年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語80花香恭次郎

2010年01月31日 | 福神漬
花香恭次郎
福島事件 高橋哲夫著より
花香恭次郎 《はなかきょうじろう》 東京府深川区深川伊勢崎町士族(今の江東区清澄公園の近く)
福島自由新聞記者。ペル-日本来航のとき応接した浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の五男として安政3年香取に生まれる(誤り)。
明治時代自由民権運動の弾圧として知られる福島事件の時、過激な発言で投獄される。
明治16年判決 禁固5年の不当判決
明治22年の明治憲法発布による大赦で釈放となる。明治23年7月1日の第一回衆議院議員選挙で千葉3区にて自由党から立候補し348票を取るが落選する。同年に死す。34歳?今のところこれしか資料が見つからない。しかし反政府の行動が読み取れる。鶯亭金升とは親戚関係となるのだが交流があったのだろうか。

谷中墓地掃苔録 森の中に眠る人々 谷根千工房
谷中墓地の中にある墓について、その人物がどのような生涯を送ったか書いてある本。さて目的の花香恭次郎については他の福島事件の本と内容はあまり変わらないが拓本を取って活字化した文章の中身を調べる必要がまた出てきた。長井昌言が出てきた。河野広躰 (こうの‐ひろみ)が碑文を書いたのだろうが何処から経歴を調べたのだろうか。
 河野広中は調べると大変だ。少なくとも福島事件で花香恭次郎と関係があって投獄されていた。花香恭次郎は鶯亭金升のおじに当たるのだろうが、明治の中頃までどんな仕事をしていて、自由民権運動の盛んになっていた福島県三春に参加していたのだろうか。明治10年代福島県令三島通庸(みしまみちつね)によって弾圧され、投獄された6人の内ただ一人の東京士族だった。ペリー来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の五男が花香恭次郎である。

花香恭次郎(はなかきょうじろう)墓   安政3年7月9日~明治23年8月7日(1856-1890)
甲9号8側に福島事件で石川島監獄に収監され、明治16年(1883)獄中でチフスに罹り死んだ田母野秀顕(たものひであき)の墓の隣に衆議院議長となった河野広中が花香恭次郎の墓を建てた。背景の列には福山藩最後の殿様阿部正恒と夫人(阿部正弘6女)の墓がある。黒船来航時にやりあった同士の子孫の墓が隣にある。花香の父(戸田伊豆守氏栄)と老中阿倍伊勢守正弘の関係もここにある。最後の大名といわれる広島藩主・浅野長勲(あさの・ながこと)の実弟が阿部 正桓なので福神漬の歴史に関係してくる。

田母野秀顕が獄中に死んだとき、同じ監獄にいた花香の連絡で同志が谷中に墓地を求め埋葬したという。

 
鶯亭金升の日記から花香恭次郎が行った養子先が花香功一郎茶法となっていた。谷中墓地にある恭次郎の墓誌から恭法の誤りとわかった。
 花香恭法を検索するとようやくヒットした。高野長英が小伝馬町の牢獄火災で釈放されてから、元に戻らず脱獄した形となり逃亡した。その逃亡先の中に千葉県香取郡干潟町の 花香恭法の家に一時隠れたという。恭法の父は花香安精という和算の先生で今の大原幽学記念館に神社に奉納した一門の和算の額がある。香取佐原は数学測量の学問の進んでいた地域なのだろうか。日本地図作った伊能忠敬も付近の人である。伊能の地図を国外に持ち出そうとしたシーボルト事件に長英が関係していた(運よく逃れた)。

長英は下総の香取に内田弥太郎の門人花香恭法(ハナカキョウホウ)を訪ね、一時身を潜めている。嘉永3年(1850)3月、恭法の留守中に置き手紙を残し、マーリンの蘭仏辞典上下2冊とホンブランドの三兵戦術書蘭訳写本を質に5両を借りてこの地を後にした。
高野長英が異国との関係を「『戊戌夢物語』を著し、暗に幕府を批判した。この夢物語は英国船モリソン号の対応批判(外国船打払令)であった。モリソン号事件のあと浦賀奉行となったのがペリー来航時の戸田伊豆守氏栄だった。氏栄は花香恭次郎の父であり、鶯亭金升は氏栄3男=昌言の子である。ペリー来航が嘉永5年6月5日なのであと少し逃亡していたら、長英の人生はどうなったのだろう。


今は千葉県旭市となってしまった干潟町の歴史から
花香安精 1782~1842)房総における和算家
花香恭法 安精の次男として生まれるが兄の死により家を継ぐ。はじめの名を弘一郎。
家は代々名主であった。江戸に出て藤森弘庵に漢学を学び千葉弥九朗に剣を学び幕府の士となり御徒目付けとなる。高野長英と相知り、一時かくまう。明治維新後裁判所に勤めたり官員にもなる。明治13年銚子町に第百四十四銀行を創立し、頭取となる。明治31年死去。68歳
花香伝右衛門
佐原市津宮で嘉永6年1月15日生まれ。萬歳の花香恭法の養子となり伝右衛門を襲名する。伝右衛門は花香安精の通称であった。明治5年萬歳村の戸長となる。明治29年千葉県議会議員に当選する。昭和13年死去。享年86歳。
 花香恭次郎が恭法の養子となった時、既に恭法の養子に伝右衛門がなっていた。この間の事情はわからないが長井筑前守昌言の援助があったのだろう。河野広中の谷中の碑文から読み取れる。高野長英と戸田伊豆守氏栄と関係があったのだろうか。

花香恭次郎(自由民権運動家)
安政二年(1855年)江戸本郷駒込、戸田伊豆守氏栄の邸にて出生と伝えられる。父の戸田氏栄はペリー来航時の浦賀奉行を勤め、幕府の要職にあった人だった。(恭次郎出生当時幕府の閑職に左遷されていた。2歳ころ父は大阪奉行職で死す。)
 万延元年(1860年)萬歳村の花香恭法に養育をされるようになる。成長するにしたがって恭法の深川の邸に移り住む。この時養子になったと思われる。
慶應2年吉川慎堂につき漢文の素読を学ぶ。同3年村上英俊について仏書を学ぶ。

日本の「仏学始祖」と呼ばれる村上英俊(文化八,1811~明治二十三,1890)明治元年下総佐倉に至り漢儒続徳太郎の門に入る。明治2年東京に帰り開成学校に通学しフランス語を学ぶ。明治4年、箕作秋坪の家塾に入り英語を学ぶ。その後共慣義塾(南部藩の授業料の安い学校)に移る。(明治6年頃兄長井昌言死す)

明治9年四通社に入り問答新聞(京橋区南金六・今の銀座8丁目付近にあった・社主服部誠一)の編集に従事する。10年5月同社を退社し(西南役に感じることがあって)6月より東北地方を巡り歩きする。
 友人と謀り(佐藤清)福島町に新聞社(福島自由新聞)を創設しその編集に従事した。明治12年新聞記事が讒謗律(言論弾圧の法令)に触れて禁獄50日の処せられた。
 明治13年同社を去り、福島地方を周遊し国事を談ずる。15年福島県会の書記となり、その会議録の報告書を作り四方に配布する。すると時の福島県令三島通庸を侮辱するところありとして重禁固九ヶ月に処せられた。恭次郎は河野広中の頭脳的存在として、福島事件で大きな役割を果たしている。かれの主張は河野広中より急進的であった。
 明治16年自由党福島事件が起こると、その一味として捕らえられ、東京高等法院にて裁判にかけられ、軽禁獄6年の刑を宣告された。明治22年憲法発布による恩赦によって出獄。
明治23年7月第一回衆議院議員選挙千葉3区(千葉県香取郡)に自由党の候補として立候補するが3位となり落選する。同年8月コレラに罹り7日に死す。同時大同倶楽部員、河野広中が施主となり谷中墓地に葬られた。享年35歳であった。

花香恭次郎の経歴からペリー来航の日本の危機を救った父戸田伊豆守の意思が伝わったような気がする。大正12年7月関東大震災の2ヶ月前、三菱のビル内で開催された缶詰協会の福神漬品評会の会合で鶯亭金升が福神漬の思い出を話したのも何かの導きがあったのだろうか。

