年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語105自由新聞

2010年02月28日 | 福神漬
自由新聞
明治15年板垣退助は自由党を結成したが党の機関紙とも言える新聞を持っていなかった。6月25日創刊したが板垣の洋行問題が改進党系の新聞に攻撃されると改進党の背後に大隈重信・三菱がいると考え(海坊主・大熊退治)報道をし、改進党を偽党として攻撃した。特に郵便汽船三菱会社に対する攻撃は執拗だった。政府の資金で拡大し、独占的利益をしめて、船賃を高値に吊り上げていると自由新聞が数字を挙げて三菱を攻撃していた。これは7月に三井と政府が三菱の海運独占を阻むため共同運輸という船会社を発足していた背景がありました。明治16年1月に共同運輸の船が就航すると以後2年間にわたって海運の料金値下げ競争が始まりました。明治16年1月の自由新聞も連日のように三菱批判の記事を書いていたのでついに三菱は自由新聞に船便の広告を出さなくなり、共同運輸の広告にとって変わった位でした。福神漬が缶詰に入って命名された時期と重なります。16年3月には上野で水産博覧会が開催されています。三菱の人達が何か印象の残ることが福神漬を食べていた時あったのでしょうか。楽しいことの記憶は忘れがちですが苦しく大変なときの記憶は残ります。共同運輸との競争、岩崎弥太郎の死(明治18年2月)など三菱の・日本郵船の人達にとって一番大変な時期だっただろう。

日本郵船株式会社のホームページに(株主の皆様へ)というところに社史があります。そこにカレーライスと福神漬のエピソードがあります。社史の大事な部分にあるので最初は誰にも害の無い無難な話題だから記載されていたのだろうと思っていたがここまで調査がすすんでくると三菱の歴史の中に記述されないところにかなり重要な記憶としての残っていたのだろうか。

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福神漬物語104山岡鉄舟の書

2010年02月27日 | 福神漬
山岡鉄舟の書
山岡鉄舟は頼まれれば嫌ともいわず書を書いていたという。書のお礼を旧幕臣の関係者や遺族に援助していたという。
彰義隊の墓のある円通寺仏麿和尚はある時、三河屋幸三郎に金の無心をした。幸三郎は彰義隊の人のために金を出した。また少し経って和尚から金の無心をされたので前の金がどうなったのか尋ねたら『酒を飲んで使ってしまったと言う』いうのでまた金を出したという。こんな事が続いて、幸三郎があきれて円通寺仏麿和尚と疎遠になった。しかし和尚は幸三郎の金を彰義隊の遺族に渡していた事が後に解り仲直りしたという。同じような話が多数あるが維新後堂々と新政府に反抗した彰義隊遺族を支援する事は出来なかったことが背景としてある。同様に池之端守田宝丹主人も上野の彰義隊の墓守人を密かに支援していたという。
 鉄舟は河鍋暁斎の書画会にも参加していた。明治の書画会は客を料理茶屋などに集め、好事家たちから参加料を取って即興的に書画家に揮ごうしてもらう「席書・席画が呼び物の一般公開イベント」だった。明治の中頃は興業的色彩を強め、書画家はもちろん、詩人、俳人、戯作者、茶人ら文雅の士、政治家や高級官僚、さらに酒色をもてなす芸者(新しい顧客を探すため)も加わった書画を仲立ちとする宴会となっていた。
 書画会に参集し、河鍋暁斎の絵に寄せ書きした大沼枕山、奥原晴湖、鈴木鵞湖、柴田是真、川上冬崖、山岡鉄舟、勝海舟、服部波山らとの合作は文人たちの多様な交遊を示している。
 暁斎書画会での席画は七福神、中国の故事、日本神話の英雄、竜虎、仏画、風俗画というように多彩であった。特に七福神の絵は縁起物として商人に喜ばれ多数残っている。
静岡県裾野市桃園にある不二農場の前身鈴木農園には山岡鉄舟の書「桃園」があったという。山岡鉄舟の書は膨大な数の書が残っていて、まだ骨董価格が上がらない原因かもしれない。
山岡の書に対して支払われた謝礼金は旧幕臣の恵まれない人達に渡ったのだろう。福神漬創製者・酒悦店主と交流があったという言い伝えはこのあたりにあるだろう。
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福神漬物語103清水次郎長

