不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 48

2009年12月31日 | 福神漬
河竹黙阿弥と竹柴其水のこと
竹柴其水は河竹黙阿弥の三番目の弟子ともいう人で『皐月晴上野朝風』の脚本で、『天野八郎の場』『本所金魚屋の場』は河竹黙阿弥が書いたという。日本戯曲全集 第32巻
 河竹黙阿弥の俳号(其水)を明治20年頃にもらい竹柴其水を名乗ったと言う。世間一般に知られている歌舞伎脚本の代表作は『め組の喧嘩=神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』である。
 新しい演目が上演され、ある程度たつと歌舞伎の劇評が現れる。今の時代の劇評と違ってあからさまに筋の変更を求めているのもある。変更が頻繁にあったのだろう。
 明治23年5月新富座公演で上演された竹柴其水作『皐月晴上野朝風』の脚本を読むと、第七幕博覧会の場があるが時間が足りなく最初は上演されなかったようである。しかしこの脚本を読むと明治23年と言う時間が彰義隊と上野周辺の人々、時代の変化に乗った人、乗れない人の懐旧の情が染み出ている。今でも新撰組と比べて彰義隊は語られることも少ない。

明治23年6月4日 読売新聞 劇評より
下谷竹町湯屋越前屋左兵衛の場

榊原鍵吉は上野戦争の時、寛永寺の輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、山下(今の日比谷線仲御徒町駅付近)の湯屋、越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで逃げた。
明治23年5月公演の皐月晴上野朝風で当時生存していた湯屋越前屋左兵衛の指導によって、風呂屋の内から見る造りで、菊五郎の意気込みが過剰に現れていた。
『御用』と言って官軍に湯に入れろと言われた左兵衛は『そりゃ出来ません。公方様と上野にご恩があるのでござります。官軍だって天子様の御家来だから悪いとは決してありませんがご恩のある人にたいして出来ません』ときっぱりと断ったセリフで下町の人の懐旧の感情を引き起こしたと言う。

越前屋左兵衛は自身が歌舞伎で登場し、さらに当時の人気役者菊五郎が扮するので連日のように新富座に通ったという。下谷の人々がご当地の歌舞伎で話題となっていたことがわかる。上野山下・三橋・竹町・数奇屋町・同朋町・池之端仲町の人達も通っただろう。また静岡に移住した旧幕臣も東京見物とともに歌舞伎を観ていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 47

2009年12月30日 | 福神漬
明治23年5月に上演された歌舞伎は演劇の変わり目だった。森鴎外も観劇していたようで『芝居小屋と寄席の近代』倉田喜弘著によると『団十郎の濁っただみ声は聞くに堪えないので耳栓をしたほうがよい。(東京新報23年6月3日)』と鴎外は評論していた、批評の内容はとにかく新富座の『皐月晴上野朝風』を観ていたということになる。

明治23年6月15日読売新聞
昨日の新富座
昨日の同座は日曜と言い、ことに雨天だったため近来になく大繁盛で早速売り切れとなった。また当日成福の演じる上野輪王寺宮(北白川宮)殿下の御兄上である陸軍大将小松宮殿下もご見物あらせられ、また東本願寺の門跡もご見物された。
 上野輪王寺宮(北白川宮)殿下の兄上の陸軍大将小松宮殿下は日清戦争末期に北白川宮を朝鮮半島に出陣させている。このことによって戊辰戦争の時、朝敵となったことが消えたと思われる。この時はまだ芝居見物する状況ではなく、兄の小松宮が見物したのだろう。
明治23年6月15日読売新聞
彰義隊の23回忌
昨日は戊辰の年戦死した彰義隊の23回忌あたるので榎本武揚・沢太郎左衛門・田邊太一・榊原健吉の諸氏は円通寺に参詣して大施餓鬼を執行した。(この行事に)尾上菊五郎を初めとして左団次ら歌舞伎俳優および作者竹柴其水並びに守田勘弥の代理も同寺に参詣し、菊五郎は銅製花瓶一対を、左団次は牡丹の造り花一対を奉納し、かつ新富座楽屋・茶屋・出方等より供物米百三十袋と団十郎・菊五郎・左団次を初め俳優一同より金二十五円を奉納したという。
上野彰義隊の墓賑う
苦情のため折角の銅碑を取り除き、一度は無縁の有様になった上野彰義隊の墓はその有志者の尽力によって再建となったが近頃は参詣するものが極めて少なく、たまたま昔を偲んで香花を献花するものがあるに過ぎなかった。今回新富座において当時の戦争を芝居にした以後大いに人々の懐旧の感情を起こしたので参詣人が日々増加し、駒込大乗寺の現住職は墓の周囲に鉄柵を造り、追善供養を営み、ことに彰義隊の人々および旧幕府の人々等は続々同所に参詣して香花を手向けかつ寄付金等をするものが多いという。

 明治の当時もイベントがあると関係するところが繁盛するようである。また芝居も国が企画した第三回内国博覧会が上野で開催されている時期に合わせて上演した。
五代目菊五郎と上野池之端の『酒悦』主人との交友があったというが資料がなく、単なる有名人との付き合いがあったということが言い伝えでの残っていたのだろうと思っていた。しかし皐月晴上野朝風の上演報道から上野寛永寺関係者の一人として観劇の一団に加わっていたと思われる。なぜなら酒悦は寛永寺管主から店名をもらっていたのだからである。幕末に池之端周辺で参拝客のための香煎茶屋が3軒あったが全て『酒』 の一時をもらって店名としていた。

上野寛永寺と人々の交流
明治23年6月19日読売新聞
輪王寺の宮 従者の行方
目下その事跡を新富座で上演している。上野戦争の時、東叡山の座主である輪王寺の宮(今の北白川の宮殿下)は弾丸が雨のように降る間を危険を冒して戦地から落ちて行く時、宮とお供した坊主三名にて辛くも南葛飾郡下尾久村まで守護し参らせたが何分人目を引き怪しまれる恐れがあるので三名は大いに悩み村の百姓小原長兵衛なる者に頼み事情を告げ物置の隅を借り受け数日間ここに潜ませた。
 それから泰平の世になって輪王寺の宮は北白川の宮と御改称あるなど百事新しくなった。かの尾久村の長兵衛は百姓のゆえ変わりがなく今も丈夫で暮らしているゆえ先頃新富座を見物したほどである。北白川の宮はもとより雲の上の人になってしまったのでこのような時、一時は家のうちに起居していたことを連絡することもなく素知らぬ顔で過ごしていた。一つ不思議なことは長兵衛のセガレに彦次郎と呼ばれる26歳の息子がいるが上野戦争の頃ようやく一人で歩くようなった頃で輪王寺の宮の隠れ家に握り飯などを運んだこともあったという。その後同村の田中某方へ養子となり、田中彦次郎と名前が変って近衛兵として勤めたこともあった。今は廻り廻って北白川宮の門番として勤めていると言うは珍しい奇遇と言う。

この頃から上野戦争の思い出が文献として出てくるようになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 46

