年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

富田鐵之助

2010年03月31日 | 福神漬
富田鐵之助
第二代日本銀行総裁・仙台出身
大槻文彦の『言海』出版記念会の主唱者の一人。慶應3年幕府の命で米国に渡り、経済学を学んだ。同行者に後に日本銀行総裁となる高橋是清がいた。明治2年に政府の留学生となりニューヨーク滞在中、アメリカを訪れた岩倉使節団に同行した明治政府関係者と知り合い外交畑の役人として活躍する。帰国後仙台藩出身でありながら日本銀行創立に協力し、発足時副総裁となる。初代日本銀行総裁吉田重俊は病気がちだったので、初期の日本銀行の体裁は富田が中心となって創ったという。明治20年吉田が亡くなると、富田が二代日本銀行総裁となったが薩摩藩出身の吉田という後ろ盾がなくなり、外国為替専門銀行である横浜正金銀行への融資をめぐり、時の薩摩出身の松方蔵相と対立し、罷免された。
 言海出版記念会は丁度富田が日銀を罷免され、東京府知事に任命されるまでの間だった。この祝賀会は福沢諭吉の祝辞の順序をめぐって、富田と福沢の間に問題が生じ福沢は欠席した。単なる出版記念会の挨拶の順序でもめるくらい当時の異様さが伝わる。晩年は大槻と共に旧仙台藩出身の学生の支援をしたという。
忘れられた元日銀総裁―富田鐵之助伝 吉野俊彦著から

福神漬との関係は見えない。しかし周囲の関係者から接触はあったかもしれない。
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ホームレスと図書館

2010年03月30日 | 築地市場にて
ホームレスと図書館
中央区立中央図書館に最近警備員が2名配置された。本の盗難のためと多分想像だがホームレスの人たちの図書館利用に対してのクレームがあったのではないだろうか。いつか混雑時に図書館を利用した時、ほぼ読書する席が利用者で埋まっていた。しかしある一角がまとまって空席があった。仕方がなくそこに座ったら、すぐに空席だった理由が解った。ホームレスと思える人が座っていて、匂いで耐えられなかった。結局短時間の利用で退出した。最近団塊の世代の人たちが退職して、一時より中央区の図書館利用者が増えている気がする。新規参入者にとってはクレームの対象となるのだろうか。図書館の派遣社員には対応できない仕事かもしてない。
どんな理由か解らないが都心にある区は財政に余裕があるようである。
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練炭とヘルメット

2010年03月29日 | 築地市場にて
練炭とヘルメット
この時期としては異常な寒さで、築地市場ではレンタン暖房が活躍しているのでしょう。東京都は休市前の場内放送でしきりに、レンタンの後始末を確実にするように放送している。老朽化している建物は建築の素人でも一目で危険とわかる箇所がわかるところがある。
 次に来た地震で建物が崩壊すれば多分場内労働者にヘルメット着用要請が労働基準監督署から指示がきてもおかしくない。しかし指示があっても誰もヘルメットは被らないだろう。危険であっても誰も自分は関係ないと思っている。今日は今日、明日は明日。
 築地市場内の建物損壊で事故が起こると。都民の税金で保障することとなる。
移動の時期が決まらないと設備の更新が決定できない。冷蔵庫(市場内ではダンベともいう)ターレット(今はガソリン使用車の更新は認められていない。電気タレーットしか許可されない)電動は充電に時間がかかるし、パワー不足で中々更新できない。
 寒さ対策で酒を飲むこととなるから酒気帯び労働となる。それで事故を起こすと昼間から酒を飲んでいとことがバレる。
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通夜

2010年03月28日 | 築地市場にて
通夜
3月28日通夜がある。25日築地に朝仕入れに来て体調不良を訴えていた。その後急死したという。神田の市場が大田に移転した時からの付き合いだから20年を越える。享年64歳であるという。また今月いっぱいで体調不良のため営業をやめる得意先もある。長い不景気は先行きの見込みが付かず、断念するところが増えてきた。ただ他にやることが無く惰性で営業しているところも多い。
何かきっかけがないと人は決断しにくい。出処進退の決断がつかないのは凡人である証拠である。