花香恭次郎の有名度
鶯亭金升日記には花香恭次郎は有名人と書いてあった。葬儀の模様から事実であるとわかった。明治23年8月13日 読売新聞より
花香恭次郎の葬儀
コレラ病に罹り、突然亡くなった花香恭次郎の遺骸は予定どうり一昨11日午後2時麻布の河野広中邸より出棺し神式をもって谷中天王寺に葬られた。
 先頭には「動議貫心肝」「忠義真骨髄」と大書してある旗二流および紅白の小旗8本、次に大同新聞社・両国中村楼・在京大同倶楽部員諸氏より寄贈された造花数十基、次に前駆として稲垣示・龍野周一郎・井上三郎・石塚重平・八木原繁祉・山本幸彦の六氏・次に祭官権中教正竹先嘉通氏、次に唐棺。次に祭官権中教佐々木幸見、同戸田忠幸の両氏、次に楽人三名、次に「仁者以存亡不易志」「義者以盛衰不改節」と染め出してある大旗二流、次に銘旗、次に霊柩、その前後に青年自由党弾鋏義会より送られた「慷慨追悼(こうがいついとう)」の文字を記してある大旗六流、次に呉床、次に墓標、次に喪主河野広中氏、次に花香氏の親戚・政友等、車列を乱さず日吉町大同クラブ前を過ぎ、このところに待ち受ける人々その途中から葬列に加わる人少なからず。午後5時谷中天王寺に着き葬儀となる。花香氏の遺言に従い故田母野秀顕氏の墓側に埋葬し、それより植木枝盛、末広重恭、坂崎斌、青年自由党総代後藤周佐等諸氏の弔詞弔詩の朗読があった。葬式は全て終わって帰途にのぼったのは午後7時頃だった。又市中楽隊一組(14名)行列の先にたち処々に悲壮悲嘆の音楽を演奏し、会葬者に悲哀の情を切にならしめた。
 この日の会葬者は四百四十余名にてその主なる人々は大井憲太郎・内藤魯一・植木枝盛・杉田定一・田中賢道・山田武甫・杉浦重剛・鈴木昌司・末松三郎・大江卓・末広重恭・菊池侃二・上田農夫・綾井武夫・及び青年自由党総代・青年自由同盟倶楽部総代弾鋏義会総代等にて後藤・板垣両伯爵にも特に代理をもって弔意を表したという。

鶯亭金升はこの自由民権運動家や政治家連中の中で團團珍聞の主筆でなく花香恭次郎の親族として参列していたと思われる。福島事件の裁判中、福島では子供たちが田母野や花香の演説を真似た遊びが流行っていたという。また高等法院で裁判中、福島事件の若手の被告人の浮世絵が売り出されていたようである。
 今の政治家も亡くなると党本部や国会周囲を遺体が載った車で訪れているが、明治の20年代も同じことを行っている。車列とは人力車の列と思われる。

平島松尾・福島事件の被告。明治22年憲法発布時に釈放、後に国会議員となる。彼の著書によって花香の碑文の内容は愛澤が仙台監獄中で聞いた経歴から起草したと思われる。安達憲政史平島松尾著


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福神漬物語79小原鉄心

2010年01月30日 | 福神漬
小原鉄心
浦賀に黒船が来た時、浦賀奉行戸田伊豆守は黒船との対応を過去の幕府の対応方法をよく知っている浦賀の与力にまかせ、自身は見物人等によって不測の事故が起こらないように予てから要請していた親戚筋にあたる大垣藩に連絡をしました。異国の軍隊が戦争を開始する口実を与えないためでした。これは以前アメリカ商船モリソン号が浦賀に来た時、幕府の異国船打ち払い令によって砲撃していたため、次回の来航時に砲撃すれば反撃する可能性があるという情報がもたらされていました。
戸田の要請を受けて小原鉄心は黒船来航時に大垣藩士130名を率いて浦賀の警備に向います。戸田氏栄と小原はペリー退去後、様々な状況を話し合ったと思われます。外国艦隊を見た小原は大垣藩にて次第に大砲鋳造と軍隊整備に向います。鳥羽伏見の戦いでは大垣藩は旧幕府軍に属しており、小原鉄心は急遽藩論を新政府帰順に統一し、大垣藩は東山道軍の先鋒となった。浦賀の経験から幕府の弱体状況を知っていたと思われる。
 
高島嘉右衛門(1832-1914)
横浜市営地下鉄の『みなとみらい線』に新高島駅として名が残る人。高島易断の創始者。
高島嘉右衛門は、「ハマの恩人」といわれ、天保3年(1832)、今の東京都中央区銀座に材木商の子として生まれる。
後に開港後の横浜でガス・水道・電気事業のほか高島学校の設立・易学の普及など文明開化的事業を行い、数多くの功績を残した人物。これらの事業の中でも代表的なものが、その後の横浜の発展に大きく貢献したといえる鉄道用地の埋立事業。彼の埋め立てた土地付近の地名が旧東横線高島駅となっていた。高島嘉右衛門の姉が嘉永3年大垣戸田藩に行儀見習いとして勤め藩主の子を宿した。この子が戸田欽堂で明治13年日本に最初の政治小説を書いたといわれる。
 明治5年新橋横浜間の鉄道開設に活躍した関係から、まだ史料が見つかっていないがペリー来航時,浦賀奉行だった戸田伊豆守氏栄の3男、長井昌言が工部省鉄道寮に勤めていたという。残念ながら長井昌言は明治6年に亡くなっていたので文献等がまだ見つからないが事実とすれば旧幕臣だった失業中の昌言を鉄道の仕事を世話したのは高島嘉右衛門の姉の口利きと高島の財力と思われる。長井昌言は鶯亭金升の父で明治6年に亡くなっているのでこの事実は知られていない。


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福神漬物語78戸田伊豆守氏栄

2010年01月29日 | 福神漬
戸田伊豆守氏栄
寛政5年6月29日生まれ。安政5年7月20日死す。父は御所院番戸田主膳氏友。祖父主膳氏孟は天明4年から天明7年長崎奉行を勤む。
鎖国していた日本近海に異国の船が文化・文政期(1804年~1830年)の頃から頻繁に現れていた。このような時期に戸田氏栄は日光奉行から浦賀奉行となった。(弘化4・1847年2月)8月には浦賀奉行の地位は長崎奉行の次席となった。(幕府における浦賀奉行の重要性の認識、戸田は500石から加増され2千石となる。)老中阿部伊勢守の指示は防備を固め、極力外国船との応接は穏便主義で行くように指示していた。ペリー来航時の応接に対して嘉永5年9月(1852)幕府は浦賀奉行としての戸田伊豆守を報い勘定奉行の次席とした。嘉永6年4月末、井戸石見守が江戸在府の浦賀奉行として勤務するようになった。
 近代日本史に残る戸田伊豆守氏栄は久里浜でアメリカの国書を受け取っただけで実際の交渉は浦賀与力・通訳の活躍だったため、幕府においては井戸石見守の活躍で意外と文献が少ない。
彼自身は日本の現状から開国は避けられないと上申していたため、保守的な考えが主流となっていた幕府幹部から嫌われ、ペリー再来航時の横浜での応接の場から外された。
嘉永7年7月戸田伊豆守西丸御留守居役に転出。
浦賀奉行史 高橋恭一著より
享保5年より浦賀に船改めの番所を下田から移し、浦賀奉行の手で江戸に出入りする廻船の取り締まりすることになった。江戸に出入りする船を調べることで治安維持と経済の安定を図る目的の奉行となった。今だと税関の役目を果たしていたといえる。しかし18世紀になって外国船が我が国沿岸に頻繁に出没するに従い、江戸湾防備の役目を果たすべき地位の向上を図られた。さらに外国船応接の役目も加わり、黒船来航の交渉を幕府によって一任されようになった。戸田伊豆守と井田石見守がアメリカ大統領国書を日本の代表として受け取ることとなった。遠国奉行だった浦賀奉行が日本開国の重責を負わされたのである。
 欧米列強によって中国が蹂躙されているという情報が入っていて、紛争になるような口実を与えないようにし、浦賀奉行二人に対して黒船を穏便に退去させることが幕府の方針であった。
 

