年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

日清戦争時の福神漬の史料

2007年05月31日 | 福神漬
日清戦争時の福神漬の史料
国立公文書館デジタルアーカイブ
アジア歴史史料センターで検索
明治28年9月30日資料作成
大倉喜八郎が福神漬300樽を寄贈している。
『留守第4師団より大倉組より献納福神漬の件』
大倉組支配人田邊甚三郎より福神漬献納の件
献納品の儀に付き申請
目下遼東半島に駐屯しある野戦師団将校以下一般へ『東京名産福神漬300樽』献納の儀
大倉組支配人田邊甚三郎より別紙の通り出願い致し候に付き、ご認可相成るべく申請候なり。追って本文は野戦師団へ交渉致すところ、受領の儀承諾する旨申し越し候間添え申すなり。
明治28年9月30日
留守第4師団長事務取扱 阿部基行
陸軍大臣 候爵 大山 巌殿
御願 日清事件に付き御出征軍隊御滞陳已に久し
解説 明治28年9月は既に日清戦争は終わっていた。明治28年3月30日停戦。第4師団とは大阪城に師団本部があった。候爵は公爵の間違いか。明治28年時において『東京名産福神漬』として知られていたのだろうか。300樽とはどのくらいの量だろうか。
今までの多くの資料が示すのは『福神漬』は缶詰が初期の容器であったが大倉喜八郎の献納したものは『樽』となっている。そして大阪の師団に贈呈していて、すでに全国的に『東京名産福神漬』となっていて、軍隊の公式文書にも普通名詞となっていたのだろう。大倉喜八郎は大倉財閥の創始者として知られている。
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530築地ゴミゼロの日

2007年05月30日 | 築地市場にて
築地530ゴミゼロの日
5月30日は築地市場ゴミゼロキャ
ンペーンの日です。
10時30分買荷保管所D棟に集合した人先着300名には軽食が出ます。多分サンドウィッチとペット茶です。築地市場場内外の清掃をします。この日は奥まで入っても叱られませんよ。

雨天でも決行します。
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民主党議員団の築地市場めぐり

2007年05月29日 | 築地市場にて
5月28日午後4時半すぎ、築地市場青果部に一団のスーツ集団(30名くらい)がテレビ局のカメラマンを引き連れてやって来た。テレビ取材程度では飛び出て見るほどではないのだが東京都の緑のイチョウマークをつけた築地市場の都職員も同道していたので何事かと思って出ると、民主党の議員団が築地市場を文字通り『早足』で視察というか、築地市場で一日の中で最も静穏な時間を見計らって場内散歩をしていた。行き先を確認すると浜離宮と市場の間にある築地川を見ていたようでした。ここは最近キレイになって『ボラ』が集団となって泳いでいるのが見えます。何年か前、品川の立会川にボラが大量に溯上した時築地川にも来ていました。
 議員団が目の前を通過すると菅直人氏も居りました。『大ボラ』は見ることが出来たでしょうか。やっぱり混んでいる時視察しないと不便さは解らないでしょう。しかし、農水大臣の大変な時に視察とは。次は築地市場が国会に問題としてなるのでしょうか。
なお、こんな時間なのでヤジ馬は私を含めて3名でした。
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兵食としての福神漬 陸軍

2007年05月28日 | 福神漬
福神漬の昔と今より
陸軍糧秣廠 丸本彰造氏の談から
 大正12年7月20日開催の第9回缶詰開缶研究会において陸軍糧秣廠から3名の参加者があった。大正時代は福神漬の缶詰は『大和煮』『時雨煮』と『福神漬』は国内向けの缶詰として重要な地位を占めていた。
 関東では大和煮、関西では時雨煮といわれ 江戸時代には小規模生産で、産業として大きく発展するのは、明治になってからのことです。明治10年の西南の役において、陸軍省が大量発注を行ったのが刺激となって、佃煮製造業は次第に盛んになっていきました。
明治27年に起こった日清戦争では、缶詰食品として福神漬が重用され、戦地に大量に送られました。その後、明治37年の日露戦争においては、漬物の軍需用品としての適性が高く評価され、福神漬製遣業は大きな発展を遂げました。軍人からその家庭へ、そして一般庶民の食卓へと需要は広まり、日本の食卓には欠かせない副食品としての地位を確立していったのです。
明治維新によって、日本を近代化する必要に迫られた時、その手本としてイギリスやドイツ、フランス等にその未来を求めました。・
日本国内でその路線に対して色々な対立が生じました。陸軍と海軍の兵食論争もありました。和食かパン食か。これは日本の軍隊で流行った脚気の原因を追究することから来ています。福神漬はまず陸軍で採用されたようです。
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明治の軍隊と福神漬