2009年12月29日 | 福神漬
明治23年5月29日読売新聞
菊五郎へ天野氏よりの書状
去る23日の読売新聞紙上に掲載した『音羽屋の参詣』と題し、彰義隊の隊長だった天野八郎氏の息女すず子(今年27歳)氏より去る24日菊五郎のもとへ書状を贈られたというのでその全文を次に掲載する。
『読売新聞明治23年5月23日を拝見し今回新富座において亡父八郎の役を御勤めについて一昨日亡父の墓に参詣くださり、かつ大破している墓を大修繕くださることを読んでそのことは事実でございます。ご厚志の段はありがたく御礼申し上げます。その件につき少々申し上げたいことは墳墓の件はご存知のごとく如何にも破損いたしており、私ども遺族に於いて今年は23回忌にあいあたり、方々をもって修繕を加えんと思っております。
 また新聞紙上に記事となっていたように糺問所において死去いたした後、湯島天神地内に住居している田口喜太郎氏と申すものは亡父の別懇のものであります。同氏のご厚意により遺体を収め、私どもはその節は厳しい法律のゆえ姓名を名乗ることも出来ずただ一通りの回向し埋葬しただけのことでありました。それゆえその寺の住職でさえまったく遺族なき者と思っていとようです。そのような時秋元寅之助氏等(新聞には寅雄氏とあり芝居では寅之介)の御厚意に今の墳墓をたててくださったことは感謝しておりました。
 このような次第につき此の度修繕を加えてくださることは私どもは感謝していると秋元氏等に一応話しております。このような結果を招き私どもは秋元氏菊五郎氏らにまことに相済まぬ儀にて失礼ながら書面をもってお礼申し上げます。
明治23年5月23日夜
 天野すず子

明治23年5月29日読売新聞
菊五郎へ天野氏よりの書状
寺島 清様(五代目尾上菊五郎のこと)貴下
亡父(天野八郎のこと)の性格を二三書き添え、参考まで申し上げます。
一 生来大酒のみで一升(1.8L)くらいは飲みます。
一 常紋は三つ柏にて、才蔵(漫才)の風呂敷のようにみえ、まことに好ましくないと申して浪に七曜の星をつけたのを用いておりました。
一 浴衣は鼠地に香車を染めたものを用い、全て何の印にも香車を用いていました。
一 居間の額には隷書にて『無二諾』秋氏の書いたのを掛け、これに対して『集義』と楷書にて書いているのを掛け、これは自己を責める道具だと言っていました。
なお詳しきことは神田区小川町二番地田口喜太郎氏なり芝区四国町二番地四号須賀いく方天野すず子と訪ねて下されば委細お話あげます。また写真も一枚ありますので御用があれば御覧に入れることが出来ます。
くれぐれもご厚志の段お礼申し上げます。

この感謝状を一覧して菊五郎は大いに喜び早速衣装の紋を改めんと紋帳を取り寄せ調べたが浪に七曜星の付いている紋はなく、その雛形および天野氏の写真とも一覧いたしたいと天野すず子氏方へ弟子を以って問い合わせたが別に紋の雛形はなく、また写真は知人のもとに貸し与えたので近日中に取り寄せるとのことにて同優(菊五郎)は来月中旬には天野すず子氏を招待して新富座を見物させるという話が出ていた。

 この時代は記事の信憑性を高めるため実名実住所で女性は特に年齢付だった。そして二十歳前の一般女性は美女か孝女となって記事に現れることが多い。芸者さん報道では二十歳前は年齢つきでそれ以後は名前だけのような気がする。

彰義隊遺聞 森まゆみ著
読売新聞の記事でわからないことがこの本に書き記されていた。湯島天神内に住んでいた田口喜太郎氏は獄中で亡くなった天野八郎の遺体を回向院に埋葬したことがわかった。この本によると小川屋喜太郎となっている。小川屋は屋号だろう。五代目菊五郎が音羽屋で本名が寺島と言う関係となる。明治4年に彰義隊の生き残りの同志が回向院に天野八郎を弔い石碑を立て法名をつけた。
 また天野八郎の隠れ場を漏らした彰義隊七番隊隊長石川善一郎は後に天野の遺族の面倒を見たという。

『皐月晴上野朝風』を明治23年5月に上演した菊五郎が彼の扮する回向院にある天野八郎の墓を訪ねて、墓を修復した。この行動に対して明治4年に墓を建立した元彰義隊の同志は施主に無断で修復したとのことで怒り(芸人風情に修理された)円通寺に改葬し、天野八郎の碑をたて榎本武揚の額がある。また問題の菊五郎の修復した台石もあるという。つまり今の墓は菊五郎の芝居がなければ円通寺になかったこととなる。芸人に対して『』という差別感がまだ残っている時代だった。今の歌舞伎役者はこの人達の苦労の上に成り立っている。
 福神漬の生まれた上野周辺の状況が明治22年の憲法発布・明治23年の第三回内国博覧会のあたりから変ってきた気がする。それは戦後の復興期から『もはや戦後ではない』と言われた時代になった時と似ている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 45

2009年12月28日 | 福神漬
明治23年5月24日読売新聞
下谷連の総見物
今回新富座において上野の戦争劇を上演するにつき下谷区(今の台東区の西の部分)にてはそれぞれ組を分けて総見物をしようと相談中だという。今その主なる所をあげれば第一数奇屋町・同朋町の校書(ゲイシャ)連中、第二守田治兵衛氏の連即ち仲町連中、第三湯屋佐兵衛氏連即ち竹町連中、第四は松源連中、第五は大茂連中、第六は松坂屋連中、第七は雁鍋連中等であるという。

松源楼の場で数奇屋町の芸者の話が出てくる。
下谷花柳界があった同朋町は今の上野松坂屋南館あたりだった。同朋町はすぐ近くの数寄屋町とともに下谷花柳界として当時東京でも柳橋、新橋につぐ格式と規模を誇った。さて福神漬の酒悦は池之端仲町なので第二の仲町連中に入って見物したのであろうか。酒悦主人と五代目菊五郎との接点がなかなか見えない。
 上野松坂屋は江戸時代寛永寺の御用達として発展した。さて最後の雁鍋連中だが池之端仲町裏の場で『雁鍋で食べて吉原に行こうか』というセリフがあった。料亭か料理の種類なのだろうか。とにかく皐月晴上野朝風という際物の歌舞伎は下谷の町衆にとって日頃のうっぷんを晴らし懐旧の情を呼び起こす芝居であった。
明治23年5月24日読売新聞
梅幸への贈り物
(五代目尾上)菊五郎が今度新富座にて彰義隊の組頭天野八郎を演じるについてはこのほど越前屋佐兵衛氏より輪王寺(今日の北白川宮)下山の際、御使用なった泥付の草鞋(わらじ)と同殿下直筆の『知足』の二字のある掛け軸を菊五郎に与えたところ、菊五郎は熱心にもその草鞋と掛け軸を床の間に掲げ出勤のたびに朝夕三拝しているという。然るに越前屋にてはさらに菊五郎はかくのごとくと聞くやさらに東叡山中堂大伽藍の棟上にあった十六菊の御紋付瓦一個を贈った。菊五郎のこの上なく喜び、重宝がっていると言う。

