隊の陣営に砲弾を撃ち込んだという。岩崎 彌太郎は榊原の屋敷を修理改修して使っていたが 明治18年この茅町で逝去した 以後は嫡男 岩崎久彌が相続し、明治29年茅町に岩崎久彌 邸を新築した 。洋館の設計者はジョサイア・コンドルだった。そしてジョサイア・コンドルの妻となった前波くめさんは花柳流の踊り手で鶯亭の妻は花柳流の創始者の縁者であった。
 また鶯亭夫妻の仲人をした画家小林清親は河鍋暁斎と親しく、ジョサイア・コンドルは河鍋暁斎の日本画での弟子で暁英という雅号ももらっている。
 このような思い出深い所に行ったとき、ふと恩師である梅亭金鵞との出会いの思い出が出たのだろう。缶詰協会の会合で福神漬の話が出た下地があったのだろう。 
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福神漬物語の始め 1

2009年10月21日 | 福神漬
三菱レンガ街で
大正12年7月、大手町にある三菱のビルの中で日本の缶詰協会で会合がありました。このときの様子が機関紙「缶詰時報」に載っています。
『大正11年8月に創刊された缶詰時報は、今月号で1000号に達した。この年が創刊になっている雑誌には「文藝春秋」「アサヒグラフ」「エコノミスト」「科学画報」「職業婦人」などがあるが、このうち、現在でも刊行中のものは「文藝春秋」「エコノミスト」などで数少ない。』缶詰時報は今1000号を超えている。
このときの出席者鶯亭金升が福神漬の命名の話をし、機関誌に載りました。
缶詰時報 第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
『なた豆はお胡子さんの耳たぼで、茄子は布袋さんのお腹を形どるなどと7種の野菜を集めて七福神、それを福神漬と名付けたもので,その昔江戸時代、上野東叡山寛永寺の坊さんが池之端の酒悦主人に廃物利用の漬物として教え、かくのごとく名付けたものである』と私は密かに伝え聞いておりましたが、今日の研究会で東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏によってそれが誤りであることを初めて知りました。
 何でも氏のお話によれば福神漬の名付け親は○○珍聞(明治10年創刊,40年に廃刊した面白い新聞)の記者,梅亭金鵞先生(江戸時代名高い松亭金水先生の門人)であって先生が小石川指ヶ谷に住んで○○珍聞の編集をしたり、小説を書いたりしていたが、時は明治18年、時節は丁度夏の半ばころ、今から数えてまる38年前の昔、酒悦の主人が、なた豆と紫蘇と大根の三品を程よく味付けて缶詰にしたものを持ち来たり、これを売りたい、なんとか名付けを頼みますと開缶した。
梅亭金鵞先生試食一番『これはうまい,食を進める、栄養になる、そして本当に経済だ、これぞ誠に福の神に好かれる漬物で身体は丸々ふとり、お家繁盛万々歳』と福神漬と名付けたもので、なお酒悦主人は梅亭先生に頼んで木版の綺麗な引札を戸毎に配って広告したものであると。
 そしてこのことは鶯亭氏が梅亭先生の門人であって丁度その時試食し引札のすり方も手伝った確かな生き証人で、その時の引札を持ってこなかったのが残念であると鶯亭氏は回想的な眼差しで語られ、また酒悦さんが福神漬缶詰の祖先であることはこうした由来から起こっているが元来酒悦さんは江戸時代から香煎と屠蘇、その他祝儀の熨斗や酒の肴のウニやカラスミのような各国名産品売って居ったもので酒悦というお目出度い名前もそんなことから始まったのであろうと鶯亭氏は付け加えたられたが、福神漬が酒悦から出た、それが姓名判断から言って目出度いことのように思われるのであります。』

 記事によると酒悦の主人は最初から福神漬を缶詰にしていたことが解る。この当時でも上野東叡山寛永寺の話がでているので了翁禅師の話も知られていたのだろう。廃物利用とは寛永寺勧学講院で寮生に与えられたおかずは野菜クズの漬物であった。


 鶯亭氏は東京毎日新聞の記者であったためこの話はかなり広まっている。今一般にカレー本に福神漬の話がここから引用されている。引札とは今のチラシ広告のことであって、福神漬を宣伝する必要があったためで、漬物は自給の時代では購入させるのは何か目新しいことが必要であったためで、本当に知られるには時間がかかった。
梅亭金鵞は『七編人』等の著書で知られた幕末・明治中期の戯作者である。


福神漬がかなり一般に普及した大正末期に東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏が急に語りだしたのは三菱のレンガ街が色々明治の過去を思い出させたのだろう。
大正12年9月の関東大震災でレンガ造りの建物の被害は大きく、日本建築の主流はレンガ造りからコンクリート造りになっていた。新しくなった三菱一号館は中に入ると明治の色々なことが思い出されます。
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来年の休市を見て

2009年10月20日 | 築地市場にて
来年の休市を見て
ようやくというのかやっと来年2010年の築地市場の休市日が発表になった。築地市場協会が10月13日、東京都中央卸売市場が10月15日にホームページ更新時に発表となった。昨年より20日以上遅く、数年前より考えると2ヶ月近く遅れた。どんな理由があるのだろうか。
 順当な休市設定だが5月の連休中の開市日のいつもと違っている。それと8月の旧盆の休みが8月15日の日曜日から始まって17日火曜日に終わる。前なら14・15・16になるのだが何かあるのだろうか。単純に考えれば土曜日を含めれば4連休という考えなのだろうが実際少ない人数で切り回しているので難しい。
酒の入る新年会の日程をこれから考えるだろうし、水曜休みにゴルフ場予約ろ入れる人もでるだろう。
 世間の不景気好景気の影響は多少あるけれど食べ物は割と穏やかとも言える。
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福神漬物語 0

2009年10月19日 | 福神漬
推理小説の読み方なら邪道だけれど
福神漬の歴史は結末が解っているのにどうしてそうなるのか解らない話だった。
年商数兆円を越し、日本でも一番古い株式会社・明治18年創業の日本郵船株式会社の社史の中に(ホームページ内)エピソードとして「カレーライスと福神漬の関係」とあって、日本郵船欧州航路でカレーライスに福神漬がついたことが始まりという。
 しかし横浜にある日本郵船歴史博物館の学芸員に尋ねると、具体的な資料はないが「郵船関係者なら誰でも知っている話です。」と自信たっぷりに話された。資料・史料・文献がないのにほとんどの人の記憶にあるということはどういうことなのだろう。
 漬物は食事のときに今でも居酒屋等のごく一部のところを除くと金を払うことなく提供されている。すし屋の甘酢しょうが、牛丼の紅しょうが、カレーライスの福神漬・らっきょう漬、丼ぶり物の沢庵漬などは注文すれば付随してついてくる。そんなものが記述されずいれば時間が経てば当たり前のこととして忘れ去られる。福神漬の歴史などそんなもんだろ。しかし日本郵船株式会社としては《福神漬》がかなり重要な意味があるのではなかったのだろうか?
 結末が解っているのにどう推理していけばよいのだろうか。
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町田市が昔神奈川県だった時に

2009年10月18日 | 築地市場にて
町田市は明治時代コレラ騒動がおきて、明治26年に神奈川県から東京の管轄になった。そんな時期以前に自由民権運動が盛んであったという。その関係の資料が揃っている町田自由民権資料館に行ってきた。
そこで場違いな築地の本があった。築地と民権という本だった気がした。その本を中央区の図書館で借りようとしたら原胤昭という名前が出てきた。この人こそ福島事件公判中に被告人の錦絵を画家小林清親に書かせ、自ら文章を書いて出版した人だった。錦絵の出版が販売停止となり、無料で配布したことから獄に入ることとなったという。
 築地に自由民権運動のカケラがあるとは予想もしなかった。また京橋図書館の郷土資料室に行くことになる。

 コレラは19日にあるべったら市にかなり影響を与えている。明治時代の夏の季語としてコレラが入っている。
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今読んだ本/食品偽装の歴史

2009年10月17日 | 築地市場にて
食品偽装の歴史 ビー・ウィルソン著/高儀 進 訳
早朝、NHKワルードのニュースを見ていたら、香港で隣のシンセン市から不法に販売許可の登録のない野菜が香港に入っているという。香港には中国の登録した生産者の農産物が入ることになっているが登録証が不正売買か貸与されていて必ずしも安全でない青果物が香港に入っているという。税関も忙しくほとんどチェックされていないという。経済発展で中国の環境は汚染されていて、農薬が不使用であっても土壌、水・空気等の汚染は栽培履歴には記載されないのでいずれ問題となるだろう。日本の水俣病は毎日自分で獲った魚を食べていた人が発病した。同じ産地の食や水を食べ続けることしか出来ない産地の人から発病する。
 明治日本の食品規制は着色料のアニリンから始まった。化学工業の発達した欧米から繊維に用いる着色料をその毒性など知らないで食品に使用したことから始まる。まさか食品に使用しないだろうの歴史である。

図書館の借用機関が過ぎたので返したがイマイチ化学用語が分からず。再度借りることにする。
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