2007年05月27日 | 福神漬
陸軍糧秣廠 丸本彰造氏の談を読んでいるとどうも一時は日本陸軍では福神漬の缶詰を造っていたようである。広島にある広島市郷土資料館は旧陸軍糧秣支廠(りょうまつししょう)缶詰工場でした。日清戦争の時民間調達の缶詰に石が入るなどの不良品が多く軍直轄の製造工場を建設する事になったが『日本缶詰史』によると石が入っていたということは全くの誤報であったということである。
 陸軍は日清戦争時には福神漬は納入されていると言うがはっきりと文献に出てくるのは日露戦争時で、漬物というと福神漬となっていた。海軍では日清戦争時はパン食のためか漬物は少ない。海軍は日清戦争後『海軍糧食条例』と『海軍経理規定』を改正し、それまでのパン食3回から1回となり、米麦食2回となった。(海軍おもしろ事典・高森直史)
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無明舎出版

2007年05月26日 | 趣味としての漬物
無明舎出版
東北地方の図書館内にある郷土資料の所に目立つのは無明舎出版の書籍が多い。
山形県上山で求めた本『東北漬け物紀行』林みかん著も無明舎出版でした。
 この本は東北各県の素朴な漬物を紹介している。文章で味を伝えることは難しい。いつでも思うのだが漬物は造るより安定して売るのが難しい。売れなければ売れるように工夫しなければならない。しかし売れ行きがよくなると製造が間に合わなくなり、品物が粗雑となる。特に農家の余剰野菜を加工する時は収穫と漬け込みが重なり、過労となる。
 この本はそんな農家の婦人たちの工夫・苦労話が漬物との紹介と共にさりげなく書かれている。 1680円
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『大人の休日』切符を利用して 続き

2007年05月25日 | 趣味としての漬物
大人の休日を利用して
JR東日本の『大人の休日』を利用して、秋田から戻りも一日JR東日本乗り放題(新幹線+指定券4回まで)秋田新幹線経由東京まで6000円。
 秋田で地元の方と情報交換。ご当地の漬物の表示に関して歓談。予定時間超過のため、行き先変更。角館で下車とする。秋田・角館間『秋田新幹線こまち』の指定券と角館・東京間の指定を取る。
 秋田・大曲間は新幹線の座席は進行方向と逆向きのため、慣れない。大曲・東京間は正常の座席方向。角館は2回目のため、ゆっくり散策。団体の観光客が駅から武家屋敷のほうに向かうと残ったのは静かな田舎町の駅前。
 駅から観光地に向かいながら八百屋の店頭にある山菜を見ながら、『熊出没』の記事のこと思い出す。春先の山菜取りと冬眠から出てきた熊との遭遇。都会人の山菜取りは植物を根絶やしにしてしまって、奥山に向かって熊の生息地の山菜を取るようになったと思う。ふと看板を見ると新潮社文学館『解体新書』とある。新潮社文学館と角館図書館は同じところ。角館の情報センターの建物が見えたので向かう。目的は前日入力した原稿の確認とアップロードを図書館でする。真新しい図書館で郷土資料の中で調査。二日間で3箇所の図書館めぐり。郷土資料はどの図書館も同じではない。角館の図書館は先日新装になった東京・千代田区と同じくらい新品。本当に使っているのだろうかほんの数名の女子高校生がいるのみ。. 地元の酒を造る杜氏の本を読む..。武家屋敷まで行かず町を一回り、駅前の喫茶店で新幹線の時間待ち。
 喫茶店には他の客が居らず、暇に任せて喫茶店の主人に質問する。屋根つきのベンチが郵便局の付近に100mくらいあるので何に使うのか?秋田縦貫鉄道はどうか?(角館に駅がある)今日の混み具合は?今時の観光客は角館に何を期待しているのか?等々。角館の一番混雑するのは桜の季節という。
 角館は武家屋敷の町と知られているが意外と戦前の建物が残っていて、特に新潮社文学館のとなりの建物とかは大正期のような気がして質問すると『そういえばかなりあります。』とのこと。倉も未だ残っていて、倉は漬物用として倉庫として使用されているとのこと。塩分のことを質問すると婦人会で指導しているので昔のようなしょっぱい漬物や味噌は造らないとのこと。
 角館からの『秋田新幹線こまち』東京行きは安い切符のためか満員。東北地方の漬物の塩分事情はまた調べねばならない。