浦賀の十日
南浦書信 浦賀近世史研究会監修より
ペリー来航と浦賀奉行戸田伊豆守氏栄書簡集
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)から12日(7月17日)まで10日間はこの地でどのようなことが起こったのだろうか。
 弘化3年(1846年)アメリカ軍艦コロンバス号ヴィンセンス号2艦が清国政府との条約批准書交換の帰途、日本との通商条約締結の可能性の打診のため浦賀に現れた。コロンバス来航のあと老中阿部正弘は浦賀奉行を更迭し、5百石の戸田伊豆守を任命した。異例の抜擢であった。戸田は浦賀の与力中島清司・三郎助親子、与力香山栄左衛門、通辞堀達之助を指揮してこの難局にあたった。アメリカとの交渉は香山らが当たり戸田は幕府から視察に来た人達や応援の人達の応対に追われていた。その中で老中阿部正弘に国書を受け取る他ないと書状を送っていた様である。結局幕府は浦賀奉行に一任して久里浜でアメリカ大統領の国書を受け取るようになる。(日本の開国)

戸田はその先見力や発言の過激さのため、周囲から疎まれ、ペリー再訪日の際、応接の場から外された。このような経緯から直ぐに戸田伊豆守は幕末史から消えて行った。戸田の三男を父に持つ鶯亭金升は彼の本や彼の経歴にも旗本長井家が出ているほうが多いが戸田氏栄から見ると金升は孫に当たる。

ルビコン岬
今の横須賀市走水と千葉県富津岬を結ぶ線を幕末江戸湾防衛のラインとしていた。ペリー等はこの線をローマの故事にたとえて、ルビコン岬と名づけ、ここを平和に超えて通商を結ぶ作戦を立てていた。
 日本側も浦賀衆の人たちと.幕府幹部の危機意識の差が表れていた。現場を預かる戸田氏栄は予算不足で台場の建設も遅れたし、ペリーの黒船以前に浦賀に来たアメリカの軍艦の大砲の数より、江戸湾を守っている大砲の数が少なく、威力も弱かったことを知っていた。この事実を浦賀与力から知らされていた戸田は異国船を武力で打ち払うことは不可能であったことを知っていた。黒船来航時、戸田は浦賀に集まった見物人の対応に苦慮したと思われる。大垣戸田藩の協力を仰ぎ、ヤジ馬の暴走を抑え、戦争の口実を与えないで速やかに退去させることに成功した。
 武力を背景として開国をせまる人と平穏に退去させようとする人の駆け引きが浦賀衆に委任された。前例のない黒船来航を無事終わらせた。
 浦賀衆は鎌倉時代北条時宗が無条件降伏を迫って来日した元の使者を鎌倉竜の口で切り捨てて国論を統一した前例を避けたのである。

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福神漬物語77敗者の記録

2010年01月28日 | 福神漬
福神漬の歴史を調べてゆくうちにあることに気がついた。世間では一時知られていた人達が時代の変化や晩年の失敗によって人の口に残るともなく、消えてゆく。そのような人たちの伝記は親族の人達や地縁の人たちによって残されていくこととなる。地域にある図書館の郷土資料のところは図書館の分類から離れていて画一性がないため面白い。いろいろな地域にある図書館は郷土の資料の充実度で地域愛の強さが分かるような気がする。
 最近の市町村の統合によって古くからの地域名が地域の同意が取り付けられず何の縁もゆかりもない地域名になってしまっている。何年かして世代交代し学校名などに残り、不自然さがまた残る。

 福神漬の関係者は明治の動乱で敗者、または薩長政権と一度は対立したことのある人達が多い。そしてその行為が下谷の人達に支援されていった。ちょん髷姿は旧習支持の意思表示でもあって、歌舞伎見物もその一つだった。酒悦主人が五代目菊五郎との交友があったという言い伝えはこのことを現している。

近代日本史は嘉永6年(1853)に浦賀にやって来た異国船の取り扱いから始まった。ペリーのアメリカ大統領の国書を日本を代表して受け取った浦賀奉行戸田伊豆守氏栄が福神漬物語の始まりとは誰も予想もしない展開となる。弘化4年戸田は日光奉行から抜擢され、浦賀奉行となった。弘化4年の翌年は嘉永となるのである。嘉永3年伝馬町の牢獄から逃れた、高野長英は嘉永3年10月に自決している。黒船来航直前から福神漬の話が始まる。
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福神漬物語76河鍋暁斎

2010年01月27日 | 福神漬
河鍋暁斎

福神漬命名者梅亭金鵞が瓜生政和という名前で編集者となり、明治20年暁斎画談という本を出版している。
 ある資料から河鍋暁斎が根岸で明治22年に亡くなったという。根岸とどのような関係があったのだろうか。この件で埼玉県西川口にある河鍋暁斎美術館の人に聞く。河鍋暁斎は明治17年頃から根岸に住んでいたという。資料は明治20年ころ根岸に引っ越したことになっている。根岸党との関係はあったのだろうか。饗庭篁村が根岸に住んだのが明治19年のことなのでほぼ同じ頃になる。

1867(慶応3年)37歳 上野の東叡山寛永寺管主輪王寺宮家の家臣・大沢行衛の娘・近(ちか)と結婚し湯島四丁目に住む。
12月10日(慶応四年1月4日)娘・とよ(後の暁翠)生まれる。
1870(明治3年)上野・不忍弁天の長蛇亭にて、俳諧師・其角堂雨雀主催書画会で描いた戯画により、逮捕、投獄される。狂斎から号を暁斎と改める。
上野の歴史を調べていると、福神漬と美術界とが地域と時代が重なるのに、接点がないと思って史料収集の対象から外していたが河鍋暁斎の経歴から無視できなくなった。
 江戸幕府の専属絵師となった狩野派は幕末になると絵の技術が衰えていた。従って幕府が崩壊し明治に入ると、才能のない人たちは先祖の資産を切り売りして生活しなければならなかった。木挽町狩野の俊才と言われた橋本雅邦は陸軍局の地図を書く仕事で生活を維持した。また同じ塾の狩野芳崖に至っては田舎に帰って田畑を耕作し10数年過ごしたという。最後の狩野派と言われた河鍋暁斎だけが浮世絵などをこなし、明治の時代と下町商人の需要を取り入れ安定していた生活をしていた。
 明治3年不忍池料亭での筆渦事件を起こし、その刑罰は下谷の人達の同情を呼び支援したと思われる。また彼の妻となった上野・東叡山寛永寺の輪王寺の縁者ということあって同情を誘った。明治新政府の役人が外国人にペコペコし、詳しい資料はないが下谷の住民に対して傲慢な態度をとっていたのを揶揄した狂画を描いたといわれる。
 明治に入って日本に来た外国人で日本美術に興味を持った画商やコレクターが河鍋暁斎に興味を持った人が多いのは一人の日本人の影響があるかもしれない。三河屋幸三郎という人物で、開国後横浜で美術商をしていた人である。下谷の彫刻家高村光雲などと付き合い、根付けなど日本人が見捨てた品物を外国人に販売していた人である。彼は上野戦争で亡くなった彰義隊戦士の遺体を持前の義侠心から弔った人でもある。
 河鍋暁斎と付き合いのあったことが知られているのは、大森貝塚を発見したモース、東大で哲学等を教えたフェノロサ、建築家コンドル。ドイツ人医師ベルツなどが知られている。
 河鍋暁斎は明治18年頃まで約30年間湯島に住んでいて、のちに根岸に転居した。湯島の家も池の端に近く、下谷の地域の住民であった。根岸では根岸党の人々と酒を飲んでいたという文献もある。ここで福神漬を河鍋暁斎が食べていた可能性がある。彼は大酒のみで酒で亡くなったといわれる。
 訪問した美術館の学芸員の話から、狂斎から暁斎となったので読み方は《キョウサイ》となる。上野戦争直前に生まれた娘は幸田露伴・夏目漱石・内田魯庵・正岡子規・鶯亭金升・小栗上野介の娘(国子)と同じ明治元年生まれ組と重なる。江戸で生まれた人たちは親幕府・反明治政府(反薩長)になる人が多い。特に輪王寺の縁者を娶った河鍋暁斎は旧幕臣および下町(絵画の購入者)ひいきとなるのは当然のことである。酔った勢いでどのような絵画で新政府の反感を買ったのだろうか。明治3年頃は上野のあたりは寛永寺参拝客もなく不景気の頂点だった。幕臣は静岡に行き、地方から来た人(下級武士)たちとの江戸市民の摩擦となる。また最後の浮世絵師といわれた小林清親は暁斎に一時弟子になったという。
根付の研究 上田令吉著
根付とは江戸時代に小物を紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具という。従って帯をしめない現在では装飾品としてのものとなる。
 この本によると根付けが海外に流出した原因は三河屋幸三郎が関係していたという。幕末ペリー来航時、幕府の人足頭で横浜に警備に行ったところ、偶然米国人と知り合い幸三郎の持っていた根付をあげたところ米国人からお返しの品を無許可でもらったため、「幕府とアメリカとが開国貿易交渉しているときに密貿易した」と幕府の咎めを受け獄に入れられた。しかし、このことを聞いた米国人は事の次第を話し、ようやく幸三郎は許された。
 神奈川が貿易港となったとき、偶然幸三郎がその米国人と出会い、出獄についての礼を述べたところ、その米国人と友達となった。双方で会話が進むうち幸三郎の根付けの話題となり、米国人が資金を出し、幸三郎が日本各地で根付を買い集め、神奈川に送り、海外に輸出されたという。
 幸三郎は神田旅籠町に三幸商会という美術商を開き、横浜にも店を出し、根付けのほかに外国人の好む美術品の輸出を始めたという。明治22年5月5日に死去
彼は上野戦争で彰義隊の死者を弔ったひとで旧幕臣との交遊もあり、榎本武揚と親しかった。また彫刻家高村光雲とも親しく付き合っていた。明治の前半は日本の美術品が海外に流出していた時でもあった。三幸商会は幸三郎の死去後もあって、明治の読売新聞に思い出の記事がある。

