今は満年齢だが小さい頃は正月になると一つ年を取る感覚があった。プチ贅沢で気分が一新となり、正月の空気も違うと感じた。まるで雪の降った後の街の静けさで、年末繁忙を乗り越えた気持ちがあった。
75歳を過ぎると、高齢者本を激しく読んでいるが、どの本もチョット自分の感覚と違っていると感じる。どこがその違和感というのは、著者が記述する世界は平均の世界で、確かにデ―タ的には正当性があると思う。しかし感覚が違うのだ。
平均健康寿命というデ―タがある。厚生労働省の調査だが、令和元年時点で男性が72.68年、女性が75.38年となっていて、平均だから男性の73歳で自立して生活できないとか、死去した人もあるということ。それに平均寿命の数字があって、男性は9年近く自立してないで生きることになる。そこに介護の問題が入る。
このことが平均という言葉と数字のトリックがあって、ただ自立して生活できるという言葉の定義がそれぞれの解釈で生きている感覚がある。今年101歳で亡くなった母は介護の認定の時は元気にふるまうことをしていた。見栄と家族は見ていたが良くあるようだ。女性が化粧すること似ていて、元気だと、ボケていないと介護の認定の時に行うようだ。今から思うとまだぼけていない時にデイサ-ビスの仲間の老人たちと情報交換していて、要介護3になると施設入居に入れる可能性が増すことを知っていたかもしれない。
高齢者本はあくまでも著者の見解で、個別の事情は考慮されない。そしてすべての問題が死で解決するとは限らない。そこから次のドラマが発生する。介護が良かったか不満だったかの満足度は誰も知らない。なぜなら当人の感想は死で記録がない。従って介護者の自己満足となる。死に目に会って満足するのは生きている人。もしかすると当人はもっと頻繁に来てと思っていたかもしれない。