年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

野菜の初物

2006年02月28日 | 趣味としての漬物
江戸時代、明暦の大火後、江戸の街づくりの再建が始まると、江戸の人口は急激に膨らみ始めた。当時、米は年貢米として集まり市中に出回ったが、生鮮野菜は不足していた。幕府による野菜の振興策もあり、三河や関西からネギ、ニンジン、キュウリ、ナスなどの様々な野菜の種を持って多くの人がやって来た。江戸でいち早く本格的な野菜づくりが始められたのは、千葉の行徳の塩田開発とその輸送路としての小名木川が開削され、深川や砂村(現在の江東区砂町)などの江東の地であった。
 砂村を一躍野菜の名産地にしたのは、寛文年間(1661~73)に生ゴミを利用した発酵熱による促成栽培技術を開発である。見栄っ張りの江戸っ子は競って初物を食べました。砂村の農家の人は、高値が期待できる野菜や果物などの初物を一日でも早く生産しようと、生ゴミを地面に埋め、発酵させて温度を上げ、その地面を油紙で覆って熱を逃がさないようにしました。初物は江戸っ子に大いに受け、「初物を食うと75日長生きする」と江戸市民は我先にと買い求めたそうです。幕府が江戸庶民に出した諸々の禁止令は、初物を食べる というぜいたくが広がり過ぎると, 農家は米など基本食糧の生産よりも, 高く売れる 初物づくりに力を入れるようになり, 江戸幕府はたびたび, 出荷日を統制する法令, 促成栽培禁止の町触れを 何回も出して, 取り締まりました。
初物の代表『初鰹』は、勝負に「勝つ魚」と縁起の良い魚として最も珍重されました。正月に初物のナスを食べるのはこれも物事が「成す」に通じ、最高の贅沢でした。なぜなら、初夏の作物のナスを冬に作るには、油紙障子で温床を作り、生ごみ等の発酵材で温度を取り、随分と手間暇かけなければナスは出来ませんでした。そのため、正月のナスは、庶民にとって高値の花。だからこそ、初夢にナスが登場するのは、縁起が良かったとも言える。
 平成の現在ではその初物の味が、ハウス栽培や・養殖・冷凍保存、輸入などのおかげで、一年中、季節を問わず口にすることができます。野菜や果物で初物という言葉が消えつつあります。

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練馬大根物語5 種子の広がり

2006年02月27日 | 趣味としての漬物
日本人の旅には土産は必要である。この由来は江戸時代の寺社詣でを大義名分として庶民(多くは農民)の旅文化が多いに発達した。その旅行の多くは講を作っての団体旅行であった。その費用は積み立てた講費を限られた代参者が旅する事で成り立っていた。講費で代参した場合、講の人に寺社に参拝した証拠が必要となる。講費と餞別が旅土産を義務づける。従って、土産に包装の箱や紙に寺社名や地名等が書いてあり、旅に行けなかった人に分配できる必要性がある。
江戸時代の中、後期から発達した旅の土産は参詣人の多い寺社の門前から発達した.当時の旅は徒歩の旅であったので持ち運ばれるもので主であった、当時の土産は軽い手工芸品か薬であった。
滝野川の種屋
江戸時代、道中を通る旅人に江戸の土産として、野菜の種子を販売し、「種子は滝野川」と呼ばれるほど有名であった。中仙道に面していた滝野川の種子屋が有名であった。練馬大根は江戸の名産(土産)として全国に広まっていった。
 食用の練馬大根の栽培は練馬で行い、その種子用大根の栽培は滝野川村で作るように産地が分かれたのである。交配しやすく、変化しやすい大根の種子が偶然にも分業となって練馬大根の種子は立派に維持された。  
 こうして練馬大根の名が天下に知られると共にその種子の需要も増加してき
たので、特に滝野川にあった三軒の種屋は地名(滝野川三軒家)となったくらいである。また諸侯の参勤交代の帰りに、国に帰るものが必ずこれをもとめて村民に分かち作らせたということで、滝野川種子の名声は益々高くなった。
北区飛鳥山博物館では滝野川の種子屋の解説があります。大根の品種の“みの早生”を生んだ、百姓みの吉は滝野川付近の人と学芸員の人は言ってました。ちなみに、板橋区の方では板橋の人と書いてあります。
余談 新撰組・近藤勇は政府軍に捕らえられ滝野川三軒家の石山亀吉邸で人生最後の夜を過ごし、板橋刑場で処刑された。(慶応4年4月25日)頭部は京都に送られ、胴体はこの地の埋められました。
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練馬大根物語4 練馬大根の誕生 

