避けていた特攻に立ち向かうとき、どこを基準として良いのかわからないで60年以上経った。昭和30年代、埼玉の親族の法事の席で犬死論が記憶に残っていてとても世間の英霊論と言う雰囲気でなかった。このことから他の人には特攻遺族と言うことはごく最近まで無かった。今日のネットの文である海軍の生き残りの人の文章を見て同感した。(惜しい人たちを大勢亡くしたと思いますね。体格はいい、頭はいい、器量はいい、世のなかにはこんな人もおるのかな、と思うようなすばらしい若者たちが次から次へと死んでいって、それがいまでも残念です。)
親族の中での叔父への思い出はこの文章のようだった。埼玉師範学校を出て教師になる夢が戦争の激化で村の子供たちを守るため、負けと知りつつ特攻したようだ。私の父と最後に横須賀海軍基地内で面会し、何を話したのだろうか。戦後の法事の席で犬死論が出ているときに父は反感を持っていたようだ。昭和28年ごろに生まれた3男は叔父の台湾からの特攻作戦名を子供の名前としてつけたようだ。母はこの父の隠れた意志を知らず、昭和30年に父が死んだ後、家庭裁判所で長男でもないのに特攻作戦名の後に一と言う字を付け足した。3男の友人からよく長男で無いのに一と言うこと聞かれていたようだ。
承認ありがとうございます。
この御縁に感謝の気持ちを込めまして。。。
私は、祖母の兄が、昭和20年5月6日に、知覧から隼で出撃しておりますが、一族の誰もその話題には触れずにいまして、ほんの4年前まで、お恥ずかしい事に、全く存在も知らずに生きて参りました。
四年前の8月の朝、とても不思議な事が起こり、
その存在を認識するに至り、自分の使命の様にも思え、これまで知らなかった『特攻隊』という、怒涛の過去を遡り、彼や仲間の方々の人となりを知るため、
彼を追い求める日々が始まり、現在に至ります。
丁度、出陣学徒として繰り上げ卒業をしていた法政大学で、『出陣学徒』を追い求める5カ年計画行事の終盤に入っている事を知り、問い合わせると、空襲で名簿が焼けており(他の資料で在籍を確認)消え去ってしまった生徒の一人だったと、連絡を大変喜んで下さいました。
海軍の方のお言葉通り、彼もまた一族の中で、当時は長男でもあり、一番聡明で、男らしく、スポーツ万能で、皆に優しい素晴らしい存在であったと、追い求める中で、知りました。
私の祖父は帝国大学を出ており、軍の主計を任されて祖父は特攻隊とならずに生き延びましたが、
実は、この祖母の兄と祖父は戦友だったようで、
(それが縁で祖父は祖母と結婚しておりました)
当時を詳しく語る事も無く、一度も靖國神社にも行かず、何か、あの戦争を生き抜いた人にしか分かり得ない、深い想いがあったのだと思います。
ただ亡くなる際に残した言葉は
『優秀な奴は、皆んな戦争で死んだ』
『俺もやっと、死ねる』
でした。
田楽が途絶えたことについて
「踊れる人なんかみんな戦争で死んじゃったでしょ」
戦争で文化が失われたかもしれないと思ってます。
もちろんそれは副作用でたくさんの人が死んだことが主です。
父親がいない家庭というのもほんとはよくありません。曾祖父が母を女性の頭のいいのは碌なものにならないと言っていたらしい。
父親がいればこういう言葉はなかったか諫めて中和されていたはずです。家父長制の強い家庭のままでそういう家庭内のいざこざがずっとあったみたいです。
今のいろんな家庭事情の遠因になってるかもしれない。戦争で生き延びた家庭も大変だったと聞きます。戦争で亡くなった家は遺族年金があります。
公開しなくて構いません。こちらも非公開で。
漬物の件でいくつか伝えたいことを。
「おいしい漬物を作ると叱られた」と聞いたことがあります。
貴重な漬物が減ってしまうからです。
むかしは塩辛い漬物や塩干を一口入れてご飯を一膳食べる。これがふつうでした。
美味しいは罪なことでもあります。依存してたくさん食べる。浅漬けのほうが塩分摂取量は増えるでしょう。
メンマも発酵食品だと最近気づきました。
漬物ではないですが、横井醸造という江戸前寿司の赤酢メーカーがあります。創業者が中国に習いに行っているみたいです。江戸前なのに中国伝来の技術なんですね。
キムチが人気が出たのは発酵食品に日本人が飢えていたからだと思います。
日本は発酵食品を殺菌して売らないといけない。
いいことのような悪いことのような。
お醤油がアルコール臭い。成分を見ると酒粕かアルコールとある。万事この調子で発酵を止めた食品だけが流通する。
漬物がすっぱくなると捨てるというのを料理の本で嘆いている論調の本がありました。
わたしはザワークラウトやピクルスもおいしく感じます。きっと、飢えてるからなんでしょう。
私は梅干しも酸っぱいのでないと嫌です。
甘い味の素入りは胸焼けがする。
でも、そんな人は少ないのかもしれない。