年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治前半の大根栽培

2006年03月27日 | 趣味としての漬物
明治維新によって、江戸末期の130万人程の人口が50万人程の東京となり、すっかり寂れた。更に横浜の開港に伴い、物資が江戸を素通りし、横浜に荷物が集中し江戸の物価が高騰した。また,維新前後の江戸市中の治安は悪く、更に人口の減少を招いた。
 練馬の大根と沢庵漬を出荷していた農民には大打撃であった。先ず、半数の消費者を失い武家屋敷や町民からの下肥供給源の半減と青果市場や沢庵問屋への出荷減となった。また、練馬より、東京に近い輸送に便利なところが大根の産地となり、練馬の大根栽培は一時的に衰退する。そして,明治政府の奨励で茶、桑,藍の栽培など他の作物に転換している。
 しかし、明治5年調査の「東京府資料」によると、沢庵漬の生産額は現在の練馬地区だけで東京の80%を占めていて、地場産業として括弧たる地位を占めていた。また、干大根は中野区と練馬区で東京の70%を占めていた。生大根は新河岸川の舟運を利用していた、板橋区と北区が多かった。今では大根の産地として考えられないのだが、明治の初期には千駄ヶ谷、渋谷、雑司が谷、王子、十条などの地が産地だった。池袋は大根種子の生産地であった。
 明治の東京は維新の混乱も西南の役(明治10年)が終わった頃、人口も江戸時代を超えたが練馬の大根栽培は北区や池袋、雑司が谷などの東京により近い所に需要を取られていた。明治20年頃になると人口の増加で東京に近い産地が住宅や工場用地となり、再び練馬が大根の産地として復活する。
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