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ギョウザ事件が決着つきそうで

2010年03月27日 | 築地市場にて
ギョウザ事件が決着つきそうで
当初から予想していたように中国ギョウザ事件が農産物農薬混入事件でなく、労働者の待遇不満から来た事件になりそうだ。このことは食品業界関係者なら労働者が仕事の不満を製品に不満をぶちまけることは知っている。明らかな異物混入は意図的な労働条件の不満を表している。
両国の役人や報道関係者はこんな結果になるとは不満だろう。野菜等から農薬が出ないから不満だろう。今はきちんと検査しないと、日本国内に流通してから回収になると。経費が大変かかる。従って輸入の際に充分検査してから入ることとなる。それでも混入するということは労働問題しか考えられない。
今は事件が風化されて、ギョウザの需給に関係ないだろう。しかし販売不振となってリストラされた、日本のギョウザ製造のパートさんはどう思うのだろうか。誰にもぶつけられない不満が次の犯罪を呼ぶ。日本国内の針混入事件は犯人がわかれば、その動機は社会に対する不満だろう。
これからは中国からの食品輸入はインフレ(中国)とデフレ(日本)の戦いとなる。東アジアの旱魃が気になる。米の作柄はどうなるのだろうか。
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言海 2

2010年03月26日 | 趣味としての漬物
言海 2
七福神 しちふくじん 大黒天、蛭子の神、毘沙門天、弁財天女、福禄寿、寿老人、布袋和尚等の福神の称


言海の原稿が出来たのが明治10年代中頃のため、福神という言葉はまだこの辞書には無い。

あさづけ 浅漬
大根を淡く(あさく)乾して、麹又は糠を加え、淡く(あさく)塩に漬けたるもの。香の物とす。(沢庵漬に対して浅漬の名あり。
江戸東京では浅漬はべったら漬のことを称していたらしい。

たくあんづけ 沢庵漬 (沢庵和尚の創意によると言う。或いは貯え漬けの転とかと。乾したる大根を糠と塩を加えて、圧して漬けたもの。永く貯えて香の物とする。

言海の解釈は今の時代と若干異なる。
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かなのくわい

2010年03月25日 | 福神漬
かなのくわい(仮名の会)
明治16年10月に結成された国語国字の改良運動に大槻文彦は参加していた。丁度この時期は福島事件の判決が終わって間もないころだった。依田学海の『学海日録』の明治16年末に日記に福島事件のことが書いてあったが自由民権運動に関して(失笑する)と素っ気ない。当時の東京で発行している各新聞紙上に連日のように高等法院での公判記録を掲載していた。依田の感想と新聞との差が激しい。東京では一部の人たちが騒いでいたことだったのだろうか。
明治20年代に出版した日本語辞書『言海』には自由・民権の言葉が入っていなかった。
 1960年の日米安全保障条約の締結の時、岸首相は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。」と言っていたが明治の福島事件の裁判は新聞が騒いでいただけだろうか。
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東商新聞3月20日号から

2010年03月24日 | 宅老のグチ
東商新聞3月20日号から
雑俳と狂歌
江戸時代はやった雑俳と狂歌の伝統は今はやりのツイッターという。根底には江戸時代の文化があるという。ただし後の世に名作として残るのはルールとモラルを守って皮肉ったものであるという。黒船来航の「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が読まれた。 『上喜撰』とは当時の玉露茶の商品名で、濃いお茶であったため、飲みすぎると眠れなくなったという句も最近当時の狂歌だと確認されたようである。一時は明治時代の句だといわれていた。
明治中期以後、雑俳と狂歌の師匠として鶯亭金升がもてはやされたのも江戸文化かもしれない。福神漬を調べていると余計なことが目に付く。
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言海から

2010年03月23日 | 築地市場にて
言海から
明治20年代に出版された辞書『言海』から漬物という言葉の意味。
つけもの 漬物 蔬菜を塩に漬けたるもの。香の物。
つけな 漬菜 たうなに同じ
たうな 唐菜 又はスズナ。ツケナ。フユナ。シロナ。又単に菜とも言う。形あぶらなに似て大きく、色浅く、葉最も厚くして、筋白し。専ら塩漬とする。東京三河島の産、最も名あり。高さ二尺余に至る。