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『大人の休日』切符を利用して

2007年05月24日 | 福神漬
大人の休日を利用して
JR東日本の『大人の休日』を利用して、山形県上山市にある『春雨庵』に沢庵漬名称発祥地の碑が出来たというので見に行きました。一日JR東日本乗り放題(新幹線+指定券4回まで)山形新幹線経由秋田駅まで6000円で行けました。
 上山城を後にして、上山市の郷土資料のある図書館に向かいました。城より200mくらい距離です。ショッピングプラザ カミン5階にあります。ここには予想通り『沢庵』関係の本がありました。特に兵庫県出石との交流関係があるみたいです。
 さて『かみのやま温泉』駅から秋田県湯沢市に向かったのですが上山市で時間がかかったので奥羽本線では車内で湯沢を見るのみ、秋田市に向かう。湯沢は了翁禅師の生誕地でご当地の焼きそばにはどんないきさつがあるのか『福神漬』が付いている。湯沢市の隣で冬の『かまくら』まつりで知られている横手も焼きそばには福神漬が付いている。関東では通常縁日の焼きそばには『紅しょうが』です。
 秋田市について時間が余ったので秋田駅から歩いて5分くらいの千秋公園の中にある図書館の郷土資料を探しました。さすがに了翁禅師の資料は東京の台東区の郷土資料と質の違うものがあった。湯沢市ではあまり知られていない了翁禅師の絵本を作成していたのですが子供には少し内容が難しい気がします。

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JR東日本『大人の休日』切符を使って

2007年05月23日 | タクワン
大人の休日を利用して
JR東日本の『大人の休日』を利用して、山形県上山市にある『春雨庵』に沢庵漬名称発祥地の碑が出来たというので見に行きました。一日JR東日本乗り放題(新幹線+指定券4回まで)山形新幹線で『かみのやま温泉』まで約3時間・片道11030円が6000円で行けます。
 駅をおりてまっすぐ温泉街に向かって登っていくと、登り坂の途中に栗川稲荷があり、さらに登ると右前方にホテル城戸口屋が見える。ホテル城戸口屋の前に来ると『春雨庵』の標識があり標識の通りに左に曲がって300M行くと『春雨庵』がある。江戸時代初めの紫衣事件で上山に配流された沢庵和尚の住まいの跡である。この庵の入り口近くに山形県漬物組合が最近東京・品川東海寺や兵庫県出石の了解をもらって石碑を建てた。小さな庵には地元の斉藤茂吉の歌碑や土岐灯篭があって一応観光名所となっているが路地は狭く大型観光バスは入らない。かみのやま温泉駅から歩いて15分といったところか。庵を訪問した後上山城に向かい、ボランティアの人と昔のことを教えてもらう。上山城下は羽黒山参詣の人でにぎわっていたらしく,宿場には宿屋と酒屋が多く目立っていた。
 てっぺんにエレベーターで登ると南にスカイタワー41という41階?山形県内の建築物では最高の高さを誇る超高層マンションが見える。最近やっと完売らしいとのこと。ただマンションから上山城からみえる蔵王の山並みが見えないとのこと。とにかく上山市に不釣合いな建物は地元の人の口ぶりから察すると好まれていない印象がありました。沢庵和尚はどう思っているのでしょうか?
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大正12年7月頃の福神漬  関東大震災直前