越前屋佐兵衛氏湯屋で竹町湯屋の場で出てくる。

北白川宮殿下は日清戦争後台湾に向かい現地で亡くなった。戦前台湾にあった台湾神社は北白川殿下が祀られていた。知足とは《「老子」33章の「足るを知る者は富む」から》みずからの分(ぶん)をわきまえて、それ以上のものを求めないこと。分相応のところで満足するこという。北白川宮は五代目菊五郎にどの様な意味で『知足』の掛け軸を贈ったのだろうか。

明治23年5月28日読売新聞
新富座の出揃い
新富座は大抵出揃ったと手一昨日は大入り客止めとなったようである。しかし一番目の狂言の大詰めの(皐月晴上野朝風)博覧会の場はまだ出揃っていないので本当の出揃いは次の土曜日になるだろう。

(第三回内国)博覧会の場は公演初期の頃は上演されることはなかったようである。今ではあまり考えられないが当時は新作の歌舞伎を未完成で上演していたらしい。観客の反応を見て変えていったようである。『竹柴其水集』の脚本には第七幕の博覧会の場には広告小僧なるものが出てきて宣伝をしていた。もし上演していたらどの様な商品を宣伝していたのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 44

2009年12月27日 | 福神漬
福神漬物語 44
明治23年5月16日読売新聞
彰義隊23年追弔会
 かねて記事にしていたように昨15日上野桜ヶ岡において彰義隊戦死者23年追弔法会を行われたが同法会は当時関係の戦友が発起したもので朝より老若男女の参詣多く、本郷白山前町日蓮宗大乗寺よって音楽大法要をおこない、浄僧18名にて殊勝な追弔の式を行い、また禅宗長安寺よりは9人の浄僧を出だしおごそかに心経を唱えたよし。また同日午後4時半頃榎本文部大臣には右の参詣をかねて博覧会に向かったと言う。

榎本文部大臣とは旧幕臣榎本武揚のことでこの日は山縣有朋内閣の文部大臣であった。本当は追弔会に堂々と参加したかったと思われるが同じ上野公園で開催している第三回内国博覧会を見るついでに出席したと言う形で報道されている。文部大臣の肩書きで追弔会に出席したということか。様々な形で旧幕臣の復権が図られていた。
山縣内閣において榎本文部大臣の更迭
明治23年5月16日に榎本武揚文部大臣は山縣有朋総理大臣を尋ね、更迭の理由をきき辞任している。新聞記事によると榎本は長州系の人々と上手く行かず更迭の理由を検討されていたようである。御用新聞である東京日日新聞にはかなり前から情報がもれていたようであるが榎本がインフルエンザで休んでいたり、彰義隊23回忌が終わるまで引き伸ばされたかもしれない。正式な山縣内閣改造は5月17日となる。
榎本には地位にしがみつく意図はなかったが彰義隊23回忌には文部大臣として参加したことは維新後の旧幕臣の名誉回復を願っていたと思われる。山縣有朋はこの後、新文部大臣によって戦前の教育を変えた教育勅語を制定した。
 福神漬の歴史の周囲にこのような以外な歴史が潜んでいる。

 
明治23年5月20日読売新聞
新富座 番付
 同座はいよいよ21日正午12時より開場することとなったが、今改めてその狂言の場割り並びに役割を記すと一番目は皐月晴上野朝風は上野山下袴越の場、広小路松源楼の場、池之端仲町の裏の場、下谷竹町湯屋の場、凌雲院応接所の場、御徒町天野宅の場、東叡山黒門口の場、同山門前戦争の場、根岸御陰出裏の場、三河島不動前の場、北割下金魚屋の場、第三回博覧会の場とある。

上野山下、たんに山下ともいうが、東叡山寛永寺のふもと一帯をさす俗称である。明治になって、正式に上野山下町という名称になった。現在の、東京都台東区の上野駅構内不忍口あたりである。
 狂言の場割の地名を見ていると人の多く住んでいる所の地名多い。これは観客の郷愁の情を誘う仕掛けかもしれない。敗残兵が江戸市中に逃れたという記憶が残っていたとおもわれる。

明治23年5月23日読売新聞
音羽屋の参詣
新富座の役者一同が彰義隊の墓へ参詣するよしは既に本誌に記事にしたが同座も急に昨日(22日)より開場することとなったが一同打ち揃って参詣できなかったので、(五代目尾上)菊五郎は一昨日に竹柴其水氏(原作者)を誘い自分が演じる天野八郎(彰義隊の隊長)の墓に参詣したという。天野氏の墓は千住小塚原にある回向院の下屋敷にあり、建立以来18年の星霜を経たものでこれを修繕する者がなく既に大破しているのでこの際菊五郎はその大修繕をするという。また菊五郎はその帰途三ノ輪町にある円通寺へ赴き彰義隊戦死者540名の墓へも参詣したと言う。天野八郎氏は上野戦争後即ち慶應4年7月大川端多田の薬師際にある炭屋文次郎方に潜伏しているところを召し取られ、西の丸下旧会津邸の糾問所へ引かれ直ちに揚屋入りを命ぜられ、同年9月大名小路元御役宅本多邸なる糾問所の揚屋へ移されたが、たまたま病を発し同年11月8日の夜に亡くなった。よってその翌日、前に書いた回向院下屋敷へ葬ることなり、この際湯島天神下の町人小川暮太郎なるもが乞うて遺体を納めて墓標を立ておいた。明治6年に至り元彰義隊組頭秋元寅雄氏等が発起となって今の場所に埋葬したと言う。

莚升(えんしょう)連の総見物
同連は熱心に左団次を崇拝するものであるが、今回同人が新富座の座頭となったので来月2日一同晴れ晴れしく同座を見物すると言う。この日は同連において高平土間40間を買いきり左団次万歳、新富座万歳とおのおの3回づつ声をかける趣向である。

新富座の大安売り
演劇通とて自任している都新聞社の諸氏は昨日新富座を買いきってその総見物をしたという。名に負う新富座のことならば定めし莫大な散財となると思ったらその貸しきり料はわずか百五十円という。
都新聞の購読者を獲得するため度々読者招待をしていた。今でも新聞の購読勧誘と同じ方法が明治23年にもあったということである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 43

2009年12月26日 | 福神漬
明治23年5月6日読売新聞
桐座の俳優 彰義隊の墓に詣でんと
今度新富町桐座(新富座)において上野戦争を上演することはかって本誌に記載したことだが同開場前多分来る12~13日頃五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、四代目中村芝翫、四代目中村福助(後に五代目歌右衛門)その他の役者一同は上野彰義隊の墓に参詣し、帰路に松源楼にて昼飯をとったのち新富町に引き上げてくると言う。さて其の日の服装はどのようなものかというと西洋風のものは一切万事国粋主義にて五つの紋付の黒の羽織に仙台平のまち高袴を着用し、なるべく丈は旧幕の古風に扮装して華々しく参詣すると言うことだけどここに一つ昔風に直すことが出来ないのは髪型である。こればかりは奇才のある菊五郎も小首をひねって考えていたがちょん髷頭のかつらを被るのも不都合なのでどうしようもなく帽子を被ることに決まったと言う。

