年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地市場見学はお早めに

2011年07月31日 | 築地市場にて
7月29日に築地市場が豊洲に移転する都市計画が決まった。これで2015年1月4日から豊洲市場となるだろう。生きている江戸時代を見学するには築地市場が最適です。たまに天秤棒で魚を発砲スチロールの箱に入れて配達している人がいます。大八車と似ている小車にマグロをむき出しに運んでいる風景もあります。豊洲では多分禁止となるでしょう。狭くてごちゃごちゃとしている築地市場は豊洲に移転すると通路が広く、閑散としている感じがすると思います。移転が真近に迫ると閉店人気と年末ということで築地市場が混乱することが予想され、入場規制が行われる気がします。今マグロセリ見学は混んでいません。消える最後の江戸時代風景は後3年半の時間しかありません。
 豊洲では広すぎて小車や天秤棒は消え、すべて電動ターレー・電動フォークリフトとなるでしょう。屋根は太陽電気パネルとかで一挙に江戸時代から平成にワープします。変な予想ですが巣鴨の職場から渋谷・原宿の職場に変身する気がします。一気に若返りです。

さてさて、築地市場が今後も順調に豊洲に移転するとは思えません、日本橋魚河岸が築地に移転するまでかなりの時間がかかっています。どんな展開になるのでしょうか。
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鶯亭金升日記から

2011年07月30日 | 福神漬
明治42年7月1日より
横浜開港50周年祭
戸田伊豆守氏栄は余のためには祖父、亡父昌言は氏栄3男にて桂三郎は長井家に養子となり筑前守と称す。4男銕弥(てつや?)は亡父に養われて、余が縁深き、千葉県香取郡万歳村の農、花香伝右衛門の養子となり、花香恭次郎と呼ばれしが、成長の後、政界に身を投じ、河野広中と共に、福島事件を以って、名を世に知られる。

この日の日記からやはり花香家が花香恭次郎の行く末を親族と相談した親族とは長井桂三郎昌言だったのではないのだろうか。「長英逃亡」を書いた故 吉村昭 氏がこの日記を読んで書いたら小説はどの様に変わっただろうか。内田弥太郎は嘉永3年の時浦賀奉行であった戸田伊豆守と西丸留守居役筒井伊賀守によって、保護されたと思う。戸田の3男が長井家に養子に行ったのは筒井政憲の斡旋であった。長井家の領地が今の船橋にあり、花香家の千葉万歳とは比較的近い。高野長英が一時逃亡先として行った花香家は内田弥太郎の弟子であったからだと思う。
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欠品しそうで

2011年07月29日 | 築地市場にて
いい加減なデマでそれでなくとも熱中症予防とかで梅干しの売れ行きは良い。今年の梅が梅干しとなって市場に出回るには10月になるだろう。昨年のように9月まで暑いと売場で欠品することもありうる。
 高血圧の敵である塩分の取り過ぎから、戦後の食生活の改善運動で漬物はいつも攻撃されていた、今販売されている梅干しの中には海水の塩分ほどになっている物があって昔の塩分20%もあった梅干しの事を思い出すと加工技術の進歩に驚く。甘みの強いはちみつ梅干しは邪道と思うが理屈を言っても売れなければ正論にはならない。

比較的に談合のない業界で梅干しがカルテルの疑いで調査されているが今年の梅干し原料の高騰はどう判断するのだろうか。
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不安管

2011年07月28日 | 築地市場にて
築地市場もようやくマグロのセリ見学を再開して、場内に観光客がウロウロし、夏休みに入って家族連れが目立ってきた。コメ関連の市場なので小麦の価格が上昇すれば比較的安いコメの消費に向かうと全体的には築地市場にとっては良い。肉がだめならタンパク質をとるには魚しかない。今のところ放射能の話題ばかりで久しぶりに過剰農薬で回収要請のメールが来た。こういう時期に基本的な仕事を着実にこなしている検査機関には驚く。いまは法令順守とかで事件が起こった時だけでなく、その途中経過も問われる時代となった。日々の行動でいつ何をどのくらい食べたかの記憶はすぐ消える。福島の人達は3月の行動を書くことが出来るのだろうか。
 この不安管を払しょくするには9月22日の節電明けまでかかるだろう。
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明屋敷伊賀者組頭格 内田弥太郎