2007年05月22日 | 福神漬
缶詰時報より
上澤屋本店談
福神漬製造の動機
 このたびの福神漬の研究会にて弊店製造の福神漬が優秀品であると推奨を賜り誠に思いがけなく喜んでおります。
 2・3年前まである有名な製造家の福神漬を販売しておりましたが、ある夏顧客から沢庵漬の臭いがあるといって缶のフタを切ったまま返品されましたので、その品を売ることを止め真の優良品を販売する目的で福神漬の製造を始めました。
 しかし,良い物を造るにしても、飛び離れて高価の物は販売困難であるのでとにかく沢山という事でなく、少なくとも良い物を造るという考えで始めました。つまり、野菜は出始めの極若いものでそして生産地の確かなものを材料として、福神漬を製造することにしております。
 なお、缶詰(福神漬の)というものを一部の人はどれも皆悪いものと決めておりますし、また実際劣悪品の多いことから毎月この缶詰研究会で真面目な優良品を広く一般社会に推奨していただければ製造者は価格より品質に重きを置くようになれば、斯業のために結構な事と存じます。

不況が続いた平成の今でもこの考えが十分通用する。第一次大戦後の不況で不良漬物が出回っていたと思われる。
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日本缶詰協会 ⑤

2007年05月21日 | 福神漬
缶詰時報 ⑤ 続き
第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
ラカード即ち内面塗料を施した福神漬の缶詰は出品数百個のうち26品ありました。陸軍糧秣廠から参考品として出した明治45年4月製造の福神漬(ラッカードしない)は非常に黒色を呈して居ったが食べられないことはなかった。しかし普通から言えば食用不適という程度であろう。
 なお,参考品の同廠出品の大正9年製のラッカードした物としないものを見るに前者は少し黒味を加えており、また後者は少し著しく褐色しており、また著しく缶が腐食しており缶臭が強かった。
 従来、陸軍糧秣廠で造った福神漬は(近頃作っていない)の製品1000貫に対する主原料の割合は、漬大根178貫、漬カブ178貫、漬ナス140貫、干し大根140貫、漬なた豆39貫、漬紫蘇25貫で一缶120匁の固形分は90匁、さし汁30匁であり、その分析成分は次の通り。
水分 63.076%
灰分 12.010%
食塩 9.289%
窒素 0.978%
酸度 0.720%
純蛋白 1.349%
繊維 1.640%
糖分 2.40%
乾燥物 36.924%
参考 1貫は1000匁(もんめ)、すなわち3.75キロ
一缶固形分120匁の福神漬は全体の目方は500Gぐらいであったと思われる。

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日本缶詰協会 ④ 

2007年05月20日 | 福神漬
缶詰時報 ④ 続き
第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
それから,福神漬の切り方が日露戦争頃はすべて、細切であったが、近頃は大切の傾向になった。また味が塩味よりもあま味が勝ってきたようだ、そうして当時と比べれば材料が若干劣っているけれど,味は現代向きになって製缶技術は頗る進んできた、ことにラベルは非常に進歩して目を覚ますような如何にも食欲をそそる美術的なものの多いのに感嘆した、そして印刷缶が8割を占めていたも、余程ラベルに重きを福神漬においているように思われたのであります。
 元来缶詰は中身を食するので,中身がよければラベルに意匠を凝らし,費用かけることは無益のようであるけれど、福神漬はそのまま食卓にのせ、ラベルを眺めつつ,賞味することが他の缶詰に比べた場合が多いゆえに特に食味をそそる審美的であることがふさわしいことでこの意味において私は福神漬のラベルということには重きを置きたいと思います。

解説 すでに競争が激しくなっていて、缶の表面に美しいラベルを巻いたのでしょうか。ブランドによって味や品質にかなり差があったと思われます。 
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日本缶詰協会 ③ 