(江戸)上野広小路、料亭松源楼での官軍と彰義隊との間にトラブルがあったことが知られていた。
明治23年5月11日読売新聞
上野の戦争
今度新富座において上演する上野戦争の脚色中に同隊に関係なき者に大変に活躍させ、また(上野の)戦争と聞いて直ぐに逃走したものが戦功を立てたようになっていてかなり事実と異なっていて部分があるので、同戦争に関係あり、尚生きている人々からこれは心情が良くないと思い、目下この件につき(芝居の内容について)協議中という。
 
 この当時は芝居興行を成功するため色々情報を新聞に提供していたようである

明治23年5月13日読売新聞
上野戦争の説明
元彰義隊の一人であった秋元某という人は(上野の戦争の)当時万端指揮を執っていた縁で今度ある人の斡旋で五代目菊五郎の自宅へ同人を呼び9日10日の両日同氏の記憶している当時の現状の有様ならびに戦争の様子より勇士等の実況を聞いていたという。またその席に同席していた河竹其水氏(歌舞伎の脚本家)は必要と思われる箇所を一々筆記していたので芝居の脚本の中で多少の影響があるだろう。

河竹其水は竹柴其水の誤りか。河竹黙阿弥は初期の名前は、河竹其水という名前を使っていて「スケ」という形で創作活動し弟子を育てていたかもしれない。

(五代目)菊五郎の投書袋
今度桐座(新富座)において一番目狂言に上野の戦争を演じるにつき毎日菊五郎の自宅へ数十の投書が舞い込み、その受付処理に面倒なほどの量だけれど芸熱心な菊五郎は大切に袋にしまっておき、知り合いの人にこれを示して喜んでいると言う。

明治23年5月15日読売新聞
音羽屋の稲荷祭
尾上菊五郎が稲荷を信仰していて、庭に社を作り祀っていると聞いている。一昨日は甲午の日であるので一家一門が討ち揃ってにぎやかに其の大祭を行った。社前の飾りつけは別段目新しきものはないが主人が有名な俳優なので神楽に代わって奉納する茶番狂言は中々感動させるものがあった。
 この日は朝から雨が降っていたが来賓は元彰義隊の秋元某氏、劇作家や劇場主、他に夫人など十名余だった。この来賓を驚かすような趣向を企画し、折から降り出した雨をそのまま用いたほうが面白かろうと一同土蔵の中で秘密会議を開いてこそこそと評議しているうちに雨が止み、せっかくの趣向も少し手違いとなったが、来賓が続々来てしまったので、なんとなく茶番の趣向も決めねばならぬと見込み違いの晴れに因みようやく考えた『今間晴日暮馬鹿=さつきはれくれてのたわむれ』と外題して尾上菊五郎ら三人の役者が彰義隊に扮し、庭に数十箇所に花火の仕掛けをし、弾丸が空飛ぶ上野戦争の有様を見せようと実行した。さすがに頓知の菊五郎だと参加者一同大喝采した。次に同じ外題で俳優十余名が物まねをし、当日参加していた本人を驚嘆させたと言う。上野黒門口戦争の講談などがあって夜十二時頃まで近頃まれな盛況であった。
 この当時でも芸能記者と言うものがあったのだろうか。記事の中でさり気なく次の芝居の案内をしていた。

この記事の中に『校書』という言葉があって『げいしゃ』とルビが振ってあった。辞書を引くと〔《唐の元 (げんしん)が蜀に使者として行ったとき、接待に出た妓女薛濤(せっとう)の文才を認め、校書郎に任じたという「唐才子伝」の故事から》芸者のこと〕彼女は『賓妓』という待遇を受けた。ふつうの芸者ではなく、客分の芸者という。芸者を『校書』と呼ぶのは、この話に由来している。

又記事中秋元某とあるが記事が時間の経つうちに実名記事として載ってくることになる。明治政府の意向を探っていたのだろうか。秋元某とは彰義隊本体の秋元虎之助(頭取)のことである。
 また5月15日の記事の続きに音羽屋一門の人達が浅草の士族の家族の不幸な状況を聞いて一門から寄付金を集めて贈ったと言う。浅草の士族は火事に遭い、間借り先で病気に遭い主人が亡くなり、さらに子供が病気になって困窮していると言うことをある人から聞きつけたとのことである。樋口一葉の困窮した頃と同時代の話である。

今でも昔でも芝居興行は観客が入らねば成り立たない。桟敷の中が一人の観客でも演じなければならない。そのために色々な手段をとって芝居小屋に来るよう誘導していた。これらの業務をおこなっていたのが芝居茶屋と言う組織で次の芝居小屋にかかる演目の宣伝を番付というもので宣伝し勧誘していた。明治の中頃から番付の役目が新聞に変っていくことになる。都新聞(明治22年創刊)がその代表となって歌舞伎等の文化・芸能に強い報道を強化して新聞販売部数を増やしていった。歌舞伎はどちらかと言えば江戸文化というものでして洋風明治文化とはなかなか会わないものだが福地源一郎・渋沢栄一等の尽力でグランド将軍の接待とか明治20年4月麻布鳥居坂の井上馨邸で本邦初となる天覧歌舞伎と歌舞伎の地位の向上に努めた。鹿鳴館から日本文化の見直しの時代に入った時新富座で興行した竹柴其水のめ組喧嘩(神明恵和合取組)3月興行・上野戦争を題材とした皐月晴上野朝風5月興行で大当たりした。
 新富座の明治23年5月興行の歌舞伎で上野戦争が過去の話になったのではないだろうか。福神漬はこれから日本各地に広まっていく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 42

2009年12月25日 | 福神漬
皐月晴上野朝風
明治23年4月下旬
新富座の5月公演の予告記事が現れてくる。
明治23年5月15日上野公園山王台にて、戊辰の役の23回忌を上野山下の飲食店と協議し、相撲を一回限りの興行をするという。同時期に4月1日から7月31日まで第三回内国勧業博覧会を上野公園で開催されていた。わが国最初の電車が340m走ったという。博覧会の総入場者は100万人を越えていた。ついでに上野公園の隣の不忍池の競馬場で5月16、17、18日の第3回内国勧業博覧会附属臨時競馬会を開いている。このような時期を狙って上野物=彰義隊の芝居を企画した。

西郷隆盛の復権
明治22~23年ころ
明治維新の指導者、西郷隆盛は、西南戦争によって賊名を背負ったまま死んだ。明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布を機に名誉が回復され、上野公園山王台(明治31年)に銅像が建てられることになった。明治23年五月から上野公園にて第三回内国勧業博覧会が開かれた。さらに上野戦争の死者の23回忌と言うことで歌舞伎の際物として『皐月晴上野朝風』という芝居が企画された。ほぼ同じ頃西郷隆盛のための寄付金集めの広告が新聞に載っていた。維新によってもたらされた混乱の収拾と憲法発布ということによって明治政府の自信がついたためだろうか。