この当時はまだ白菜が大陸から日本に入って普及していないようである。三河島菜は既に絶滅した品種の漬菜で、都立園芸試験場に絵だけが残っている。
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築地市場の雨漏り

2010年03月22日 | 築地市場にて
築地市場の雨漏り
20日夜の大雨でいつものように床は水浸し。今回は雨漏りより、排水管の目詰まりか排水能力以上の雨が降ったのだろうか。どこかで漏電事故が起きなければ良いのだが。
 連休で場内に入れない観光客が駐車するため、守衛所から放送が激しい。市場というのは時間によって荷置き場となるので空いているからといって駐車すると呼び出しを受ける。何といっても慣習を知らないといけない。外部の人達や内部の人でも解らない貸し借りがある。困った時の人助け。いつか助けてもらう時があるし、自分の空間を確保するため他の人を助けることもある。
今度の都議会で雨漏りら築地市場内の通路の穴の修理とかどうなるのだろうか?都議会の偽員は現実を知っているのだろうか。休市日に出勤しているから修理工事の車が多いのには驚くよ。築地の中で再建なんか『案』がまとまるまで10年がかかるよ。よれぞれ利害関係があって中々妥協はしないよ。何しろ江戸時代から商売しているから、自分の代で消えてはいけないという気持ちが強い。総論賛成各論絶対反対になるのが目に見えている。リーダー不在。いい案でも奴が作ったから反対になるかも知れない。
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揚出しの終焉

2010年03月21日 | 宅老のグチ
揚出しの終焉
小糸源太郎の生家であった上野山下にあった豆腐料理で有名だった『揚出し』がいつまであったかと問い合わせがあった。小糸源太郎随筆集によると、関東大震災の時に一度燃えてしまったが再建された。しかし昭和20年2月の時空襲で燃えてしまったようである。小糸源太郎は関東大震災以後田園調布に居を移したが、揚出しは終戦直前まで営業していた様である。
小糸源太郎は戦争中不足していた画材を提供するから、戦争協力画を描かないかと軍部から誘われたが断った。そして文字で絵を描くようになったという。それが随筆集として残っている。佐倉義民伝・黙阿弥の話。上野の鐘の音が聞こえるところに鐘つき堂の『きき代』の集金など不思議な話ばかり。
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国語辞書が根岸で生まれた。

2010年03月20日 | 福神漬
多くの辞書は編者によって辞書となる。しかし例外的に著者がある辞書がある。近代的な日本語の辞書は明治初めの頃から準備が始まり大槻文彦によって17年歳月がかかって著された。あいうえお順等今の辞書の原型となっている。そしてこの辞書が出来た事情がまたこの辞書の奥書に書いてあって、多くの辞書を利用した人々の感動を呼んだ。大槻家3代に渡る蘭学・洋学から来る開国という問題を背負った家系の業ともいえる宿命だった。『言海』という辞書にはこの本が出来た過程が記述されていて、彼の妻子、協力者の死もあった。今で言う過労死ともいえる状態であった。
言葉の海へ 高田宏著
 明治24年6月23日、芝の紅葉館にて第二代日本銀行総裁であった富田鉄之助の音頭で大槻文彦の『言海』出版記念の祝宴があった。そこに集った30名ほどの人達だったが集った理由が三つグループに分けられる。
 幕末に仙台藩に帰った大槻家の交友関係。蘭学・洋学関係の人達と政府関係者だった。一つ目のグループは条約改正の関心をもっている人達。二つ目のグループは反藩閥の心情をもった人達。三つめのグループは洋学を背景とした国家意識のある人達の集まりだった。

大槻文彦は明治17年頃から下谷根岸に住んだ。この時期は饗庭篁村等根岸党の人々が根岸に居住した頃と重なる。
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17日

