年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

上野の美術界と福神漬

2009年08月31日 | 福神漬
上野の美術界と福神漬
上野の歴史を調べていると、福神漬と美術とが地域と時代が重なるのに、縁がないと思って無視していたら、河鍋暁斎の経歴から無視できなくなった。
 
江戸幕府の専属絵師となった狩野派は幕末になると絵の技術が衰えていた。従って幕府が崩壊し明治に入ると、才能のない人たちは先祖の資産を切り売りして生活しなければならなかった。木挽町狩野の俊才と言われた橋本雅邦は陸軍局の地図を書く仕事で生活を維持した。また同じ塾の狩野芳崖に至っては田舎に帰って田畑を耕作し10数年過ごしたという。最後の狩野派と言われた河鍋暁斎だけが浮世絵などをこなし、時代と下町の需要を取り入れ安定していた生活をしていた。
 明治3年不忍池料亭での筆渦事件を起こし、その刑罰は下谷の人達の同情を呼んだ。また彼の妻となった上野・東叡山寛永寺の輪王寺の縁者ということも同情を誘ったと思われる。明治新政府の役人が外国人にペコペコし、下谷の住民に対して傲慢な態度をとっていたのを揶揄した狂画を描いたといわれる。
 明治に入って日本にきた外国人で日本美術に興味を持った画商やコレクターが河鍋暁斎に興味を持ったのが多いのは一人の日本人の影響があるかもしれない。三河屋幸三郎という人で、開国後横浜で美術商をしていた人である。下谷の彫刻家高村光雲などと付き合い、根付けなど日本人が見捨てた品物を外国人に販売していた人である。彼は上野戦争で亡くなった彰義隊戦士の遺体を持前の義侠心から弔った人でもある。
 河鍋暁斎と付き合いのあったことが知られているのは、大森貝塚を発見したモース、東大で哲学等を教えたフェノロサ、建築家コンドル。ドイツ人医師ベルツなどが知られている。
 河鍋暁斎は明治18年頃まで約30年間湯島に住んでいて、のちに根岸に転居した。湯島の家も池の端に近く、下谷の地域の住民であった。根岸では根岸党の人々と酒を飲んでいたという文献もある。ここで福神漬を河鍋暁斎が食べていた可能性がある。彼は大酒のみで酒で亡くなったといわれる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小西瓜(源吾兵衛)

2009年08月30日 | 趣味としての漬物
小西瓜(源吾兵衛)
今年の天候不順で進物用なら漬の中に入っている西瓜のなら漬原料が不作であるという。来年は醤油漬が困るだろうが本当に影響するのが再来年になるだろう。
主な産地は和歌山県と鳥取県であるので他の産地では代替できない。漬物用のスイカは食用のスイカを早取り、又は大きくなる前の摘果したものではない。天候不順と産地の減少は作柄の変動が大きくなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

税務署が差し押さえにやって来て

2009年08月29日 | 築地市場にて
税務署が差し押さえにやって来て
28日午前11時頃、都内のある税務署から電話が来て、あるところの債権を差し押さえに来るという。こちらの事情を話して、今のところは債務者か債権者かわからないと答えた。買った商品に瑕疵(不良品)があって、処理と処理費用の見通しが立たないと伝えました。
 そうしたら12時半に電話が来て、今から差し押さえに来るという電話があった。築地市場は初めての人は迷うので注意したが、やはり市場正門から来るのに20分近くかかってやってきた。
 急いできた理由は、債権譲渡設定されたため分捕りに参加してきた。不景気で税収が不足しているのにゆっくりしていてはいけないという。消費税は業者が消費者から国に納めるために一時預かっているので、税務署も必死になっている。
 結局供託になって終わるだろう。今度の選挙でばら撒き予算を言っているが納税した税金以上の恩恵があれば問題は無い。国民の多様な要求を少ない予算で回すには政治家の弁舌と説得が要求される。このような難しいことをできる人が選ばれるのだろうか。育てるしかないのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発酵食品でインフルエンザ予防

2009年08月28日 | 築地市場にて
発酵食品で風予防
肺に直接はいる菌は別として、口から入る菌は乳酸菌で予防することを勧めます。古来からある伝統食品で乳酸菌が豊富なのはヌカ漬です。最近は賞味期限が切れて発酵しすぎ(ちょっと酸っぱい)キムチが良いです。腸まで届いた乳酸菌で外部から体内に侵入した菌を駆除または弱めてくれます。
 選挙が終われば風邪報道だらけになって衛生資材が不足ぎみでさらに報道で不安を増進させるでしょう。ここまでインフルエンザが蔓延すると重体になる患者を減らす対処を報道するのが使命だと思うのだが。食の効用は言い伝えしかなく迷信も多く素直に信用することは出来ないかもしれない。
 漬物を信じる者は救われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インフルエンザと京都

2009年08月27日 | 築地市場にて
インフルエンザと京都
再び新型インフルエンザが蔓延しているようで、今年の春先のように修学旅行が中止の傾向が出るだろう。そうなると学生の親に対しての土産で安価な京漬物が打撃を受けることとなる。天候不順だったのがそろそろ晴天続きとなって、野菜の品質向上するはず。すでにジャガイモが大分出荷を早めているようで、落ち着くのも時間の問題となる。昨年のバター不足報道が一年後には過剰在庫となる農産物の怖いところ。マスコミによって農林水産省が振り回されているのがかわいそうにも思える。国民を餓死させないことが国の役割であって、安心させる仕事をやっても、黙っていると評価はされない。目立つべし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河鍋暁斎美術館にて2

2009年08月26日 | 福神漬
河鍋暁斎美術館にて2
河鍋暁斎(かわなべきょうさい)

1867 (慶応3年) 37歳 上野の東叡山寛永寺管主輪王寺宮家の家臣・大沢行衛の娘・近(ちか)と結婚し湯島四丁目に住む。
12月10日(慶応四年1月4日)娘・とよ(後の暁翠)生まれる。
1870 (明治3年 ) 上野・不忍弁天の長蛇亭にて、俳諧師・其角堂雨雀主催書画会で描いた戯画により、逮捕、投獄される。狂斎から号を暁斎と改める。

 訪問した美術館の学芸員の話から、狂斎から暁斎となったので読み方は《キョウサイ》となる。上野戦争直前に生まれた娘は幸田露伴・夏目漱石・内田魯庵・正岡子規・鶯亭金升・小栗上野介の娘(国子)と同じ明治元年生まれ組と重なる。江戸で生まれた人たちは親幕府・反明治政府(反薩長)になる人が多い。特に輪王寺の縁者を娶った河鍋暁斎は旧幕臣および下町(絵画の購入者)ひいきとなるのは当然のことである。酔った勢いでどのような絵画で新政府の反感を買ったのだろうか。明治3年頃は上野のあたりは寛永寺参拝客もなく不景気の頂点だった。幕臣は静岡に行き、地方から来た人(下級武士)たちとの江戸市民の摩擦となる。この関係は第二次大戦後日本に進駐した米軍と日本人の関係と重なる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早明浦ダム

2009年08月25日 | 築地市場にて
早明浦ダム
例年のように四国に水不足があって、兵庫県北部に被害を与えたときの雨で再び満水となった。
たとえが悪いが漬物は野菜の価格の乱高下を抑える役目を果たしている。しかしこのことがあまり知られてない。
 今年の野菜が天候不順のため価格が高騰し、本来ならば市場に出荷できない野菜が農林水産省の指導で規格外野菜も加工に回らず消えた。たぶん漬け込み量が減るだろう。このような時の補助金が漬物業界にはこないので産地とのトラブルが生じ、来年度は海外に原料を求めるようになる。これが自給率40%になった原因の一つである。
農産物は価格が高騰しているときは増産すればよいだけで、問題は品質が良い時でも価格が安い時が政治問題となる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

45回目の衆議院選挙

2009年08月24日 | 築地市場にて
45回目の衆議院選挙
明治23年に第一回衆議院選挙がおこなわれてから今度の選挙で45回目となる。明治10年代の国会開設運動で多数の死者が出た歴史を知ると投票する人がいないからと言って選挙権を放棄するのは苦労した人々に申し訳ない気がする。
 近代日本の政治の根本問題はエネルギーの自給(食料・燃料・国防力)である。先の大戦でも明治の時期でも国を発展させるためのエネルギーが不足していた。この自給率を上げるために様々な方法がとられた。国民を飢えさせないことために海外から米をる輸入していた。中国(当時は清国)のように欧米の理不尽な口実(アヘン戦争)で日本を侵略させないように国防力の充実をはかる。そのための軍備を整えるため無駄な正貨(外貨)の流出を抑えようとした歴史でもあった。
 今の政治の問題点は将来の希望が不在で国民の多様な要求を我慢させる政治家の弁舌が不足している。戦後日本人が食料に困っているときに、平和という明るい希望によって団塊の世代が生まれた。当時はヤミ市全盛のときで、決して豊かであったことではなかった。減税だけでは夢がない。税金を払っていない人は何も恩恵はないということになる。
 日清・日露の戦費を賄うため、酒税・砂糖税等で増税し、日本領土となった台湾で砂糖業を振興し、サッカリンという人工甘味料を禁止した。サッカリン禁止の歴史的背景はこのようことがあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なた豆 酉陽雑俎(ゆうようざっそ)

2009年08月23日 | 福神漬
酉陽雑俎(ゆうようざっそ)
中国唐時代、段成式の編纂
東洋文庫 酉陽雑俎(3)の325ページ
挟剣豆 洛陽の東にある融沢の中に生じる。豆の莢(さや)の形が、人が剣を手挟んだ格好に似ている。ななめになって生じる。

