年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

人事の挨拶状

2011年06月30日 | 築地市場にて
この時期は人事の挨拶状が多数来る季節である。日本食品の貿易業界用語で『たくわん貿易』と呼ばれて、マイナーな日本食貿易を今日までの規模にしたアメリカの会社から社長交代の挨拶状が来た。3・11以後の放射能汚染で日本食品忌避があるがこの危機を今後も日本食品と食文化の普及発展のため、活躍してほしい。
 今では死語となった『たくわん貿易』という言葉は戦前日本人移民のために漬物の沢庵を日本から輸出していて、他のアジア諸国とはっきり区別できる食品だった。味噌とか醤油・酒等は他の国でもあるが沢庵漬だけはない。ちなみに戦前日本は韓半島を統治していたので韓国語では「タックワン」と発音すると同じようなものが出てくるらしい(やったことはない)。食文化を他の国の人に普及させることは時間がかかる。
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韓国でのキムチ論争

2011年06月29日 | 築地市場にて
ホン・ジンギョン&オ・ジホ 「キムチ広告」めぐり論争が5月にあった。日本でキムチの宣伝がようやく盛んになってきたようだが韓国ではタレントを使った広告にパワーがあるのだろうか。今の日本ならキムチの宣伝で誰を使った方が売れるのだろうか。
 韓国での論争は通信販売でキムチの売り上げが1番という表現の論争であった。既に韓国でも日本と同じようにキムチが「おふくろの味=オモニの味」は昔の話でスーパーや通信販売でキムチを購入するようになったということである。
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大きな蜂が侵入して

2011年06月28日 | 築地市場にて
築地市場の隣は浜離宮の公園からスズメバチのような体長3CMを超える蜂が事務所に侵入してきた。空調不使用のため、開放してあるドアから入った。築地の周囲の環境は生き物にとって良い環境となっているのだろうか。いま退陣を期待されている人が築地にやって来た時、市場の古さ見ることなく、きれいになった築地川を眺めた。そこには大きなボラがいる。大ボラである。
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タワー・クレーンが消えた。

2011年06月27日 | 築地市場にて
築地市場の隣で建設中の三井造船新社屋の上にあったタワークレーンが消えた。汐留電通の脇を通っている建設中の環状2号線に工事掲示が新しくなって平成26年3月完成となっていた。この頃は築地市場がまだ築地に残っている。築地周囲の工事の進展具合は豊洲に築地市場が予定のまま移転が進んでいるように工事が進んでいる。3・11以後すっかり減った人出も海外が夏休みに入ったようで欧米系の観光客が目立ってきた。世間の話題ともならず築地は消えた。築地市場も一発芸人の仲間入りとなった。

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142年前の6月25日

2011年06月26日 | 福神漬
旧暦明治2年5月15日は新暦6月25日にあたります。142年前のこの日に戊辰戦争の最後の戦いである函館千代が岳で最後の戦闘がありました。ペリーが浦賀にやってきた時、黒船に乗り込んで交渉した浦賀与力中島三郎助が息子二人と共に千代が岳で戦死した日です。この時の戦闘で多くの旧幕軍の武士が脱落する中で浦賀から来た人達は脱落する人も少なく、討ち死にしました。またこの戦闘で12名から14名の町人と思われる人物も死去しています。大部分の町人は仙台からやって来た額兵隊・見国隊と共に函館にやってきたと思われます。『浦賀奉行与力同心衆』多々良四郎著では3名の町人(喜兵衛・重助・牧蔵)が所属不明として戦死者のリストに載っています。喜兵衛はそのうちの一人です。石井研堂の著書『明治事物起源』の缶詰の始まりに出てくる千葉行徳の漬物商人喜兵衛と同一人物と思われます。日暮里浄光寺にある福神漬顕彰碑の裏面にある山田箕之助は喜兵衛の親族です。
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台風5号

2011年06月25日 | 築地市場にて
関東地方に猛暑をもたらした太平洋高気圧はどうやら台風5号を北へ向ける圧力となったようである。最近の精度の高い天気予報は北の菅半島におっと間違え韓半島を直撃しそうである。ガソリン等の不足している北は水害の対策も少ないようでまた今年も不作となるのは必死と思われる。他地域のこととだけでなく昨日の高温は今年の夏も昨年以上に暑く長い夏の予告と思われる。既に梅干の出荷状況も昨年9月の残暑の状況に似てきて、品不足の懸念がある。この時期は梅の漬け込み時期と重なっているので梅業者の過労が気にかかる。今年は少し利益を上げて東南海地震対策で津波が来ても安全な設備となる計画するところもあるだろう。紀州みなべ町は海から近く被害を受けるのは確実である。
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電気予報見ながら

2011年06月24日 | 築地市場にて
23日は朝方から小雨だったのでエアコン不使用で業務をこなしたが家に帰ってテレビを見たら休市の22日と同じ温度だった。24日は朝から暑いのでついにエアコンを稼働することにして設定温度28度とすることになった。どうやら電気予報からは企業の稼働している時間より夜間の方が停電の危険性がある気がする。退社時つけっぱなしのサーバ等の停電した時の不具合を聞く。もちろんAPCの装置は付けてあるのだが15分ほどしか電気は供給されない。不在時に停電があった時はどうなるのだろうか。
結局電気予報を見ながら退社時にサーバーの電源を落とすしかないだろう。

と思っていたら、ソフトで自動的に本体の電源が落ちるという連絡があった。厚い。
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築地アツー

2011年06月23日 | 築地市場にて
昨日は休市なのに暑い。一応対策はとったのだがエアコン不使用はつらい。4000万キロワットの日で今年の関東で一番の暑さとなる。扇風機を回して早めに寝たが暑くて眠れない。今年初めての熱帯夜か。梅雨明けのような天気図で電気の余力が試される。個人情報の機密維持とかで個々の築地市場内の業者のデータ開示はなされないという。全体として節電となっているので節電の進捗状況がわからない。
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恭次郎の名前の由来は?

2011年06月22日 | 福神漬
花香弘一郎恭法は1830年天保元年頃生まれたと思われる。干潟町史によると明治31年1898年68歳で死すとある。天保元年は内田五観の25歳ころとなる。
 花香恭法は父花香安精の47歳頃の子供である。花香安精は関流和算家の内田恭(弥太郎・五観)の弟子であるが安精より内田の方が年下である。内田恭(初期は恭を使用した和算の著書が多い)が江戸にてマテマテカ塾を作った頃以前に弟子となったとすると恭法の父安精は内田先生の一字をとって子供の名前としたと思われる。
また花香恭次郎が恭法のところに養子に行った時が万延元年1860年である。養子先の花香家が恭次郎と名前を付けたのは内田弥太郎・長井昌言から依頼があったと推測できる。つまり高野長英を千葉万歳村の花香恭法のところに行かせた内田が再度花香家の戸田氏栄の遺児の面倒を依頼したと思われる。花香恭法は幕臣となって明治に入ったが幕臣へのあっせんも浦賀グループの影が読み取れる。
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節電デー

2011年06月21日 | 築地市場にて
今日21日は築地市場の節電デーで15%が目標です。あいにくと言って良いのか雨天で冷蔵庫がフル稼働でないので多分今日のデータは参考にはならないだろう。豊洲移転のためのヒアリングがどんどん進んでいて衛生管理は今よりかなり進みそうだが経費の増大は予想され、費用の単価が出ないため、不安となる。例えばLED照明についても予算は付いていないようで古いタイプの照明を付けてから撤去し、LED工事を行う予定となっている。もったいない。経費の差額は負担するのに。様々な計画が震災以前のプランで動いているようでこれからの節電時代に適合しない考えも見かける。豊洲へ行く人達も今の先の見えない経済状況は不安を招くだろう。
 あと3年半で築地市場は消える。
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風向き

2011年06月20日 | 築地市場にて
三国志の中で日本人の好きなところは赤壁の戦いであると思う。諸葛孔明が風の予想をして戦いに勝ったところである。
 どうやら戦後ずっと日本に追い風が吹いていたのだが震災後風が止まり、逆風となりそうである。やる事がすべてと言って良い位悪意にとられてかえって何もしないで放置していた方が良かったという事態になりつつある。浜岡原発を何も準備しないで停止したため、停止解除の条件が不明となって、日本中に電力不足不安を招いた。今の政治家で国民を説得できる原発解除条件を示す事が出来るのだろうか。結局審議会をつくって、結論を他人任せにして、いざ事故が起きた時は責任逃れをするしかないだろう。日本では今食糧が余っていて金さえあればいつでも好きなだけ買えると思っているがそろそろ我儘な規格で安く買える時期は終わりそうである。吉野家の牛丼用のアメリカのバラ肉が好きな部位のみ安価に買えた時代は終わってしまって、コスト高となり競争力が落ちた。
 漬物用の原料価格も徐々に上がりつつある。
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藤岡屋日記2

2011年06月19日 | 福神漬
藤岡屋日記
嘉永3年5月13日
 浦賀表御備場見分としてお役人多数出立。西丸留守居筒井紀伊守他多数
9月15日 浦賀表より帰る。
 御小姓組・大岡豊後守組 下曽根金三郎
     初而御目見 金三郎総領 下曽根治朗助
 10月24日
 御小姓組・大岡豊後守組 下曽根金三郎
銀十枚
 浦賀表備筒相試等、世話仕、骨折候に付、被下之。
右於右筆部屋椽頬、伊勢守申渡之、若年寄中待座。
11月13日
山田奉行 山口丹波守
名代 戸田伊豆守
(山田奉行は伊勢山田にある奉行所である。)
嘉永3年10月末に高野長英が百人組牧野兵庫組同心によって撲殺される。
嘉永3年12月27日高野長英一件落着 
牧野備前守
浦賀与力内田弥太郎元屋舗、麻布六本木長英一件に付き、ご不審の儀あり、揚屋入り。種々の風説あり。長英妻にこれまでの出入り候者を御詮議有候よし。

揚屋入りとは入牢したということ。藤岡屋日記では内田が一度は疑われて、入牢した。藤岡屋日記の記述から高野長英が入獄した経緯は無視されていて、専ら牢屋敷に放火させ脱獄逃亡したことを書いてあった。嘉永3年のこの時期は幕府内部で国防を検討していたようで、藤岡屋日記にも色々記事がある。内田弥太郎が一度は入牢したようであるが、この時期に江戸には筒井・戸田・下曽根も江戸にいたようである。内田は国防に必要な人物で長英の妻が自白しないので、風説ということで釈放されたようである。この後ペリーが浦賀に来航時、下曽根と共に内田弥太郎は活躍する。春から夏にかけて下曽根は浦賀に赴任したようで、嘉永6年は4月終わり頃浦賀にいたことが『南浦書信』に資料として記述されている。同様に内田弥太郎も下曽根の下で活動していたと思われる。

高野長英が逃亡中、千葉万歳の花香恭法のとこに行ったのは内田弥太郎の指図と思われる。しかし数日滞在しただけで花香家から消えた。戸田伊豆守氏栄の遺児鉄丸が叔父である長井昌言が心配し内田、下曽根等の世話で花香家へ養子としていったと推測される。
牧野備前守はペリーの国書に対して広く意見を求めた時、阿部伊勢守と共に名前が出てくる人物である。
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梅雨寒い

2011年06月18日 | 宅老のグチ
福島県史を読むため広尾へゆく。広尾の町は大使館等が多いので外国人が多くいても不思議ではないのだが震災後はめっきり少なくなっていたがようやく少し戻った気がする。
 都立中央図書館で花香恭次郎のことを詳しく書いてあった『香取民衆史10』の内容確認のためである。福島県史では結局確認できなかったが花香が仙台で河野広中・鈴木舎定と会っていたことがわかった。これで原胤昭・戸田欽堂等と接点が現れた。原胤昭が天福六歌撰の浮世絵を配布したのは確信犯ではなかったか。
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藤岡屋日記から

2011年06月17日 | 趣味としての漬物
嘉永3年(1849年)
神田にあった漬物屋で事件があった。この年の8月終り頃、上州今の群馬県で捕まった国定忠治が江戸に護送され年末に処刑された。さらに逃亡生活を送っていた高野長英が10月末に江戸市中で捕り方によって撲殺された頃である。
 神田にあった漬物商に使われていない樽があった。そこに使用人が掃除をしようとしたら、樽にかけた梯子から樽の内部に落ちた。使用人を救助しようとして主人とその息子2人。もう一人の使用人、さらに近所の大工等が樽の中に入ったが次々と樽の中に落ちた。樽の中に落ちた6名の内、生き残ったのは主人だけだった。樽の中は酸素欠乏だったと思われる。
この後近所の婦女子は幽霊の仕業と考え、漬物屋の前を通行することを避けたという。
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電気使用状況が解るシステムの必要性

2011年06月16日 | 築地市場にて
東京都から5月分の電気使用量の請求が来た。昨年比7%程度の節電となっているが先月より節電幅が減少している。中味の不明なデータは総量で把握するしかないのだが7月から9月にかけて節電の本番にどの電気を節電しなければ目標に達しないか不明となる。
 この様な考えでいけば電気の個々の使用状況がハッキリとわかる機械がほしい。どこに節電の漏れがあるか。例えば冷蔵庫の節電でもドアの開閉回数を減らすか、冷気を無駄に放出しないカーテンを導入するか検討する事が出来ない。経費の中で電気料金の割合が少なく、経費節減の対象から外れていたが築地市場全体で15%の目標を立て、各企業が節電しているのに金額が少ないからと言って節電しないことにはならない。これから夏に向かって冷蔵庫の電気使用量が増大する。空調機器は節電出来ても食の安心安全を保つ冷蔵庫温度は対策が限られている。
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