岡本綺堂 ランプの下にて
明治劇談
明治23年5月興行新富座『皐月晴上野朝風』より
前興行の『め組の喧嘩』の成功に味をしめた新富座は上野戦争23回忌と言うことを理由として彰義隊の一件を脚色し上演した戦略があたって、開演前から東京市中に評判が立った。もちろん新富座でも種々の宣伝に努めて、上野の宮様を誰が勤めるとか、当時まだ生きていた下谷の湯屋の亭主を五代目菊五郎が勤めるとか色々な噂が新聞紙上を賑わしていた。果たして開幕すると上野の戦争の場などは生々しく大評判で寛永寺の宮様が草鞋履きで上野を落ちるくだりなど、上野戦争を経験していた老人などは涙を流していたという。

 明治の23年ともなれば明治憲法が発布され、西郷隆盛が大赦されて明治政府も武士の時代に戻ることも無い自信の表れかもしれない。こんな時にこの芝居が上演されたのである。しかし明治政府は西郷の銅像を日本初とすることは出来ず、急遽靖国神社入り口に大村益次郎の銅像を建て、日本初の銅像を上野の方向に姿を向けた。

 明治の初めの頃は上野戦争に着いて語ることは出来ず、親族等の間にひそかに伝えられていた。福神漬の販路の拡大等を調べてゆくうちにこの様な事実があった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 41

2009年12月24日 | 福神漬
歌舞伎と福神漬
相撲茶屋と芝居茶屋
 明治時代の終わりに帝国劇場が出来るまでは歌舞伎等の芝居を見るためには芝居茶屋を通じて観ることになっていた。切符の手配や交通手段の手配等が茶屋の人達の手配で行われていてその様子は今泉みね『なごりの夢』に生き生きと描かれている。芝居見物当日いや前日から準備が行われ朝早くから夕方までの芝居興行につきあうこととなる。この様な仕組みは平成の今でも相撲見物に残っていて本場所のチケットの手配は相撲茶屋を通して行われる。本場所の時間は午前9時から夕方6時まで行われていて江戸時代とほぼ同じような気がする。江戸時代は仕切りの時間制限がなかったので取組みが今より少なかったかもしれない。
 江戸末期に浅草での芝居興行は午前6時頃から午後5時頃までの興行でしたから、芝居見物は一日がかりでした。見物客は芝居茶屋を通して入る上客と木戸から入る一般客があって、上客は桟敷で食事は芝居茶屋で取ります。一般客は土間で『かべす』(菓子・弁当・寿司のこと)の客と言って軽蔑していました。相撲茶屋は制度的には芝居茶屋の同様な江戸時代の興行維持の仕組みかもしれません。相撲の良い桟敷席は相撲茶屋に独占されていて一般客には良い席が少ないと言われています。

 明治23年新富座で上野の戦争を題材として『皐月晴上野朝風』が上演された。上野戦争で亡くなった人達の23回忌とかで明治も落ち着いて明治政府も武士の時代に逆戻りしない自信が付いていたのか上野戦争(彰義隊)物が上演できた。まだ戦争の関係者も生きていてかなり前評判がよく、江戸と呼ばれた時から東京に住んでいた人々には涙を誘ったようである。

芝居茶屋 演劇大辞典より
江戸時代から明治初期までの観劇機関のひとつ
寛永元年(1624年)江戸に櫓を上げた当時、劇場の周囲の空き地に許可を得てよしずばりの掛け茶屋を出したのがことの初めであった。
 開場を待つ観客に茶をすすめたものが中々の人気となり、次第に観客がなじむに連れて荷物を預かったり、茶屋に頼んで木戸札の手配を頼んだり、働くものから湯茶をもらって弁当を食べたと言う。
昔の観劇は開演時間と幕間が長かったので茶屋で休息したり食事を取ったりするので一日楽しく観劇するには芝居茶屋を利用しないと観劇できなかった。
大茶屋 表茶屋  桟敷席の大部分を占めていた。
小茶屋 裏茶屋  俳優に接近することが出来た。
水茶屋 場内の飲食物の手配をする。
とにかく観劇に費用が掛かったので明治末期に開場した帝国劇場が出来ると衰退した。
 このような劇場の姿は今では想像つかないが混雑した場内は空気が汚れ、トイレの悪臭が漂ったり、観劇する場の桟敷で飲食するため汚れていたという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 40

2009年12月23日 | 福神漬
三遊亭円朝 天保10年(1839)~明治33年(1900) 62歳
 台東区の下谷神社は寛政10年(西暦1798年)に江戸で初めて有料で落語がでた寄席の発祥地であった。円朝は幕末に湯島天神下で生まれ、青年期まで居住地は池之端の周囲の地域に生活していた。湯島天神下は芸人の人達が多く住んでいたところで差別を受けていた地域でもある。
谷中の山岡鉄舟と交流が有名で他の福神漬の交友関係の中心ともなる人だが肝心の『酒悦』との関係が資料の無いためあまり知られていない。現在の『酒悦』が鈴本演芸場の隣にあるのは歴史の皮肉でもある。
 円朝の落語『七福神詣で』は明治30年代の豪商・金持ちをめぐる話だが円朝の貴紳士交友振りが知られる。福神漬は明治20年代では当時としては高価な漬物で販売するにはかなりの努力を要していて、様々の店主の努力の結果として広まったのだがその過程は今でも不明で想像推測でしかない。

明治東京畸人伝 森まゆみ著から
円朝は湯島切通下に生まれ、親は池之端茅町にあった『山口』という寺子屋に円朝を通わせた。この学校は明治になって樋口一葉が通った学校となったといわれている。12歳の頃池之端仲町の商人のところに奉公に出たが性に合わなかった出戻った。また安政の頃は池之端七軒町に住んでいて浅草の高座に通ったと言う。
 

七福神詣 三遊亭円朝作 要約
明治31年1月1日上野広小路でばったりと
甲「新年おめでとうございます」
乙「おめでとう、君はこれからどこへ」
甲「これから七福神詣でに行くんだ」
乙「古いね、七福神詣といえば谷中だけど、あいにく道が悪いよ」
甲「そんなところには行かないよ。まあ飯でも食べながら七福回りをするよ」
乙「七福回りといって、一体君は何処を回るのだ」
甲「僕の七福回りは豪商紳士の所を回るのさ」
乙「へー何処を回るの」
甲「まず一番に大黒詣でで今の豪商紳士では渋沢栄一君だろう」
乙「なるほど,頬のふくれていることなど大黒天の相があります、それに深川の本宅はみな米倉で囲まれてますか」
甲「それだけではないよ、明治世界で福も運もあるから開運出世大黒天さ」
乙「子分が多数あるのは小槌で、兜町の本宅に行くと子宝の多いこと」
甲「第一国立銀行で大黒の縁は十分にあります」
乙「さてエビスはどこだ」
甲「それならエビスは馬越恭平君さ」
乙「へエー、どういう訳」
甲「エビスビールの社長で、エビスの神が神武天皇へ戦争の時に食料や酒を差し上げる御用を務めたのがエビス神であるからさ」
乙「なるほど、寿老人は」
甲「安田善次郎君さ、茶席でおつな頭巾をかぶって、庭を杖などをついて歩いている所などまるで寿老人」
乙「して福禄寿は」
甲「はて、品川の益田孝君さ、一夜に頭が三尺伸びたというがたちまち福も禄も益田君と人の頭になるとは実に見事です」
乙「だが福禄寿には白鹿がそばにいなければならないが」
甲「時折話しか(咄家)を呼んでます」
乙「なるほど、こんどはむずかしいぜ、毘沙門は」
甲「はて、岩崎弥乃助君です。なんといても日本銀行総裁というのだから金の利ばかりもどのくらいあがるかたいそうなことです。」
乙「そこで布袋さんは」
甲「いまは大倉喜八郎君さ」
乙「どういうところで」
甲「はて、布袋和尚に縁があるのは住居は皆寺です、あれほどになるまで危ういことも度々あったとさ、大袋を広げるように人を大勢呼ぶのが好きなのさ」
乙「時に困るのは弁天でしょう」
甲「富貴楼のお倉さんかね、宅は横浜の弁天通りと羽衣町に近いし」
乙「しかし、紳士ほどの金満家にしても弁天も男に見立てたいさ」
と言っていると、うしろのふすまが開いて。
浅田「僕が弁天です」
甲「おや、あなたは浅田正文君ではありませんか、しかしあなたがどうして」
浅田「はて、僕は池之端に住んでいるからさ」

三遊亭円朝全集4巻より
池之端と酒悦の福神漬と日本郵船専務浅田正文の住まいは落語の「落ち」になるくらい知れていたのだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 39

2009年12月22日 | 福神漬
福神漬物語 39
江戸の下層社会 朝野新聞編 塩見鮮一郎
築地に住んでいた今泉みねの本からから桂川家(蘭学者・御殿医)をめぐる人々の交流へ、さらに明治維新後の成島柳北と浅草で薬屋を開いたが士族の商法で失敗したという記述から、この本を読むこととなった。
 この本は大まかに三章に分かれていて二章はエタとヒニンのことが書いてある。残りの一章にゴウムネコツジキ(乞胸乞食)というのがある。あまり聞きなれない言葉で縁日の芸人や富くじの結果の報道なども含まれていて今の新聞記者のようなことも含まれていたようで明治時代は新聞記者の質も悪く記事を捏造したり金品をゆすっていたり、癒着してさり気なく宣伝していたようである。

福神漬の宣伝文を書いた梅亭金鵞(戯作者)や鶯亭金升(新聞記者)が関係して来るにはこのような事情がある。明治の中頃までは取材の新聞記者の地位はかなり低く軽蔑されていたといって良い。また新聞記者の人脈が初期は浅草で次第に銀座に集まっていて、浅草の方は幕府贔屓の人が多かった。成島柳北は日本の新聞の草分けと言ってもよい人で福神漬の宣伝文にはこの様な裏事情がある。

やまと新聞
明治19年に条野伝平(日本画家鏑木清方の父)という人たちが創刊した、いわゆる「小新聞」で、「大新聞」が男性知識人の読むものとされたのに対し、「女の読むべき新聞」としてスタートしました。
 本社は東京市京橋区尾張町二丁目 、今の銀座にありました。銀座に当時の報道機関が集中し、歌舞伎等の演劇も次第に浅草から今の銀座・築地に移転して来ました。今ではあまり考えられないのですが銀座の文明開化と浅草の江戸文化と当時はまだ残っていたようです。福神漬の創製された上野池之端はちょうど両者の中間ともいえるがどちらかと言えば江戸文化よりでした。しかし周囲(池之端)に三菱の茅町本邸を中心とした三菱関係者が住んでくるようになります。
日本で初めて講談の筆記(三遊亭円朝のもの)を連載したのは、このやまと新聞です。連載読み物の威力は大きく、日本語の文体が大きく変り、創刊後間もなく1万部を超え、明治22年には東京でいちばん売れる新聞になりました。

こしかたの記 鏑木清方著
戦後まで生きていた日本画家鏑木清方の随筆は明治の下町の風景がよく見える。今の東京都中央区にある京橋税務署・都税事務所は関東大震災まで新富座という歌舞伎等を公演する劇場であった。鏑木清方は少年時代に彼の自宅から歩いていける範囲内にあったせいか頻繁に出入りしていて後に新聞挿絵画家としての素養を得たような気がする。
明治のスキャンダル報道 小新聞=庶民・婦女子向け
大新聞(政治を主に扱う)は取り上げていないかほんの少ししか取り上げていなかったが庶民を読者層とした小新聞は積極的にスキャンダルを取り上げて時には捏造してまで読者の興味をそそる新聞を発行し赤新聞と言われていて販売部数が増えても軽蔑されていました。
 その赤新聞の代表は黒岩涙香の『萬朝報』で新聞の三面にニュースを載せ泥棒・強盗・詐欺・横領・不倫の記事が中心でした。
 特に『弊風一斑蓄妾の実例』は大人気でした。明治の年代は妾をもつことが男の甲斐性と思われていた時代で権妻(妾のこと)と言う言葉もあり妾を持つ習慣がありました。明治になって少し経つと妾を持ってもよいという法律は消えましたが明治30年代になってもこの習慣が残っていました。有名人の妾宅の住所付きで記事が書かれ、男の面目が失われました。その記事となった有名人の中には森鴎外・馬越恭平などがいて福神漬人脈の中心と思われる浅田正文も書かれました。妾を囲っている有名人は涙香の『まむしの周六』として恐れた。彼はスキャンダル記事は新聞部数を増やす手段として考えていました。彼のニセモノの正義は妾を持ちたくても持てない大衆の嫉妬に支えられていました。大衆の嫉妬に支えられた新聞は部数が拡大し一流新聞となりました。涙香は後に新聞の内容も一流となりたくて日露戦争直前に内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦を論説委員に抱えましたが日露開戦論に転向し急に部数が減りました。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 38

2009年12月21日 | 福神漬
守田宝丹 守田治兵衛(9代目)
今でも上野池之端仲町に薬の店舗を構える。『守田宝丹』という薬を明治初期に様々な手段を用いて販売し、日本広告史には必ず出る人。
 福神漬の販売拡大にはかなりの影響を与えたと思われる。明治の薬販売広告に関して、浅草派の人たちの後援者でもあったと思われる。明治23年新富座で公演があった『皐月晴上野朝風』という演目で守田治兵衛は池之端の人々を集めて総覧した。戯作者達が宣伝文を書いていた浅草派に対して新聞記者等が宣伝文を書いていた銀座派の代表は岸田吟香で目薬の宣伝広告をしていた。
守田宝丹 明治東京畸人伝 森田まゆみ著から
寛永年間に創建された上野寛永寺の門前町として池之端仲町は寛永寺の御用を足していた。さらに戦前までは不忍の池に向っていい料亭や待合が並んでいた。そして仲町通りには江戸時代から続いている老舗が並んでいた。明治に入って寛永寺の御用が無くなり一帯は寂れたがその中で九代目守田治兵衛は宣伝上手で各戸に薬の効能書きを配ったり、PR雑誌を創刊したり、歌舞伎役者に『宝丹の薬』の薬がよく効くとセリフに書き込ませたりしていた。この宣伝手段は今でも使われている手法でもある。明治年代まで色々な新聞に『宝丹』の宣伝が載っている。当時の新聞社にとって大事なクライアントだっただろう。守田は今の電通・博報堂の役目を明治時代に果たしていた。従って福神漬・酒悦の宣伝方法にもかなりの影響を与えたと思われる。
 又人物的にも逸話が多く慈善の寄付したりや公共事業に多大な寄与もした。さらに最後のちょん髷保持者としても有名で酒悦の野田清右衛門にも影響を与えたかもしれない。
岸田吟香『横浜新報もしほ草』1868年(慶応4年)後に東京日日新聞の記者となり、退社後、目薬の広告を東京日日新聞に出し成功した。新聞広告を商業的に利用して成功した最初の日本人とも言える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 37

