富田鐵之助
第二代日本銀行総裁・仙台出身
大槻文彦の『言海』出版記念会の主唱者の一人。慶應3年幕府の命で米国に渡り、経済学を学んだ。同行者に後に日本銀行総裁となる高橋是清がいた。明治2年に政府の留学生となりニューヨーク滞在中、アメリカを訪れた岩倉使節団に同行した明治政府関係者と知り合い外交畑の役人として活躍する。帰国後仙台藩出身でありながら日本銀行創立に協力し、発足時副総裁となる。初代日本銀行総裁吉田重俊は病気がちだったので、初期の日本銀行の体裁は富田が中心となって創ったという。明治20年吉田が亡くなると、富田が二代日本銀行総裁となったが薩摩藩出身の吉田という後ろ盾がなくなり、外国為替専門銀行である横浜正金銀行への融資をめぐり、時の薩摩出身の松方蔵相と対立し、罷免された。
言海出版記念会は丁度富田が日銀を罷免され、東京府知事に任命されるまでの間だった。この祝賀会は福沢諭吉の祝辞の順序をめぐって、富田と福沢の間に問題が生じ福沢は欠席した。単なる出版記念会の挨拶の順序でもめるくらい当時の異様さが伝わる。晩年は大槻と共に旧仙台藩出身の学生の支援をしたという。
忘れられた元日銀総裁―富田鐵之助伝 吉野俊彦著から
福神漬との関係は見えない。しかし周囲の関係者から接触はあったかもしれない。
第二代日本銀行総裁・仙台出身
大槻文彦の『言海』出版記念会の主唱者の一人。慶應3年幕府の命で米国に渡り、経済学を学んだ。同行者に後に日本銀行総裁となる高橋是清がいた。明治2年に政府の留学生となりニューヨーク滞在中、アメリカを訪れた岩倉使節団に同行した明治政府関係者と知り合い外交畑の役人として活躍する。帰国後仙台藩出身でありながら日本銀行創立に協力し、発足時副総裁となる。初代日本銀行総裁吉田重俊は病気がちだったので、初期の日本銀行の体裁は富田が中心となって創ったという。明治20年吉田が亡くなると、富田が二代日本銀行総裁となったが薩摩藩出身の吉田という後ろ盾がなくなり、外国為替専門銀行である横浜正金銀行への融資をめぐり、時の薩摩出身の松方蔵相と対立し、罷免された。
言海出版記念会は丁度富田が日銀を罷免され、東京府知事に任命されるまでの間だった。この祝賀会は福沢諭吉の祝辞の順序をめぐって、富田と福沢の間に問題が生じ福沢は欠席した。単なる出版記念会の挨拶の順序でもめるくらい当時の異様さが伝わる。晩年は大槻と共に旧仙台藩出身の学生の支援をしたという。
忘れられた元日銀総裁―富田鐵之助伝 吉野俊彦著から
福神漬との関係は見えない。しかし周囲の関係者から接触はあったかもしれない。