年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

お茶と砂糖

2006年03月09日 | 趣味としての漬物
お茶が伝来して、本格的に茶を栽培し普及に力を注いだのは、鎌倉時代.栄西上人が宋から茶苗を持ち帰えったことに始まります。茶と菓子を一組にする喫茶の風習は茶の湯の流行をもたらし、茶を中心の室町時代の趣味は、宋元両国の文化と禅宗の風格と合致して茶道に体現された。茶道の流行は戦国時代に至ってその極に達しました。
江戸時代に入って元禄の頃までに、菓子は目覚ましい発展を見せたといわれます。日本の砂糖製が造ヨーロッパと違うのは、日本人は奴隷労働に頼ることなく、すべて日本人の手でしたことで、讃岐では独自の方法で三盆白(現、和三盆)という白砂糖を作ることに成功した。こうして幕末にかけ砂糖生産は讃岐、阿波、和泉をはじめ全国的に増産を達成したが江戸時代を通じて、所得の低い庶民にとって砂糖は高級消費財であって、戦前までずっと季節の贈答品やお祝い用の品など、貴重品として扱われていたのである。

和菓子の急激な多様化の原因として考えられるのは、まず落雁類や求肥、それに南蛮菓子といった新しいレパートリーが加わった事があげられます。また製粉用ひき臼が渡来し、米粉の製造も可能になり、蒸すという技術も向上していきました。それは道明寺粉や寒ざらし粉(白玉粉)などの新しい米粉が創製されたことによって可能になったものでした。
 こうして饅頭、落雁、羊羹は完成品として世に出され、確固たる菓子の地歩を築きました。茶道の興隆に触発された和菓子は、この後茶道と共に発展しました。その背景には国内砂糖生産の急増があり、技術の進歩とあいまって、和菓子は完成の域に達しました。近世城下町各地において、藩主の「茶の湯」とともに発展した和菓子は、砂糖を素材とした芸術作品で、日本が世界に誇る砂糖文化であり、茶の文化である。
 明治時代に入り、不平等条約による砂糖の低関税によって、開国に伴い砂糖の輸入の増大、価格が低落し、菓子の全盛期をむかえ、一般庶民に広く普及しました。と同時に生産性が低く,価格の高い国内の砂糖産地は破壊されました。
現在、野菜や果物の甘味がどんどん増しています。甘くすると高く売れるからです。甘味に対する願望、これは昔、日本人が米に対する願望と似ています。

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