年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

今年のコメの作柄報道から

2024年08月31日 | 宅老のグチ
新聞を読んでいたら、コメ不足の懸念している政府の安心誘導へのフェイクニュ-スと思っている自分がいた。今台風が長雨をもたらしているが、関東の降り方は降ったり止んだりの降り方で、今後に晴天となり、実りの秋となると一気に刈り取られる気がする。なぜそうなるかと言うと、あまり言いにくいのだが農家の方では現金で買い付けに来る人達へ庭先で渡す事例が他の作物であった。つまり漬物の事で、この経験は豊富だった。なぜ知っているかと言うと、翌年には農家の様子が変化する。見栄を張る農家が豪邸を新築する。
 農林水産省の作柄予想で北海道が良、東北がやや良、他産地が平年並み、そしてやや不良が九州の方にある。概ね前年並み。
 そこで30%から40%の価格上昇が起きていて、普通に考えると、コメ農家の収入は激増しそうな気がする。特に経済の低迷している北海道の農家が乳価の低迷で借金が減らないので農家の魅力が消えていた。これからコメ農家が地球温暖化で北海道産コメの品質が新潟よりブランド化する気がする。特に今年の猛暑の日本では避暑地と言われるところでも30度を超えていて、アメダスのデ―タで釧路とかの北海道東部の気温が低かった。
 コメ農家の収入増は非難することは無い。多くの農業は収入が少ないので嫁入りする人が少ない。それに外部の人達が入り込めない日本の文化もある。

 紀州の梅がバブルのような時代があって、今でも説明するとわかると思うが一時は日本の政治経済を動かしていた。自由民主党元幹事長の和歌山県の二階サン、紀州の南部町の梅まつりで、自民党が政権でない時に本人が来ていた。その後は代理人の出席、県知事も本人の出席、昨年退任したJAのトップは紀南農協のドンで梅干・梅・ミカン等の農産加工の大手の指導者。JAのトップを4年、今までのJAのトップは米農家の出身が多いと感じていた。紀南の梅関連業は大阪に出ていた子息が和歌山に戻っている事例があった。農家が儲かるとストレスの多い都市から子息が故郷に戻る。
 コメの収入が増えれば、地域の環境の維持も出来るし、都会のデジタル知識の普及もあるだろう。そこには農業の収入の増大が必要となる。これには米関連の技術支援が必要で、農林水産省が金をまいて農業支援しても昔のままだろう。農家の収入がすぐに増えない。間接的に増える。
 多くの有能な政治家は貧困地から生まれる。しかし都会の誘惑から消える歴史となっている。今はネットで世界が繋がっているので、その方法を教える必要がある。そこには汚い事例もあって無垢の人達が保守的な老人によって進歩を阻止される。また日本は日本語という世界で一番難しい言語で生活していて、ネット詐欺の本流から逃れているがAIの言語変換技術が進歩すれば詐欺師の活躍場となる。スマホで同時通訳の観光通訳も間もない気がする。スマホ進化と進歩は多言語となることが早い。

 今の日本の都営浅草線内の様子から、間もなく大きなカバンが日本観光で消える気がする。コインランドリ-の普及と下北沢古着・ユニクロ等で購入した服で観光し、富士登山の時はレンタル用具、そして帰る時はドンキホーテで大きなカバン、そこに100円ショップで購入した便利グッズ、コンビニお菓子。日本の国内移動でおおきなカバンが不要と感じる。
 日本の政府はお土産の別送システムの法整備が必要と感じる。船便がアメリカでも一月かかる、ヨロッパでは二か月かかる。手ぶら日本旅行もあっても良いと思う。日本国内で売られている日本食品は本物の日本食品である。アメリカでも中国でもセブンイレブンがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代の大根河岸はどこ?銀座の隣り!

2024年08月30日 | 築地市場にて
京橋の西側の橋は、紺屋橋(別称中橋)と言い、その先に城辺橋(旧称比丘尼橋)あたりは大根河岸と呼ばれていた。昭和10年まで、青果市場があったからである。京橋川の堤防には、その付近だけ階段がついていて水運を利用して運ばれてくる青果物を運び上げるためであった。 早朝から、野菜を積んでくる舟、地上を走り回る大八車が忙しく行き交い、京橋、銀座一丁目周辺には、青果業者たちの大声が響いていた。
 このように、銀座のすぐ隣で野菜が取引されていたことはあまり知られていない。しかし築地市場が、今なお銀座の隣町にあることを思えば、銀座は、日常生活にもっとも近い街でもあることがわかる。そして、大根河岸と築地市場、築地と移転が予定されている豊洲とは同じ位の距離にある。

東京市史 市街編 第58 758頁から763頁
明治9年河岸地に命名     河岸地を若干命名す
中央区は大根河岸、竹河岸(大根河岸のとなり)等が命名された
明治10年8月3日 
 京橋より以西 比丘尼橋までの河岸地、自今大根河岸とす。 この命名の後
明治10年 京橋大根河青物市場設立認可 問屋37人、仲卸17人
 