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福神漬物語 75野村文夫

2010年01月26日 | 福神漬
野村文夫
芸備先哲伝 玉井源作著より
野村文夫
名は樞、通称は文機、後に文夫と改めた。雨壮と号し、簾雨または秋野人という別の号がある。代々芸藩(広島県)の医者の家系である。安政二年九月大阪に上り、緒方洪庵につき、蘭学を学び、大いに西洋の学問を納める必要を感じた。二十歳の時だった。藩もまた有用の人材と認めて、航海学の修行を命じ、また汽船の購入のことで長崎に派遣する。志が開国になっていたので、慶應元年長崎滞在中、西洋のことを知ろうと望み、百聞は一見にしかずと考え佐賀藩士二名と相携えて英国に脱走する。これは(当時の)国法で禁止していた行為だったので彼の兄野村精大(芸藩医者)は驚き、(芸藩)執政辻維岳を訪ねて事情を説明した。執政の寛大な処置でこれを不問いにした。明治元年日本に帰る。藩はすすんで洋学教授を命じ、俸給を二十人扶持とし、藩の席次を供頭添役次席とした。明治3年東京に上る。民部省に出仕し、工部省を経て、内務省五等出仕となり、従六位に叙せれる。明治10年官吏を退職する。
 この時より在野の人となり、東京自宅において雑誌を発刊する。これを團團珍聞という。時事を風刺した文や絵で記事を書き、すこぶる世間の注目をあびた。その他著述も多い。その後政党が盛んになると立憲改進党に入り、すこぶる力を発揮した。特に芸備両国(広島・岡山)において目立った。後に国粋主義を唱え、明治22年広島の政友会のために大いに奔走し、その領袖となった。明治24年10月27日没す。享年56歳東京染井墓地に葬る。

広島県の人物辞典なので綺麗に経歴が書かれている。東京神田雉子町の團團珍聞社は野村の自宅と書いてあった。ここに色々な人物が集まってくる。團珍の初期の主筆は梅亭金鵞である。梅亭に福神漬が命名されたのは明治10年代終わりの頃となる。
『団団珍聞・まるまるちんぶん』『驥尾団子・きびだんご』がゆく 木本至著より
野村文夫の経歴は明治10年頃の團團新聞の創刊の頃から後半の人生となる。
 明治政府が安定して来ると芸藩(広島)出身の野村は英国で知った出版文化のほうに目が向いていった。
 新聞を発行する企画を立てたが、読者の興味をさそう文章を書く作家が見つからなかった。そこで当時出版されていた寄笑新聞に注目した。寄笑新聞こそ梅亭金鵞が主筆であった。梅亭金鵞を迎え団団珍聞は明治10年西南戦争の頃に始まった。政治を漫画風にして批判するような新聞(今の感覚だと雑誌)を発行し、間もなく34万部も出るようになった。明治16年頃から根岸に住んでいた長井総太郎(鴬亭金升)の投書が團珍に載るようになった。梅亭が弟子を派遣して長井を團團新聞社に入社するようにすすめた。17歳の鶯亭金升が誕生した。
近代日本マンガの始まり
神奈(仮名)垣魯文・河鍋暁斎が明治7年に発行した滑稽諷刺雑誌「絵新開日本地」から近代日本の漫画文化が始まった。当時流行語となっていた「ポンチ」を誌名に入れ、『ジャパン・パンチ』をまねようとした。しかこの雑誌は人気雑誌とならず、はたした役割は、明治8年の戯画入り雑誌『寄笑(きしょう)新聞』 橋爪錦造(梅亭金鵞)・月岡芳年の創刊を促し、明治10年の時局風刺雑誌『団団珍聞(まるまるちんぶん)』 となってゆく。
 福神漬の命名者梅亭金鵞がこの編集者の時でもあった。それにしても『寄笑新聞』全11巻の内10巻を収集した長野県上田の飯島花月という人の先見性を感じる。
 ふざけた遊びが好きだった梅亭金鵞の周辺の人達は七福神を漬物の福神漬に見立てたとき、(なたまめ)は何に見立てたのだろうか。
不平将軍
不平将軍と言う言葉あった。明治期の軍人の中には、新政府の政策に反対するが故に<不平>将軍と呼ばれた人々がいた。
 彼等の中には自らの政治的意見を発表する手段のために、新聞の後援を行った人々もいた。陸羯南が明治22年に発行する新聞日本の後援者の中にはこうした<不平将軍>連もいたのである。前年末の会合時に団団珍聞と言う風刺新聞を発行していた野村文夫が参加している。この野村の参加で新聞『日本』の発行所が神田雉子町32となる。団団社の軒先を借りて発行する事となった。団団珍聞には福神漬を命名した梅亭金鵞が参加しているので『日本』の人たちは福神漬を食べていた可能性がある。梅亭金鵞(明治26年死去)なお正岡子規のかかりつけの医者は神田雉子町の医者だったと言う。

福神漬の周囲は反明治政府・反薩長の人たちと親江戸派の人たちが集まっている。ただ梅亭金鵞は明治22年2月13日に倒れたので新聞日本社の人達とは縁がなかったかもしれない。

浅野長勲(あさのながこと)
日本初の洋紙メーカーは、明治5年(1872)年、東京・日本橋蠣殻町で創業した「有恒社」です(操業開始は明治7年)。有恒社は広島藩の最後の藩主・浅野長勲が大蔵省雇いの外国人技術者から製紙法を聞いて設立しました。
 明治10年西南戦争が始まると過熱した新聞報道によって新聞読者が増え、滞貨していた洋紙が順調に売れるようになりましました。明治22年2月11日に憲法が発布された日に新聞「日本」が創刊されました。主な資金は浅野長勲から出たといわれています。浅野長勲と芸藩(今の広島県出身)の野村文夫(團團珍聞社主)の関係は元主従関係と洋紙の得意先であったかもしれません。日本新聞が神田雉子町32に本社社屋を構えたのは社屋購入で團珍社(神田雉子町31)を資金援助したといわれます
 明治初期には新聞を拡大する販売政策を国がとっていました。日本で新聞の普及は文字を読める読者が江戸東京に多かったこと新時代の活字・洋紙が銀座近辺でそろいました。明治10年発行の團團珍聞は新聞弾圧を避けるため伏字(○○)を利用するなど、新聞雑誌等の発酵禁止を避けるため、あらゆる報道の可能性が試された時期でもあった。また新聞社も読者の拡大を目指し、「絵入り・振り仮名つき」など工夫をして漢字の読めない人でも記事の内容が理解できるようにしていました。
 福神漬の命名者梅亭金鵞は武家出身ですが戯作の道に入り、明治になって新聞の主筆になった人です。生活のために引き札(広告文)も作成していました。

