10年以上福神漬の資料を探しているがまだ数個の資料が見当たらない。多くの小林清親の本では明治の浮世絵のことが書かれているが大火で自宅が焼失した時から小林の画風が変わり、団団珍聞の仕事をするようになったという。この時間的流れで戸田欽堂・原胤昭・小林清親の交際状況からどこに鶯亭金升が入るのだろうか。
戸田欽堂の母は横浜の豪商だった高島嘉右衛門で父は大垣藩主戸田氏正の四男である。鶯亭も大垣戸田家と関係があり、幕末の一時神奈川奉行だった長井昌言の長男であった。
明治6年に鶯亭金升の父は死去したが生活の面倒を見ていたのは高島家と戸田欽堂と見ると福神漬の逸話が説明しやすい。旗本長井家は文化年間火付盗賊改の職だった。高島嘉右衛門が石川島に投獄されていたとき、長井家の支援があったと思われる。南町奉行を20年近く務めた筒井政憲の斡旋で戸田伊豆守氏栄の3男と長井家の養子縁組が成立したという。石川島の監獄が南町奉行と関係があった。
明治の中頃伊藤博文の舞踏会で戸田伯爵夫人がレイプされそうになった。戸田極子は裸足で逃げ、通りがけの人力車で帰った。このことが噂となり、事件報道となった。当時の警視総監だった福島事件で知られる三島通庸が報道機関を事実に基づいて報道していないとして弾圧した。ところが伊藤や三島嫌いの団団珍聞はこのレイプ事件に関しては無視したように思われる。大垣戸田家と縁のある鶯亭は事実を知っていたのだろうか。
原胤昭が小林清親に福島事件の被告人を描かせ配布したのが長井家と知り合いだった戸田欽堂の縁が関係したかもしれない。福島事件被告人花香恭次郎が長井昌言の腹違いの弟で明治初期は長井が花香家に養子先を世話したと思われる。花香が政治の世界に向かったのが銀座にあった公益問答新聞社で社主は服部撫松(誠一)で二本松藩の人であった。二本松藩も大垣戸田家と関係があった。戊辰戦争時大垣戸田家から藩主夫人が嫁いできていた。
これ等を結びつける資料が見つかれば福神漬に入っている様々な比喩・寓意が解明されるだろう。