2010年03月19日 | 築地市場にて
築地市場は休市のため、横須賀中央図書館に行き、開国史研究会第4巻を借りて読む。昼食のち、横須賀線横須賀駅まで歩く。駅のところに横須賀カレーのマスコットがあったが福神漬は付いていなかった。JRにて鎌倉に出かける。鏑木清方の美術館を訪ねたのち、先日倒壊した大銀杏の再建を祈って、鶴岡八幡宮に記帳所があった。大階段の交通は遮断されていて、脇の階段から上にいけるのだが多くの観光客は倒壊した銀杏がどの様な様子となっているか見に来ていたようで、階段下の舞台付近から戻っていった気がする。

鏑木清方が明治の新聞小説の挿絵画家として始め、次第に日本画家として人気となった。平成15年に重要文化財に指定された「三遊亭円朝像」絵で知られている。清方は築地付近で生まれ(新橋演舞場付近)育ったせいか『築地明石町』等の作品が多数あり、ご当地の作家となる。
この日の歩数1万6千歩、約10KMとなる。マグロ禁輸のピンチが回避されそうだが、これから消費国責任・数量の記録責任が出るだろう。築地の水産仲卸で場内売り場にパソコンを入れているところは稀である。
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小笠原長行

2010年03月18日 | 福神漬
小笠原長行
下母澤寛
下母澤寛全集第13巻を借りた。「花と奔流」という小説に小笠原長行の生涯が題材となっている。
下母澤寛は北海道生まれでは親族が函館戦争に関係していて、どちらかといえば幕府方を描いた小説が多い気がする。彼は戊辰戦争から生き残っていた人を取材して小説を書いていた。しかし、どの小説家でも明治に入っての旧幕臣の描き方は誰を書いても簡単に処理されている。戊辰戦争で死ぬより、明治に入って生き残る方が大変な時代だった。


開国の騎手 小笠原長行 岩井弘融著
幕末神奈川生麦で起きた英国人殺傷事件を独断で賠償金を払ったように開国止むなしと考え、開国の騒乱を最小にすることを考えていた人だった。
九州唐津藩の小笠原長行は函館戦争の後、江戸に逃亡し、明治5年まで東京の下町の中で隠れていた。本所とか湯島妻恋のあたりに潜伏し、函館戦争で戦った榎本たちが赦免された頃、逃亡していたアメリカから帰国したようにニセの届けを出し、一ヶ月程度の謹慎で赦免された。その後は表立った行動することもなく明治24年1月22日に亡くなった。

久敬社誌という本にこの時の葬儀の参会者の名前に榎本武揚と林田保とありました。しかし、私の想像ですが印字のミスで佐賀出身の村田保と思われます。村田は日暮里の浄光寺にある福神漬顕彰碑の碑文を揮毫した人です。今神奈川県川崎市にある久敬社塾は、明治19年(1886年)旧唐津藩主・小笠原家の私邸の一隅に、郷土から上京してくる学生のための宿舎として開設されたのが始まりです。ここの塾長にメールを送ったところ、返信で事実関係はわからないとありました。昔の新聞等は誤字が多く、活字を拾った人や校正の人達が見逃したのでしょうか。
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東をどり

2010年03月17日 | 築地市場にて
東をどり
2月の終わり頃から築地4丁目の新喜楽の通用口に『東をどり』のポスターが張り出された。新橋演舞場でいつもは5月末に開催されるが今年は4月末となっている今年の4月末は歌舞伎座改築で最終公演と重なる。さぞ賑わうだろう。
今の不景気は非常なもので交際費節減によって、会社需要で成り立っている業界が厳しい。かつて賑わった日本各地の旅館が法人宴会需要で栄えていたが個人需要の取り込みに失敗してところが厳しい。
銀座にある和装業界や画廊等も厳しいようで街の変化がすすむ速さが以前と違って早い。各地で復活する芸者さんのイベントも個人需要を取り込む方向に向うのだろうか。6料亭の弁当つき鑑賞券が料亭の門戸を開く方向に行くか、単なる気勢で終わるか顧客と料亭主人と・芸者たちで時代の変化に対応するしかないだろう。築地市場だって対応を誤れば売る魚が消えて、消滅するしかないだろう。データを分析して対応すれば食のことだから需要は消えることはない。
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