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福神漬物語 74團團珍聞

2010年01月25日 | 福神漬
團團珍聞

明治前半期に起こった自由民権運動は、政権を握っていた藩閥政府に対して国会開設を早期樹立する運動だった。しかしこの運動を明治政府で様々な方法をとって弾圧した。最初の自由民権を主張する人々は活動の場を新聞とした。しかし明治政府は1875年新聞紙条例・讒謗律(ざんぼうりつ)の2法を制定して新聞を規制した。さらに1880年集会条例を制定し、演説会を抑えようとした。そんな時、明治10年の西南戦争のときに政治を風刺するマンガ雑誌が発行された。社主野村文夫は芸州藩主だった浅野長勲の資金援助を受けたものだった。浅野は明治5年(1872年)、日本最初の東京・日本橋蠣殻町で創業した洋紙製造工場「有恒社」(大正13年王子製紙に吸収合併)を設立、明治7年(1874年)稼動した。西南戦争で新聞の発行が増え、洋紙製造が採算にのるようになった。
また明治22年(1889年)2月11日、明治憲法発布の日に創刊された新聞『日本』(日本 (新聞))に出資した。新聞『日本』は團團珍聞と同じ神田雉子町31で創業した。つまり野村文夫の自宅の敷地に『團團珍聞』と『新聞・日本』が同居していたのである。
團團珍聞は○○珍聞ともいい。○○は政府に弾圧されない工夫でもあった。しかし慣れない一般読者や事情を知らない人は記事の内容が不明となる。平成の時代から團團珍聞を読み解く事は当時の状況を理解する必要がある。福神漬が團團珍聞主筆の鶯亭金駕によって命名された。明治16年から18年にかけてどの様な事があったのだろうか。

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福神漬物語 73北白川宮

2010年01月24日 | 福神漬
北白川宮能久親王(きたしらかわよしひとしんのう)
千代田区北の丸公園にある旧近衛師団司令部庁舎を改修してできた「東京国立近代美術館工芸館」あります。その東隣に「北白川宮能久親王銅像」があります。
江戸から明治にかけて、東叡山寛永寺(上野)を統括していたのが、出家した天皇家子息『輪王寺宮』と呼ばれる方々でした。この輪王寺宮は、親王を自分の後継者として迎え、天台宗の統括を図るという天海大僧正の遺言により実現したものです。幕末の輪王寺宮は後の北白川宮能久親王で慶応3年(1867)21歳のとき輪王寺門跡を相続されていました。この後、上野の寛永寺に彰義隊が篭った時に反官軍の代表に擁立されています。
 明治維新の時、有栖川宮熾仁親王は恭順を条件に徳川慶喜を助命する方針を固めており、江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮と静岡で会見し、宮に慶喜の恭順の意思を問うている。一方で、公現入道親王(後の北白川宮能久親王)のもう一つの目的であった東征中止については、有栖川熾仁親王はこれを断固拒否した。天皇家子息でありながら幕府側とみなされ、維新後、謹慎生活の後ドイツに留学し陸軍に入りました。日清戦争後台湾出兵を志願し台湾にて死去しました。
 福神漬の『酒悦』の店名は『輪王寺宮』からいただいたと言われています。従って明治維新後、店主の行動はどちらかと言えば反明治政府の人達との交流が目立ちます。

覚王院義観の生涯 長島進著
上野戦争時、東叡山寛永寺の執当職であった覚王院義観のことを書いてある本を読む。彼は今の埼玉県朝霞市の出身で縁あって東叡山に入った。慶應3年寛永寺の執当職つまり天台座主に代わり職務の代行を行う最高の地位についた。44歳であった。ほぼ同じ時期に21歳の輪王寺宮もその地位に付いた。前例のない幕末政治情勢に彼等は寛永寺を守らねばならなかった。
 慶應4年の鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸に戻り、謹慎ということで江戸城を出、寛永寺で蟄居することから彼等が歴史の騒動の中に巻き込まれることとなった。
 徳川慶喜を助命嘆願するため、静岡に向うが適当にあしらわれた。一般にこのことから覚王院義観の心に変化が生じ恭順から主義主張するという方向に変化したと言う。しかしこの本によると彼は執当職を忠実にこなしていたため徳川の意地を貫いた。明治になって彰義隊が悪役となったが輪王寺宮の処遇と上野戦争の戦犯との整合性のため彼に責任を負わせた歴史となっている。

吉村昭著『 彰義隊』の広告に
戊辰戦争でたった一人朝敵となった皇族がいたとあった。
 上野の戦争の時。寛永寺の管主は輪王寺宮で元皇族でもあった。僧籍であったが最後の将軍が江戸城を出て寛永寺で謹慎することから彼の人生が変ってしまった。
 西軍(京都方)の理不尽な要求に対して抵抗をしようとした武士が彰義隊を結成し、最初は寛永寺での将軍警護と言う目的から江戸市中警護と言う仕事に変化し、西軍と衝突しさらに水戸に将軍が移動すると、寛永寺守護が目的となってしまった。
 福神漬の創られる以前の歴史が福神漬の命名等の歴史の前提となっていて、彰義隊の上野戦争の歴史がなければ多分福神漬はその名称はなく単なる七目醤油漬とかの名前になっただろう。

明治28年9月30日資料作成
大倉喜八郎が福神漬300樽を寄贈している。
『留守第4師団より大倉組よりの献納福神漬の件』
日清戦争が終わったのが明治28年4月だがどうして留守部隊だった大阪の第四師団へ大倉喜八郎の大倉組が福神漬を献納したのだかわからなかった。
 この当時の直前大阪第四師団の師団長が北白川宮能久親王で明治26年から赴任していた。北白川宮能久親王は上野戦争の時は輪王寺宮であった。日清戦争が始まり明治28年1月15日に有栖川熾仁親王が亡くなると兄の小松宮が直ちに参謀本部長となり、弟の北白川宮は第四師団長を免ぜられ近衛師団長となり広島に赴任した。5日後、日本と清国は休戦した(3月15日)。
日清戦争後の福神漬献納はどんな意味があるのか?
日清戦争は明治28年4月頃休戦となるがその年の9月に大倉組が留守第四師団に東京名産福神漬を300樽献納したいという書類があった。明治28年1月終わり頃大阪にあった第四団の師団長は北白川親王(元輪王寺宮)で2月に近衛師団に移り、4月に中国大陸に行き、情勢不安となった台湾に六月初め向った。日本軍は台湾を制圧するのに苦労し、宮は10月28日台湾で死んだ。
 大倉喜八郎の大倉組が献納した福神漬は宮が行った近衛師団と共に台湾に向ったのだろうか。大倉喜八郎は明治の当時から「死の商人」と知られていて、大阪の第四師団に福神漬を献納したのは何か意味があったと思われる。何しろ上野戦争の時、大倉喜八郎は武器を両者のところに販売していたので、下谷池之端「福神漬」の意味があって献納したと思われる。

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福神漬物語 72夏目漱石

2010年01月23日 | 福神漬
夏目漱石と福神漬
夏目漱石の新聞小説『三四郎』(明治41年東京朝日新聞)には福神漬の缶詰の話が出てくるがどんな大きさの缶であったがいまだにわからない。最近の記事によると漱石がイギリスに留学するために準備するものの中に梅干・福神漬があった。明治35年(1900年)の話である。
東北大学付属図書館 夏目漱石ライブラリー「渡航日記」より
 漱石がいつ福神漬を知ったのだろうか。根岸短歌会の人達とは福神漬は関係ないと思っていたが漱石が根岸短歌会の人達から福神漬を知った可能性もある。
 正岡子規が根岸に住居を移したのは陸羯南(大新聞・新聞日本)が根岸に住んでいたからである。根岸党の文化人の交友で酒のつまみに福神漬が入っていたし、また福神漬の命名者である梅亭金鵞は團團珍聞社の主筆で神田雉子町では隣だった。子規の病床日記には福神漬は見当たらないが、梅干・なら漬は良く食べていたようである。
 旧い江戸懐旧趣味の遊びをする人達と新しい俳句短歌を目指す人達がほぼ同時期に根岸に集まったが交流もあったのだろうか。
夏目漱石著「三四郎」より福神漬の缶詰
「三尺くらいの御影石の台の上に、福神漬の缶ほどな複雑な機械が乗せてある」
此の缶の大きさは今の流通している福神漬の缶の大きさと異なるように思える。業務用の大きな缶のようだったのか。
明治41年に東京と大阪の朝日新聞に連載された新聞小説「三四郎」には福神漬とあるだけで何も説明が無い。すでにこの当時普通名詞化されていて知れ渡っていたのだろうか。三四郎が徘徊していた大学付近は福神漬の発明地に近くかなり知れていたのだろう。三四郎という小説は田舎の高等学校を卒業して東京の大学生活に入って新しい都会の空気に触れて色々な出来事が起こる小説で、その中に何の説明も無く福神漬の缶が出てくる。明治41年の小説である。 

