年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

侍タイムスリッパ-

2024年09月30日 | 宅老のグチ
曇天の予報で出かけるには躊躇していて、空を見ながら映画館へいった。何か映画の評判が良く、急遽に拡大上映となったという。
いま時代劇がテレビでも少なくなって、ほぼNHKしか予算の関係で出来ないようだ。不景気が時代考証のいらない現代物かアニメに行っていて、ネットドラマの方が世界に通用する時代劇を制作している。

映画評で予算の少ない方法で時代劇を制作する工夫があって、映画撮影所とか京都の寺院とかの協力もあったようだ。すでに興行収入を1億円を超えているので、たった一つの上映館から始まって拡大して行く姿は映画製作者の冥利に尽きると。ファンドで制作費を集める行為の映画は一種のギャンブルに近い。今の風潮では数百人が関係する映画は不祥事があると上映できない風潮がある。さらに何年か後の不祥事でも再上映できないとか、権利関係の法的契約の土壌が日本に無く、さらに再上映の出演料が不明確に見える。

 これからAI技術で少ない俳優と時代考証の不要な過去の時代風景、幻想の映画のような低予算になるのか、または豪華なセットの映画になるか、気になる未来。

 築地で働いていた時は忙しく映画もみれなかった。そしてリタイアしたら映画館は激変していた。多くの上映映画は子供向けのアニメかデート用の映画。時代劇はレンタルか、動画配信。レンタルビデオも消えつつある。この変化の激しさは、ついてゆけない。日本映画の最盛期の昭和20年代物は今どこで巨大な画面で見ることが出来るのだろうか。浅草を歩いていたら、今は有名となった芸能人が下働きをしていた。浅草公会堂の外の芸能人の手形で知っている人が多いのは高齢者となる。
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一新の10月に

2024年09月29日 | 宅老のグチ
10月からまた値上げが加速するのだろうか。ついでに首相も代わる。株相場では30日は乱高下しそうで、また株の初心者はハラハラの一日となりそう。どうも金融関係の役人は素人投資家を儲けさせることに熱意がない。その理由は素人に儲けさせても、自分の上司の天下り先の老い新ポストが無いことに尽きる。島国日本は長い間自国だけの経済圏で日本語という難易度の高い言語で競争弱者の地位を守った。ところが最近のAI技術の急速の進歩で通常会話程度が同時通訳となるという。

  社会科見学として、近隣のコメを売っている食品店を見回っている。数日前から、新米が出回り、昨日あたりではほぼ仕入れを抑えているように見える。それでもコメ売り場には空いた棚があって、それは電子レンジでチンすればよい、パックご飯の所である。パックご飯はある程度コメが集まらないと製造の準備ができない。このままの状態だと10月後半に棚が埋まるのだろうか。
 令和の米ショックは地球温暖化と米食の低価格で小麦系の食品インフレの抵抗と見た。インバウンドもあるがこれは価格抵抗があって、高価格となりやすい。

 月末で気温も下がって、出かけたいのだが70過ぎて急に病気が出てきて、今は耳鼻科・内科・眼科・皮膚科へ通院している。眼科は運転免許の更新のためで、以前は5年に一度の点検で眼鏡の様子と、緑内障の進行具合のチェックだった。もう緑内障とは20年の付き合いとなるが、眼圧が20という数値が超えるようになって、今目薬で調整中。すると後発白内障というのが発見され、レーザ-で治療。免許の更新が終われば眼科は一時の休み。皮膚科は眼科で出された目薬がしみて、良く見ると瞼にイボらしきものがあって、皮膚科に行って凍結治療となった。これもあと数回。残りは耳鼻科で花粉症とハウスダストによる鼻水の薬。これも今休み中。来年の花粉症時期まで。
 多くの医師に言われたのは、高齢による免疫の劣化という。それでもコロナの感染はいまの処無かった。
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地球温暖化で韓国白菜キムチの危機

2024年09月28日 | 宅老のグチ
キムチ国の韓国の報道が、メールで届いた。今年の異常高温と韓国農家の減少で、秋冬の漬物時期のキムチ用白菜の状況が良くないという危機感が報道に現れていて、韓国の高原地帯の畑で高齢農家の人が立っている画像があった。日本では家が狭いので地方の家でも漬物小屋があるところしか漬物を漬けている情報が消えた。農家系のホ―ムセンタ-を時々除くと、プラスチックの漬物容器と持ち手の付いた重石とフタが販売されている。そこにはセットとして唐辛子も良いされていた。10月になると気分は正月の予告のような商材がホ―ムセンタ-に出てきて、昔はこうだったという記憶を戻してくる。
 どうも韓国の農林水産省と似たような官庁がキムチ文化を普及させる人材を認定しキムチ名人という制度があるようだ。日本では多くの古典芸術・工芸等で人材の表彰をし、伝統技術の継承を狙っているが、こと食品に関して、何か個人任せと、食品衛生法の意識が強く、さらに家庭の味ということで、xxx名人という制度の検討も無いようだ。
 これは先の大戦で敗北したことの反省で戦前は家庭の表彰が良く報道に見えていた。産めよ増やせよの世論誘導があった。

 まだまだ嫌日の気分があって、日本の余剰白菜を輸入するという考えがなく、中国から輸入する方向のようだ。韓国の白菜と日本の白菜を比較するとキムチ用には韓国白菜の方が適している。その理由は日本のは鍋用に適する白菜で水分が多い。キムチは水分の少ない白菜のほうが良い。
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台湾神社の事で

2024年09月27日 | 宅老のグチ
九段下の昭和館4階の図書室で、台湾神社(台湾神宮)の記録を読んでいて、その由来が記述にあった。多くの日本の神社には由来がある。日本の神道は古代では、あらゆる物に神が宿るとされ、特に大きな木、巨大な岩、あるいは山などは、「崇高な神様が降りて来られ宿られる特別の場所」と考えられていました。 そして、その宿られる物は、神様として拝め奉り、四季折々に祭りを行ないました。その後、その場所を特別な所とし、通常の場所とは違う、神聖な場所として区別するために注連縄を張ったり、石で囲いを作ったりしたのです。
 この神道を理論化したのが日本神話で、世界の宗教の中では異質感があります。八百万の神という考えです。それに公式に編纂された経典が無いと感じる。そこから他の宗教から、批判される文言が存在しない。日本の神と思われる存在は太陽でこの太陽を否定する宗教が無いように思える。
 自然災害の多い日本でからこそ生まれた宗教の様に思える。一番馴染んだ外来宗教が仏教であった。その仏教でも明治維新時に批判され、多くの仏像が壊され、海外流出もあった。キリスト教も戦国時代に広まったが、徳川政権時にほぼ消えた。そして明治期にまた日本へ欧米から布教活動をしたが、いまだに信者数が低迷している。日本人の冠婚葬祭のうち、結婚式はキリスト教系が目立つ。753は神道、葬式は仏教。
このごちゃまぜの宗教観は一部の新興宗教によって批判されているが殆どは、ごちゃ混ぜの宗教で生きている。文部科学省の統計では日本の宗教人口は国勢調査の人口よりはるかに多い。いかに複数の宗教に日本人が登録している様子が見える。

 台湾の神社は日本が台湾を占領してから、創建されたので、日本政府の意図的な神社である。殆どの台湾にある神社は北白川宮能久親王を祭神としている。ついでの様に古事記由来の神も由来に記述となっている。
 戦前の事を知っている台湾人は神社をどう思っていたのだろう。戦前の台湾神社の跡地にホテルが建てられ、圓山大飯店となって、多くの日本人がこのホテルに宿泊し、台北観光をしている。

 最近知ったのだが、桃園市という台北市に隣接する市に戦前の日本神社の遺構がほぼ戦前のまま残っている。一部が台湾軍人の慰霊廟になっているが、外見上は日本神社という。行って見てみたい。桃園神社という。
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認知症を本人が自覚する方法

2024年09月25日 | 宅老のグチ
認知症は本人が自覚して、医師に相談できれば良いのだが.。
 通常は本人が自発的に診療に行くことは無いようだ。そこで家族が付き添って行くのだが調べると認知症の診療は、病院では精神科、脳神経内科、脳神経外科、老年科のあるところとなる。

70歳前後に、ある道路の所に二人の警察官が立っているのが見えた。その時車を運転中で、歩道の手前の停止線に止まらないで違反となった。違反のきっぷを切られている時に気が付いたのだが高齢者が認知症の恐れがある交通違反をすると、罰金の前に認知症、または次の更新に影響がありそうだと知っていて、警察官にこの違反の次の展開を聞いたが知らなかった。そこで認知症の判断をする専門医が厚生労働省の認定医は日本では2000名しかいない。従って、多分警察の人は普通の町医者の口頭で調べた診断書でも認知症の恐れなしの判断が出る可能性がある。
 この様な現実を知ると、高齢運転者講習の意義、意味付けで世間が警察と自動車教習所のボッタクリと非難しないのは、それなりの有効性があると認定されている気がする。
 多くの認知症の疑いがあると思われる人は自発的に専門医に行くことは稀で、普通は家族・親族に連れられて病院に行く。認知症の初期は普通人でもある。
 今運転免許の更新中だがこの費用はほぼ都内では10000円強の費用と、教習時間がかかる。今の自分は二月に一度くらいしか車に乗らないので、最近は運転に不安がある。それでも次回も運転免許の更新はしたい、するべきと思っている。
 その理由は、単独で精神科の医者に行って、どんな診断学が下されても憂鬱となる。たとえ認知症の恐れなしと診断されても、今の状態でということで1年後に認知症になることもありうる。

 自動車教習場で空き時間にこの教習が自然体で認知症の自覚テストと思うようになって来た。そうなると3年毎の1万円の費用は病院行きより心・頭の中の安心料と思うようになって来た。報道によると運転免許の自主返納が減っている言うのがあった。自分と同じ思い(精神科に行きにくい)があるのだろう。
 免許を持っていても不安なら乗るな。いつでも逆行走行の可能性がある。
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飲食店のご飯のお替り自由は農家/農業の未来・希望を消す

2024年09月25日 | 宅老のグチ
飲食店の店でご飯のお替り自由という店がある。この頃のコメ不足で先行きは不透明と思われるが一度始めたご飯のお替り自由は、江戸時代の頃から、百姓が自分で作っていたコメが食することが出来なく、常に願望の対象だった。その結果白米を食べる地位に着くと精米率の高い白米を食し、脚気になってしまった。脚気はビタミンB1の欠乏症で、この脚気を防ぐには精米率を抑えた米を食べればよかった。しかし軍隊では日本海軍が対処したが陸軍は農民兵士の希望もあって過度に精米した白米を供給していたので戦時中でも脚気が残っていた。

令和のコメ不足は米の自由でなかった時代を覚醒させる。高齢農家が体力の劣化を高価で稼働率の少ないの農機具で先祖の田畑を耕している。農地の自由化も少しは緩和されたが、無人耕作の拡大には耕地整理の問題が絡む。
 今のコメ不足から、量販店が米の確保を納入業者・農協に任せる時代が終わる気がする。ある程度の量販店なら契約栽培と低温・定温米貯蔵庫、低農薬等の生産過程を明確にした売り方になるだろう。安い所から自由に仕入れ、価格競争するなら、海外で契約栽培に向かうしかない。でも国産米は国防にもつながる。余ったコメは子ども食堂、学校給食が休みの時にコンビニ等に安価に提供してもらう仕組みもあってよいはず。お金の補填農政は過去に有効だった事例が見えない。農機具の稼働率の向上には大規模化しかない。
 漬物が飲食店等で無料提供の漬物がある限り、進歩がなかった。お替り自由のコメはエサという食品にコメがなってしまった。餌価格ではコメ農家が仕事に夢が持てない農業に夢が持てない。相手は生き物で自然災害があって、収穫し、販売するまで博打のような仕事でこれには国の保護が必要となる。
 敗戦後の大飢餓の時はもう過去の話と日本人は忘れてしまったのだろうか。
 国民が飢餓になっても、危機感から兵器に予算を使う国が日本の近所にいる。
 エネルギ-の自給自足の意識がいつも必要で平時には確保できても、非常時に自国民の飢餓状態で他国に食を提供した事例は少ない。日本でも冷害による飢饉時に幕府の中での地位向上を狙い、コメ相場が上がっている時にお救い米を売ってしまった藩があった。
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地下鉄電車の中の日本経済史