2006年02月26日 | 趣味としての漬物
 江戸中期まで
練馬大根の誕生は明暦の大火後、江戸の都市の再建に伴い人口が急増し、江戸郊外である練馬の地に蔬菜の需要が生じ、大根がたくさん栽培されて、やがて新種の練馬大根が誕生した。
練馬大根の誕生の伝説は大ざっぱに分けると綱吉説と百姓又六説がある。時代と地域によって変化しているが、どちらの説を採るにせよ、上・下練馬村の富士街道(大山街道)沿いにあることに注目してよい。
練馬大根が盛んに栽培されたのは元禄のころからであり、その頃から練馬の地域は大山講が盛んになった。大山講の土産としての波多野大根の種が練馬の地の大根と交配して、新種の大根となったといわれる。
詳しくは、練馬区の“練馬大根”のホームページで。
 新版 練馬大根 練馬区教育委員会著によると
元禄10年に出版された(本朝食鑑)の刊行以前の10年から25年さかのぼって、練馬大根の栽培が江戸近郊を中心として、会津地方まで及んでいた。

需用と供給は経済の大原則ですが練馬大根の普及が進んだのは、江戸幕府の指定野菜になり、生でも良し、干しても良し、沢庵漬にしても良いと大根の性質がありました。現在のように冷蔵庫等の保存技術のない江戸時代、野菜の物価の安定に大根は良い野菜でした。更に練馬の地は大根の栽培に適した土地でありました。ただ、欠点として江戸から少し離れていたため、時代によって、栽培の盛んな時と、衰えた時があります。生大根(亀戸大根)のライバルの登場、舟運の便の悪い練馬の肥料の価格上昇等があります。
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練馬大根物語3 秦野だいこん

2006年02月25日 | 趣味としての漬物
秦野 子ども風土記 より  
秦野だいこん
はだのダイコンは、江戸では「ハダナ」や「ライフク」と呼ばれ、秦野の名物と知られていました。細根のもののようで、長さは2尺(約60センチ)ばかり、周りは一寸半程(4・.5センチ)の大きさで道端にて自然に栽培するようになったのではないかと言われています.
承応三年(1654年)「落幡村覚」(おちばたむらおぼえがきー名主の覚書)には、
明暦元年(1655年)正月12日、人馬だいこん付参候
寛文元年(1665年)x月十一日 はたの大こん付参候と記され、江戸時代元禄のころには、領主の献上品として用いられたことが裏付けられています。江戸時代の農村は、雑穀を主食として、野菜類の混じったものを食べていました。当時は塩が高かったので秦野だいこんを切干にして貯えておき、不作のときに用意にしたのではないかと考えられます。
資料 秦野市史より
中世から江戸時代始めまで秦野(神奈川県)は柴胡(サイコ/薬草)や秦野だいこんを栽培していたが宝永4年(1707年)富士山の大噴火による降灰は耕地を覆い、秦野地区を不毛の地と化した。しかし、農民は秦野の土と火山灰の混じった土地がタバコ栽培に適しているの発見し、現在に至っている。
                 
本朝食鑑より
相州波多の産はもともと自然に生じるものを佳しとする。根は細くして実である。またこの自然に生じるものを植えることもある。しかしこれを培養しても、根は肥えるが,佳いものではない。それで、細根のほうが宜しく、肥大したものは宜しくないのである。細根を取って塩漬にする。この波多野大根は、京師(京都)で中抜き大根という。
秦野市大根
小田急線東海大学前駅の名前は昭和62年までは大根(オオネ)というな名前の駅でした. 「東海大学前」は、 東海大学湘南キャンパス関係の利用が80%を占める、という理由で従来狭いことで有名だった旧「大根」駅の橋上駅舎化に伴い駅名が変更された。現在は、旧「大根駅記念の碑」が駅南口にひっそりと建っている。大根の地名は残っており、絶滅した秦野だいこんを今に伝えています。


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つくし 花粉症に効くとは

2006年02月24日 | 趣味としての漬物
つくしの漬物
2006年2月6日朝日新聞、2月23日の読売新聞の記事で“つくし”が花粉症に利く人がいるとのこと。抗アレルギーの成分が”つくし“にあるとのこと。ふと、思い出し、山形県の三奥屋(みつおくや)(山形県東置賜郡高畠町)さんに電話した。”つくし“の漬物は日本全国で多分この会社しかないだろう。やはり、急に問い合わせが増えているとのこと。試食したのは数年前のことなので、味等の記憶は無いが山形の人は飢饉の記憶があるのか”つくし“までも漬物にして保存し食べるのかと思った。
約二〇〇年前、米沢藩主上杉鷹山公は、凶作に備える施策として「かてもの」という食の手引書を編纂し藩内に配付しました。 その「かてもの」には山野に生える草木果実の中から約八〇種が選ばれ、食法や栽培方法など懇切に記されておりました。「かてもの」の本来の意味は「主食に混ぜて炊くもの」ということです。テレビドラマ“おしん”の時の大根めしはその一例です。
 この本の中には、食べられる山野草やその食べ方をはじめ、味噌の作り方、日常から蒔き植えておくと良いもの、干して保存しておくと良いもの、飢饉の時に役立ついろいろな情報が書かれています。この結果,天明の大飢饉・天明3年(1783)の時にも、米沢藩では一名の餓死者が出なかったと言われてます。
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練馬大根物語2 富士街道

2006年02月23日 | 趣味としての漬物
大山講と秦野大根
江戸中期頃から、練馬の農民、町民の間に大山講が盛んになった。相模の国、大山 阿夫利神社は農業・商工業・殖産・養蚕などの守護神で、とくに練馬の農民にとっては、畑作に必要な雨を呼ぶ雨乞いの神様でした。
 大山講には、大山信仰を広めたのは御師(おし)とよばれる先導師という人がいて、大山をお参りする人々の道案内をしたり、先導師の家が宿屋でもあったので、これらの人々の接待もしました。先導師の宿坊では精進料理が出ます。もちろん、大山名物の豆腐が出ます。この先導師という人々は、もともと大山で修行をしていた修験者(しゅげんじゃ)だった人たちです。
江戸時代の庶民は、働くことも働くが、大いに余暇もたのしんでいたわけで、大山は江戸庶民の格好の観光地でもありました。信仰の対象である阿夫利神社の先導師は、江戸八百八丁のすみずみまで立ち入って大山講を組織していました。先導師の積極的な講の組織活動は、現在、観光産業によってさかんに展開されている各種イベントやツアーの組織と共通する面が多くみられます。
現在の練馬の富士街道は別名大山街道と呼ばれ、石神井・田無・府中を通り大山に到る参詣道でした。
大根名産地である練馬の講中が富士や大山参りの途中に秦野を往来した。栽培に熱心な農家なら、当時でも有名だった波多野大根を手にして、練馬に植えたとしても不思議でない。享保以後の練馬大根の品種としての成立には秦野大根との関係がある。同様に、小石川の幕府の菜園からも交媒されて新しい大根の品種となったのもある。練馬の農家の品種改良によって練馬大根が誕生した。
大山道
大山道は矢倉沢往還とも言い、江戸城の赤坂御門より青山、三軒茶屋,二子、溝口,荏田、厚木、伊勢原を通り箱根の矢倉沢・足柄峠を越え,甲府や沼津方面に分かれていきました。江戸時代に古いそれまでの道をつないで作られ丹沢の大山に参詣する道として、賑わいました。東海道のわき道として、また、秦野のタバコや相模川のアユ,多摩のマキや炭を江戸に運ぶ道としての役割もありました。