京橋区史より
大根河岸は京橋川に沿ふた河岸地で比丘尼橋の北詰めより起こりて東のほう京橋に至る一帯の区域を言うのである。大根河岸というと公称のようであるが実は里俗名で、江戸町鑑によると(西白魚屋敷川岸通、里俗大根河岸と唱う)とある。これは当時から青物市場がここで開かれていたからかく称されていたのである。
 この大根河岸の青物市場は明治32年4月14日から16日に至る三日間創立235年記念祝祭を催した。此れによりて推定すれば延宝3年四代将軍家綱の時に当たるが,古老の話によると寛文2年創設されたと言い伝えられていて、其の創始年代については正確な記録が残っていないから不明であるがこの市場は元々数寄屋橋付近にあったのが火災にあって大根河岸に移転したと伝えられている。その移転の時期も不明である。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風から秋の長雨へ

2024年08月30日 | 宅老のグチ
台風10号が停滞し、暴風圏がなくなり、一安心と思っていたら、関東で雨の注意報。前の経験から河川のライブカメラで確認すると、二子玉川の兵庫島が水没しそうで驚く。その下流の田園調布のカメラも河川敷が消えそう。
 何時も台風の雨量をチェックするのは四国の水がめと言われる早明浦ダムの貯水・放水・貯水率の変化。60%台の貯水率で下流の水害がどうも予想していないのだろう。アメダスのデ―タは後追いデ―タで、事前にダムの放水して、災害に対処している様子が見える。この辺りは災害日本の経験豊富ということに尽きる。今の処の報道では数名の死者でこれから増えても秋田の集中豪雨より少ないと予想する。今は台風なら鉄道が止まり、田圃の見回りで災害死で亡くなる事例も、。モニタ-で済ます時代となった。自分も小雨となったら、多摩川の水位確認の人を見てみたい。
 そんなわけで今日の予定は雨次第。行きたいところはあるがこのような天気の時に異国人観光客は観光しているのだろうか。気になる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の種まきの時期

2024年08月29日 | 宅老のグチ
築地にいた時、秋野菜の漬物原料の種まきの時期の天候を気にしていた。10月19・20日の日本橋大伝馬町界隈で開催される、べったら市のダイコンは今は国産は青森県を中心とした、地域で北海道も増えている。大根自体は全国どこでも作付けがあって、天候不順で無ければ、大きな問題はない。それが10年から15年続くと連作障害と価格の問題が生じる。多くの農家がやる気を失って行く。それは大根というものがどこでも天候が行ければ出来るので、青果市場の価格が安いため、漬物業者に値上げが要求しにくい。さらに漬物業者がコメ離れで需要が減り、買い上げ価格を上げられないこともある。べったら市のべったらは大根は今年あたりは1本1500円位になりそうだが、ここを勘違いして、産地のダイコンの出荷金額との差が100倍にもなるので、多くの参入業者が毎年入るが、べったら市の日時が10月19・20日とさらに土日に当たると人出が大きく異なる。さらにその時期に選挙が当たっときは、東京のニュ-スで話題になることが減り、減ってしまったことがある。一番良いのは、19日が金曜日に当たり、さらに晴れなら良い。ところが今の政治台風の予想では9月末に新しい首相が生まれ、その人気度で解散が早くなるという。そうなると10月の下旬は選挙運動中で、べったら市の人出は期待は出来ない。さらにアメリカ大統領選挙もあって、11月も政治の季節。ウクライナは冬季の停滞戦争になるのだろうか。
 台風10号は何か(サンサン)という言葉が付いている。記録的遅い速さで、今日にも九州に上陸する。冬ダイコンの種まきも一時中止だろう。サンザン(散々)にならないように祈る。8月下旬に種まきし、発芽して双葉の時にまた台風が来て、大不作となった時がある。その時に中国に契約していた業者が大根を日本に輸入し大儲けした。大根というのは新規の畑は比較的に品質が良い。肥培管理の適切情報が行き渡り、日本との差が無い気がする。しかしこれもギャンブル。日本が適切な天候ならば国産は安心感がある。NHKの国際放送の中国人暴走放送は、ダイコン原料でも起こりうる。中国産にはテロの危険を想定しないといけない時期に来たようだ。中国の景気低迷のうっぷんを食品テロで日本に向かうこともありうる。日本でもバイトテロがあって、コンビニ・飲食店の客足が衰え、設備が変わった。回転寿司のチェ-ンで回転するレ-ンがある寿司の大手チェ-ンは1社となったという。タブレット・ロボット配膳・次々と飲食店は変化する。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平均年齢のマジック・間も無く死ぬのか

2024年08月28日 | 宅老のグチ
日本人男性の平均寿命が83歳程度で、自分には平均寿命と考えると5年程しか残っていない。コロナで4年無駄な時間の消費。母と妹との別れもあった。そこで気休めのデ―タを調べると、平均余命というのがある。
77歳男性の平均余命は10.73年で80歳男性平均余命が8.89歳、85歳男性の平均余命6.18歳というデ―タ。これをどう評価する問題が自分の頭に入る。
 さらに雑情報があって男性の認知症が80代で40%、90代で80%程度という情報もある。これは単身のデ―タで夫婦生存なら介護の問題に変化する。
 75歳を過ぎると、いつ死ぬかが人生の行動を束縛する。それを自覚するのが日々の体力の衰えで、駅の階段・エスカレ-タ-・エレベーターの選択で、体力維持の歩数稼ぎでも、徐々に心の中の言い訳で、より安易な道を選ぶ。特に昇りはその傾向が強くなってきた。都営の地下鉄はバリアフリ―と言っても、上り下りが全部バリアフリ―にはなっていない。自分は車いすを入院時に使ったことがあるが、広さと段差が問題となる。
朝起きると、天気の確認と体の節々の点検で歩きだすと、何かどこかに劣化の兆しがある。見上げる空は少し9月下旬ともなれば秋に空に似てきた。今週は台風10号の動きが遅く、鉄道が予防措置で運休予告を入れているので、。動きにくい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風の余波の雨模様なので

2024年08月27日 | 宅老のグチ
先日埼玉県立熊谷図書館で司書さんがカスリ-ン台風の本を検索し、出してもらう内に郷土資料の部屋の本を眺めていた。気になる本が1冊あって、手に取ってみた。埼玉県の忠魂碑という本で中身を読むと、神社の神職さんが氏子さんからの問い合わせで、神社内の慰霊碑について聞かれたが、知識なく元締めの埼玉の神社組織の人に問い合わせたことからこの本が出来たようだ。
 この本の題名にあるように忠魂、慰霊、留魂等々の様々な慰霊を意味する言葉で石碑が埼玉県の神社、学校、墓地、寺院等に建てられている様子が見えます。公的施設である公園等にも戦没者慰霊碑がある様子が見えます。この本が都内で読むことが出来るか調べると埼玉県は多くの市の中央図書館で読むことが出来るが、東京は読めないようだ。
 戦後に占領軍の指令で軍国主義の遺物の破壊が命令されていたが埼玉県の小学校の一部に慰霊碑等が残っている。特攻で戦死した叔父の出身小学校には日露戦役の出征兵士の碑がある。GHQに対する反発があったのだろうか。
 カスリ-ン台風で大被害となり、豊作予報から不作となり、割り当て供出米制度の不備からGHQに対して、戦前の軍部と同じように強制されたコメ供出に反発があった想像できる。そこにはヤミ米需要があって、高価格でさらに物々交換の様子が文献から見える。
 今度の日本本土にやってくる台風10号は新米の出回りを遅らすかもしれない。煽り行為はすでにあって、様々な情報が出回っている。
 宮崎沖の地震、それによる備蓄、異国人観光客需要、昨年度の高温障害による不作、低品質、ウクライナ戦争による代替食料の高騰によるコメへの需要移動などが想定できる。すでに激安量販店には最低量の値上げした米しか入荷していない様子が見える。コロナの初期のトイレットペ-パ-の買い占めに似ている。
1993年、日本は深刻な米不足にあえいでいました。同年の日本の米の生産量は979万3000トンと、前年比74.1%にまで落ち込みます。原因は1913年以来、80年ぶりの大冷夏でした。緊急輸入となったのですが、コメの品質が日本人の好む米でなく、パサパサとした米で炒めて使うしかなく、箸ではポロポロとこぼれた思い出があり、最終的にはかなりのコメが余った。そして翌年は猛暑となり大豊作で平成の米騒動の記憶を無くした。農業にはこのようなことがある。人は普通の事が長く続くと、常態として記憶の上書きがあって過去の記憶を消し去る。
 平和が79年続いていて、常態としているが、世界は戦時となっている。食がいつでも自由に確保できるのが常態ではない。今度の10号のコ-スによって大被害と言うこともありうる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シルバ-パスの更新は一種のギャンブル

2024年08月26日 | 宅老のグチ
東京都のバス協会からシルバ-パスの更新案内が来た。10月1日からの正式使用だが、もう支払いを済ました。8月は年金支給月でまだ余裕がある。シルバ-パス利用の利用頻度は自分は多いので、10月ひと月で更新費用20510円分の費用の元が取れる。ただ忘れていけないのは本人のみの使用者で晩節を汚す行為をしたくなく、他人には貸さない。紛失も認知症の問題もある。また寝たきりとなると払い戻し。転居も払い戻し。
封書で送られた更新案内には、払い込み票があってコンビニ支払いで、ポイントはつかない支払い方法(現金)となる。さらに規則とフレイルという言葉の冊子。良くわかる学歴者の高齢者の理解しにくいカタカナ用語。どうも医学用語のようで(虚弱)という翻訳語もある様で、実際の使用されている例では虚弱では無理な感じがして、仕方なくフレイルという言葉が介護系医学用語となった気がする。さらにAIでフレイルを調べるとフレイルとは 医学用語である「frailty(フレイルティー)」の日本語訳で、病気ではないけれど、年齢とともに、筋力や心身の活力が低下し、介護が必要になりやすい、健康と要介護の間の虚弱な状態のことです。
 このAIの回答も変化しそう。介護系の用語の定義とか使用例と実際の高齢者の言葉から来る印象から変わる気がする。そこからまたカタカナ語が増える。明治期以前は日本の学者は漢文素養があって、外来語を日本語に翻訳するのに安易にカタカナ語を使わなかった気がする。漢字の語義から新しい和風漢語を作っていった。いまは日本人が漢文素養が受験用となって、新作用語に出てこない。こんなことを考える余裕があるうちは認知症の恐れがまだ来ていない気がする。
 シルバ-パス利用の外出で、身体を動かす事がフレイル予防となることを強調している。実際は病院通いのバス便の混雑とル-ト設定が目立つ。都区内のミニバス路線には大規模病院のコ-スが多い。
 寝たきりとなったり、紛失の可能性が年取ると増える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年麻布十番納涼祭り

2024年08月25日 | 宅老のグチ
この前都立中央図書館へ行った時、麻布十番商店街で納涼祭りの告知広告を見ていて、先に在日韓国人歴史館での展示 BC級戦犯の問題をはっきり見たく、力道山生誕100年の展示、さらに高校野球の結果表示もどう変化したか、確認したかった。つまり麻布十番行きは野次馬と言うことに尽きる。BC級戦犯問題は戦場のメリ-クリスマスという映画で、捕虜の扱いで戦後に占領軍によって裁かれた。この問題は日本捕虜誌という本を著した長谷川伸の本を読んで知識としてあったが敗戦間際に徴兵された兵士にとって、国際法の知識があったのだろうか。捕虜の扱いが日露戦争の時までは良かったが、次第に見下し感と捕虜への態度が変わっていったという。
 何回か朝鮮半島の人達の渡日の様子を歴史館で展示物を見たか、日本が明治維新後にすぐにハワイ等に出稼ぎ移民をした歴史と気持ち的に合致しない。どこに差があるのだろうか。日本人は出ても戻る意識が根本的にあったのだろうか。タクワン貿易の歴史から、そのように感じる。
 麻布十番の祭りは日本では一番想像できない祭りで、太鼓の演奏もあるがジャズ等の洋楽の多い祭りで、異国文化が日本文化に混じるとこのような祭りとなる。屋台より、簡易テントの出店。日本酒よりビ-ル・ワインで肉系のつまみ。それゆえ子供の姿はいるのだが目立たない大人の男女の祭り。

 暑すぎ、混みすぎ すぐ退散。この祭りは年寄りと子供には不適切な祭り。来週は台風の週。どんな水難があるのだろうか。それてほしい。

 都立中央図書館で読んだ本は昭和25年の埼玉県水害誌という本でカスリ-ン台風の被害等の記録の本で決壊の原因は小さく戦時中の大蔵省が利根川決壊の現場に予算を付けなかったという。今の日本史では戦時中の木の伐採と台風としているが、普通の大雨のカスリ-ン台風。房総沖を通過していている。この水害が昭和22年の作柄が豊作予想だったのが埼玉県を大不作となった。寅につばさの朝ドラで餓死した裁判官は1947年(昭和22年)10月11日に33歳で餓死した.。記憶に残る台風となる。ここからララ物資が日本に来るようななった気がする。日本の赤化を恐れた様子が見える。
今度の台風は令和のカスリ-ン台風となって欲しくない。今の量販店のコメ売り場は空っぽで台風の被害があればコメ騒動となる気がする。すでに観光土産が米となりつつある。地球温暖化でコメの品質が悪く、貧乏人は何を食するのだろうか。忍者は霞を食う。空気は読んでも食って腹は膨れず、怒りが膨れる。でもまだ米は激安と思う。
.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊谷市でシルク産業を想う

2024年08月24日 | 宅老のグチ
熊谷行きを決めて、ネットで熊谷の観光地を探るとシルクの記念館があった。なぜだろうと思いつつ、熊谷の県立図書館へ電車で行った。乗った電車がどうも車内アナウンスで熊谷に行きそうにもなく、大宮駅で乗り換える。途中駅で高層マンションが高崎線各駅前に見えて、木造1戸建ての終わりを感じる。もう大工という仕事が室内リフォ―ムしか残っていないのだろうか。
 熊谷駅に降りて、図書館への案内地図でラグビ-通りという道路名があった。この地でラグビ-があったのだろうか。タクシ―乗り場でミストの霧で気温を下げていた。猛暑の対策を肌で感じる。よく温度計を出している所もあるが体感では暑くないと思っていても、温度計で暑さを感じる。熊谷駅から図書館まで歩いて行くのだが、途中に歩道橋があって、鍛錬と思いつつ昇り、下る。群馬銀行の後ろにハロ-ワ-クと図書館がある。20分ほど歩き汗が出る。最近知ったことだが日本は地方でも銀行があって、郵便局から農協・漁協・信用金庫・信用組合・地方銀行まで各地にある。それがアメリカでは数が少なく、転職すると仕事が無くなり、銀行取引が消える。そこからクレジットカ-ド、小切手が使えなくなり、一気にホ-ムレスとなるという。この点では日本では郵便局があって、ス-パ-の年会費が無料のカ-ドを作れる。最近びっくりしたのはETCカードが名義人が車に乗っていないと法律違反という判決があった。この判決の理由はクレジットカ-ドを作ることのできない反社の人が車を運転していて、ETCカードを使って高速を走った。このことから実刑という。控訴中だが確定すると影響は大きい。夫が車の名義人で妻が夫名義のETCカードを使うと、規則違反という。今警察は反社の人をあらゆる法律を使って締め付けている。
 熊谷の図書館で知覧の特攻平和会館に寄贈する叔父の資料を再度コピ-をした。不鮮明だったのを出来るだけ鮮明にしてもらった。手持ちのコピ-は著作権で廃棄という。でもコンビニで何枚も複写できる。それも5円で。
 昼になって熊谷駅に戻る。ネットで調べた片倉工業のシルク記念館を探して向かった。暑いのでバスか電車と思ったのだが、行きは秩父鉄道で一駅の上熊谷駅で降りて、イオン熊谷に行く。どうやらイオン熊谷は片倉工業熊谷工場跡と言い、無料で見学できそうだった。秩父鉄道上熊谷駅で遠くを眺めるとイオンの建物が見える。そこまで8分ほど。熊谷土産を買って、シルク記念館の位置を聞く。建物内でなく外にあるようだ。行ってみると理解できたが年中無休のイオンとシルク記念館は休みがある。開館時間も異なるようだ。
 展示物は世界遺産富岡の製糸工場と似ていると思い、上映している映画で片倉工業の歴史で、富岡の製糸工場を最後まで維持保存していた片倉工業の気概を熊谷で感じた。富岡と違うのは観光客がいない。富岡は明治期の設備、熊谷は戦後というより最後の稼働していた昭和62年の様子が見える。バブル直前で、この後円高では維持は無理だったと思われる。繭の品質選別で女性の若さが必要と感じるし、さらに教養を与えるという会社内学校の様子がライオン歯磨きの社内学校と似ている。
 コロナ前に宮城県丸森町でシルクの町と言われ記憶に残っている。どうも今日本では国産シルクは激減している。もしかすると国産原料のシルクは丸森町産しかないのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関東一の猛暑を懸念しつつ埼玉県立熊谷図書館へ

2024年08月23日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
浦和の埼玉県文書館の1階に埼玉県立図書館浦和分室がある。激セマの図書館というか、本の引き取り所。ブックポスト。浦和分室は、資料の閲覧、貸出、返却等ができる埼玉県立図書館の窓口です。
 この窓口の人に熊谷の県立図書館の所蔵している昭和18年9月の埼玉版の新聞検索を頼んだ。手持ちの新聞は毎日新聞埼玉版で残りは朝日と読売となる。地元の埼玉新聞は文書館の昭和18年9月の縮刷版があるのだが9月の大部分が白紙で、9月末に新聞記事が出ていて、月末に繰り上げ卒業した師範学校卒業生の配属小学校が記事として残っている。それによると特攻で亡くなった叔父の赴任先が今の越谷市大袋小学校のようだ。この小学校にごく短い期間に先生をしていたという親族の言い伝えがある。そして川辺村の自宅に小学生の慰問袋が贈られいたという。この話の事実確認はどの様にしたら良いのだろうか。
 県立図書館浦和分室で調べてもらったら、朝日は戦後から、戦前のマイクロフィルムで保存しているのは毎日と読売だった。
 今はデジタル化している新聞があって、昔べったら市の資料調査で、横浜の新聞博物館で検索していた。検索用語が漬物用語と一致しなくてヒットしないことが多く、多分誰も検索していないので出てこないとおもっている。
 熊谷の県立図書館は数回訪問していて、様子が判っているが、今回は車でなく、JR熊谷駅から歩きかバスで計画する。東京では結構閉館日に図書館へ行ったことがあるので、まず休館日の確認。そこから関東一の猛暑と言われる熊谷の気温、夕立の様子。そこにまだ一回も熊谷駅に行ったことが無いことから,帰りと街散歩も出来たらとおもう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼玉県文書(もんじょ)館へ再び

2024年08月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の遺品ともいうべき、昭和18年9月8日の新聞記事の埼玉版をもう一度鮮明なコピ-が出来ないかを探るため、JR浦和駅から歩いて、埼玉県庁を過ぎて、埼玉県文書館へ行った。
多分というか最後の訪問となる気がする。叔父の軍歴の未解明の事実がこの文書館に所蔵されている、埼玉県版の新聞記事である程度解明できた。ただこれは当時の事実を聞くための道具で実際は心の中をのぞくことは無理だろう。もう80年程の月日が経っている。
 コロナで予約制となったが、前回の感覚で、ほぼ誰もいないので予約なしでも入れる気がしている。この文書館で9月1日まで埼玉県教育史の編纂から導かれた、埼玉の学校の歴史が展示されていて、現物もある。物不足の江戸時代の手習いの跡の様子が見える。物を粗末にしてはいけないとか寺子屋で何を学んでいたかの様子が見える。識字率の様子が埼玉でどうなっているのか、その対策は埼玉県教育史の本を読まないと思われるが1冊4センチのある本が数冊見える。叔父がなぜ農家育ちなのに小学校の教員養成の学校を目指したかの親族の情報が無い。言い伝えでは川辺小学校の校長先生に進路相談した所、隣接の千葉県野田市の野田農工学校へ行くことを薦められたという。この学校はキッコ-マンの援助があった学校で今は千葉県立清水高等学校となっている。キッコ-マンへの工員養成だったのだろうか。今でも食品系の過程が清水高校にある。そこから浦和の埼玉師範学校に進むのだが、戦時となって中国の戦火拡大で教員の従軍免除の特権が消えていく時代で、競争率が下がっている時期だった。それでも親に学費・寮費の負担を避けるため、師範学校に行ったと思われる。聞いたところでは寮に住んでいた様子がある。
 昭和18年の日本は戦争がミッドウエ-海戦敗北後に負け戦に進んでいて、飛行機搭乗要員の即席操縦士を養成することとなった。海軍が数千名で陸軍が2000名募集で合格者は水増しだった。海軍の競争率が10倍を超えていて、陸軍が5倍程度。従って昭和18年7月の朝日新聞の記事ではしきりに陸軍の応募案内記事が出ている。多くは身体の要件で視力が問題だった。さらに応募方法がが個人で最寄りの陸軍に応募する方法と学校の駐在軍事教官経由で陸軍特別操縦見習士官の願書が出せる。
 叔父の伝聞では家族の了解は得ていない様子で、師範学校経由の願書提出と思われる。それゆえ合格の郵便が来ていても、時期から学徒出陣の招集令状が来ていたと思っていた様子が見える。
 叔父の軍歴から11月1日入隊。普通の特操1期生は10月1日入隊。
この事実の解明が今年の7月に出来た。陸軍と海軍の対立で、10月1日の入隊の日に埼玉師範学校の陸軍合格者10名の内、一人が入隊日に出なかった。そこから欠員騒動があって、どうも叔父が繰り上げ合格となった様子が見える。この時に陸軍に入隊した9名は戦後の埼玉県文書館の保存されている、昭和25年頃の埼玉師範学校男子部同窓会名簿で生きて戦後に教師となっている様子が見える。つまり不合格となった叔父が唯一戦死し、合格し陸軍の飛行士になった同窓9名が戦後に生きる。
人生の理不尽を感じる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道路の逆走経験

2024年08月21日 | 宅老のグチ
自動車教習場で高齢者運転免許更新の講習を受けていて、逆走が自分も最近してしまった。しかしすぐに気が付いたので、訂正できたが高速道路では大きな事故となるのでETCの電波を感知して、逆行を知らせる技術が出来ないのだろうか。
 自動車の逆走で気が付くのは軽自動車の被害差が大きい。よく言われる軽自動車は走る棺桶。75歳以上の高齢者が事故を起こすと、厄介なことが待っている。次の更新で認知症の審査が待っている。さもなければ中国で人命軽視の自動運転の実験走行の特許を日本車がもらうしかない。東京大田区の羽田イノベ-ションセンタ-で自動運転のバスに乗ったことがある。中国の武漢の無人タクシ―の動画から、普及は間もないとおもう。これには不祥事がどこでいつ、どんな形で起きるか、中国での実験を知るしかない。日本ではあまりにも人命優遇で一度の失敗で前途が消える。失敗情報をもみ消す中国と失敗でも再挑戦できるアメリカ。しかし日本は一枚しか買えない人生宝くじの挑戦のようだ。

 高齢者の逆行対策は自分のミスの経験からいつでも起こりうることを知った。他人事ではない。今の処の対策は不要な外出で車を乗らないことにしている。乗る時は運転代行の場合と病院の送迎と決めている。でも免許の返納はしない。老後の選択しを狭めるし、自動車の技術の進歩で自動運転が進み、監視、誤動作制御の時代が来る気がする。変速機がクラッチからオ-トマに変わった様に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早田発言で元特攻隊員が増えた

2024年08月20日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
昭和20年5月20日に叔父が台湾から沖縄に向けて、夕方5機の仲間と1機の誘導機で出撃した。作戦名は 誠 という名称がある。知覧の特攻平和会館のホ―ムぺ-ジの解説で(特攻部隊のうち、九州から出撃した部隊は" 振武隊(しんぶたい)"、台湾から出撃した部隊は" 誠飛行隊(まことひこうたい)" と呼称しています。)
 普通の日本語の解釈では、振武とはは「剣道などの武道を広く活発に伝えることで、人と
しての正しい生き方を多くの人に知らしめ広げていく」という解釈があります。
 ところが自分が福神漬の歴史を調べていて、上野の戦争つまり彰義隊の戦争で振武軍というのが出てきます。
上野戦争の当日、 渋沢成一郎たちは、田無(現・東京都西東京市)の西光寺を本営として屯集し、隊の名前を「振武軍」と定め、成一郎が隊長、尾高惇忠が参謀長となりました。その後埼玉県飯能市で敗北しました。誠 隊は誰でも幕末の新選組を思い出すでしょう。
 叔父の人生の航跡を探して文献を読むと、生き残った元特攻隊員がやたらと多いことに気が付きます。数字上、知覧の特攻平和慰霊館には1036名の陸軍特攻隊員の名前があります。海軍は知覧ほど有名ではありませんが全国各地に慰霊館があります。文献では海軍飛行兵士の特攻隊員は4000名ほどです。でも元特攻隊員はもっと自称の人が多いと感じます。
 なぜ元特攻隊員が多いと感じるのは、本土決戦のために、特攻という名の要員を増やしたと思われます。そこで8月15日に終戦となり、生き残ってしまったのが実情と思われます。戦後はすぐに特攻隊員の英霊が否定され、無駄死にと言われた時期がありました。そんな時期に無頼派作家という坂口安吾が特攻隊員の行動を擁護しています。
無料で読める青空文庫で

特攻隊に捧ぐ
坂口安吾


 戦争末期日本はほとんど幼児と高齢者をを除いて、戦時要員となった。このことが精神で敵に勝てると思っていた軍部が特攻隊員を増やし、行きの残った特攻隊員を増やし、戦後の元軍人の口を封じた。それは敗戦というより、死ぬはもろともという戦陣訓の影響だろう。武器、燃料、食料の欠乏していた特攻兵士は特攻する準備だけさせられ、生き残った。実際に慰霊されている陸海軍の特攻兵士がおよそ数千人だが元特攻兵は10万人以上の人がいてもおかしくない。本土の決戦用の兵士は特攻思想が普通になるように教育されていて、女性でも沖縄の事例の様に軍から自決を求められていた。

 この様なことがあったことを知る必要があるということを知るため知覧に行ってほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知覧の特攻平和記念館へは覚悟が無いと

2024年08月19日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館へ行くには、ある程度覚悟が必要で、広島長崎の原爆資料館の様についでというわけにはいきません。知覧町は茶の産地で何もない農村風景と武家屋敷の町です。JR鹿児島中央駅からバス便で1時間20分。便の本数も少なく、近所の南さつま市立万世特攻平和祈念館は、鹿児島県南さつま市にある戦争資料館があります。ここへ行くにはバス便では難しく、結局車で行くしかないかタクシ―利用となります。そんなところから戦争末期に沖縄に向けて特攻に行ったのです。史実を知れば知るほど、若い人の命を戦意高揚に費消したと思うようになります。特に万世飛行場は即席の飛行場で滑走路が砂利で出来ていたため、飛行機の脚を収納する速度の速い飛行機が万世では使えませんでした。旧式でさらに戦争末期には米軍が三段構えで上空に待機していて、日本軍が飛び立ちレ-ダ-に把握されると、圧倒的な戦力差で沖縄までたどり着けなかった。多くの特攻本の記述は戦果率を見て、無駄死と言われた歴史があります。自分自身は特攻遺族となって、まだ20年程しか経ってなく、比較的に無関心でした。
 20年ほど前から、叔父のいたずらで、叔父の航跡を調べ始めていたのですが、築地市場移転問題で仕事を取られていたので、家族に叔父の航跡を調べてもらいました。主に主に調べたのが生きている親族の証言と靖国神社偕行文庫図書室の学芸員の人達でした。93歳の現役ユ-チュ-バ-で、ネット検索で逆さ歌、中田芳子と検索すると出てきます。この人の夫となる中田軍曹は叔父たちの同僚でした。
 1036名の特攻隊員が知覧で慰霊されています。この数字について、きむらけんさんは定義がおかしいと言ってます。下北沢の代沢小学校の児童たちが学童疎開に信州浅間温泉での交流の本がきむらけんさんの本が数冊出ています。
 定義の例を挙げると叔父の特攻では隊長として栗原義雄少尉となっていて、特捜一期生同期の小林脩少尉の他3名、そして誘導機1機で飛び立ち、すべて未帰還となりました。きむらけんさんに聞いたところ、誰かが特攻の様子を見ていている記録があるという。この記録が無いと軍人恩給に繋がるという。未帰還の飛行機の搭乗員は知覧で慰霊されていない。
 記録が無いと評価されない戦争。京都の耳塚の由来を思い出した。

 参考 きむらけん著
 台湾出撃沖縄特攻 陸軍八塊飛行場をめぐる物語
この陸軍八塊飛行場は今は台湾国防大学の敷地にあって、一部の遺跡が残っています。叔父の最後の宿泊地は復元され、台北紀州庵として保存されいます。台湾のドラマで畳の上を靴を履いて歩いていて驚きました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分離したドレッシングを見ていて・中国デフレを想う

2024年08月18日 | 宅老のグチ
野菜を食べるためドレッシングをかけようした時、ボトルの中が二層に分離していて、振って液体を混合し使った。多くのドレッシングは量販店の売り場では分離している。混じっているのがある商品は乳化剤で分離を阻止していると見える。
 商品の表示を見ていて、ふと日本社会はこの分離しているのが2種類でなく、少なくとも3種類の分離の世界があると思い始めた。それは中国がしきりに日本のバブルを研究していると言っていて、なぜデフレになったかの研究していなかったのだろうと思い出した。中国が日本の発展を研究し、その欠点も調べていて、いわゆる先行有利の発展方法の改良型の歴史だった。日本が明治維新時に多くの外国人が高給で日本で活躍し、物まねし、安価な労働力で輸出を増やし、工業化し、軍事力を増やした歴史を知っている。この方法を中国が見習ったと言える。改革開放の政策を取り、輸出を増やしたがスピ―ド感が日本が不足していて、日本の土地制度で定期借地権という制度を中国に取り入れ、不動産が国有という制度から中国国民に家の大きさが自由になる夢を与えた。稼いでも金を見せびらかす行為に手段がなく、家の70年間の占有権を購入し、広い家に大型のテレビを据え付け、一族で食事をするという見栄社会になった。これは安定した中国になったからで、デフレの日本は各駅停車の電車の様に予期せぬ自然災害で経済発展と消費の拡大から貯蓄へ回っている。ところが中国は家が大きいので物の収納力が大きいい。さらに労働者の年齢の若さがあって、いわゆる宵越しの金を持たない世界に入っていた。これは各駅に停車している日本列車をあっという間に通過していった超特急列車経済。何しろ10倍の人口と平地の広さは公共工事の速度は速い。そして地方行政の指導者たちは出世と利権のために、働く。欲の塊。中国は本当は民主主義・資本主義の国家の方が良いのだが人治の世界では強権で無いと中国は統治できない歴史でもある。もし習体制が崩壊すると、昭和前期の中国軍閥の乱立で内乱になる気がする。

 なぜ日本は3層以上の社会があると思ったのかと言うと江戸時代の士農工商の身分でも、実際は工商は一つの様に感じるし、維新時に没落した士族は農に戻り、開拓民となり、満蒙開拓団思想の根源ともなった気がする。そこから江戸時代の日本は身分区別上の最下層と見なされた遊民の人達がいる。これは多様で記録がない所は漏れていて、今でも非差別部落を侮蔑している人たちの優越感の根拠としている。ところが今の日本は異国人との婚姻増大で彼らの優越感の根拠が消えつつある。
 今は準戦時になりつつある。先の戦争で生き残った人たちが武器の進歩で非戦闘員でも戦争に参加する時代に入った。手に乘るドロ—ンが位置測定、探索等の操作は体力のない女性・子供でも戦闘員になりそうだ。理不尽な核兵器による脅しに対抗するには、何があるのだろうか。福島沖の公海で操業する中国漁船団の漁獲を中国産で売る国に対抗できるのだろうか。
 先の戦争に誘導した日本の言論はもう戦争に向かう言論誘導に対処できるのだろうか。SNS侵略はそれがばれた時に、大きな反動がある。自由世界は見えざる手で修正が出来るが強権中国では指示待ちになるしかないのでかっての先行有利の世界から、各駅停車の列車の様に権力列車が先行するまで、駅に留まるしかない気がする。今の中国での不動産問題処理は日本の先行事例で成功例が無いために、中国政府は対策の創出に苦労しているように見える。日本の最下層の人達がバブル崩壊で、政府の対策不振から給付金を支給されても貯蓄に回る。節約こそ生き残る道。
 デフレ中国で個人の貯蓄率が40%と言う。この辺が日本の高学歴学者の欠点で、高学歴の人は親が裕福で無いと高学歴とならない。そんな親ガチャ学者の底辺研究を先行事例とした中国の不運ともいえる。日本デフレの象徴と言えるマック65円バ-ガ-、牛丼280円が中国で見える。いくら統計をごまかしても政府不信では節約で対抗するしかない。唯一の救いは中国が監視社会で平穏が維持している。996では消費促進しても、無金・時間消費に向かう様子が見える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする