年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

髪の毛で作ったロ-プ

2019年03月31日 | 福神漬

靖国神社遊就館の展示物で江戸時代の文献に出てくる女性の髪の毛で作ったロープと言うものの現物が在った。太さが直径5センチほどの黒い縄のように見えていた。解説文が無ければ今の人にはなぜ展示しているのか解らないだろう。

 嘉永6年末水戸藩の造船所で竣工した西洋風の船が進水式を行ったが船が巨大すぎて(当時としては)さらに今の隅田川の深さが足りず造船所から川へ出ることが出来なかった。そもそも古来の日本の船は今の船と違って船を作る台から滑らせて進水させるのでなく綱などで引っ張りだすようだった。大潮の満潮時に今の豊洲方向に船が動き出し、干潮になって横転した。傾いた船は動かすことも出来ず、綱が切れてしまったようだ。この風景を想像するとガリバ-旅行記の小人国でガリバ-が寝ている間に縛られた風景を思い出した。最後は当時として一番強度のある素材と信じられていた女性の髪で作られた綱で船を引き出そうとした。結局大潮が来るまで何も出来ず隅田川支流で横転していたという。当時の江戸庶民の評判で厄介丸といわれていた。今は攘夷の水戸藩と知られているが海外の侵略の恐れは感じていて洋式の船をすぐに作れる危機感があったようだ。

 今も昔も海によって守られている日本は国内の危機感が薄く準備も出来ない。そこに前例のないことが起きると過大な防御反応があるようだ。

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花見は靖国神社

2019年03月30日 | 宅老のグチ

満開の桜と満員の花見客。靖国神社境内はごった返し。例によって靖国神社へ行ったときは入り口の大鳥居の脇の常陸丸の碑から確認。次の碑は気にしていなかったが何か設置順に意味がありそうだ。まだ調べることは無いがいずれ暇になったら調べて見よう。桜の開花の標本木を見て遊就館へ行く。無料の入場券を受付で交換し入る。入り口の1階に蒸気機関車。気になる。これも意味があるのだろう。近代日本の具体的な近代は蒸気船と蒸気機関車だろう。総じて感じたのは大砲で鋳造か鍛造課の問題は兵器として大きな違いがある。

 砲弾の線条は日本と西洋の大砲の差だった。これも工具の問題で日本は平和すぎて軍備に技術革新が出来なかった。明治維新後は特に平和だった様に歴史の教科書は書いてあるが遊就館の展示物を見ていると平和な時間は無いように感じる。あるのはつかの間の平和で次の戦争・紛争の準備期間だった。

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今日は満開の花見だな

2019年03月29日 | 宅老のグチ

ヤット築地の仕事の引継ぎも大方今日・明日で終わる。4月から一段と暇になるので名残となる花見をシルバ-パスを使って行きたいと思う。ふと思ったのだが練馬区の石神井公園と東京大仏のあるところの近所にある板橋郷土資料館へ行きたいと思った。この2箇所はタクワン漬の歴史を調べていくとき資料の少なさを感じていた。15年ほど前のことだ。今15年でどれだけ資料・史料が増えたのだろうか。

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江戸時代以前の本で最低限読む3冊の本

2019年03月28日 | 宅老のグチ

いま漬物歴史を調べているが色々な文嫌の関連に比喩が多く、すんなりと読み進まない。最低限の日本文学で読む本は源氏物語・徒然草・八犬伝だろう。特に明治期に生きていた人たちに八犬伝はかなりの影響があって、基本知識だろうと感じて子供向きの八犬伝を今読み始めている。曲亭馬琴(滝沢馬琴)の評伝を読むと天保の改革時期に幕府の弾圧を避けて出版する工夫をしていたようだ。今日本では室町時代の歴史書が売れているが八犬伝の基礎知識として役立つ。八犬伝は中国の水滸伝の影響があり馬琴が読者の興味を引くように工夫していたようだ。単純な勧善懲悪物語は閉塞感のある幕末には楽しい物語だったと思われる。

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投稿画面が変わったので

2019年03月26日 | 宅老のグチ

いきなり投稿画面が変わったので戸惑っている。初めから4800日以上経過しているようだ。365日が一年なので電卓で計算しないとわからないかも。

 老化も加速し、調べる気も薄れるが老化防止と言う事で書き忘れたものを思い出し調べることをするように思っている。誰も調べていない世界は間違えても指摘されることは少ないがウソを誇張し小説みたいにすることはまだ出来ない。色々な文献と史料が年々増えるが、事実確認することがまた増える。でも長い間やっているとそこそこおおよそのことが解ってくる・AIとかで読みたいと思われる本の案内広告が来る。

もう少し経ってAIの読み取り機能の進歩で明治期の日本漢文が翻訳されると助かるのだが。

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フェ-トン号事件から始まる福神漬の歴史3

2019年03月24日 | 福神漬

フェ-トン号事件の背景にはヨ-ロッパのナポレオン戦争の余波だった。この頃の長崎のオランダ側は権益の削減を恐れ、捏造もしくは改変して世界情勢を幕府に報告していたようでオランダ船が入港しなくとも江戸幕府は不自然と思っていなかった。そのため季節外のフェ-トン号の入港で警備不備が露見した。さらにイギリス船であったため、英語を学ぶ必要性が発生した。

 さてナポレオンはヨーロッパの戦争で軍隊の食糧確保の必要性から運びやすく保存の出来る食品を懸賞金をかけて募集した。この懸賞金を受け取った発明が缶詰の初期の形となった。最初はガラス容器でイギリスで鉄製の缶になり、アメリカで大量生産できるようになった。このため明治期に日本に缶詰が普及したのがお雇いアメリカ人からという理由だろう。

 

 

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知らない間に子孫扱いで

2019年03月23日 | 宅老のグチ

京都の中心と言うべき中京区に本能小学校(ほんのうしょうがっこう)は京都府京都市にある公立校で、平成5年(1993年)に統廃合された学校です。高倉小学校に統合されたようですが一度その付近に行ったことがあります。京都市によると京町家の典型例の一つとして貴重であり、昭和58年6月1日、京都市指定有形文化財に指定されています。京町屋と指定されている民家を見に行くすぐそばに小学校がありました。京町屋の典型として指定された建物は入ったこともありませんが親族の記録によると繊維関係の仕事のようでした。家の外には京都市の文化財としての表示板がありました。なぜそこに行ったかというと京都中央卸売市場から京都御所の方に向かって歩いているうちに思い出し親族の家があることに気がつき行きました。中には入りませんがこの家の名前がある帳簿らしき紙で覆われたお雛様の箱があります。我が家に来たのは女系の持ち物で代々女性の持ち物として転々としたようです。中身より明治大正期の商家の節約と言う意識を感じられるボロ紙です。

 父系で父方の子孫が女性になったためごく最近先祖の関係する団体から会合に出るように封書が届きます。築地にいたせいで5月の連休は忙しいので参加できなく代理として妻と娘を九州に行かせていました。豊洲移転事業も終わりようやく行けそうになったが10連休と言う事で無理かなと思ったが飛行機のてチケットが取れていけそうです。そんな先祖に対して無関心を通していたがやむえず会合に参加している人たちと意思の疎通を図るべき靖国神社の桜を見るということで遊就館に行くことになりました。ごく最近に娘が靖国神社遊就館に働きかけ、親族の写真を隅のほうに展示されるようになったそうです。

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長崎街道-別名ーシュガ-ロ-ド3

2019年03月22日 | 福神漬

奈良市にあった平城京がシルクロ-ドの東の果てなら長崎街道-別名ーシュガ-ロ-ドの果ては江戸時代江戸商業の中心にあった本町と大伝馬町と思われる。

 石崎融思が 唐館図・蘭館図絵巻を搔いたのは大田蜀山人が長崎会所で勤務していた時より2年ほど前の1802年頃に描いたという。ここの絵巻物には大量の砂糖と思われる物資が出島の砂糖倉に搬入されている風景が見える。当時は物流の進歩が少なく、江戸時代通じて同じような容器と運搬の方法だったと思われる。200キロ以上あると思われる砂糖俵(籐か竹のの様な植物を編んで俵のようにした容器)かもう少し小さめの砂糖袋で唐船や蘭船から艀(はしけ-小型の運搬船)に積み替え出島に搬入した。長崎会所を経て、長崎街道を通り(船で他の地域に運ばれた方が多いと思われるが)北九州の小倉まで運ばれた。そこで船に積み替え瀬戸内を航海し、大阪の薬種問屋の多いところ付近に派生した砂糖問屋に運ばれたようだ。江戸時代も後期になると江戸に於いての砂糖消費が増え、浅草長命寺の桜餅の砂糖消費量は莫大な数字として記録に残る。

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長崎街道-別名ーシュガ-ロ-ド2

2019年03月20日 | 福神漬

江戸の始まりで鎖国状態になっても中国から特例で京の黄檗山万福寺に中国から僧侶が来ていたようだ。万福寺のホ-ムペ-ジでいきなり布袋様のような画像が現れる。シュガ-ロ-ド(秋坂英二著)という本には長崎貿易で中国船の船底に大量に詰まれた篭入り砂糖が長崎中国商人が換金の残りを万福寺に送っていたようだ。長崎貿易の研究はどちらかと言うとオランダ船の研究が多いようで実際の船の数は中国船の方が多い。

さて万福寺のHPには布袋様は七福神の内、唯一中国由来の神様であると記載されています。さらに隠元豆(いんげんまめ)レンコンと孟宗竹、木魚も黄檗山万福寺から日本へ普及したようだ。江戸の初めに中国から(なた豆)が日本に渡来したようです。

 最初からの日本農林規格(JAS)福神漬にはなた豆のほかレンコンとタケノコが入っていました。

 福神漬の伝説に秋田出身の僧侶了翁が黄檗山満福寺に一時修行をしていたようだ。福神漬伝説は人工の伝説だが根拠の薄弱な伝説は経験則ですぐ消えることが多く文献にも残らない。了翁の伝説は今でも残っていてそれなりの伝説成立の根拠があると思われる。

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フェ-トン号事件から始まる福神漬の歴史2

2019年03月19日 | 福神漬

福神漬の歴史を調べている途中に意味不明な文献に出会ったとき、一応頭の中に置いといてこの意味不明なことを理解できる文献があるまで待っていた。

 函館の戊辰戦争最後の戦いで、浦賀与力だった中島三郎助と千葉行徳の漬物商人が千代が岳の砦で戦死した。(出典・明治事物起源・石井研堂著・缶詰の始まり)新撰組の土方歳三が戦死した二日後で浦賀の中島隊が戦死し、戊辰戦争の集団的戦闘が終わった。中島がペリ-が浦賀に来たとき最初に黒船に乗り込んだ人物である。

 ペリー来航時、浦賀奉行戸田伊豆守氏栄は幕府の判断がなかなかこないので部下であった下曽根金三郎に指示し、浦賀の寺院の掃除をしていたようだ。この話は野次馬となった吉田松陰が東浦賀の宿屋で町のウワサ話として記録がある。寺院を掃除するということは切腹する準備だという。幸い米国とは戦闘にならず開国となった。それにしても異国との交渉で遠国奉行が切腹する事例があるのだろうかと疑問に思っていた。ところがフェ-トン号事件を知ると長崎奉行が切腹していた事例があった。長崎で平和すぎ警備の兵力を減らしたため、不意に訪れたイギリス船フェ-トン号に対応できなかった。

 浦賀の寺院掃除は戸田氏栄のパフォ-マンスと思われる。異国船が突然進入してきたので対処できなかったという言い訳を用意していたようだ。しかし実際はかなり準備をしていたようで中島はペリ-の船中で乗組員にパナマ運河の建設の進行状況を聞いていたという。

 フェートン号事件で切腹した長崎奉行のことは戸田伊豆守氏栄は知っていたと思う。なぜなら戸田氏栄は幕府の歴史書(干城録)編集責任者の一人でさらにおじに当たる戸田出雲守氏孟が長崎奉行在任中に病死した。

明治維新後、新政府の歴史家は倒幕の歴史を正当化するため維新史では突然ペリ-が日本にやって来て無能な幕府だったということを強調した歴史を編纂した。最近の歴史研究では結構ペリ-の来航は知っていたようでただ幕府の鎖国を覆す判断が事前に出来なかったようだ。

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長崎街道-別名ーシュガ-ロ-ド

2019年03月18日 | 福神漬

江戸時代中期から、長崎の貿易不均衡は主として砂糖の問題であった。この点では明治期に日本の輸入品で上位を占めていた砂糖問題と同一の考えが幕府上層部の考えだった。砂糖は嗜好品でぜいたく品である。

 中国やオランダの船で長崎に入った砂糖は九州を運搬して通過しているうちに各地に砂糖を使った菓子が広まった。長崎から運ばれた砂糖は黄檗宗本山のある京へ向かったという。長崎貿易の統制の難しさは入港する船に砂糖がどの様な量と質は事前にわからず不安定だったかもしれない。

 でも砂糖がなぜ京へ向かったのだろうか。中国商人の意図がわかる文献が見つからない。

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食でもマイナ-な歴史なので

2019年03月17日 | 宅老のグチ

漬物は食の世界でもマイナ-な部門で中国でも漬物を贈る事は侮辱されているようだ。粗末なものと考えているからである。ところが日本ではそのような感覚が無いようだ。それでも戦後まで漬物は基本は自家製であった。一部の分業化された世界だけが漬物を自家製でなかった。明治期になって、軍隊とか工場等の寄宿舎が漬物購入となり日本各地に漬物製造者が現れた。江戸期は京都とか江戸城内だけが記録にある自家製でないところである。大部分は江戸の藩邸でも野菜を作り漬物を作っていたようだ。

 食はなかなか変えることは難しい。今は宣伝力で強引に販売されているが、強引に消費されているだけで次の商品で消される。実に変化が激しく、ブランドが同じでも味が変化しているのが今では普通となった。漬物の世界でも見た目は包装資材の進歩で綺麗になったが塩分は劇的に少なくなっている。もし30年前のレシピで漬物を出したら塩分が多すぎて耐えられないだろう。

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フェ-トン号事件から始まる福神漬の歴史

2019年03月16日 | 福神漬

1808年〔文化5年〕 フェ-トン号事件から始まる福神漬の歴史。

 

 福神漬の歴史で日本人に説明する時どこから始まりとしたら納得できる説明できるかと考えると、1808年、長崎に侵入したイギリス船フェートン号事件とから考えた方が説明しやすい。

 福神漬は明治10年代の終わり頃缶詰に漬物を入れたことから、様々な言い伝えが始まる。

 江戸時代後期の文化文政時代(1804年-1830年)は学校の日本史で

化政文化(かせい ぶんか)と言われ江戸を中心として発展した町人文化を指す。  浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもある。上方(京・大阪)から文化や経済が江戸に移った時代でもあった。

 フェートン号事件の少し前の長崎の事情を知っていないと福神漬の命名由来等に出てくる人物を理解することは出来ないだろう。そもそも明治事物起源を著した石井研堂の(缶詰の始まり)に場違いな島原の乱の記載がある。キリスト教布教を阻止するため、鎖国(海禁)長崎に外交の窓口を絞った。多くの漂流民の処置も長崎で行われていた。

 長崎奉行の本を読んでいると通史的になってしまうのでフェ-トン号進入直前から書きたいと思う。

 新井白石の調査で長崎貿易の不均衡からいずれ日本の金銀が枯渇する危険を指摘された幕府は長崎貿易を縮小均衡へ向かった。オランダ・中国の交易船を減らすこととなった。(正徳新令)輸入品から国産品の振興を図られ、日本各地で米以外の生産振興が図られるきっかけとなった。長崎の貿易不均衡の最大の原因は砂糖の輸入増加と日本の金銀産出量の減少であった。また江戸幕府の外交を一手に引き受けていた。天明期に天災によって幕府経済が混乱している時期に長崎奉行として戸田出雲守氏孟は長崎町民等に厳しい政策をとったようだ。ここ10年で出版された長崎奉行関連の著書にこの当時の経済事情が記述されている。また松平定信の著書宇下人言(うげのひとこと)に『長崎の地事乱れて天明5年戸田某と言う者即死』とある。長崎で在任中死去した戸田氏孟の墓に小便をかけていたようでお触れが出ていた。この戸田氏孟の子孫が福神漬の歴史に関わっていたとは長崎奉行の研究者は想像もしないだろう。また長崎通詞関係の子孫も同様に福神漬に関わってくることとなる。

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過去を忘れて

2019年03月13日 | 築地市場にて

築地の再整備をすれば豊洲へ行く必要は無いとある移転反対団体が言っていた。再整備の築地は立体化がその設計の基本だった。当時から立体はエレベ-タ-の問題で難があると考えていた。今豊洲では閉鎖型の施設のため、立体となっている施設の中をタ-レ-が走り回るためタイヤの粉塵の問題が出ているようだ。坂は走行するとき荷物の絡みで制動にタイヤを減らす。それで無くとも時間に追われる仕事でゆっくり走ることになれない。高速走行でもう既に死人が出ている。築地より広い豊洲でのんびり走るわけにも行かない。地下にどんな汚染があっても今のところ食材に汚染が移転したということは無いようだ。それより前から指摘していたように市場で働く労働者の健康問題であることが今頃話題となることに驚く。今の市場流通の現状を知らないようだ。鮮度の問題で市場に滞在する時間が昔より短い気がする。従って汚染が伝わる時間も少ない。

 多分補助金でタ-レ-のタイヤの更新があるかもしれない。これも都民の税金である。

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弥吉光長著作集 第4巻

2019年03月12日 | 福神漬

弥吉光長著作集 第4巻より

明治10年代の終わりに戯作者だった梅亭金鵞が池之端酒悦主人から漬物の命名を依頼された。この理由は当時再刊された梅亭の著書に池之端の香煎茶屋が出てくることから始まったと思われる。しかし明治の初めならともかく明治の10年代半ばの戯作本の刊行がなぜあったのか長い間疑問を持っていた。ここ最近読んだ本で当時の出版事情がようやくわかり一時の出版バブルがあった。

弥吉光長著作集 第4巻の前書きでこの幕末から明治初期の様々な資料が大正の震災と戦災で失われ記録が少ないという。福神漬の命名の由来が消えているのもこの様な事情からと思われる。

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