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練馬大根物語1 区名の由来

2006年02月22日 | 趣味としての漬物
「ねりま」という地名の由来には、練馬区の見解によると色々あるが、練馬区という行政上の名称になったのは“練馬大根”のためです。今、全国の市町村を大幅に減らすという、平成の大合併が注目を集めている。合併の破談の原因として新しい市の名称が多い。
 昭和23年、東京都の23区目として、練馬区が誕生した。板橋区は戦中・戦後、人口が急増し,人口が15万人を超えたら分区する予定であったし、また板橋区の面積が巨大であったため分離された。大根の練馬か、練馬の大根かと言われるほどに名をはせた練馬の大根は、全国的に有名で元禄の江戸時代から栽培さていました。練馬区の名称は全国的に知られている練馬大根の産地だから、練馬となったと言われている。ただし、このことは練馬区の公式の見解でなく、練馬の沢庵漬業者の見解である。昭和の初めの頃、ある練馬の村の米の生産販売額が2万円くらいのとき大根の販売額は25万円くらいだった。練馬大根・練馬沢庵(明治・大正期は浅草のりと並ぶ東京名産)おかげで混乱なく、決まった。
 いま、練馬大根ブラザースというミュージカル漫画がテレビ東京(月曜・深夜)で流されている。やっぱり、大根は練馬。でも、フトンの上に書いてある大根の絵は練馬大根の形でない。サビシイ!!
  江戸・東京ゆかりの野菜と花 という本の84頁にやはり区名を決めるとき、練馬大根が決め手でした。なお、練馬区民祭の名前は”すずしろ祭り”だそうです。時代が変わって、大根がかっこいい物になったのでしょうか?

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江戸市中の沢庵漬

2006年02月21日 | タクワン
江戸市中の沢庵漬
江戸の庶民は自分では沢庵漬を漬けない人もあった。江東区 深川江戸資料館に江戸時代の八百屋(当時は青物屋と呼ばれていた)が再現されている。店頭には大樽に入れられた沢庵漬がおかれ、干した大根が売られていた.今と違って冷蔵庫もなく,舟運と牛馬・荷車による輸送では旬の野菜しか売られていなかった。
江戸の庶民の長屋で木樽を据えて、沢庵を何樽も漬けこむのは難しかった。頻発する火事などの火災に遭遇した場合、重石をのせてびくともしない漬物樽は、逃げ場を塞ぐ障害物になる危険もあったのである。
明暦3年(1657)、死者10余万人を出す江戸史上最大の火災となった。俗に明暦の大火とも呼ばれるこの大火は、江戸の人々に多くの教訓をもたらした。幕府は災害後の新たな対策として多様な都市改造を実施した。町人達の間でも災害対策の意識は浸透した。明暦の大火の以後は火事の際に荷物を持って逃げる者は少なくなった。しかし、江戸はこの後もたびたび大きな火事にみまわれた。
守貞謾稿より
京坂(京都・大阪)は、毎冬毎戸、味噌と香々は自家にこれを制す。香々、江戸に云う沢庵なり。江戸は各居塁地なきが故にか,自家これを制すこと稀なり。専ら味噌、巨戸は一、二樽を買ひ、中以下は百文二百文と大小戸とも毎時これを買ふ。また、沢庵は年用を計りて、城北練馬村の農家にこれを買う。毎冬、練馬農人、江戸得意の家に来たり、明年所用の沢庵を樽数を問ひ、また価を取りて、その戸の人数を計り、毎時馬をもつて沢庵を送る。
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江戸初期の野菜の状況

2006年02月20日 | 築地市場にて
江戸初期の野菜の状況
1657年 明暦の大火以後、(これは日本史上最大規模の火災です。死者は10万人を超えました)この火災をきっかけに江戸の都市は整備されていきました。区画整理や神社仏閣の移転、屋根の防火対策、広小路・火除土手の設置などが行われました。
江戸では明暦の大火以後、野菜の需要が高まり、また江戸市民の季節の移行に非常に敏感であったため、初物好きため農民自身が品種改良、新作物の導入、栽培技術の向上をはかった。
 当時の農業経営は江戸東部から北部(葛西、埼玉、足立)にかけては水田を主とし、こまつ菜、漬け菜等 蔬菜地帯で小名木川舟運の便により夜間、中川舟番所を通過して早朝、大根河岸や神田の青物市場に運ばれた。
  また、江戸西部一帯に広がる武蔵野台地の豊島,多摩、荏原、世田谷などの畑作地帯は大根を主としてニンジン、サトイモ,ごぼう等の根菜(土物)類,ウドを生産していた。特に豊島郡は江戸の隣の地域では漬け菜,ナス等を栽培していて、その外側では大根を生産していた。新座郡では幕末にはさつま芋、根菜を出荷していた。
 練馬の百姓は夜中に野菜を手車、荷車、馬、牛車に乗せ、江戸の青物市場に早朝に届け、帰りに畑の肥料になる下肥を積んで帰った。当時の練馬からの道(清戸道)は椎名町、目白坂、江戸川橋をとおり神田や大根河岸の青物市場に向かった。
 江戸の野菜の価格は、荒川が荒れ、雨が多いと江戸城西方の農民は葛西の野菜の不作を喜び、東方が順調な作柄だと練馬が日照りで不作といわれた。しかし、双方が順調なときは野菜の価格が暴落し、肥料代も出なくひどい目にあっていた。
平成の現在でも野菜の価格は生育の多少によって価格変動が激しい。

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江戸の青物市

2006年02月19日 | 築地市場にて
 江戸で青物市(野菜の市)が立ったのは、家康が江戸へ入って間もなくの頃だったといわれます。東京都の青物(やさい)市場の由来について石碑に記されています。それによれば、近在の百姓たちが土付きの大根、人参、芋類を持って来て市が立ち、それがのちに青物・土物市場になったといいます。江戸の都市を作る人のために自然と市が発生しました。ほとんどの野菜類は舟運で川から堀川を通って運ばれました。江戸城より西のほうは船の便がありませんから、馬・荷車や大八車で運ばれました。こうした野菜に不可欠な肥料も、市街地の近くや舟運に恵まれた東部や北部ではおもに江戸の下肥(糞尿)を、陸路に頼る西部ではおもに刈敷き(落ち葉)など米糠や干鰯(いわし)が用いられていました。このようにして江戸に生鮮農産物を供給し、江戸から下肥をはじめ各種の肥料を持ちかえる近郊農業地帯が、時代とともに形成されてきたのです。葉物(こまつな・なす)の野菜はその商品としての性格から12キロから16キロメートルが輸送の限界でした。今でいう、人間が足で歩ける身近なところ(三里四方、四里四方)のところで生産されたものを食べていました。土物の野菜は日持ちがよく、さらに遠い郊外から江戸にやってきました。大根は葉物と土物の中間の野菜でした。生でよし、干し大根にしてもよし、漬けてもよい便利な野菜でした。ただ、大根はその大きさからたくさんの肥料が必要でした。また、江戸時代の多くの葉物野菜(漬け菜と称する)は生でも漬けても良い野菜がほとんどでした。