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福神漬物語 71根岸党

2010年01月22日 | 福神漬
根岸党
明治23年当時、東京朝日新聞で歌舞伎の劇評をしていた竹の舎主人とは根岸党の饗庭篁村(あえば こうそん)です。根岸党は下谷根岸に集まった不思議な文化人集団で饗庭を中心に活動していた。根岸党は、文学的な一派というよりは、むしろ、文人たちによる「サロン」という趣が強かったといわれる。福神漬の引札を刷っていた鶯亭金升は紹介者として関係していた。根岸党の人達は歌舞伎関係に詳しかったという。『敗者』の精神史山口昌男著486頁から489頁

露伴と遊び 塩谷賛著
一般に根岸派というと根岸に集まった俳人正岡子規らのこともある(根岸短歌会)が福神漬の関係するのは饗庭篁村を中心とした人達のことである。
 根岸に集まった文学・芸術の遊び仲間で、彼等の明治時代より江戸時代のほうが住みよく暮らしよかったと言う気持ちが共通していた。彼らは上野山下三橋の忍川で『八笑人』などを読んで茶番の趣向は変えていたようである。

明治25年高崎にむかう汽車の中で幸堂得知が梨を剥き、富岡永洗(新聞の口絵画家)が竹の皮をひらいてのり巻きを、森田思軒(新聞記者・翻訳家)が福神漬をだして薦め、それを肴にまた酒となる。(55頁)
何気ない記述だがこの頃は福神漬は缶詰で旅行の時の副食として宣伝していた。

大通とか劇通
大通とは辞書によると『遊里・遊芸などの方面の事情によく通じていること。また、その人。』遊び人ということになるが、劇通とは明治時代には歌舞伎通の事で他の芝居はほとんど無かった。
江戸時代は劇通が俳優評判記を出版していたが今の時代のような演劇評論ではなく役者の評判記で贔屓役者の評論という面が強く出ていた。明治時代初めには六二連という劇通が歌舞伎評論を行っていたが、台頭してきた新聞の歌舞伎評論によって次第に駆逐されて行った。台東区根岸に集まった根岸党の人々はその多くは新聞の歌舞伎評論をしていた、饗庭篁村、幸堂得知、森田思軒など。宮崎三昧、幸田露伴、陸羯南、須藤南翠、岡倉天心も根岸党と目されていた。 根岸党は仲間内で酒を酌み交わして歓談し、またともに旅を楽しんで紀行文を残した。いわば芸術家の親睦会だった。その中で福神漬が酒の席で食されていた。(出典・露伴と遊び)

饗庭篁村(あえば こうそん、安政2年~ 大正11年)は、明治時代の小説家で演劇評論家。根岸派の中心人物。明治19年に京橋南伝馬町から下谷根岸に転居する。明治24年頃大久保に引っ越すまで根岸に住んでいた(この根岸の家に同じく根岸党の幸堂得知が引き続いて住む)。饗庭篁村のところに当時の文化人が集まったので根岸党と呼ばれていた。饗庭は酒を飲むだけで肴はあまり重きをおかない人だったという。山田清作(竹のや主人饗庭篁村)
 森田思軒が福神漬を酒のつまみとして食べていたころの話だから饗庭篁村も福神漬で酒を飲んでいたかも知れない。ただ食通ではなかったので食に関する文は少ない。

明治文芸と薔薇 中込重明著によると根岸派・根岸党の人達は『やまと新聞』記者が中心となった文人の情報交換会(飲み会)だった。その中の若手が鶯亭金升と岡本綺堂だった。

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福神漬物語 70日本郵船100年史

2010年01月21日 | 福神漬
日本郵船株式会社百年史. 昭和63年刊行であるが、昭和57から58年頃百年史のためのエピソード募集が社報『ゆうせん』に載っており、カレーと福神漬の話が昭和60年の社報に出ている。いわゆるカレー本の福神漬とカレーの関係の記述はここから始まったのではないのだろうか。昭和60年は何かと日本郵船の創立100年ということで注目されていて誰にも無難な話題として、社報『ゆうせん』の記事を引用したのではないのだろうか。
 瑣末の事柄は歴史の中では記述されず、福神漬もこの一例で郵船社員関係者の中では周知の事実であったが記述はされてないので郵船歴史博物館の雑学紹介のエピソードもあいまいな表現となっている。
 郵船百年の歴史の中で福神漬はどうして記録にはないか記憶に残っているのだろうか。郵船の始まりと発展は明治日本の御用船徴用の歴史であった。従って社員の意識には他と違う意識があったと思う。百年以上の社史の中で第二次大戦で徴用された商船が攻撃をうけ、犠牲となった船員の数が多数あることを一般人にはあまり知られていなかった。
 その戦没商船の歴史の中で第一次大戦末期インド洋において行方不明となった常陸丸の歴史もあった。日本の商船は軍の護衛も少なく任務についていた。常陸丸の日本から欧州に向かうときの出港の様子は悲壮感が漂っていて、残された家族はただ無事を祈るだけであった。
 常陸丸を捜索に行った船が日本に帰り『酒悦』『池之端』『福神漬』の焼印のある木箱が見つかったとき初めて常陸丸が捕らわれたれたのではなく遭難に遭ったことを感じたのではないのだろうか。木箱の新聞報道があってから20日位たって常陸丸の乗員・船員の生存の望みのある知らせが届き、船長の自決の知らせも届いた。この当時の郵船社員とその家族の記憶に強く残っており百年史の思い出募集に福神漬が出てきたのではないのだろうか。

日本郵船株式会社百年史. 昭和63年刊行であるが、多くの社史を読んでいくとそこには共通の事情が出てくる。それは都合の悪いことや社史編纂時期にあまり重要性が感じられない事項はあまり記述されないか、またはあっさりと触れている。時代や時期によって法規範に反する行為となって記述されないこともある。

円朝の落語『七福神詣で』は明治30年代始めの豪商・金持ちをめぐる話だが円朝の貴紳士交友振りが知られる。福神漬は明治20年代では当時としては高価な漬物で販売するにはかなりの努力を要していて、結果として広まったのだがその過程は今でも不明で想像推測でしかない。
缶詰価格
明治の当時の缶詰の価格は1缶が20銭から35銭で、白米1升が7.65銭であったことから、いかに高価な食品であったかが判る。(出典:日本缶詰協会創立80周年記念「缶詰業界の歩みと団体の活動」)この物価は明治何年代か解らない。明治時代物価が連続的に上昇したのは日清戦争からである。
白米一升は約1.5kgなので今の米の小売価格が10kg3000円とすると一升は約450円となるので缶詰の価格が1350円以上となる。福神漬がこの様な高価格であっては一般の人には販売するに困難であっただろう。この様な高価格の福神漬缶詰を食することが出来るのは料亭等に出入りする人しか考えられない。
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福神漬物語 69帝国商業銀行問題

2010年01月20日 | 福神漬
福神漬の歴史を調べているうちに日露戦争後の不良債権の処理問題において渋沢栄一・郷誠之助・中野武営等により帝国商業銀行の破綻させず、減資という手段によって金融市場の混乱を避けた。この帝国商業銀行は日本銀行総裁川田小一郎と原六郎等によって設立された株式取引所の取引員のための機関銀行として設立された。後に馬越恭平・浅田正文が支配人となっている。日本の株式市場は江戸時代からの株仲間から発達し結構世界的に見ても発達していたという。明治の株式市場は当時から投機的バクチ場として見られたようである。

男爵郷誠之助君伝から
郷誠之助は渋沢栄一死去後の第一次大戦後から戦前にかけて日本財界のリーダーとなった人ですが帝国商業銀行の再建や日本醤油醸造の処理には失敗した。のちに「財界世話業」と呼ばれた郷誠之助は色々な業績不振な会社を再建しました。
 明治41年渋沢栄一や中野武榮の推薦により整理のために帝国商業銀行の会長に就任した。帝商は一般の銀行と違って投機性の強い株式仲買人の金融をする関係銀行であった。さらに日露戦争後産業資本と金融の関係が密接となり小資本では独り立ちは難しくなっていった。また日露戦争後の一時的好況の時に多額の貸し出しが、すぐやってきた恐慌によって貸し出しが焦げ付いた。この貸し出し方針はは馬越恭平の考えでこの融資の失敗問題を追及していたのは浅田正文であった。このため銀行内は馬越派と浅田派に別れ、抗争していたが馬越が引き、浅田が経営しても帝国商業銀行はたびたび貸し出しが焦げ付く融資が発生し立ち直らなかった。
 郷誠之助がこのような時、銀行の再建に向った。再建には失敗した後に明治44年東京株式取引所理事長に就任した。帝国商業銀行や日本醤油醸造は福神漬の歴史に関係している。

明治末期の金融安定化法

明治41年に発覚した帝国商業銀行の不良債権問題は今で言うと株式市場に株券を担保として融資する銀行が日露戦争後の不況のため焦げ付きが増え危機をむかえた。帝国商業銀行の内部では営業優先の馬越と経理優先の浅田との二派に別れて不良債権処理が遅れたようである。その時第二代東京商工会議所会頭の中野武営が入ってとりあえず混乱を抑えたが浅田はこの年に22年取締役だった日本郵船の役職を降りている。東武鉄道等の役職を降りたのは彼の死期の迫った明治44年末頃に役職を降りている。
 三菱グループには三綱領と言うものがあります。どれかの綱領に抵触した部分があったのだろうか。処事公明=フェアプレーに徹する に反したのだろうか。
 馬越は後に日本のビール王となったが浅田の記録は少なく消え去ったとも言える。日本郵船の関係者の『福神漬』の記憶にあるが記録がない原因の一つかもしれない。

明治末期の金融危機
 いまは大恐慌以来の金融危機であるといわれるが明治末期にも証券市場の金融機関のひとつである帝国商業銀行の経営危機は支援した渋沢栄一や中野武営も損失を被ったと言う。
 中野武営は数々の経営危機に陥った企業を再建した人だが日本醤油醸造株式会社と帝国商業銀行の再建は結果として失敗だったと言われる。
『中野武営と商法会議所』の本の宣伝には『中野武営は、今から100年も前に「官から民、中央より地方へ」「小さな政府」などを訴え、満州の植民地化に反対、排日に傾くアメリカと中国(清)との民間経済外交の道を切り拓いた実業界の指導者で、徳富蘇峰も「俗中の俗なる実業界にすみつつも一種出色の風格を持った中野武営。風貌を平人にして、その骨は武士たり。その志はつねに君国に存じたり」』
 帝国商業銀行の馬越恭平と浅田正文は危機のあと役員を退任するのだが、馬越はビール業に本腰を入れて働くようになって日本最大のビール会社となった。
 浅田が記憶から消された原因の一つは帝国商業銀行の失敗にあるのかもしれない。彼は明治44年に主な役職を退任し翌明治45年に死去している。
渋沢栄一
渋沢栄一傳記資料 第5巻
 渋沢記念館があるせいで比較的史料が揃っています。さて第五巻は銀行関係の史料で390ページから403ぺ-ジにかけて帝国商業銀行の件があります。明治41年帝国商業銀行の重役間に軋轢があって取締役全員が辞職し、郷誠之助が取締役会長に就任しました。この件で明治41年1月頃から渋沢栄一の周辺で日本銀行総裁を始め原六郎・井上準之助・根津嘉一郎など多数の金融関係者としばしば善後策を相談している。
 後に帝国商業銀行取締役会長であった郷誠之助の談話(5巻403頁)帝国商業銀行のことで渋沢と郷との関係を講演した。
 『これは馬越恭平と浅田正文がけんかした問題で、何しろ(日露戦争後)のブーム時代の借金を帝国商業銀行がうんと背負い込んで困っていたのを私が(郷が)引き受けたがこれは成功しなかった。銀行と言うものは一度大きな借金をしたりして信用を失うと中々回復できないものである。いったい銀行と言うものは2x2=4がすべてで細かい計算の上に成り立って行くものだから一度躓くと立ち直りか容易でない。一般の産業会社なら、その時の景気の風の吹き具合によって、良い時までじっと我慢して、いざ時流に乗るとパット成功するものだが銀行と言うものは厘毛から段々と作っていく商売だからその手が使えない。
 私は渋沢栄一や中野武営から見ると(王子製紙を再建したので)整理屋のように思われていた。』と語っている。
 
明治41年8月15日銀行通信録
帝国商業銀行は明治27年資本金500万円をもって東京・大阪その他日本各都市の株式取引所関係者により設立し、以来証券業者間の機関銀行であったものだが明治40年取締役会長浅田正文が辞職し馬越恭平に代わったが、その頃から重役間に軋轢が生じ、取締役全員が辞職し新たに郷誠之助が取締役会長となった。渋沢栄一は相談役に就任した。

 日本醤油醸造のの破綻は色々な問題を引き起こしていた。サッカリンという人工甘味料は今でも食品に添加するとを嫌われているが、嫌われる原因がここから始まる。

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福神漬物語 68

2010年01月19日 | 福神漬
気になるのは創業が明治18年の明治屋である。磯野計(いそのはかる)は明治13年に三菱の給費留学生としてロンドンに派遣され4年間商業実務を習得後日本に帰り三菱に入りました。明治18年日本郵船の発足と共に独立し船舶納めの横浜で明治屋を開業しました。磯野は経理畑の人間でしたから、当時の三菱・郵船荘田平五郎・浅田正文とも交流があったでしょう。又磯野計はキリンビールの拡販者(キリンビールの命名者は荘田平五郎)としても知られていますがエビスビールの馬越恭平(当時は三井物産横浜)は横浜で富貴楼のお倉のところで浅田と交友があったし、後にビール販売合戦ともしらず横浜で共に遊んでいたかもしれません。
 明治18年明治屋はシップチャンドラー(横浜に入港する船舶のために食糧や消耗品・船具・ 船舶機械部品等の船用品・食材・飲料の納入、免税酒類・免税煙草・肉類他の卸売を商う)として発足しました。当然日本郵船の船舶にも納品していました。明治屋は輸入食品の草分けですが日本郵船の乗組員には日本人もいますので漬物の沢庵漬や梅干も日本郵船に納品されていたと思われます。

 明治18年に横浜で開業したシップチャンドラーの明治屋は日本郵船にあらゆる物を納品したと思われます。後に明治屋は海外の高級食品輸入の会社になって行きますが当然日本人乗組員のための味噌醤油米等も納入したと思われます。その中に酒悦の福神漬が入っていた(インド洋で遭難した常陸丸に酒悦の福神漬が積載されていた)。

明治屋73年史・百年史より
明治屋の創業は明治18年10月頃で磯野計は郵便汽船三菱が明治18年9月30日に解散する以前に三菱を退社したと思われる。磯野計は三菱の給費留学生としてロンドンに派遣された。彼は日本における複式簿記の先覚者でもあった。ロンドンから日本に帰国する時郵便汽船三菱会社(現、日本郵船)の新造船「横浜丸」を英国のグラスゴーから横浜へ事務長として回航した。船舶事務長の仕事は船舶に必要な物資を調達する業務を執り行うがとかく現在でも不正が付き物の仕事であった。この船には川田竜吉(第三代日本銀行総裁川田小一郎の子息)も乗っていた。彼はこの仕事の経験から横浜に帰ると横浜で居留地の外国人商人にシップチャンドラーの仕事を独占されていて暴利を取っているのを知り、三菱の近藤廉平に働きかけ、日本郵船の発足と共に日本人による船舶納品業を始める機会と思って三菱を退社し明治屋を創業した。