2011年07月27日 | 福神漬
明屋敷伊賀者組頭格 内田弥太郎
嘉永元年4月より明屋敷伊賀者から浦賀奉行手付となった内田弥太郎は、明治政府に出した経歴書に異国船来航時に手伝ったとあったが中々記録が見つからなかった。『南浦書信』嘉永6年12月2日の戸田氏栄が井戸鉄太郎に出した書信にようやく内田の記録があった。戸田は井戸に対して内田の手当金の増額の要請を行っている。明屋敷とは今の幕臣の空いた屋敷を管理する警備人のような仕事である。若くして和算家として名声を得ていた内田弥太郎にとっては戸田伊豆守氏栄と下曾根金三郎による浦賀での抜擢は非常に感謝していただろう。下曾根は南町奉行・筒井政憲の実子でまた戸田氏栄3男は筒井のあっせんで長井家へ養子となった。内田弥太郎の和算の弟子にあたる花香恭法に戸田氏栄5男鉄丸(花香恭次郎)を世話した理由と思われる。

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百年ほど前

2011年07月26日 | キムチ
1911年6月に今の近鉄の前身、大阪電気軌道が岩下清周の強い指示で生駒山の下をトンネルで貫通させ、奈良と大阪を短時間に結ぶことを計画し工事を始めた。この工事は難航し、多数の死者を出し、1914年に完成した。当初の予算の倍ほどかかり、岩下清周を糾弾する材料の一つとなった。このトンネルの工事人の中に朝鮮人労働者が含まれていた。人数的には少数であったが後の歴史を見てゆくと、象徴的な工事であった。これから日本におけるキムチの歴史を調べていくにはこの工事は外すことが出来ない。
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放射能検知機器が整うと

2011年07月25日 | 築地市場にて
先週東京都食品安全局から原木シイタケの露地栽培が出荷制限のメールが来たが今日はハウスのシイタケ栽培の出荷制限のメールが来た。何か栽培方法に問題があったのだろうか。ようやく放射能検知機器が出回ってきたようで。公的機関の再検査で判明する事例が増えてきたようである。それぞれの業界で危機感は異なる。国産品が高価格で取引され、主産地が東北地方である時、危機感は強い。
 シイタケの様な樹木から菌が出るものは最も汚染が現れると講習会で習ったが最近シイタケの出荷制限はデータ通りとなりつつある。春先に山地に入らなかったので今年は山菜が豊富であっという。汚染されていなければ良いのだが、個人の行為は検査の対象外である。しかし一度個人の山から採って来た山菜であっても放射能がでると、キチンと生産された山菜も風評被害を受ける。市販されている山菜は輸入原料使用が多く、放射能検査の対象外である。
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12時過ぎてもアナログ見える

2011年07月24日 | 築地市場にて
 ヒマな時の雑感。 
築地市場内のテレビでアナログ停波を確認しようとしたところ、何とまだ見える。今日の夜に完全停止となると放送している。昼の12時に停波すると言っていたがあと12時間延びた。
実際停波となって雨が降る画面となるまで待ちましょうか。卸売場にツバメのフンがポチポチ落ちている。頭の上に落ちたら大変。ここにはカラスがやってこない安全地帯。
 26日よりマグロ見学再開報道。また外国人観光客が早朝より来るだろう。どうしてもっと早く再開しなかったのだろうか。
家に帰って、アナログを見ると。消えていた。今頃フリーダイアルは混んでいるのだろうか。
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テレビ買い替え間に合わず

2011年07月23日 | 築地市場にて
会社のテレビが地デジ買い替え期限に間に合わず。記憶によると前回テレビをつけたのは3月11日だったと思う。それ以後の業務の忙しさと、暗い話題ばかりでつける気もなく、さらに節電ということで今日まで来てしまった。今家電販売店では小型のテレビが欠品が目立っているという。
 そういえば震災後築地市場のテレビ取材が少なく、参考のためのテレビ視聴の必要性がなくなった。

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ネット販売で

2011年07月22日 | 築地市場にて
ネット販売で
そろそろ食品を販売に完全登録制が必要になってきたのではないのだろうか。食品販売が高度な情報を要求される時代に、組合等に参加しないで情報が漏れ、不備な表示食品を販売することでしっかり表示した食品を販売している業者まで風評被害を受け、さらに無害証明を受けるための費用が発生する。
 漬物等の古くからある食品は自家製でも良い商品がある。しかし表示に関しては法律が整備されて変化してゆく。この情報の伝達がうまくいかないと他の業者も迷惑がかかる。
 
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稲わら

2011年07月21日 | 築地市場にて
20日、築地市場で放射能の村松康行氏の講演会があった。今騒いでいる牛肉の放射能汚染はなぜ生じたか素人にも理解できるように説明があった。もちろん農林水産省の連絡ミスもあるがなぜ70キロも離れた地域の稲わらに高濃度のセシウムが付着したか謎が解けた。稲わらに付着した汚染にさらに降った雨などによって汚染が追加され濃縮されていったと思われる。東京都等の下水処理場の汚泥が焼却されて高濃度のセシウムが検出されたと同じように思える。またセシウムはカリウムと似ているので古い葉に付着したセシウムが新芽に移動することで竹の子とか新茶に高濃度の汚染が出たという。来年にかけて高濃度の汚染が出ると思われるのは天然のキノコとか山菜が危険であるという。これはロシアの事故の経験から植物循環であるという。
 現状では村松氏は過剰に心配する必要はないが注意すべきだろうという。今普通人が体内放射能はカリウム-40とか炭素14・ルビジユム-87等で7000ベクレム含まれているという。
 さらに講演会で気になったのは食品の放射性物資を正確にはかるには一台1500万円ほどするGe半導体検知器等で調べなければならないという。10万から55万円するガイガーカウンターでは環境中の放射線量を測定には有効であるが食品中の放射濃度は計測出来ないという。つまり生きた牛は解体してから計るしかない。
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築地卸売市場内のツバメの巣

2011年07月20日 | 築地市場にて
数年前からツバメが卸売場内に巣作りをしていたが毎年失敗していた。ところが今年はうまくいったようで3羽のツバメが卸売市場を照らす蛍光灯の傘の巣から顔を出している、既に狭い巣から数回落下しているがその度に救助され巣に戻されている。あと何日すれば巣立つようだが築地のカラスが子ツバメを狙っているようで親ツバメは気が気でないようだ。築地市場の隣は浜離宮公園なので餌には不自由しないだろう。
2羽が今日巣から飛び出した。何回か落下した1羽だけが残って親ツバメから餌をもらっている。あと数日で元の卸売場となる。
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団扇コレクション

2011年07月19日 | 築地市場にて
節電で色々なところで団扇が配布されている。震災以来築地市場への観光客が減少しているがついに地方から築地市場に出張する関係者の宿泊施設まで団扇を配布するようになった。
強制節電の対象施設である築地市場は今年は暗く暑い。
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夏キュウリ

2011年07月18日 | 築地市場にて
夏のキュウリの一大産地は福島県である。漬物用のキュウリも福島県産が多い。しかし今年は原発の影響で作付けするかどうか悩ましかった。牛肉のセシウム問題もどうやら3月にあった汚染風が稲わらに付着したのを知らずに牛に与えたようである。キュウリはカリウムを多く含んでいて利尿効果があって体内の水分・塩分を排出する。体内に入ってしまったセシウムだって排出する効果もあるだろう。福島産のキュウリで産地を応援し、体内に入ってしまった汚染物資を排除することが出来ればこれほど良いことはない。
 最近は福島県産の農産品は出荷制限が解除になるものが多く、牛の問題が出たときは驚いた。何処に汚染があるかは調べないとわからない。
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福島県史第11巻資料編6近代資料1

2011年07月17日 | 福神漬
福島県史第11巻資料編6近代資料1
例によって都立中央図書館にて資料調査。香取民衆史10に出てくる花香恭次郎の経歴を再度調べる。おおよその確認は取れたが福島事件という近代日本史の中、重要な構成人である花香恭次郎の記述は実に少ない。かえって千葉県干潟町史のほうが詳しく記述されている。
 時間が余ったので明治14年政変の時期の團團珍聞を借りて読む。後に團團珍聞の社員となる鶯亭金升は團團珍聞240号(明治14年12月10日)の懸賞に解答を出している。この頃は服部学校で團團珍聞を知り、絵草紙屋で借りて読み投書していたと思われる。投書が頻繁になるのは明治15年からで團團珍聞・驥尾団子に根岸昌安、総多楼昌安という名前でしばしば投書が掲載されてくる。鶯亭金升が14歳頃の話である。
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