2009年12月20日 | 福神漬
福神漬物語 37
三遊亭円朝と福神漬
まだ具体的な福神漬と円朝を結びつける史料が見つからないが円朝は福神漬の池之端周辺に20歳位まで住んでいた。明治という時代の東京は明治のなかばの頃まで江戸時代の風景が残っていて徐々に東京の中心から変化していくときだったのです。
 円朝をはじめ江戸のときから東京に住んでいた人達は基本的に明治新政府を心情的に嫌っていたが徐々に文明開化の進展と共に対応してゆくときでもあった。
 近代落語の祖といわれる三遊亭円朝は30歳の時に明治維新と遭遇した。池之端周辺には幕末期から戯作者たちが数多く住んでおり、様々な交流があったと思われる。明治新政府の文明開化させるため演劇等の興業は江戸時代の風習を改めるため教育することを要求された。しかし、明治10年の西南戦争まで東京は落ちついていなく、武士等が消えた東京は消費地として不況であった。政府は不況を打破するためと文明開化を進展させるため様々な手段を講じた。上野公園で明治10年第一回内国産業博覧会(国内の産業を振興することを目的)に開かれた内国博は都合5回開催され、第3回までがこの上野公園で開催されています。
 そんな時代的風景の中で福神漬が生まれたのです。近代工業の爆発的発達と同様に様々な技術の同時進行によって発展したと同じです。
三遊亭円朝と山岡鉄舟との交友は明治10年から明治21年まで11年間師事したことになる。この間、円朝は井上馨・山縣有朋・三島通庸・渋沢栄一・益田孝といった明治政財界の社交の場を利用して『芸人風情』の世界から新時代の文化人として明治新政府の中枢と対等に付き合えるまで大きく引き上げてもらった。また明治政財界人にとっては江戸文化人と付き合う必要が明治東京では必要であった。
 福神漬はそのような時期に上野池之端で創生され広まっていた。
三遊亭円朝 天保10年(1839)~明治33年(1900) 62歳
 台東区の下谷神社は寛政10年(西暦1798年)に江戸で初めて有料で落語がでた寄席の発祥地であった。円朝は幕末に湯島天神下で生まれ、青年期まで居住地は池之端の周囲の地域に住んでいた。湯島天神下は芸人の人達が多く住んでいたところで差別を受けていた地域でもある。
谷中の鉄舟と交流が有名で他の福神漬の交友関係の中心ともなる人だが肝心の『酒悦』との関係が資料の無いためあまり知られていない。現在の『酒悦』が鈴本演芸場の隣にあるのは歴史の皮肉でもある。
 円朝の落語『七福神詣で』は明治30年代の豪商・金持ちをめぐる話だが円朝の貴紳士交友振りが知られる。福神漬は明治20年代では当時としては高価な漬物で販売するにはかなりの努力を要していて、結果として広まったのだがその過程は今でも不明で想像推測でしかない。

明治東京畸人伝 森まゆみ著から
円朝は湯島切通下に生まれ、親は池之端茅町にあった『山口』という寺子屋に円朝を通わせた。この学校は明治になって樋口一葉が通った学校となったといわれている。12歳の頃池之端仲町の商人のところに奉公に出たが性に合わなかった。また安政の頃は池之端七軒町に住んでいて浅草の高座に通ったと言う。
 福神漬の出来た池之端周辺は浅草へ集まった芸人たちのたまり場でもあったのだろうか。明治の20年頃までは東京となっていてもまだ江戸の風情が浅草周辺には残っていた。江戸の町名が明治の町名に変り、また徒歩行動圏から人力車・馬車鉄道・汽車の発達で行動圏が広がってどんどん変化していって、江戸と言う時から住んでいた人たちが東京という町に変化についいてゆけなく懐旧の情が出る頃でもあった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 36

2009年12月19日 | 福神漬
引札絵ビラ風俗史 増田太次郎著
鶯亭金升の福神漬の引札の刷り物の話から、明治の当時の引札の文章が浅草付近は戯作者が書いてあるのが多く、一方銀座では新聞社が多かったので記者や作家が広告の文を書いていたことが多い。
 明治の銀座は文明開化の象徴としてレンガ造りの建物が並び輸入品や流行品が並ぶ町として発展した。一方の浅草は江戸時代から浅草寺の門前町として発展してきた。さらに吉原遊郭や芝居興業の町でもあった。銀座は時代の先端を行く町ならば浅草は時代に取り残された人のための町でもあった。
 浅草の引札は戯作者が文章を作ったのが多く河竹黙阿弥や仮名垣魯文も引札文を書いたと知られている。上野池之端『酒悦』主人より福神漬の宣伝文(引札)を依頼された戯作者梅亭金鵞であったのは当時としては当然のことでもあった。明治20年ころまでの東京の消費者は江戸のころから住んでいた人が多かったかもしれない。江戸・明治の頃の広告文の料金は生活できるほどではなく、生活の足しにしかならなかったという。

 カレッタ汐留のアドミュージアムにある資料によると江戸時代から明治の中頃までは日本の近代広告の基礎とも言える時代で商人が広告として色々工夫して宣伝を行っていた。特に明治の初期は上野池之端の守田宝丹(宝丹=胃腸薬)と岸田吟香(精水・せいきすい=目薬)の二人は薬の宣伝で有名であった。
特に池之端の守田宝丹の薬(宝丹)は幕末の文久2年(1862年)に発売し、コレラなどの予防薬として重宝されたようだ。商品としての「宝丹」を明治新政府に申請し、第1号公認薬として認可された。また守田宝丹は、宝丹の販売のために、新聞広告をはじめとして、PR誌を創刊したり、ポスター・看板・引札(ちらし)などを活用した。また歌舞伎の役者や落語家に「宝丹」のセリフを言わせたりして明治広告の先導者でもあった。
 同じ池の端仲町にあった福神漬の創始者(酒悦)主人野田清右衛門にも商品の宣伝方法について影響を与えたと思われる。

明治中期までの質素倹約
明治百話 篠田鉱造著より
旧幕の武家時代の家風が明治の家庭に伝わって質素倹約が基本でした。特に山の手では武家上がりの士族商法の家が多く、質素倹約をしつけられていました。
 少なくとも明治中期までは東京の人々の食生活の基本は自給自足に近いもので官僚・学生・軍隊等の需要が漬物の消費を支えていただろう。村井弦斎『食道楽』などはもっと遅く明治の終わりころの話で漬物を漬けることは女性の常識とされていた。

この様な時代に漬物を有料にして販売するにはかなりの工夫と努力が必要であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 35

2009年12月18日 | 福神漬
北白川宮能久親王(きたしらかわよしひとしんのう)
千代田区北の丸公園にある旧近衛師団司令部庁舎を改修してできた「東京国立近代美術館工芸館」あります。その東隣に「北白川宮能久親王銅像」があります。
江戸から明治にかけて、東叡山寛永寺(上野)を統括していたのが、出家した天皇家子息『輪王寺宮』と呼ばれる方々でした。この輪王寺宮は、親王を自分の後継者として迎え、天台宗の統括を図るという天海大僧正の遺言により実現したものです。幕末の輪王寺宮公現入道親王は後の北白川宮能久親王で慶応3年(1867)21歳のとき輪王寺門跡を相続されていました。この後、上野の寛永寺に彰義隊が篭った時に反官軍の代表に擁立されています。
 吉村昭著『彰義隊』によると、明治維新の時、有栖川宮熾仁親王は恭順を条件に徳川慶喜を助命する方針を固めており、江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮と静岡で会見し、宮に慶喜の恭順の意思を問うている。一方で、公現入道親王のもう一つの目的であった東征中止については、有栖川熾仁親王はこれを断固拒否した。天皇家子息でありながら幕府側とみなされ朝敵とされ、維新後、謹慎生活の後ドイツに留学し陸軍に入りました。日清戦争後台湾出兵を志願し台湾にて死去しました。

吉村昭著『 彰義隊』の広告に戊辰戦争でたった一人朝敵となった皇族がいたとあった。上野寛永寺の輪王寺宮のことだが、一日で終わった戦争のためあまり知られておらず、地元の人でも落ち武者の話しか知られていないだろう。
 上野の戦争の時。寛永寺の管主は輪王寺宮で元皇族でもあった。僧籍であったが最後の将軍が江戸城を出て寛永寺で謹慎することから彼の人生が変ってしまった。
 西軍(京都方)の理不尽な要求に対して抵抗をしようとした武士が彰義隊を結成し、最初は寛永寺での将軍警護と言う目的から江戸市中警護と言う仕事に変化し、西軍と衝突しさらに水戸に将軍が移動すると、寛永寺守護が目的となってしまった。
覚王院義観の生涯 長島進著から
上野戦争時、東叡山寛永寺の執当職であった覚王院義観のことを書いてある本。
 彼は今の埼玉県朝霞市の出身で縁あって東叡山に入った。慶應3年寛永寺の執当職つまり天台座主に代わり職務の代行を行う最高の地位についた。44歳であったと言う。ほぼ同じ時期に21歳の輪王寺宮もその地位に付いた。前例のない状況のもと彼等は寛永寺を守らねばならなかったのである。
 慶應4年の鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸に戻り、謹慎ということで江戸城を出、寛永寺で蟄居することから彼等が歴史の騒動の中に巻き込まれることとなった。
 慶喜を助けるため、静岡に向うが適当にあしらわれた。一般にこのことから覚王院義観の心に変化が生じ恭順から主義主張するという方向に変化したと言う。しかしこの本によると彼は執当職を忠実にこなしていたという。明治になって彰義隊が悪役となったが輪王寺宮の処遇と上野戦争の戦犯との整合性のため彼に責任を負わせた歴史となっている。戦犯となった覚王院義観は官軍の食事を拒み死去したという。
 江戸の庶民は上野戦争には参加してなくとも、彰義隊の敗残兵を市中にかくまった行動を見ても密かに応援していて、明治23年の歌舞伎で上野戦争が(皐月晴上野朝風)上演されると桟敷席で涙を流しながら見ていた人が多かったと言う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬物語 34

2009年12月17日 | 福神漬
上野池の端酒悦さんのホームページから
酒悦主人と山岡鉄舟との交友関係があったという言い伝えを酒悦社員から聞いている。しかし根拠となる資料とか文献等は関東大震災とか戦災等で無くなっているという。想像だが山岡から接近したのではなく酒悦主人から山岡に接近したのではないのだろうか。亡くなる直前鉄舟は全生庵から依頼された10万枚以上の膨大な数の書を書いた(受取書がある)。さらに4万以上の扇子に書を揮毫したと言う。
 酒悦の店名は上野寛永寺の管主輪王寺宮からいただいたから、明治維新後も心情的には旧幕府方の人達の交流が多かった。その理由として福神漬の命名を頼んだ相手は最後の戯作者とも言われた幕臣の子梅亭金鵞であった。
旧幕臣の明治維新 樋口雄彦著より
東京で旧交会という旧幕臣の親睦会が出来たのは明治17年で会長は山岡鉄舟・榎本武揚が歴任した。明治22年8月江戸時代の懐旧の情から結成された文化団体江戸会などが首唱した東京開市300年祭が開催された。委員長は榎本武揚で委員は前島密・渋沢栄一・益田孝ら旧幕臣の名士が顔をそろえた。明治東京の発展は江戸の遺産の上にあることを堂々と訴える機会となった。
 島田三郎『開国始末』で井伊直弼を開国の功労者として評価したのは明治21年、福地桜痴『幕府衰亡論』明治25年など佐幕派史観というものが出てきた時代でもあった。こんな時代だからこそ歌舞伎で上野戦争が上演された意義があるのである。
下谷の人たちにとって彰義隊は徳川家の問題でなく、上野寛永寺輪王寺宮とその周辺の住民との関係となっていて、上野戦争は時間も短く江戸の下町のごく一部の歴史となって忘れ去られた。福神漬の生まれる背景にはこんな事情があった。
山岡鉄舟と彰義隊
上野戦争の前夜、山岡は勝海舟の命で上野にこもる彰義隊に対して説得を図るが失敗した。歌舞伎『皐月晴上野朝風』では長岡悦太郎(左団次)という名で出てくるが読売新聞や朝日新聞の劇評も厳しい評論となっている。天野八郎(菊五郎)と長岡の大議論の場も劇評では時間の無駄で省略したほうがよいとも言われていた。
 でも酒悦の伝説の中で交流のあった山岡鉄舟と菊五郎がこの舞台で一緒になった。明治23年ならば、山岡が亡くなってまだ2年しか経っていない(明治21年死去)。

将軍家御典医の娘が語る江戸の面影 安藤優一郎著
明治の御一新後徳川幕府の体制に属していた人達は転職することとなる。明治政府に行く者もあったが多くは転職に失敗して苦難の人生となった。
 築地の桂川家に出入りしていた柳河春三、福沢諭吉等の人々がいた。柳川春三は『中外新聞』という日本人による最初の新聞を発行した。『中外新聞』の成功で次々と模倣した新聞が発行された。
明治になって徳川の家臣は静岡に行った人達以外は仕事を変えねばなりませんでした。また静岡に行った人も人数が多く食うにも困る状態だった。しかし沼津兵学校の卒業生などは後に明治政府で活躍しました。
江戸に残った旧幕府の知識人は新政府に入ったり、商売を始めたりしたが、特に浅草周辺に集まった人達は反新政府の人達が多かった。そのような人達が新聞を発行し、左幕的論調で明治新政府(薩長で支配されている)を批判していてしばしば発行禁止となっていった。福神漬の名前を付けた戯作者梅亭金鵞は後に團團珍聞(まんが付き風刺雑誌)の主筆として活躍し政府を風刺していた。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする