明治16年自由民権運動福島事件で起訴された花香恭次郎は干潟町史(今の千葉県旭市と合併)に三島通庸関係文書に東京士族と記載され、住所は深川伊勢崎町32となっている。
平成12年9月16日発行の江東区深川江戸資料館の資料館ノ-ト第29号に近代海運が発展を見せた明治10年代に三菱(岩崎家)三井(三野村家)渋沢栄一などが深川に邸宅を構えました。三菱は深川清澄住町から伊勢崎町(現在の清澄2~3丁目)三井は岩崎邸と隣接して北側の深川西大工町(現在の清澄2丁目)渋沢は深川福住町(現在の永代2丁目)に屋敷を構えていました。図書館で大正元年の地籍台帳と地籍地図を調べたところ、花香恭次郎の届け出た住所は岩崎久彌(本郷区湯島)の所有となっていた。関東大震災後に深川は道路が整備され、明治期の面影は残っていない。今の清澄庭園は三菱の岩崎邸の跡となる。
大江戸線.半蔵門線清澄白河駅を降りて、地上に出て、清澄2丁目3丁目を歩くと、江東区の付近の地図には相撲部屋が4か所ばかり書かれていました。江戸の河川物流の中心となった小名木川運河が清澄のすぐそばを流れています。
千葉県万歳村の花香家は東京での住まいと情報収集の起点として水運の小名木川に住んでさらに出張所として南茅場町に店を構えたようです。明治12年から14年までの短い存続期間ですが今の千葉県で八幡47,銚子142,八街143,千葉98と国立の4銀行が設立されましたが、今の千葉銀行だけが国立銀行の後継銀行として残っています。この辺の史料は少なく、干潟町史でも誤りがあって、難儀しました。
銚子国立142銀行の東京出張所は南茅場町にあって日本郵船が岩崎弥太郎の元で創立したところ近所でした。三菱の社史では南茅場町16とか18となっていて、本店所在地の混乱があって、中央区の京橋図書館の郷土資料室に明治10年頃の土地の権利関係の史料では名義変更がなかったようです。沽券台帳のようなものです。深川伊勢崎町の土地が岩崎家の名義となったのは明治14年以降の花香家の経済状況と思われます。税金さえ払ってもらえれば名義はどうでもよかったのではないかと推測されます。今でも土地の名義変更をしないで放置することがあって国が困って間も無く相続後に名義変更を怠ると罰金が来るようです。しかし明治以前からこの風習が残っていて、実際運用でうまくゆくのでしょうか。
花香恭次郎は明治10年の西南戦争の報道姿勢で公益問答新聞社主の服部撫松(誠一郎)と対立し、東北地方に行き、福島町(今の福島県福島市)に居を構え、自由民権運動に活躍し、日本史に名前を残しています。