明治屋食品辞典 昭和11年より 
明治屋1930年頃取り扱い食品プライスリスト396項目から 
ふくじんつけ 福神漬
国会図書館にあるこの本はマイクロフィッシュ化されていて検索に慣れるまで時間がかかった。最初から辞書を探ったので「ふ」の項目までかなりの時間がかかった。あとで気がついたのだが明治屋食品辞典は漬物の扱いがページ数が少なく、同時に日本古来の食品の説明もあっさりしている。しかし輸入食品に関しての説明はくわしい。その中で〖福神漬〗の項目の量が多いのは異常である。何か理由があるのだろうか。
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福神漬物語 67

2010年01月18日 | 福神漬
 馬越恭平 橋本竜太郎著
日本の首相になる前に政治家橋本竜太郎が著した郷土の偉人の伝記
 帝国商業銀行において馬越恭平と浅田正文の関係が橋本氏の本で明らかとなった。二人の関係は馬越は三井・浅田は三菱で接点がなさそうであるか横浜で三井物産横浜支店長だった馬越と日本郵船の浅田と交際があったと書かれている。
馬越恭平は今ではあまり知られていないが日本のビール王として知られ、戦前は日本のビール業界のシェア75%を占めていたという大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物であった。
馬越が三井物産をやめて二年後、日本銀行の第二代総裁であった富田鉄之助や浅田の推薦で帝国商業銀行の重役となった。
明治時代に本格的に日本で普及したビールの販売方法は福神漬の初期の販売方法によく似ている。
 橋本氏の本では馬越はビール事業より帝国商業銀行のほうが熱心に仕事をしていたが明治41年に帝国商業銀行の業績不振の責任をとって会長を退き、ビール事業に向ったと言う。馬越と浅田は帝国商業銀行の混乱が辞任の理由となっているがこの件に関しての記述がない。
 郷土の偉人の伝記を書いた橋本竜太郎の『馬越恭平』をよむと芸者xx人切とかの話はでず、さらりと書いているがビールの売込みには必要な営業上の行動であることは知られていない。
明治初期におけるビールの売り込み方
馬越恭平翁伝より
『販売先は4者に集中すべし。学者・医者・芸者・役者である。世のインテリや有名人に集中して無料試飲会を開いて大いに宣伝してビールを売り込み、そこから多数の消費者に浸透を図ることである。』
 明治26年2月第二回医学大会が東京で開かれた際、東大教授や軍医1200名を目黒の工場に招待、小石川の植物園で開かれた薬学大会には3000人の来会者に無償で飲ませている。ビールを普及させるにはビールの衛生効果を知らせる必要があると馬越恭平は考えていた
日露戦争時の遊郭吉原での大演説
日露戦争時において、サッポロビールが東京に売り込みのため吉原遊郭の経営者・芸者・女郎を集め大宴会を開いた。そのとき壇上に立ったサッポロビールの専務は『諸君、いまやわが国は未曾有の国難に会している。軍国資金として金は特に重んじなければならない。
 ところでこれからはビールの飲む季節である。諸君、東京の人は去年までエビスビールとかキリンビールを飲んでおられたようであるがこの非常時、今からそのようなことを止めるべきである。エビスやキリンは外国の材料を日本の金で仕入れて製造したものである。従って飲めば飲むほど貴重なお金を浪費していることになる。
 そこである北海道で栽培した大麦で作ったサッポロビールを飲むべきである。これまでサッポロで醸造していて馴染みはないが、実は(明治)30年吾妻橋のそばに工場を建設しようやくこのたび落成を見たので、本年夏からサッポロビールを飲んでもらいたいと思うのである。吉原浅草は地元ともいえるのでよろしくお願いいたします。』
 日露戦争でも砂糖とか貴重な外貨を浪費すると思われていたものは節約を強制されていた。この演説だと明治37.38年の吾妻橋工場稼動となるが史料では明治33年ともある。吾妻橋付近にビール工場が作られたのは原料を水運で運ぶためと書いてあったが、浅草等の行楽地が付近にあったことも立地条件の一つと考えられる。この吾妻橋工場は今ではアサヒビール本社となっている。

明治初期に肉食がまだ嫌われていたとき今では考えられないことが信じられていた。そのような時代に西洋の馴染みのない食べ物を食べさせるにはある程度医学的によいとか幸運が授かるとかの迷信を利用したりして、現代と同じように宣伝する必要があった。

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福神漬物語 66

2010年01月17日 | 福神漬
日本郵船と福神漬
日銀総裁の艶聞
川田小一郎の妾の話は明治43年8月23日の都新聞(今の東京新聞の前身)の記事『花柳界の女傑・富貴楼のお倉』の中に記述されています。明治時代の新聞はとにかく報道のルールなどないように思えるくらい行き過ぎた記事が多数ありました。しばしば人のプライバシーなど関係なく報道していました。時には記事の捏造等もあってしばしば訂正記事もあり、新聞発行禁止されたこともありました。一面で政治外交を論じていて三面では芸者のお披露目や歌舞伎等の話題や遊女の心中記事でのぞき趣味のある読者を増やす努力をしていました。
 明治43年8月の都新聞の記事で『川田小一郎の恩人』としてつぎのような記事があります。
 『日本銀行の川田小一郎氏も(富貴楼の)お倉をひいきにしてそこここに遊んでいましたが。川田氏は仲町芸者の吉次に思いをかけ是非妾にしようとしたが、吉次は有名な男嫌いが看板で誰がなんと言っても「男は嫌い」の一点張りでさすがの川田氏の金の力も何の効果なく、業を煮やして言い出した意地と惚れた弱みに富貴楼に来て、男嫌いの吉次を妾にしてくれれば川田はお倉を一生の恩人だとも言い出してひたすら頼んだ。お倉も他の女ならば手のないことだが相手は吉次とあっただけに一寸困ってしばらく考えてよろしいと引き受けた上、吉次を訪ねいやだと言う吉次を無理やり納得させ川田の邸に妾として上げ、二人の子供まで生んだと言う。かくして日銀総裁であった川田はこれを恩としてますます富貴楼をひいきにしたという。』
この逸話も高橋箒庵の『箒のあと』には吉次は吉原の芸者として記述されている。川田は明治29年に死去しているのでいつごろの話だろうか。福神漬は明治19年前後に上野池之端の酒悦によって創製された。福神漬の普及には池之端の人脈の影響と待合茶屋でも出されただろう。郵船に積まれた福神漬の経緯は事実があるがなかろうが郵船社員には幹部の行状が新聞紙上によって報道され池之端といえば三菱・郵船となっていて記憶にのこっていたのではあるまいか。日本郵船歴史博物館の人の話ではカレーライスと福神漬の話は郵船社員には広く知れていた話であるということである。

隋録三遊亭円朝 藤浦富太郎著
馬越恭平翁と円朝から
円朝は明治28年まで8年ほど新宿に住んでいた。その後川田小一郎(第三代日本銀行総裁・三菱グループの基礎を創った)の持家に住んでいた。(他の円朝関係の書では川田の家に住んでいたことは否定されている)川田は明治29年11月に亡くなっているので最晩年の付き合いとなる。円朝がいつまでも川田が家賃を取ってくれないので気に入らず引越しを考えていた時、その噂を聞きつけた馬越恭平が家賃を取ることを条件に馬越邸に移り住んだがなかなか家賃の請求が来ず約束が違うと再び移住する決意をしたが藤浦富太郎氏の父が間に入って家賃を取ることなり、二年間馬越邸に円朝は住んだ。
 三菱・日本郵船の川田と三井・エビスビ―ルの馬越との接点ここに現れた。円朝の落語『七福神詣で』で川田が亡くなっていたのに出てきた理由がわかる。
 福神漬をめぐる人の交流から数奇な明治時代と文明開花のいたずら現れてくる。藤浦富太郎氏は昭和10年に築地市場が発足した時、青果荷受会社東京中央青果(現東京市シティ青果株式会社)の初代社長である。当時は京橋大根河岸の三周と知られていて、三遊亭円朝の贔屓として知られている。

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