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食育 沢庵漬の成立

2006年02月18日 | タクワン
 沢庵漬の歴史から、日本の食の歴史を探ってみよう。沢庵漬の名前は一般に江戸時代始めに活躍した禅僧 沢庵に由来しているが沢庵禅師の時代の前にすでにあって、干した大根を漬けて百本漬(香の物)などといわれていた。
米糠の歴史を見てみよう。戦国時代以前は米を精米しても玄米に近く、平和な江戸時代中期に米が余り、精米技術の発達により、江戸、大阪、京都に白米食が普及した。従って、米糠が白米食の普及によって、大量に発生し始めたのは、江戸時代中期以後のことであり、沢庵禅師の生きている時代は精米率の低い、つまり玄米に近いものが食されていた。従って、沢庵禅師の作っていた貯え漬けの糠は白米から発生したものでないと思われる。しかし、糠は米を精米して発生するものであるから、どこから発生したのを使用したのだろうか?日本酒の歴史によると、室町時代に日本酒の技術革新があり、酒の製造に必要な麹と掛米が精米(当時は精米率は低く、今の白米に近い、精米率92%ぐらい)された。諸白酒の誕生である。これが今の日本酒の源である。この諸白酒は奈良の菩提山正暦寺で創製された。僧坊酒といわれて、寺院で製造された酒である。日本の寺院では禁酒の戒律があったはずである。室町時代後期の京都五山の禅僧らは酒宴にひたり、貴族化した僧侶のまえでは禁酒の戒めはあくまでも建前にすぎなかった。寺院酒造の起源は,10~11世紀の神仏混交時代に、寺院の中にある神社に献上した神酒づくりに求めることができる。中世の寺院は、荘園からの貢納米,清浄な水、僧坊の人の労力などが豊富にあった。そこで、寺院は自己財源を確保するため、自家用の酒の範囲を超えて,利潤を目的とした酒を製造し始めた。この中心となった寺院は当時の消費都市である、京都や奈良に近接した寺院であった。代表的な寺院は奈良にある興福寺で春日大社に献納するため、酒造りをしていた。また、同時期に中国か朝鮮から樽や桶を大型化するに必要な道具が渡来した。酒造容器は壷,甕(かめ)から樽,桶へ移り、大型化するに従って、諸白酒は当然仕込み単位が大きくなり、大量生産になっていった。当然、諸白するには精米するので米糠が同時に大量発生したと思われる。
沢庵禅師が大徳寺派の堺の南宗寺にいた時、酒造の副産物の糠と酒の輸送の空樽を使用して、干しダイコンと瀬戸内から運ばれた塩を使い、堺周辺の人々によって作られた漬物を知っていたとしても不思議ではない。現在、中国や朝鮮に糠を使った漬物はなく、中国から臨済禅と共に伝わったのは茶,饅頭、臼で、沢庵漬は伝わってなく、当時あった塩漬の大根漬けを工夫して、だいこんを干し、糠と塩で漬け込み,重石をして沢庵漬(百本漬、香こう、香の物等)となったと思われる。



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守貞謾稿より塩

2006年02月17日 | 趣味としての漬物
喜田川守貞著 守貞謾稿より

今世、諸国の海浜これを製すといえども,播州赤穂を上品とす。また江戸に漕す物は阿州多し.斉田塩と言ひ、阿の斉田専らこれを作るなり。(徳島の斉田塩)
『世事談』に云う,焼塩は天文年中,洛上鴨畠枝村藤太郎と云う物,泉州湊村に住居し、紀州雑賀塩を土壷に入れ焼き返し、諸国に出す。壷塩屋藤太郎と云う.承応三年甲午、女院御所より、おほけなくも天下一の号を、時の奉行石河氏に命じて賜る。また延宝七年,鷹司殿下より、折紙状を賜ふ。呼ぶ名は伊織と号す。猿丸太夫の末裔なりと伝ふ、云々。
江戸近浜には、行徳にこれを製す。

守貞謾稿は江戸時代末期の文献ですが塩の記述は他の食品、調味料等と比較すると少ない。当時はもう余っていたし、ブランドが確立されていたかもしれない。
焼塩
「せんごう」で得られた塩は「荒塩」と呼ばれ、ニガリを含んでいるので吸湿性が高く、時間がたつと液体化してしまいます。そこで更に土器に詰めて熱を加える。
苦汁分が変成して固まりになる。サラサラした状態を長く保つことができる。更に高温で焼塩を作ったものは、塩が粉砕され微粒の焼塩になる。再加熱した塩を「焼塩」と呼びました。漬物用の塩はニガリの多さに関係がなく漬けられる。

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品川・東海寺の持つ意味

2006年02月16日 | タクワン
品川・東海寺の持つ意味
江戸初期の品川は江戸でもあり、江戸でもない地だった。不祥事を起こした大名は品川の地で待機している場であった。大名統制の強化により、熊本の加藤家は品川の地で待機となり、改易(取り潰し)となった。また慶安事件の犯人が品川・鈴が森で犯罪者の処刑が行われた。
家光は沢庵に何を期待していたか
島原の乱や高野山の論争など、幕府の宗教政策の相談役が必要であった。
東海寺建立の理由
東海寺は、広さが4万7千6百坪余り(約18万5千平方メートル)と広大なものでしたが、沢庵屋敷と呼ばれていました。
家光が新寺を建立して、沢庵をその住職とすれば、江戸城本丸に召し寄せて、色々相談できる。将軍としての外聞を気にしていた。また、沢庵の、幕府内の身分を保証した。
寛永17年の品川御殿の茶会は幕府にとって(老臣会議)の性格を持っていて、茶会の後、沢庵は家光に茶を立て、家光から酒を振舞われた。寛永末期から家光は東海寺等で開かれた茶会で老臣会議と呼ばれた会議を催していることが多かった。参加しているメンバーによって、議題の重要性が推測される。このとき、現在の料亭政治のごとく、茶会政治の全盛期であった。
品川御殿の茶会の後、精進料理が出された。このときの精進料理は豆腐、長いも,扶,人参、牛蒡などの味噌煮、干瓢、牛蒡の白和え,コンニャク,油扶,うどなどの平皿、納豆、椎茸などの汁,白飯,瓜や茄子・大根・梅干などの香の物4から5品。
 茶会政治のおかげで関東では大根の糠漬が沢庵漬という名称で呼ばれました。
沢庵の遺言
 正保2年(1645)12月、沢庵は万松山東海寺で没しました。時に73歳でした。死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったといいます。
 
「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」
と遺言を残しました。
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塩カマス

2006年02月15日 | 宅老のグチ
叺(かます)
昭和30年代にも都内の漬物屋に専売公社(当時は塩、アルコール、タバコは専売でした)の塩は藁(ワラ)で作られた叺(かます)に入れて運ばれていました。現在の並塩は紙の袋に入れられて販売されています。
 近世以来、昭和前半まで藁製品は農家の必需品で、縄、俵をはじめ、草履、草鞋(わらじ)等の生活用具は自給に頼ったり藁を利用して副業をおこし、農家経済を支える一助とした。このような藁仕事は農閑期に作業しました。叺は筵(むしろ)を2つ折りにし、縁を縫い閉じた袋です。海水から精製された塩(差塩)を塩叺にいれ、乾燥させて3年枯らしの塩と同じようなニガリ分の濃度に仕上げます(真塩)。高濃度のニガリは体にとって毒となります。このニガリで農家でも手製の豆腐を作った。ニガリを取るため塩叺を保管した。塩叺から湿気を吸って垂れたニガリをためました。塩シャケや塩マス等の塩分の多い食物はある意味で、保存の意味を超えて、塩が山村では高価であった名残です。今となっては記憶に無いのですが塩叺から塩がこぼれれたということは無かったと思います。ただ、伊勢湾台風の時、塩の積んでいるところに数センチ浸水しただけで、翌日全部の塩が崩れて使えなくなったことがありました。塩は専売から自由に販売出来るようになりましたが色々な歴史から、日本人にとって誤解されることも多い。専売の人たちは量の出ない消費者用の塩の説明不足です。
差塩(さしお)
江戸時代始め、当時経営合理化された入浜式塩田の技法は、またたく間に瀬戸内十州に伝播し、瀬戸内海地域で日本の80~90%を生産するようになりました。当時の瀬戸内では、江戸向けの苦汁分の入った差塩(並塩)と関西を中心にした苦汁分の少ない白く小粒で上品な味の真塩(上質塩)を生産していました。
差塩とは塩田製塩時に使われていた言葉で、塩化ナトリウム純度の低い塩のことをいい、それに比し、純度の高い塩を真塩(ましお)と呼んでいました。
塩製造の歩留まりを上げるために、真塩をとった後に残る、にがり分を多く含む液を、次のかん水にまぜて結晶させたもので、純度は、真塩90%程度に対し、差塩は60%から70%程度でした。
塩の専売
1905年(明治38年)政府は塩専売法という法律をつくり、塩の専売制をはじめました。前の年日露戦争がおこっていて、戦争にかかる費用を用意するためでした。
塩専売法に基づき90年以上にわたって続いてきた塩の専売制度は、消費者の運動と政府の規制緩和の方針を受けて廃止され、平成9年4月1日から新たに塩事業法が施行され新制度になりました。
日本の塩生産量の約85%以上は工業用に使われます。塩水を電気分解して作られるソーダの素材は純度が高い方が都合が良いわけですから、ひたすら純度の高い塩が求められ、国による塩専売法のもとに作られる高純度の塩化ナトリウム塩だけが塩として販売されました。
明治の専売が始まったときの塩の品質は、塩化ナトリウム含有率80%未満の塩が全体の80%近くを占めていましたが年の経過とともに減少し、昭和元年度(1926)にはほとんど姿を消していた。現在の並塩は塩化ナトリウム含有率95%以上です。

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中川船番所資料館 塩の輸送と価格

2006年02月14日 | 宅老のグチ
江東区中川船番所資料館
 ■住所 東京都江東区大島9-1-15
 ■入館料 200円
駐車場あります。舟運・海運の資料が豊富な図書室もあります。 
中川番所は江戸幕府が千葉県の行徳の塩を運ぶために今の隅田川から旧中川までほぼ一直線に掘られた小名木川の東の入り口に1661年(寛文元年)移転した、幕府の重要な水運の関所である。番所では川を通行する船を見張り,主に夜間の通船、女性の通行、武器、武具の取り締まり、船で運ばれる荷物を検査していた。
江戸を開いた家康は行徳の塩が北条氏の小田原に運ばれ,そして甲斐の武田に運ばれていたのを知っていた。幕府は塩の軍事物資としての重要性を考えて、関西からの輸送の途絶を考えて、千葉県の市川市行徳付近に塩田を作らし、そして塩の輸送の為に小名木川を作り日本橋小網町まで輸送した。行徳の塩田は当時全国の塩田面積の3パーセントを占めていたが生産性は低く、生産量は1パーセントを占める位であった。
 塩の代金は(多聞院日記)によると
1566年 塩1斗あたり米6升94
1599年 塩1斗あたり米3升33
 となっている。この価格の低下の理由として、楽市楽座等による流通の簡素化と塩業技術の進歩がある。元禄時代より塩が余り始め宝暦、明和の時代には生産過剰になった。

行徳の塩田は江戸に近いので販売に有利であるのになぜ関西の塩に負けたか。
天侯が瀬戸内の塩田より悪く5月から9月までしか効率よく生産できない
関東の大河の汚れた水で塩田に次第に土がたまり、ますます海のほうに塩田を開いた、したがって、梅雨、台風等の波によって塩田がたびたび破壊された。   
また、河村瑞賢の努力により、東回り、西回りの航路が確立し、江戸へ下る酒や塩等が大量安価に運ばれた。塩回船は一船に800石から1500石の塩を積んでいたといわれる。
承応年間(1652-55)塩回船が250艘から3百艘 、江戸に向かっていた。
伊丹の清酒が樽廻船や檜垣廻船によって関西から安定的に輸送されるようになると品質の良い赤穂の塩は醤油に使われるようになった。
江戸時代の塩の価格は米の価格の十分の一であった。
 
近世の塩の価格
瀬戸内 5から6文
東海、江戸 10文  三陸 15文 日本海、土佐 10文 薩摩 7文

内陸部は塩の振り売りで 2里で2倍、3里で3倍と言われていた。
米と塩の交換比はほぼ米 1対 塩6から8の比率である。
平成の塩の価格
塩事業センターの並塩
20kg入り 1,284円(税込み)
漬物用の並塩は漬け込み時に大量に使用するので、配送運賃の価格が重要になる。また、時間が経つと、潮解して固まるので、塩の賞味期限はないが漬け込み作業上、必要以上購入できない。従って、江戸時代中期から塩は配送価格が重要となる。
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