2024年09月24日 | 宅老のグチ
地下鉄の電車内で、見る景色もなく、本も読むことも無く、ただ座禅もどきの、開き目の黙想。雑念は雑音で相殺され、脳の血流が見えるように感じる。
 最近考えることは、中国がどんな方向に向かうのだろうかということで、どうやら80年の平和ボケの日本がまだ動乱の時代に空けるドアをノックしているように見える。歴史のドアは決まったカギで開くこともあるが、多くは経験則で予防措置がとられ、予期せぬ事態が歴史のドアを開ける。中国と日本との政権交代の歴史を見ていると、西欧の権力がアジアに来てから、日本と中国大陸の戦闘が終了して少し経って政権交代が遅れてやってくる。
 日本の戦国時代の終わりとなった秀吉の日本の統一後に、朝鮮半島に戦地が動いた。そこで日本が秀吉の死によって、アジアの覇者の夢が消えた。再び日本が内乱となりそうだったが軍事力を保持していた家康の力で豊臣方の仲間割れで、豊臣方が自滅していった。中国大陸でも朝鮮を軍事で支援した明朝がユックリ滅んで明から清に変わった。朝鮮は明の支配下(保護国)の国で自立した国家ではなく、日清戦争後に清から独立した。従って朝鮮という国は完全独立していた時間は文献上短い。軍事の国というより、文官の知恵の国であった。この辺りが島国日本の人達が理解しがた大陸の歴史となる。くっついたり離れたり、時には婚姻し、ケンカ別れをする。冬になれば小さな木造船で動力が無くても、運さえあれば日本にやってくることが出来る。天気予報の衛星画像を見ていると冬型天気で西から東に強風が吹いている様子が見える。海は荒れている。

先の戦争で中国で日本が負けたのはアメリカに支援されていた中華民国で、日本が敗北後に中華民国は共産中国に負けた。旧日本軍の敗北の原因分析からアメリカは中国大陸で戦うことの無理さを知っていた気がする。
 どうやら目的の駅に着いたようだ。気温が下がって一気に秋になりそうだが政治の世界は11月に動く。
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南千住の回向院

2024年09月23日 | 福神漬
荒川区中央図書館郷土資料の所で、南千住の回向院の本を読んでいた。
 この寺院は検索すると普通は上位に出て来る回向院は両国にあるところが出る。この両国回向院は10万人の死者を出した振袖火事という名で知られている明暦の大火の犠牲者を埋葬する地となり、後に江戸市中の無縁の人を埋葬する地となり、両国周辺がにぎわったという。南千住の回向院は過去は両国の回向院の別院だったが慶安4年小塚原刑場での刑死者を供養するための寺院となった。1771年に蘭学者たちが刑死者の人体解剖に立ちあった記念碑がある。近代医学の始まり。

 嘉永3年10月末に逃亡者高野長英が南町奉行配下の与力たちによって、捕縛時に急死した。撲殺と思われるが記録上では逮捕時に抵抗し、自死となってい記録の一部が不明で、多分と思って南千住の回向院に記録があると思うがネットでは20万人という。そこで下記の本を読んだ。
小塚原刑場史  -その成立から刑場大供養まで 著者名 黄木 土也
 この本のあとがきで、江戸時代でも死刑判決はか出しにくい判決で、流罪とする幕府上層部の人がいたようだ。今の時代でも在任中の死刑執行を決断する法務大臣が少ないと感じる。そうなると上川氏はすごい人でもある。オウムの死刑囚の執行を決断した。
 徳川家斉の時代で死刑が300名牢内死が1000名以上、行き倒れ人が1000人以上といおう記録がある。つまり南千住の回向院の20万人の刑死者の割合は意外と少ない気がする。もしかすると所在不明の長英逃亡を助けた松下家の3人の行方が判るかもしれない。
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 秋‣長雨の始まり

2024年09月22日 | 宅老のグチ
日本の政治はある程度は主流の動きの継続で歴史が動いているが、そこから天変地異とかの異質の事象で継続性が傷つき、主流派の惰性と思える継続に疑念が生じ変化が生まれる。ところが多くの非主流の人は政権の維持に慣れていないので,取った政権の維持に失敗する。
 今日本の政治のリーダ-を変える制限選挙中で普通人は投票権利が無い。結果待ちで、その後の選挙で判断を下すしかない。
 台風14号崩れの大雨でまた能登半島で大災害になりそう。半島は先が無いので復旧は遅れがちで気になる。半島はその字が示すように、物流にとって島のような存在で、目的が無いと行くことは無い。だから島を活性化するには島自体が目的地になるしかない。今の能登に目的地となる行事等が復活、もしくはアイデアが生まれるのだろうか。
 今日の雨の日はまた上野戦争の文献読書。
彰義隊始末  -上野戦争の全貌-
著者 島峯颯平 昭和42年刊
 島峯颯平氏は台東区史の編纂者の一人だったが区史の編纂方針と自説の食い違いに気が付いていて、この本を書いたようだ。主な部分は江戸城の無血開城の功績が薩長史観の勝・西郷でなく、主な努力が輪王寺宮の努力の上に山岡鉄舟と勝海舟が歴史記述として残っていると見ていたようだ。
 従ってこの本の中心部分は彰義隊の部分でなく、輪王寺宮と同行した覚王院義観の駿府行きの様子でもある。
 ところで輪王寺宮の制度の始まりを考えると寛永行幸に気が付く。
守澄法親王 初代:後水尾天皇の第3皇子で、承応3年(1654年)に日光山と東叡山寛永寺の住職に就任しました。翌年、天台座主となり、朝廷から輪王寺宮の称号が与えられました。
 そして最後の輪王寺宮の歴史記述が下谷の市民たちの不満が出ていた様子が見える。下谷は寛永寺の門前町で荒川区の地域は知行地であった。
 タクワンと福神漬の命名由来の混合にもなりそう。
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男女の高校生にナンパされ・運動会にでることになった

2024年09月21日 | 宅老のグチ
10日ほど前に、ス―パ-でコメの在庫具合を視察後に、家に戻る途中の道で男女の高校生に声をかけられた。健康そうな男女でチラシを持って、運動会に参加してほしいと言われた。こちらは高齢者でイマサラ運動会で動かしていない体を競争で無理してケガしてはいけないので無理といったら競争は無いという。チラシは高齢者向きの運動という企画で生徒たちで考えたようだ。彼らの必死のお願い観
があって、一応参加することを口約束するが、チラシの内容が参加予約が電話かQRコ-ドで参加申し込みであった。
 高校生のやることで、今の高齢者のデジタル知識が無いのを知らないと感じ、QRコードで申し込んでみた。彼らは楽にスマホを扱っている様子が見えるが高齢者の日常が知らないようだ。
 さて運動会だが学校の目的は在校生と親との交流と新入生の学校見学を兼ねていると見える。私立の共学高校で、偏差値は低いが生徒の態度は良い学校で生き生きとしている様子があって、近隣の人達も良好な関係で、近所に地方から来ている学生寮もある。
 チラシを配っていた生徒は高校3年生で礼儀も良く普通なら受験で大変な時期に入るのだが今年の高校生の就職活動の様子から受験の危機感が無い。さらに大学でも推薦入試で金さえあれば入学できるし、今の人手不足なら4年後もいい仕事は無くとも生きるだけの仕事とみれば良い時期に生まれた子供と思える。
 彼らは17歳か18歳で80年ほど前に、叔父はこの年代の人達が特攻仲間で戦死した。高校生の楽し気な様子を見ていると、大正12年頃から後の年代に生まれた人たちに楽しい思い出はあったのだろうか。
 最後に担任の先生に叔父の話をして、今の若い人に戦争に行かないように頼んだ。でもウクライナの戦争から指導者の指示でいつでも戦争が始まる現実を知った。先の戦争の経験から日本が先に戦争を仕掛けることは無いが攻撃されれば受けて戦わないと奴隷となる。北朝鮮の様子からあの国は太めの人は一人であとは国民がガリガリの体形となっている。まだ中国は太めの人が多く、習体制で行くしかない。もし崩壊すると内戦となり、日本も戦乱・混乱・難民問題で難儀する。その理由は簡単で日本は言論の国でなく、空気を読む国で判断が遅い。あっという間にきれいな国がゴミだらけの国になる。
 中国人嫌いの日本人が高齢中国難民を恐れているが介護の施設で日本語の介護者でも不足しているのにバイリンガルの介護施設があるのだろうか。多分引き籠りの生活になるので中国で牢獄生活の方がましと思う。
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病院の待合室で上野戦争・幕末を想う