2010年02月26日 | 福神漬
清水次郎長
幕末から明治に入って活躍した清水次郎長が幕臣山岡鉄舟と交流していたことはかなり広く知られている事実である。福神漬の酒悦のホームページに店主と山岡鉄舟との交友があったと書いてあるが清水次郎長とは関係ないと思っていた。しかし高橋敏著「清水次郎長」によると明治21年山岡鉄舟が7月に亡くなると、8月に次郎長が開拓していた富士南麓の開拓地の払い下げを受け、その一部を横浜の豪商高島嘉右衛門に売却している。また同時期に鉄舟寺の再建中だったが資金不足であったようだ。従って富士南麓の開拓地買収資金の話はどこから回ったのだろうか。
 明治16年末に静岡県令が薩摩人に代わって間もなく、明治17年2月25日清水次郎長は「賭博犯処分規則」で逮捕されてしまった。この「賭博犯処分規則」は当時密かに自由民権運動を支援していた博徒を取り締まる目的があった。この事態を受けて、清水次郎長の所に居候となっていたことのある天田愚案は明治12年の「東海遊侠伝」書き上げてあって山岡鉄舟の家においてあったのに手をかけ出版することを思いついた。勝海舟の賛、編集者は成島柳北、出版は大岡育造の與論社ということで、明治になって改心した次郎長の功績を認めてもらうため刊行された。今に伝わる清水次郎長の話の出所は「東海遊侠伝」から始まるという。
 自由民権運動を蔭から支援する博徒を取り締まる目的で作られた法律であったため、清水次郎長は明治17年4月懲罰7年・科料金700円を言い渡された。判決言い渡しと同時に天田は「東海遊侠伝」副題・次郎長物語として出版した。薩摩人の県令が17年9月に栄転すると、静岡県に旧幕臣の関口県令が着任した。すると明治18年11月16日高齢(66歳)を理由として次郎長が仮出獄となった。清水次郎長が出獄すると咸臨丸殉難者記念碑設立運動・久能寺を鉄舟寺として再建することをするようになる。
東海遊侠伝の出版に到る経緯は旧幕臣・東北諸藩有志連合の力添えがあったという。また高橋徹氏は富士南麓の開拓地売却の仲介は山岡鉄舟と推測している。この事実が本当だとすると何か自由民権運動に関係する人達が出てくるのだろうか。
福神漬販売拡大は下谷上野周囲の人達の協力であったので東海遊侠伝出版の人脈が重なる。
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福神漬物語102言葉の創出

2010年02月25日 | 福神漬
言葉の創出
自由民権思想の研究 松尾章一著
近代思想の自由という言葉が東洋思想に対応する用語が無いため、日本人がこの言葉を短い文字で表し、概念が定着するまで時間がかかった。他の明治に東洋に無い概念の言葉を作り、意味を定着させるまで様々な解釈があった。昔からあった『自由』という言葉の意味が『自由自在』『思いのまま』『わがまま』という意味があったので、当初は概念が理解されず使用していたという。
福の神
文字通り福神漬は福の神の食べ物として名付けられたと思う。
 三橋健著『日本人と福の神』という本によると富貴を欲し貧賤を嫌うのは人類共通の人情であるという。新年早々は日本の福の神は忙しい。あらゆる矛盾する願いを聞き入れる八百万の神はすべて難問を解決する福の神に思える。この本によると日本人の幸福感には『表面上は現世利益を求めている人々が実際には幸福は神からもたらされるものと信じられ、海のかなたより宝物や米俵を積んだ宝船に乗って福徳が来る』 信じていて、海のかなたより来る福の神の代表が七福神である。
 明治の頃は福の神はどうも『笑門来福』という考えもあったらしい。

 多分裁判になってもこの解説でいいだろう。


 さて福島事件(明治16年夏=高等法院での裁判)で問題となった言葉『転覆』と梅亭金駕が福神漬と何も関連が無かったのだろうか。丁度この時期に根岸に住んでいた若い投書家であった長井総太郎(鶯亭金升)が團團珍聞に入社した。明治17年頃だろう。
 
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福神漬物語101報道弾圧

2010年02月24日 | 福神漬
報道の自由
幕末から明治になり印刷技術の進歩(活字・製紙)によって大量に新聞が発行できるようになった。明治10年の西南戦争報道から読者が急拡大して、報道というものが力を持ってくると政府の意に合わない報道・事実と違う報道とか色々な問題が出てきた。
福地源一郎の「江湖新聞1868年(慶応4)江戸で創刊した」の戊辰戦争の報道は購読者の意に合うように事実を異なる報道をしていたりして、官軍の怒りを買い、22号で発行停止・印字没収された。しかし新聞がなくなることによって色々な噂が飛び交いかえって世の中は混乱した。明治2年に政府は新聞紙印行条例を発布し、政府の許可を得た新聞の発行を許可することになります。大新聞の始まり。 
『新聞印行条例』には、新聞紙は人々を文明開化させ見聞を広めさせること、政府の法律や方針等を正しく伝えるべきであること、平易な文章で伝えることなどが記され、また記事の内容についての政府の干渉は厳しかった。さらに新聞が明治政府と敵対する組織を支持することを禁止することを目的とした法律をつくった。明治8年から新聞紙条例・讒謗律という法律を公布し、明治政府や皇室・官員等を誹謗中傷することを禁止した。しかし、読者に政府の御用を知らせる報道では販売部数は期待できなかった。明治の社会が落ち着いてくると大新聞(政治を論ずる)から小新聞(歌舞伎・遊郭等の風俗報道・ルビ付き)が読者を増やしていった。しかしこの小新聞も政府の報道規制によって発行・発売禁止を避けるため、様々な工夫をして記事を作っていた。この様な工夫は今でも行われていて例えば風俗の取り締まり強化されて来たのでピンクチラシ等が今で配布する人から印刷業者まで逮捕されている。明治の報道規制強化によって、発行禁止は新聞社にとって大打撃となるようになっていった。従って検閲強化と読者拡大方法が変化し、小新聞の時代となり、團團珍聞の精彩が消えていった。
 明治10年に創刊した社会風刺雑誌の團團珍聞はその風刺姿勢がいつも政府に睨まれていた。この中で編集者梅亭金鵞は工夫していったと思われる。100年も前の風刺は当時の様子が解らず研究者も少ない。梅亭金鵞が福神漬命名に何も寓意を入れなかったのだろうか。
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福神漬物語100海坊主