2007年05月19日 | 福神漬
第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
 今日の(大正12年7月頃か)開缶研究の福神漬はすべてで101品,他に参考品数点あったが、その中でチョッと変わった一品があった。それは従来福神漬と海苔の佃煮とを折衷したようなものであって,すなわち瓜が5割,その他は割き干し大根,沢庵、蓮根の順序に少々づつ、これに色彩的に蕗を極めて少量加え、調味液をドロドロの海苔にて仕上げた物である。材料は大切りである。ことに割き干し大根は長さ一寸くらいに切ってある。
 元来福神漬の最初は前記の通り,なた豆と紫蘇と大根の三品であって,畑作品のみであったが、この掘り出し物(骨董品の意ではない)は畑のもの、田の物、海の物を配して造りあげたものであって,食料資源の趨勢と,変化する人の嗜好から考えて,係る物が出来たということは偶然でない,そして従来にとらわれないという点に私は興味を痛く沸かしたのであります。
解説 大正12年頃は第一次大戦後の不況で福神漬の生産者が各種の工夫をしていたことが分かる。101品の福神漬の缶詰が品評会に出ていたことから考えると出品しない福神漬もあるのでかなり多くのブランドで出ていたのだろう。
 注意すべきは『敷島漬』『日本橋漬』のブランドで売られていた福神漬で『敷島漬』は今のサンヨー堂(東京都中央区日本橋堀留町1丁目)の製造していた福神漬で、『日本橋漬』は今でも販売されている福神漬の缶詰で、国分が製造していた。
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日本缶詰協会にて ②

2007年05月18日 | 福神漬
缶詰時報 ② 続き
第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
梅亭金鵞先生試食一番『これはうまい,食を進める、栄養になる、そして本当に経済だ、これぞ誠に福の神に好かれる漬物で身体は丸々ふとり、お家繁盛万々歳』と福神漬と名付けたもので、なお酒悦主人は梅亭先生に頼んで木版の綺麗な引札を戸毎に配って広告したものであると。
 そしてこのことは鶯亭氏が梅亭先生の門人であって丁度その時試食し引札のすり方も手伝った確かな生き証人で、その時の引札を持ってこなかったのが残念であると鶯亭氏は回想的な眼差しで語られ、また酒悦さんが福神漬缶詰の祖先であることはこうした由来から起こっているが元来酒悦さんは江戸時代から香煎と屠蘇、その他祝儀の熨斗や酒の肴のウニやカラスミのような各国名産品売って居ったもので酒悦というお目出度い名前もそんなことから始まったのであろうと鶯亭氏は付け加えたられたが、福神漬が酒悦から出た、それが姓名判断から言って目出度いことのように思われるのであります。
 解説 鶯亭氏は東京毎日新聞の記者であったためこの話はかなり広まっている。引札とは今のチラシ広告のことであって、福神漬を宣伝する必要があったためで、漬物は自給の時代では購入させるのは何か目新しいことが必要であったためで、本当に知られるには時間がかかった。
梅亭金鵞は『七編人』等の著書で知られ、『七』は彼の好きな数字かもしれない。
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日本缶詰協会にて ①

2007年05月17日 | 福神漬
缶詰時報 ① 創刊は大正11年(1922)
日本缶詰協会はJR有楽町駅前の有楽町電気ビル北館12階にあります。先日訪問して、『缶詰時報』の大正時代の福神漬に関する記事のコピーを貰いました。
第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
『なた豆はお胡子さんの耳たぼで、茄子は布袋さんのお腹を形どるなどと7種の野菜を集めて七福神、それを福神漬と名付けたもので,その昔江戸時代、上野東叡山寛永寺の坊さんが池之端の酒悦主人に廃物利用の漬物として教え、かくのごとく名付けたものである』と私は密かに伝え聞いておりましたが、今日の研究会で東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏によってそれが誤りであることを初めて知りました。
 何でも氏のお話によれば福神漬の名付け親は○○珍聞(明治10年創刊,40年に廃刊した面白い新聞)の記者,梅亭金鵞先生(江戸時代名高い松亭金水先生の門人)であって先生が小石川指ヶ谷に住んで○○珍聞の編集したり、小説を書いたりしていたが、時は明治18年、時節は丁度夏の半ばころ、今から数えてまる38年前の昔、酒悦の主人が、なた豆と紫蘇と大根の三品をば、程よく味付けて缶詰にしたものを持ち来たり、これを売りたい、なんとか名付けを頼みますと開缶した。

解説 この缶詰時報は大正12年の頃で、記事によると酒悦の主人は最初から福神漬を缶詰にしていたことが解る。この当時でも上野東叡山寛永寺の話がでているので了翁禅師の話も知れていたのだろう。廃物利用とは寛永寺勧学講院で寮生に与えられたおかずは野菜クズの漬物であった。
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