2024年09月21日 | 宅老のグチ
75歳以上の高齢者の運転免許の更新教習で目の不具合が気になって、調べたところ、後発白内障という診断だった。眼科医の説明では、白内障で目にアクリル製レンズを入れても時間が経つと、レンズの後ろの保護膜が汚れることがあるという。そこで説明を受けて、10分程度のレ―ザ―照射で汚れを取るという。初耳で驚いて、家で調べることにし、一応手術を受けることにした。調べると手術自体の難易度は低そうで、まれに汚れが眼球内に漂い、飛蚊症のようなことが起きるようだ。
 さて手術の当日に目の瞳孔を広げる目薬を10分おきに数回ほど目にたらす。看護師さんが目の瞳孔の様子で点滴が終わる。この暇な時間で本も読むことも出来ず、上野戦争の疑問点を考えていた。この戦争は時間にすれば、数時間の戦争だったが考えようによっては明治政権の樹立が鎌倉幕府の倒壊時のような混乱になる可能性があった。南北朝が東西朝となることも想定できる。西朝廷はイギリス派、東はフランス派で中立がアメリカとなる。アメリカ南北戦争後の不要となった武器を日本に販売し、金銀の流出を狙っていた。島国日本は西欧の利権の争奪地でそれぞれの国の思惑があった。
 地勢と時代運でかろうじて日本はアジアのタイ国のような力の空白地帯となったに過ぎない。そんな運だらけの日本が世界の状況を知るにつれ、不平等な条約だと知らされたがここにも日本に運があった。
 日本は山が多く、平野が少なく、陸運が発達していなかった。幕府は内乱を恐れ船の技術革新を抑えていて外洋航海に堪えられない船だった。主な欠点は舵が破壊されると航行不能になってしまうことだった。今の日本でも年末は物量が増大する時期で、江戸時代の海難記録でも秋から冬に遭難が多かった。関西から江戸に運ぶ商船は江戸時代が上方経済から江戸に移ってゆくと、太平洋側の輸送が活発となり、遭難記録も増える。酒・米等から始まるが、幕末には今の愛知県の知多付近の海運業者の動きが文献上に重視されていない。それはスピード重視の樽廻船より、途中の寄港地で荷物を売り買いし、遭難リスクを減らしていて、記録も目立たない。
 関東の塩の流通を見ていると、幕府の保護を受けていた千葉行徳の塩業も度重なる塩田の天災で採算に苦労していて、塩の流通制御に苦心していた。
 函館の五稜郭付近で浦賀奉行の中島三郎助隊と共に戦死した千葉行徳の漬物商人喜兵衛はいつどこで北海道に行ったのだろうか。これには塩の流通史も関係してくる。
 このあたりの調べごとは愛知県知多の所で調べてみたい。伊豆下田で唐人お吉の歴史があって、お吉の出身が知多の人という記憶(実際はお吉は下田の人)があった。日本の政治は女性で接待する文化なのだろうか。多くの日本のお吉のp小説の記憶が今に残る。
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台東区史・荒川区史編纂者の苦悩

2024年09月20日 | 宅老のグチ
図書館の郷土資料室で地域の資料を読んでいると、地域独特の歴史や言い伝えが残っている。地域史は小中学校の社会科教師の基本となる文献で時々教師のような人がガランとした地域史の部屋で本を読んでいる。地域の歴史は地域の人が文献が少ないし、ある文献でも日本史学者の歴史観と食い違う様子が見える。そこから地域の編纂が終わり、普通の一般人となって、自分が書いた、または書ききれなかった悔いのある地域のネタ本で苦悩が吐き出されている様子が台東区史、荒川区史編纂者に見える。これは戊辰戦争・特に上野戦争・彰義隊の戦争の評価である。そこから染み出て来る逸話が普通の日本歴史の学者の記述から離れていて、どうしても福神漬の様々な普及に至る過程に影響があると思うようにになった。

上野公園とその付近  著者名 豊島寛彰
豊島寛彰さんという人は台東区史の編纂に参加していた人で区史に書けない、書ききれない下谷の歴史をこの上野公園とその付近という本で気持ちを出している。それだけ地域の歴史と気持ちの歴史が上野という地で離れている。あとがきで区内のある寺で住職が学校の生徒が寺内でいたずらしているので注意してもらいたいと相談を受けた。豊島さんは教育委員会の所属し、区史を編纂していたので、頼まれたようだ。
 郷土の歴史は地域の歴史で郷土教育の振興に考えが及ばないと、若者が寺院等の文化財を守る意識が生まれないとおもっている。
 今の学校教育は上級学校への受験のための教育で、入学試験に出ないものは手抜きされがちで、さらに歴史において、日本史学者の説に従った歴史観を覚えないと点数がとれない。そこが自分の親族の記憶と歴史知識が合致しないことで郷土を守る意識が薄れる。お祭りの語源は政治の事を意味している。
 神社仏閣の落書き被害の多い所は、上級学校の入学率が良いが郷土教育がおろさにされていで、無関心で放任で生徒を注意しても無駄である。郷土愛を育てる教育が地域の文化財等の愛護に繋がると言っている。
 チョットした空き家の窓ガラスの破損を放置すると次第に地域の安全が失われる。地域のごみもそれを放置すると地域全体がゴミ屋敷化し、そこから他の地域からゴミが搬入されて、巨大化される事例が増えている。ゴミの問題は他人事ではないが処理を考えると難しい。
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猛暑の記録更新日に浅草仲見世通り抜け

2024年09月19日 | 宅老のグチ
土地価格の発表があって、浅草地域が東京都で一番の上昇率20%強という。この暑さで最近は浅草の仲見世を取り抜け、台東区中央図書館行きは避けていた。もっぱら観光客のいない道を阿弥陀くじの様に適当に選んで歩く。やはり工事中の所が増えているが一本の道を避ければ、ほぼ無人の地域もある。迷ったら上空を眺め、スカイツリ―で現在地の位置確認する。
 頭の中には浅草の地図が出来つつあるが今調べている福神漬の命名時期の明治の中期からの浅草の文献が見つからない。時代の異なる文献はそれぞれの禁忌する事象や風俗があって、今の感覚では不適切な行動も当時としては普通の社会的行為とみなされていて、そこに下層階級の妬みが潜んでいる。そこから不景気という事象時に最下層民が不満のはけ口を放出する事象が文献記録として残る。
 日本は日記というのが比較的多く残っていて、上手く解読・解釈すれば当時の気風が理解できる。でも難しいのは味の記憶で時期・時代が異なると再現が文献だけでは難しい。

 地価上昇暴風が再び東京に来ている。今の様子では東京中心部の上昇から,周辺部がこれから上がる。アメリカの金利が下がり、日本は金利を上げられない。怖いのだ。
 台風という自然災害が人の思惑を超えていて、秋がやってくる。秋になったら禅僧沢庵が江戸滞在を決めた鎌倉紀行に行ってみたい。それも出来るだけ歩いて。
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明治憲法発布までは国家儀礼の場は上野であった

2024年09月18日 | 福神漬
公園の誕生 小野良平著
上野公園の歴史を調べていて、明治の憲法発布までは上野の地が公園から博覧会等の国家行事のハレの場所であった。明治憲法発布後は宮城前広場が整備され、日比谷公園・鹿鳴館等が出来て、国家行事の場が上野から移っていった。明治国家は旧幕府の亡霊が上野から復活することは無いと思い始めたようだ。この頃だと思うが天保の老人という言葉が出てきたと思われる。
 上野は幕府の公認の行楽地で、心情的に旧幕府に恩顧がある人が下谷周辺では多数を占めていた。さらに維新後の諸外国との交易では恩恵が少ないし、さらに新しい物から仕事を奪われることにもなっていた。
 今の浅草での人力車の流行が明治の時に江戸時代の駕籠という人を乗せ運ぶ仕事を一掃した。明治に入って人力車の発明があって許可が下りたのが明治3年からで、普及に従い江戸時代の乗り物の辻駕籠が消えた。人力車稼業は失業した旧幕臣の奉公人等が従事した下層民の仕事となった。下層民の仕事は流しのタクシ―の様で貧民の仕事であって、明治東京の三大貧民窟の下谷万年町は今の東上野付近にあった。浅草近辺では地下鉄銀座線の車庫の付近にあった。欧米では馬が車を引くが日本は人が車を引くと言われた。
 上野の公園が出来て、江戸時代からの行楽地として復活してきた。その時の博覧会に出品されていた缶詰を見て、酒悦主人が漬物を缶詰に入れ、持ち帰る食品としたようだ。そこに工夫があって、当時は醤油は贅沢品で漬物には醤油を使うのは無かったようだ。缶に入れ醤油で漬け、さらに味りんで甘味を付けて売り出したが、高価となって売れ行きは良くなかったと思われる。

 彰義隊の戦争から上野の戦後復活の過程がどうなっていたのだろうか。文献探しの日になりそう。河鍋暁斎の改名の騒動となった、明治3年の不忍池の料亭での書画会はどんな雰囲気だったのだろうか。何か梅亭金駕の捏造文章のような気がする。
 福神漬の周囲には多くの比喩が隠れていて、時間が経って記憶の検証から忘れ去られている感がある。
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90歳以上の出会った行動女性のこと

2024年09月17日 | 宅老のグチ
逆さ歌おばあちゃん 九十三歳 「人生これからだワ!」中田芳子さん 93歳
昭和の暮らし博物館 館長 小泉和子さん 9x歳。まだ映画で見ただけ
90歳何がめでたい主演女優 草笛光子さん 90歳この映画を観た
河鍋暁斎記念美術館館長 河鍋楠美さん この人は4年くらい前のコロナ発生時だと思うが河鍋暁斎記念美術館で年始回りの和服姿の時であったことがある。その時福神漬命名者の梅亭金駕・瓜生政和の事を話した。暁斎画談の文は瓜生政和が書いたのだが、比喩の部分が入っていると伝えた。
そして最近大田区南久が原の昭和の暮らし博物館にいた時、望月嘉代子さんという人に会った。学芸員の小泉さんとの会話で、望月さんが2年ほど前の本を宣伝して下さいとの依頼だった。
 丁度自分が昭和の暮らし博物館を訪問した理由が8月終りに大学生の博物館の単位を取るための実習生にLST808の英語本の著者のコンタクト法を探ることだった。
望月嘉代子が宣伝してもらいたいという本
 昭和20年、20歳の日記
出版社の宣伝文では
「戦前と戦後は別の世界」 昭和20年に20歳だった普通の女子が戦時下に綴った想い。
【風が強く、焼け跡の灰を吹きまくって、焼け跡を歩く自分に吹きつける。けれど快かった。なつかしかった。生まれたときからの自分の家に立っていると思うと、たとえそれが灰燼と帰してしまっていても、その一片の灰はかつてのなつかしい我が家のものであり、またなつかしい香をもっていた】(四月二十七日の日記より)。昭和20年に20歳だった普通の女子が戦時下に綴った想い。

本の後書き、経歴からどうも百歳の人なのだが、話した感じでは普通の80代の女性と感じる。
 この本をパラパラ読みして、どうもこの女性の人生は激動の時代を生き抜いた様子が見える。
1 敗戦後の33歳の時に59歳の米軍兵士と結婚する。つまり戦後のバタバタ期ではない。極端な日本人男性不足の時代だった。
2 夫と共にアメリカ本土の米軍基地を転々と配属され、夫がなくなり、日本に戻った。
3 結婚した米軍の兵士だった夫は戦後まもなく佐世保付近に駐留していて長崎の原爆被害地を回り、被爆し、後に後遺症が出てしまう。直接の原爆被爆でないのに、米軍兵士が被ばくするとは、この様な事例は聞いたことは無い。
4 本の中で心を通わせた戦友が硫黄島の星条旗の旗を立てる戦闘で亡くなった兵士の一人だった。

 私の叔父達は九州知覧から昭和20年5月20日に出撃した第五十振武隊10名ほどと、台湾八塊基地から出撃した誠204飛行隊5名の特攻隊と一名の確認機が連携作戦で沖縄嘉手納沖で米軍艦船隊に特攻し、数隻の惨害を与えた。この様子がLST808という本で書かれている。このLST808は硫黄島にも参加していた。つまり叔父たちは硫黄島で戦死した日本人兵士の仇を討ったことになる。
 後に望月さんの夫となる米軍兵士はどうも硫黄島の戦闘に参加しいていたようだ。
 この様な自分と望月さんと夫は一時は敵対関係だった人が平和な日本の大田区の昭和の暮らし博物館の縁側で話していた。これも今から思うとまだ叔父の霊魂がまだまだ忘れてはいけないと催促している気がする。
 叔父の霊魂がチョットしつこすぎると望月さんに話したら記録の保存がすごい米軍には動画があるかもしれないと言ったら、彼女は動画があったらそれを見たいというが自分が叔父たちの一式戦闘機隼の炎上している様子は動画があっても見たくないと言った。この特攻で米軍の記録でも5隻が被害にあい、米兵士が数百名以上の死傷者が出ている。
 恐ろしいことに戦後の米軍には日本と同じように戦友会があって、活動記録が日本でネットで活動を知ることが出来る。それも60年過ぎると多くの戦友会の活動が休止する。日本も同様に60年が節目の様に戦友会の活動が低迷し終わる。
コメント
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