2010年02月23日 | 福神漬
自由民権と福神漬
自由自治元年の夢-自由党・困民党 井出孫六編著
明治15年福島県に三島県令が任命されたころ、結成間もない自由党党首板垣退助が海外視察に出かけた。このことは明治15年9月初めから改進党の機関誌で、渡航費の資金先が三井の金と疑いをかけられ、9月半ばころから自由党の内部で混乱を招いた。と同時に自由党は改進党が三菱の資金で援助を受けていると論戦を張り(海坊主退治・偽党)、泥仕合となった。この結果民権派が弱体し、過激な自由党左派が暴走し、自由党が解散せざるを得なくなった。
これらの歴史に福神漬の命名者である梅亭金鵞が絡んでくるのであるがどちらかといえば評論家のように冷静に風刺していた。團團珍聞の社主野村文夫がこの頃改進党に入ったのでどちらかといえば自由党には厳しい態度が見えていた。
さて「自由自治元年の夢」の本の中で三井がどの様なやり方で板垣に海外渡航費を提供したか書いてあった。これは1964年までまだ詳しい内容が知られていない事実であったようで、三井銀行の三野村利助(三野村利左衛門が明治10年に亡くなり、利助が養子となっている)が蜂須賀公に二万ドルほど提供したという。板垣は蜂須賀公の個人資金を提供されていたのでこの事実は知らなかったようである。三井は明治政府に軍の御用金取り扱いを延長することを条件に蜂須賀公に資金を出した(つまり明治政府が密かに三井を通して板垣に資金提供した)という。この板垣洋行計画を立てたのは明治憲法制定の役目をしていた伊藤博文の腹心井上馨(いのうえ かおる)だった。情報が漏れていったのは最初板垣に資金提供を依頼したのは三菱に対してだったという。しかし三菱は断ったため三井に話が行ったという。
 三菱に資金提供を断られた井上は渋沢栄一とともに半官半民の共同運輸会社を設立し、三菱汽船と激烈な競争をするようになった。三菱の岩崎弥太郎が死去した後。共倒れを恐れた政府は日本郵船を発足させた。この時の仲立ちの陰の立役者が料亭横浜富貴楼のお倉であったという。
 この時期に福神漬が何が日本郵船の社史に載るような印象的な関係があったのだろうか。とにかく福神漬は明治10年代から色々工夫して作られていたが梅亭金駕によって命名されたのが明治16年から18年半ばの時期である。丁度自由民権運動・松方デフレ等があった頃である。単なる漬物に梅亭金駕が寓意を入れた命名をしたとしてもおかしくない時期だった。
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福神漬物語99東洋移民会社

2010年02月22日 | 福神漬
東洋移民会社
福神漬の絡みで浅田正文の経歴を調べていると日本郵船・東武鉄道・東洋移民会社が良く出てくる。東洋移民会社は資料的なものが少なく福神漬の歴史に絡む可能性が少ないと無視していた。しかし石井研堂『明治事物起源5』金融商業部に移民会社のはじめに不思議な記事がある。
移民会社のはじめ
明治24年秋頃より、日本郵船株式会社副社長吉川泰二郎と秀英社社長佐久間貞一と相計らい吉佐移民会社を設立した・内地の労働者を募集し、海外各国の需要に応じ、日本郵船会社の船舶を借りて、その出稼ぎの紹介機関を目的とする。資本金10万円にて無限責任、期限10ヵ年と定めた。第一回は南洋の一島仏領ニューカレドニアのニッケル鉱山の依頼にて移民600名を送った。
 秀英社社長佐久間貞一は日本橋生まれ、上野の彰義隊に参加したが、どういうわけか上野戦争に参加できず(当日不在であった)この件は自身で語ることはなかったという。
秀英社は今の大日本印刷の創業者となっている。
吉佐移民会社は後に東洋移民会社となったようである。『日本奇人伝』鈴木明著より
従って浅田正文の晩年は東武鉄道と東洋移民会社が主となっていたのだろうか。旧幕臣と郵船のネットワークの一つがここに現れた。
内田魯庵の『くれの二十八日』
内田魯庵の小説を読んでいたらメキシコ移民が中止という話からグタグタした話だった。明治の30年代の話だと榎本武揚のメキシコ移民の話となる。
 角山幸洋 『榎本武揚とメキシコ殖民移住』から
移民事業の失敗の原因として
1.調査不測・耕作に適さない土地しかなかった。
2移民.監督の力量不足。
3.栽培植物コーヒーの土地としては不適合などがあった。
また榎本武揚の立場が薩長政府の中で自由に動けず資金不足となってしまった事と福沢諭吉の『やせ我慢の節』に反論することなく行動でしめ示さなければならないというあせりがあった。
 ただ気になるのは榎本武揚が足尾鉱毒事件で農商務大臣の立場で谷中村を視察後辞任した時期だった。メキシコ移民が出発した数日後の事だった。函館戦争時も榎本は最後まで行かなかった。彰義隊23回忌を終わった時、翌々日に文部大臣を辞任している。何かがあるのだろうか?

吉佐移民会社のこと
当時日本郵船副社長吉川泰二郎の目的
海外に航路を拡大する希望があったことと当時オーストラリア航路は競争がまだ激しくなかった。航海事業は殖民事業と相発展する。海外に殖民事業を起こすと、貨物の運搬、通信の往復が頻繁となり、航海事業が成り立つ。明治28年近藤死去。佐久間が明治31年11月肺結核で死去。
 明治30年
日本郵船近藤廉平、副社長加藤正義重役岩永省一、浅田正文らが協議し資本金10万円で東洋移民会社を設立し、吉佐移民会社の事業を引き継いだ。
 明治30年佐久間貞一はブラジル移民事業が現地の不況で中断となり30万円の負債を負う。彼は両国の将来を考え個人で処理したという。ブラジル移民事業の始まる前の話である。
浅田正文の経歴に東洋移民会社があるのはこのような経緯があった。

しかし、この当時の移民船には福神漬は積載されていない。
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福神漬物語98榎本武揚と佐久間貞一

2010年02月21日 | 福神漬
榎本武揚と佐久間貞一のこと
榎本武揚は1836年下谷御徒町で生まれた。
佐久間貞一は1848年下谷南稲荷町で生まれた。
二人とも下級武士の出身であった。両者の接点は戊辰戦争のときは無かったと思われるが
1890 年(明治23年)3月1日に、それまで文部省が行っていた教科書編纂・出版事業を民間に払い下げる時、佐久間が払い下げ会社の定款作成を行い、教科書の大日本図書がスタートした。その当時の文部大臣が榎本武揚で付き合いが生じたと思われる。初代社長は佐久間貞一で、大日本印刷の創業者でもある。
佐久間が生まれた下谷南稲荷町は昭和40年(1965)の住居表示で東上野二・三丁目および元浅草二丁目になった。
 両者の共通点は佐久間が彰義隊に参加しており、榎本とは旧幕臣の心情が一致していた。更に佐久間が天草で移民事業をしたことと榎本の北海道開拓事業も共通していた。
榎本が外務大臣の頃、つまり明治24年頃ニューカレドニアのニッケル会社から労働者供給の依頼があり、国内の信用ある企業と外国人企業が移民契約を結び、そしてその日本人企業と邦人労働者との間に移民契約を結ぶ形で移民事業が許可された。信用ある会社として
榎本は日本郵船の吉川泰二郎と佐久間貞一を結び吉佐移民会社を設立させたと思われる。

日本郵船関係者と旧幕臣との連合で作られた吉佐移民会社の移民船に福神漬納入関係の資料は今のところ見つかっていない。それどころか明治24年ニューカレドニアに向かった広島丸の積載物の中身は幕末の咸臨丸がアメリカに向かったときの漬物と同じ種類の漬物だった。紅しょうがは咸臨丸には無かったが。明治24年当時福神漬がまだ一般的でなかったという証明かもしれない。
 下谷区茅町の三菱と下谷出身の旧幕臣が郵船に福神漬を紹介したルートの一つとも考えられる。カラーライスと福神漬の関係でどこがいつ郵船に福神漬を積ませたかが問題である。日本郵船の船に積載されれば食物が船客に提供されるのは時間の問題であった。

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福神漬物語97奥村繁次郎

2010年02月20日 | 福神漬
奥村繁次郎と漬物
「下谷御徒町にこれを名代の大芋屋、主人は通称芋繁で通った奥村繁次郎氏、いつの間にか古書の趣味を持って有名な古書通、なかんずく食物の研究に熱心で『食類辞典』の著もあり、イモ恩人昆陽先生の建碑にも尽力したが、後年湯島切り通し下に転じ、相変わらずかまどの前で古書を耽読、全く珍しく篤志家で、ただの芋屋とは思ふと罰があたる」 ――山本笑月『明治世相百話』
奥村繁次郎の本を読むために味の素『食の文化センター』に向う。彼の著わした『野菜果物魚介 諸国漬物法』と『蔬菜魚鳥漬物法二百種 (初版1912年)』を出してもらった。貴重書との事で鍵のかかっている書庫から出た本の中身は単なる漬物のレシピで大正の初めの本にも関わらず福神漬に関しては分類できないと書いてあった。
奥村繁次郎の家に今の人類学や民俗学を学ぶ人達のたまり場であったようである。焼き芋を食べながら奥村は日本の食文化を語っていたのだろうか。

春城師友録 市島春城著
奥村繁次郎のこと
大正8年12月16日にチフスで亡くなったという。蔵書家で名が通っていた芋繁は御徒町で焼き芋屋をやっていた。今の東京でもやっていることだが路上にある植木鉢にローマ字で植物名が書いてある木札がさしてあった。
 芋繁は商売柄、植物学を極め、研鑽造詣が深く、したがって食物料理に通じていて、食物博士などと呼ばれていて漬物の本も何冊か書いている。
 湯島天神下に移って『食物辞典』などの編集に取り掛かっていた頃、髭を生やしたころから商売が不調となっていったという。学者先生になってイモの仕入れが甘くなって焼き芋屋の商売が不振になったという。

根岸党のなかに楢崎海運という人がいる。海運橋の袂にある紙屋。役者、芝居者の冊子を集めていた。『森羅万象』という切り抜き帳に役者ごと年代別に分類してあるという。海運の親がその頃の十二大通の一人だったという。

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福神漬物語96森田思軒

2010年02月19日 | 福神漬
森田思軒 谷口靖彦著より
根岸派の人達が旅行(親睦旅行)の時、森田思軒が福神漬を出して酒を飲んでいたことを『露伴と遊び』の本に書いてあった。具体的に福神漬が当時の文化人が食べていた唯一の証拠である。この本で彼の業績を知る。明治の翻訳王とも言われたようで根岸派の人達は幸田露伴や岡倉天心を除くと今では忘れ去られた存在だがそれぞれの出身地ではかなりの評価をされているようである。
 明治30年秋、腸チフスを患い、11月14日36歳の若さで亡くなった。死の病床に森鴎外と鴎外の弟(医師)三木竹二も立ち会った。酒のための薬がよく効かなかったという。福神漬で酒を飲んでいたのでしょうか。
根岸の森田思軒
 明治19年頃には饗庭篁村が根岸に住んでいた。明治22年から23年にかけて饗庭篁村の隣に森田思軒が引っ越した、また岡倉天心・新婚の森鴎外も一時根岸に住んだ。汽車の音とか仕事の関係で次第に離れて行き最後まで根岸に残ったのが森田思軒だった。(森田思軒とその交友)
 根岸党の人たちは歌舞伎評論化が多く、劇評をしていた饗庭篁村らが次第に京橋に移転し、さらに向島にあつまったという。向島に江戸派が集結したともいえる。森田思軒は根岸にずっと住み世尊寺(東京都台東区根岸3丁目13−22)に葬られた。大隈重信と交友があってそこに出入りしていた小栗貞雄によって森田思軒のことを大隈家の「高等食客」と評していた。森田は食通でもあったという。また小栗貞雄は森田思軒のことを大隈家の「高等食客」と評していた。明治30年黒岩涙香(萬朝報社主)宅から帰ったあとチフスを発病した。黒岩は若くして死去した森田の遺族の後々まで面倒をみていた。

みとりの記 小栗貞雄
 昭和4年8月小栗上野介遺児国子夫人が亡くなったとき、夫小栗貞雄が親しい人に送った故人の思い出の記録。群馬県立図書館所蔵 上毛および上毛人より
大正4年9月横須賀造船所50周年記念で皇后陛下から御下賜金をいただき、小栗上野介の遺族は罪がなかったのを確信したという。
 普通有名人の子孫のその後はあまり知られていないが小栗国子の一生はこの『みとりの記』でよくわかる。彼女の体重が一生10貫(約38キログラム)を越えることがなくいつも9貫ぐらいだったという。小柄で病弱な体でよく62歳まで生き、一子を儲けた。汚名をそそぐことが彼女の生きる希望でもあったのだろうか。
 明治になって小栗上野介の叙位が見送られた時、小栗貞雄の言葉『古来価値ある人は人間でも神に祀られている。神に祀られるを識者が評して、自然と世の中に重きをおく様になる。加藤清正が清正公として神になっているのに人間が正三位としているのがおかしい。正一位ではないか。』

 国子の交友関係で大隈信幸夫人・村井弦斎夫人がいた。しかし夫貞雄氏によると結婚まで旧習を尊び肉などはあまり食べなかったという。大隈重信の保護を受けていたのに食のことは重きを置いてなかったようであった。結婚後、夫貞雄氏の影響で徐々に食が変った。
 小栗貞雄は矢野龍溪の弟で、維新後、三井の三野村利左衛門が国子の面倒を見ていたが明治10年に彼が亡くなる時に大隈に国子が成人するまでの保護を依頼した。大隈重信が小栗家の血筋が絶えることを憂い、口説き落としたものである。
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福神漬物語95毘沙門剣

2010年02月18日 | 福神漬
なた豆と刃
近代演劇の来歴 神山彰著  
武士の象徴である刀は明治の廃刀令によって身分の象徴から売買の対象となる商品となってしまい、権威の象徴として刀の必要性が無くなった。また明治も20年頃になると文明開化の象徴である散切り頭が普通となり、ちょん髷姿は旧習を守る人と思われていた。明治10年代の河竹黙阿弥の芝居に現れているという。
福神漬に入っているなた豆(なた豆を塩漬にしてスライスした物)は当初にはカタナの意味することを暗示していたが明治20年頃から欧風主義から国風回帰によってカタナという暗示が忘れ去られたのではないのだろうか。
 その暗示を○○とすると○○は具体的に表すと明治政府を批判する事となり、商売上不都合だったのではないのだろうか。福神漬が創製された明治10年代には上野戦争の記憶と文明開化の状態から旧習に戻る事は無いだろうが旧幕臣や江戸市民には恨みも残っている複雑な心境の時でもあった。検閲を避けるため伏せ字(○○等)を用いるがなた豆を毘沙門天の剣に見立てたと言わないと判らない。毘沙門剣とか最近のゲームの影響で言葉の理解が進むが明治の10年代はこのような事を比ゆ的に漬物の中に入れることによって東叡山寛永寺・輪王子宮から店名を戴いた酒悦主人は自己の意思を表そうとしたのではないのだろうか。ただ○○した事が明治憲法制定後、戊辰戦争の恩赦が行われ、隠す必要性が無くなり、(隠し)比喩を忘れ去られたのでは無いのだろうか。リス等が冬眠の時に食物を隠したが、隠した場所を忘れてしまって、そこから新しい植物が広がる事と同じ事かも知れない。

福神漬の見立て

大根、茄子、瓜、ナタ豆、しその実、生姜、レンコン、胡麻の七種ならば

大根は大黒天 インドのガネーシャ神はゾウの折れた牙。
浅草待乳山聖天の境内にある大根・巾着の印は御利益を示すもので大根は健康で和合、巾着は商売繁盛を現すものだという。

茄子は初夢に出てくる茄子で縁起が良いもの。布袋様のおなかの姿にたとえられる。

瓜は 弁財天は瓜実顔(ウリの種に似た、色白く中高でやや細長い顔)の美人になっている。

なた豆 毘沙門天の剣。刃物の形に似ているので英訳でもSWORD BEENSと表記する。

しその実は縮緬状の葉っぱから寿老人だろう。

胡麻はエビス神。夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などとも表記される。
福禄寿は一番難しい。星を表すならばシソの実か胡麻だろう。しかしもう取上げてあるのでしょうがないから生姜。
レンコンは蓮。蓮っ葉はおてんばとなると吉祥天か。
見立てだから適当に納得すればよいだろう。とにかくコジツケだから根拠はない。

こんなたわいのないことを考えていた。確固とした伝説があるわけでもないから福神漬の野菜と七福神とのこじつけは失敗したのだろう。従って今に伝わらなかったともいえる。今のJAS規格の福神漬はきゅうりが入っているが
江戸時代は下品の野菜であった。切り口が徳川の葵の紋に似ていたから東叡山寛永寺のおかげで繁栄していた下谷の人達がキュウリを入れる必要性はない。
本草綱目啓蒙 小野蘭山著
福神漬に入っている「なた豆」
刃豆 なたまめ たちはき(四国・九州)たてはき(土州)
(一名)葛豆 衢州府志 〖衢州市(くしゅう-し)は中華人民共和国浙江省に位置する地級市。地理 浙江省の西部に位置し、杭州市、金華市、麗水市、安徽省、江西省、福建省に接する。〗
莢豆 泉州府志〘中国福建省南部の港湾都市。台湾海峡に臨み、唐・宋時代から南海貿易の拠点として発展。〗
刃鋏荳 郷談正音

葉は豇豆(ささげのこと)より大きい、花も又大きくて紫色。莢(さや)の形は長大にて菜の刀のようである。未熟のものは莢を連ねて煮て食べる。

汝南圃史に(汝南とは中華人民共和国河南省の駐馬店市に位置する。)
普通豆類はその種を食する。ただ豇豆(ささげ)は連なっている莢(さや)食す、而ち刃豆の味は全部莢にあるという。熟すれば豆が成長すると八九分淡い虹色に光って見える。白い花の一種のものは豆もまた白い。白なた豆と呼ぶ。

九州・四国のたちはきが帯刀なって小松帯刀となったという小説があった。いずれにしてもなた豆と刃物は結びついている。
刀豆

(『増補 俳諧歳時記栞草(下)』岩波文庫、p.136~137)より

刀豆:中国明朝時代の李時珍曰く、莢(さや)の形を以てこの名を命名された。思うに、酉陽雑俎(ゆうようざっそ)の選者段成式が言うには、楽浪(今の朝鮮半島の平壌付近)に挟剣豆という豆がある。莢(さや)、横に斜にして人の剣を挟めているようである。即(すなはち)此豆なり。三月に種をまく。蔓が生じ、育って一ニ丈(一丈は約3mなので36mとなる)。葉は豇豆(さやえんどう)の葉の如くにして稍(ちと)は長大である。五六月紫花をひらく、蛾の形のごとし。莢を結ぶと長いものは尺(約33cm)に近い。微莢(ちと=さやがさいかち)に似ている。扁(ひらたく)して剣脊(しのぎ)三稜(三角形)、宛然たり(そっくりそのままである)
 中国明朝の李時珍の本草綱目から。
言葉尻からみると「なた豆」は剣・刃物に例えられている例が多い。
酉陽雑俎(ゆうようざっそ)
中国唐時代、段成式の編纂
東洋文庫 酉陽雑俎(3)の325ページ
挟剣豆 洛陽の東にある融沢の中に生じる。豆の莢(さや)の形が、人が剣を手挟んだ格好に似ている。ななめになって生じる。

挟剣豆がなた豆かどうかはまだわからないが日本には朝鮮半島経由で入って来たのだろうか。

農業全書 宮崎安貞 岩波文庫122ページ
なた豆。
是を刀豆と名付けることは、剱の形に似ている故である。三月初に植え、灰で覆い、古い莚(むしろ)ぎれ、其何でもよいが此類のくさり物など覆いを置くとよい。
又播種の仕方。冬より穴をほり、肥え土を入れ置き、春になって一粒づゝ目の方を下にして植え、少し土をかけ、灰にて覆い、土を多くかけず、其上に古いざうり(草履)の類、何か軽い物を覆い置き、五七日の後は取り去ってよい。芽が出た後、根葉が少し生ずるのを見て、糞水(肥)をそゝき、つるが長くなるのを待て、竹を立て、是にまとはわせ、又籬をゆひ、かきにするもよし。風で動かぬよう様につよくすべし。動けば多く実ならず。是又肥地に糞を多く用いれば過分に実なる物なり。後略


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福神漬物語94池之端御前の末路

2010年02月17日 | 福神漬
池之端御前の末路
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴(福地源一郎)の芸者遊びはずいぶん古いもので彼の末期がさびしかった原因の一つでもある。福地の女好きは数を自慢とする粋人でもあった。70近き晩年まで一日として女から離れられない生活であった。
 こんな道楽で花柳界に捨てた金も多く、その末は東京府会の勢力を利用して賄賂を取ったかどで裁判所に引きだされた。(無罪)これが公人としての失脚のはじめで、晩年の桜痴を見ると今昔の感にたえないものがある。(伊藤痴遊全集第13巻)
 池之端の家は散々に金を撒いた結果、隣人の浅田正文の手に渡り、一時は住む家もなかった。明治20年代初めの池之端で開かれた茶会では福地の交友関係の広さがわかる。彼の茶室跡が今の横山大観記念館の一部となっている。
 台東区中央図書館の郷土史料のところで大正元年の地籍台帳によると下谷区茅町2丁目15から18までの地主は浅田正文となっている。2-15は120坪、2-16は約137坪、2-17は168坪、2―18は約184坪、合計約609坪となり地価8520円となっている。しかし昭和10年の台帳ではすでに浅田の名義ではなく2-18は分割され2-18-2は横山秀麿(横山大観)の名義となっている。横山大観が茅町に移ったのは明治42年頃なのでいかなる事情が周辺であったのだろうか。

伊藤痴遊全集 続第5巻より
伊藤痴遊全集から
明治大正昭和に活躍した講釈師
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴は明治の20年代までは双福といわれていて福沢諭吉と同じように有名であった。
 さて福地の事跡として新聞業界に誇れるものが三つあげられる。
1 新聞の文章を作った。 江戸時代の読み物と違う新聞用の文章。
2 新聞業界の後進の育成、多くの新聞記者を育てた。
3 西南戦争時の従軍報道。実際に見聞した記事を書く。見もしない戯作者と違う報道姿勢。
しかし桜痴の名前のごとく福地は色を好み、深い仲となった桜路(さくらじ)という妓にちなんで号を桜痴としたといわれるくらいであった。晩年は没落し隣地に住んでいた浅田正文の火除け地として買収されたが、伊藤痴遊は明治10年代にあれだけの家に住むのは容易ではなかった。震災後も依然として福地の家は昔の面影がたもたれていた。
 現在の横山大観記念館は福地桜痴の住居後の一部と隣人の住居後を購入したようである。横山大観の縁者の話では福地の茶室があったという。池之端御前の茶会は鹿鳴館(明治16年から明治23年)と対抗して開かれていた。明治10年代末に創生された福神漬と池之端をめぐる人々の縁がここに繋がる。また明治15年の福島事件を引き起こす前、福島で会津帝政党をつくり、自由民権運動に対して、政府支持政党とし組織した。地域の対立と維新時の心の問題が会津で激突した。


福地桜痴(源一郎)
昭和10年頃、福地が死去して30年たったころ柳田泉が桜痴の記憶を書いている。それによると桜痴は死後ももちろん生前も明治社会から冷遇されていて、表面的な活動のみ評価されていた。
 福地桜痴(源一郎)晩年の仕事は歌舞伎等の演劇改良運動が中心となっていいた。また福地は落語家三遊亭円朝とも演劇改良運動で交友があったと思われる。

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2年前の騒動

2010年02月16日 | 築地市場にて
2年前の騒動
農薬ギョウザ事件からもう2年ほど経っている。一年一年の過ぎ去る早さは年をとったせいだろうか。昨年暮から今年にかけて関東近辺のスーパーで異物混入事件が続いているが天洋食品の工場の映像を見た時、これは農薬混入事件でなく意図的に入れたこと感じてどちらかといえば労働問題の見地から捜査するべきと思った。しかし両国の司法当局はそれぞれのメンツのことから違う展開となってしまった。今関東地方に起きている異物混入事件は食品にも一部問題はあるが多くは店舗の問題である。すべての売り場をビデオ録画していることを明示しておけば少なくすることができる。犯罪は抑えることととともに誘発させることを避けねばならない。不当な商品を購入させられた消費者は復讐する衝動もある。価格に対して誠実な表示、つまり安さには理由を示さないと、傷んだ商品を提供すると「安物買いのゼニ失い」となって復讐する気持ちが現れる。説明責任のある販売方法をとらないと後で反撃にあうだろう。安さだけで飛びついて、発展途上国の過酷な労働を誘発してはいけないという考えもある。EUの新しい水産物の規制は正当な方法で漁獲したか書類を添付する必要がある。漬物も色々な国に輸出しているが各国の税関の書類攻撃は激しい。まあ漬物なんか誰も知らないからね!日本での輸入の書類が増えているが入国してから色々な問題が出る。いわゆる産地偽装ということ。
 多くの誠実な食品企業は何も語らず消えてゆく。そしてそれなりの企業だけが生き残る。漬物ってそんな商材なのである。
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春節

2010年02月15日 | 築地市場にて
春節
今旧暦の春節の時期である。築地市場にもアジア系の人達の観光客が目立っている。この季節は中国にある漬物企業には厳しい後が待っている。世界を渡って安いコストで漬物を製造してきたので労働コストの上昇が一番感じるのもこの季節なのである。春節で帰省した人達が元の職場に戻らない時期である。台湾でもタイでも経験している。農村から漬物工場に来た人達がよりよい労働条件を求めて移動し行く。日本はデフレ不景気で職を今替えることは少なくなっているが緩やかなインフレが持続している中国では簡単に職場を替える。春節後の労働者の復帰率の歩留まりが次の日本の食料価格を占える。中国では一時的な金余りでニンニク等の価格が急騰しているがこの後どうなるかわからない。
既に中国の今後の労働賃金上昇で『らっきょう』の根切の仕事は嫌われて、高齢者か女子高校生の仕事となりつつあるという。このような事は日本でもあってまだ学生のための労働市場がない時代にあった。10年ほど前に聞いていた中国漬物工場の賃金が為替などの影響もあってすでに倍になったという。もし中国『元』が上昇すると人件費が急騰することとなる。安い野菜が中国から入ってこなくなり、他の国へ移動することとなる。
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冬景色

2010年02月14日 | 築地市場にて
冬休み
秋からの相場の低迷は世間の空気と築地は一緒。ガンセンター病院の隣にある観光バスの駐車場が混雑しているだけでちょっと寂しい。そろそろ築地場外市場も専門家の人達の市場からいわゆる観光客が主流となる商材を販売するに市場に変化してゆくように思える。大分営業時間が延びているのはその兆しかもしれない。場内は一部のすし屋が混雑しているだけで到って閑散。一部の人達が青果部を晴海にもっていって現在地で再建する案を都議会に出しているが青果部では誰もこの案には乗らないだろう。だいたい水産部は青果の人達の状況をまったくといってよいくらい知らない。築地の青果部のライバルは大田市場で既に大分差がついてしまった。設備の老朽化と混雑によって大口の仕入れ先が大田市場に行ってしまった。昔は携帯電話で二つの市場の相場を比較している業者がいたが鮮度に差がついてしまったので今では少なくなった気がする。水産部だって今の設備ならどんどん他の施設に大口の仕入先は移動するだろう。時間は無い。
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