挟剣豆がなた豆かどうかはまだわからないが日本には朝鮮半島経由で入って来たのだろうか。

農業全書 宮崎安貞 岩波文庫122ページ
なた豆。
是を刀豆と名付けることは、剱の形に似ている故である。三月初に植え、灰で覆い、古い莚(むしろ)ぎれ、其何でもよいが此類のくさり物など覆いを置くとよい。
又播種の仕方。冬より穴をほり、肥え土を入れ置き、春になって一粒づゝ目の方を下にして植え、少し土をかけ、灰にて覆い、土を多くかけず、其上に古いざうり(草履)の類、何か軽い物を覆い置き、五七日の後は取り去ってよい。芽が出た後、根葉が少し生ずるのを見て、糞水(肥)をそゝき、つるが長くなるのを待て、竹を立て、是にまとはわせ、又籬をゆひ、かきにするもよし。風で動かぬよう様につよくすべし。動けば多く実ならず。是又肥地に糞を多く用いれば過分に実なる物なり。後略

やはり刃という文字が現れる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なた豆 俳諧歳時記栞草より

2009年08月22日 | 福神漬
刀豆

(『増補 俳諧歳時記栞草(下)』岩波文庫、p.136~137)より

刀豆:中国明朝時代の李時珍曰く、莢(さや)の形を以てこの名を命名された。思うに、酉陽雑俎(ゆうようざっそ)の選者段成式が言うには、楽浪(今の朝鮮半島の平壌付近)に挟剣豆という豆がある。莢(さや)、横に斜にして人の剣を挟めているようである。即(すなはち)此豆なり。三月に種をまく。蔓が生じ、育って一ニ丈(一丈は約3mなので36mとなる)。葉は豇豆(さやえんどう)の葉の如くにして稍(ちと)は長大である。五六月紫花をひらく、蛾の形のごとし。莢を結ぶと長いものは尺(約33cm)に近い。微莢(ちと=さやがさいかち)に似ている。扁(ひらたく)して剣脊(しのぎ)三稜(三角形)、宛然たり(そっくりそのままである)
 中国明朝の李時珍の本草綱目から。
言葉尻からみると「なた豆」は剣・刃物に例えられている例が多い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河鍋暁斎美術館へ

2009年08月21日 | 福神漬
河鍋暁斎美術館へ
JR西川口駅で降りて、駅前の交番にて河鍋暁斎美術館行きの地図をもらった。地図がなければとてもいけそうもないところにある。途中の交番に半旗が掲げられていた。そう訪問したのは8月15日の終戦記念日である。ネットで調べておいたので美術館は開いている。途中の交番から先はカリン(花梨)通りという。見事なカリンが葉の陰で実っていた。
 駅から15分ほど住宅街の中を歩いていくと河鍋暁斎美術館の看板がある。指示に従ってゆく。美術館の隣にある喫茶店らしきところで入場券を買って入る。先客がいて学芸員の説明を聞いているのをについて聞く。今は幽霊の絵が特別に展示していた。
 今回の訪問した目的はある資料から河鍋暁斎が根岸で明治22年亡くなったという。根岸とどのような関係があったのだろうか。この件で美術館の人に聞く。河鍋暁斎は明治17年頃から根岸に住んでいたという。資料は明治20年ころ根岸に引っ越したことになっている。根岸党との関係はあったのだろうか。饗庭篁村が根岸に住んだのが明治19年のことなのでほぼ同じ頃になる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成島柳北とタクワン

2009年08月20日 | タクワン
成島柳北
読売雑評集 明治14年10月19日
沢庵漬の説
私は質素に育ったゆえ、幼少の時より、沢庵漬を良く食べていた。三食必ずこれを食べていた。家に古い召使がいて私が沢庵を好むのを知っていて、その重石の置き加減を慎重に加減して、新漬は新漬、古漬は古漬と自ら判断して、あるときは重石を軽く。又あるときは重く、重石の加減を良くしていた。四季とも沢庵の味良く、私にして食事に魚がないことを嘆くことはなかったのは美味しい沢庵があったからである。
 然るに近頃、その古い召使が田舎に帰ってしまった。他の召使に代わって沢庵を管理すると、沢庵の重石加減の程度を知らず、ただ押しに押したので沢庵の味はだんだん悪くなった。私が日々ののしりわめいたが、仕方がなかった。程なく田舎より古い召使が戻ってきたので、この状態を話すと次のような答えが召使からかえってきた。
「それ沢庵は押さねば漬からないものである。それ故石の良いものを選び、この石で押し、沢庵の塩加減をよくすればもとより必要なことだが、ただ押せば良いものだと思い込み、その大根の性質を問はず、その糠塩の多少を考えず、むやみに押し付けるのが良いと考えるのは甚だ心違いである。茄子には自ずから茄子の漬け方がある。瓜も自ずから瓜の漬け方がある。茄子も瓜も沢庵も同じ漬け方にすべしと思い、ただ重石のみ強くかけるのは台所を任せられているもの間違いである。重石の軽重は自ずから状態を判断してよきを図ると良い。」といった。
 私はこのことから次のように思った。「ああ妙なことだ。古い召使の言葉だ。世間の道理は往々にしてこのようなものだ。何事も軽重のよろしきをを失うとき必ず悪い結果を招く。なんぞ沢庵漬のみのことではないことだ。」と書いて世間の人に知らせたい。

明治初期の話で今でも十分通用する話である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本草綱目啓蒙 小野蘭山著より

2009年08月19日 | 福神漬
本草綱目啓蒙 小野蘭山著
福神漬に入っている「なた豆」
刃豆 なたまめ たちはき(四国・九州)たてはき(土州)
(一名)葛豆 衢州府志 〖衢州市(くしゅう-し)は中華人民共和国浙江省に位置する地級市。地理 浙江省の西部に位置し、杭州市、金華市、麗水市、安徽省、江西省、福建省に接する。〗
莢豆 泉州府志〘中国福建省南部の港湾都市。台湾海峡に臨み、唐・宋時代から南海貿易の拠点として発展。〗
刃鋏荳 郷談正音

葉は豇豆(ささげのこと)より大きい、花も又大きくて紫色。莢(さや)の形は長大にて菜の刀のようである。未熟のものは莢を連ねて煮て食べる。

汝南圃史に(汝南とは中華人民共和国河南省の駐馬店市に位置する。)
普通豆類はその種を食する。ただ豇豆(ささげ)は連なっている莢(さや)食す、而ち刃豆の味は全部莢にあるという。熟すれば豆が成長すると八九分淡い虹色に光って見える。白い花の一種のものは豆もまた白い。白なた豆と呼ぶ。

九州・四国のたちはきが帯刀なって小松帯刀となったという小説があった。いずれにしてもなた豆と刃物は結びついている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小原鉄心伝より

2009年08月18日 | 福神漬
小原鉄心伝より
文化14年11月3日(1817.12.10)-明治5年4月15日(1872.5.21)
先日都立中央図書館でこの本を借りようとしたが開架書棚にいくら探しても見当たらず断念した。国会図書館に行くべく検索したらデジタルデータになっていてパソコン上で読める。印刷して自宅で読む。便利なことである。
小原鉄心は大垣藩の人で黒船来航時、浦賀の戸田伊豆守氏栄のため藩兵130名を率いて浦賀の警備をした。
 この鉄心伝によると黒船再来航時に応接の場から戸田伊豆守が外された理由は幕府官僚(開国したくない)がペリー一行をすみやかに退去させた戸田伊豆守(開国を密約したとか贈り物をもらったとか)に対して疑いをかけていた。この当時は開国しなければいけないと考えていたのは浦賀の人達、井伊直弼と勝海舟、外国との交渉のある蘭学者のみあった。結局ペリーの大砲の威力によって横浜等で開港することとなる。150年前の話である。
 ペリー再来航の混乱が終わって、戸田伊豆守は浦賀奉行から閑職についたのだが当時の混乱ぶりを子孫にどのような話をしたのだろうか。花香恭次郎(5男)とか長井昌信(3男・鶯亭金升の父)にどのように伝えているのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生活のため

2009年08月17日 | 福神漬
生活のため
政治経済の混乱期は文化人が生きてゆくには何時の時代でも厳しい。明治始めの江戸から東京になった時、戯作者(小説家)画家(浮世絵等)が生きてゆく手段として新聞という新しい媒体を利用した。
 上野戦争(慶応4年)のあと、東叡山寛永寺は荒廃し、その門前町である下谷の街も寂れた。このとき上野の山の開発として1870年医学校と病院予定地として提案されたが外国人の反対で公園化されるようになった。この上野戦争後から上野公園の発足し、人出が増えるまでが下谷地区の景気が一番厳しかったかも知れない。戯作者・画家の生活が一番苦しかった時だった。
 東叡山寛永寺や不忍池への観光客で繁盛していた池之端の香煎茶屋が幕末には3軒あったが明治になって1軒となってしまった。
 池の端酒悦主人が福神漬を創製したのも時代に合わせた商品で上野の地域の活性化を目指していたと思われる。さらに池の端で先進的な活躍をしていた薬舗守田宝丹の広告方法を模倣したと思われる。戯作者梅亭金鵞に商品名を依頼し、引札の文面(宣伝文)も考案してもらったのもこのような背景がある。戯作者や画家への費用が明治20年以前は非常に安かった。日本の美術の価値がわからず海外に流出した時期でもあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする