年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

停電9時間

2011年01月31日 | 築地市場にて
1月30日と2月6日は築地市場の電気検査と容量増大のため停電が朝8時から始まります。きっかり8時で停電です。電気復旧時間は工事の具合で決まります。老朽化した電気設備はこの時期に更新しているようです。電気のない時代にはこの様だった事を思い出されます。インバーター付きのホンダの発電機は数時間稼働するので今週来週使ってまた1年休みます。
年に1回の停電とはいえ停電対策をしていないのパソコンがあって(もちろん無停電電源装置は付いていた)今動いているがどの様な状態となっているか解らない。通常UPSは15分から20分ほどしか電力供給がないのでどうなっているのやら。
 APCの電池はコールドスタートという機能が一部の機種にあって、停電状態から電力供給が出来る。モデム・FAX・LAN中継・ディスプレイ等に各一台取り付けデータを取得する。予行練習するがいつも本番には不具合が生じる。今年も一回目の停電は無事終わった、
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明治蜜偵史 宮武外骨著

2011年01月30日 | 福神漬
明治15年1月1日より施行された明治『刑法』第百二十六条に『内乱の予備又は陰謀を為すと雖も未だその事を行わざる前に於いて,官に自首したる者は本刑を免し、6カ月以上三年以下の監視に付す。』そののち改正された刑法は「その刑を免除する」とある。
 これは官憲が密偵を使い、情報を通告した時に犯罪人となる事を予防するための条文である。西南戦争の時の活躍は有名であるが薩摩に使わした密偵の存在が露見し鹿児島での蜂起につながったという。ここでは自由民権運動の中で密偵の存在が重要となる。国会開設以前はまだ色々な法律制定が不十分であった。そこでは条約改正をにらみつつ条文を作っていく状態であった。そこでは大隈重信の早稲田大学(東京専門学校)福沢諭吉の慶応義塾、明治法律専門学校(後の明治大学)には学校内の言動を探るため政府の密偵が複数入っていた。
 多くの自由民権運動左派の過激な行動は密偵の事件の捏造から始まり、取締に対抗するにし向けを反政府行動を扇動誘発し、国事犯(政治犯)として裁判するとかえって政府に不都合な事実が露見するため、強盗等の刑事事件を起こすまで待っていたようである。この密偵は広く多数存在していたので、団団珍聞の周囲にも存在していたと思われる。
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爆弾テロ

2011年01月29日 | 福神漬
福神漬の歴史を調べているうちに、明治16年9月1日に東京高等法院(今の最高裁判所に当たる)で福島事件の判決があった。福島事件の直後に命名されたとにらんで調べていたが、東京毎日新聞記者でもあった鶯亭金升が日本缶詰協会で証言していたのは梅亭金鵞は福神漬の命名時期を明治18年夏の頃であると言っていた。ここの時間差は何があったのだろうか。ここから推測が始まる。
モスクワ国際空港の事件はロシア反政府のテロと想定されている。日本では明治17年秋に加波山事件といわれた政府高官を爆弾で暗殺しようとしたことがあった。この事件の背景には明治14年3月ロシア皇帝を爆殺したテロ事件の影響があるという。加波山で蜂起した明治自由党左派は追従するものが無く失敗した。彼らはそれぞれ分散して逃亡した。政府は多数の蜜偵を使い逃亡先と思われる所を捜索をしたようである。蜜偵の存在は当時から知られていて、組織の中で疑心暗鬼を生じやすかった。その様な時期に風刺雑誌の団団珍聞に長井少年が入社した。(明治17年7月)
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練馬漬物親睦会

2011年01月28日 | タクワン
毎年1月終り頃の週に池袋西武百貨店で漬物の物産展がある。会場:西武食品館地下1階(南B11)=特設会場
 今の練馬区では消えてしまった練馬大根を特別栽培し、昔ながらの作り方で数千本販売します。会期:1月26日(水)~2月1日(火)
 練馬区は都市農業を支援していて、練馬大根で町おこしを企画しているようです。昔は練馬というとかなり辺鄙な印象がありましたが地価の安さに芸術家が引き寄せられ、今ではマンガの聖地となったようです。毎年開催されていますが本物の練馬大根で造った沢庵漬は幻の商品となりました。
 市販の沢庵漬は製造方法が簡略化されて作っている。
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レコード会館

2011年01月27日 | 築地市場にて
日比谷線築地駅から築地警察に行く途中、築地2丁目にレコード会館というビルがあった。例によって寄り道の築地ちい散歩となる。ビルにKING RECORDとあった。そう言えば昔はレコードで音楽を聴いていた。ネットで調べるとレコード業界の情報基点らしい。デジタルの変遷ははげしくCD・MDから音楽ダウンロードと変化し、街のレコードCDショップが消えつつある。カラオケ業界も寂れてきて時代の変化のスピ―ド加速している。データをやり取りする媒体もフロッピーからMO・USBへ変化し容量も大きくついてゆくのがやっととなる。OSの絶対的な帝王と思われていたマイクロソフトから今ではグーグルとなり、無料ソフトでどの様な収益を上げるのだろうかと思う位。ウィルス除去ソフトなどヤラセと思う位である。その中で仕事をしてゆくのだが結局アナログの仕事が少し残る。レコード盤を動かすにはレコード針が必要である。また古い光学式のカメラではフィルムが消えればただの金属の塊となる。築地には結構古い組織の遺物が残っている。
 漬物もデジタル的なもので淘汰されアナログ的な商材が少し残ってゆくのだろうか。
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人力車

2011年01月26日 | 築地市場にて
浅草等でよく見かける人力車は明治の初めに東京に出現した乗り物であったが欧米の人達の感覚では人を牛馬扱いにして、人力車に乗る事を倫理的に良いとは思われなかったようである。明治の東京でも人力車稼業は最下層民の仕事であった。また明治日本からアジア各国に普及したリキシャ稼業も下層民の仕事となっている。江戸時代末期まで日本では陸上交通機関で車を使う乗り物は牛車しかなかった。人力車は駕籠から代替交通として発達したので車から来たのではない。
 明治時代にはお抱え人力車があって、雇用していた人達の様々な雑用を引き受けていて様である。この伝統は築地の芸者さんを乗せる人力車にも伝統が残っているという。箱屋は残っていないようだが相撲界には力士の荷物を入れる明け荷というものが今でも残っている。
 残っている物も文献がないものは由来が伝わらず、違って伝わり、変化してゆく。今の福神漬に胡瓜が入ってるのを見て、草葉の陰から戊辰戦争を知っている下谷上野の人達はどう思うのだろか。
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電車の窓にはってあるキムチの広告

2011年01月25日 | キムチ
電車の中で高校生らしき集団がドア窓ガラスに貼ってある『親父秘伝の激辛キムチ』はそんなに辛くないとか話していた。そう言えば最近の色々な電車内に広告ステッカーにキムチの広告がよく目立つ。4社ほど広告を出しているのだが広告不況のため漬物業界まで声をかけたのだろう。週刊ダイアモンドの新聞テレビの業界情報によるとこの不景気とインターネットの普及により、在来型の広告媒体が厳しいという。特に新聞は宅配に支えられているがネット配信によれば、宅配人もいらず、地方と東京の差・海外と日本の時差が消える。デジタル配信によって、消える職種がこれから続々と現れるだろう。この様な時漬物業は割と低位安定した業界でも親の介護とかの問題で地元に帰った人達の仕事場となってしまってかなりの学歴の人達が勤め出している。
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また多摩図書館へ

2011年01月24日 | 築地市場にて
ブログを見ていた方の指摘でまた多摩図書館へ行く事となりました。共立女子大学文芸学部の小山郁子さんは紀要46号2000年発行に下村陽子さんの追悼文があって既に亡くなっていたようである。小山さんはどうやら共立女子大文芸学部で学生に図書館学を教えていた。福神漬の歴史を調べているこのブログに日本に於ける公共図書館の開祖ともいえる了翁禅師の話があります。団団珍聞の研究をしていて鶯亭金升の注目したのは小山さんしか今のところ見つからない。
西国立駅から立川病院脇を通って都立多摩図書館に向うのだが何時の間に電気自動車のための電気を供給するスタンドができ、実験用と思われる車が止まっている。この様な所から普及するのであろうか。来週末の築地市場の一斉停電で電動ターレーのための電気供給スタンドが増設される。すこしずつ築地市場の空気は改良されている。しかし最も空気が綺麗になった原因は不景気による場内業者の減少が大きい。
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歩道橋が消えて

2011年01月23日 | 築地市場にて
築地市場から浜離宮に向かうと古い歩道橋があった。昔三井造船が道を隔てて両側にビルがあった時は、三井造船社員の専用歩道橋のように思えた。何時の間に片方のビルは売却され、いつか移転すると思っていたら再建となって今年の夏頃には引っ越し先から戻る事となる。また市場の外れでガス管新設工事も始まるようで地下では着々と道路工事が始まっているようである。
 昨年暮れに突然歩道橋に張り紙が出され、老朽化のため撤去するという。実際古いけれど結構歩道を利用して横断する人が多い。それは歩道橋の下にバス停があって、共同テレビとかテレビガイドを出版している会社が入っている築地浜離宮ビルが反対側にあるためである。
 これから新橋から来たバスの乗客は大回りして新大橋通りを横断するのだろうか。撤去された歩道橋はまだ柱が残っていて、ローマの古代遺跡のように思える。築地市場は時間が止まっているが周囲の建設工事は着々と進んでいる。
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時代の心変り

2011年01月22日 | 築地市場にて
ある時から時間が経ってしまって、世間の人が心変りしていて戸惑うこともある。あれほど騒いだ成田空港反対派も今では忘れ去られて、過去の声明に束縛されて、世界の航空事情に通用しなくなり、何時の間にローカル空港となりつつある。築地市場だって今は大きいがいづれ上海等の中国の大都市が整備すれば巨大な市場が出来るだろう。今はまだ築地は鮮魚のハブ機能を担っているが鮮魚を見分ける人材と金がなくなれば他の市場に奪われるだろう。規格化されていない食品はその価値を需給によってコントロールされる。安い値段しか付けない市場に誰が荷物を出すのだろうか。冷凍魚の世界ではEU規格等の欧米風規格にに合わなければならない。寂しいことである。
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プラムボックス ウィルス

2011年01月21日 | 梅干
昨年日本に侵入した事が知らされた梅の病気(プラムボックス)によって、都下の青梅梅林がピンチという。このウィルスの日本国内に蔓延させないため感染した、または感染したと思われる梅の木を伐採・焼却処分するしかないという。宮崎の口蹄疫と同じような処置を取らないと産地が守られないという。伐採した後も何年か植える事は出来ず青梅の地名となった梅もよそから植え替えるとしても土壌にあるウィルスが無くなるのを確認してからだという。このウィルスを運搬するアブラムシを駆除するには焼却処分が一番確実という。プラム系の植物に共通するウィルスで日本に蔓延すると果実が実らず,梅文化に多大な影響がある。
 ところで今年の寒さは梅の花の開花を遅らせ例年ならぼちぼち日本各地で梅まつりの話が出てくるのだが梅の花のない梅まつりは寂しい。しかし、このような年は台風が異常に早く来ない限り小粒の梅が実り豊作となると古老が言っていた。昨年3月の低温障害で梅が不作となり、今年の梅商品は大粒が多く、販売しにくい。漬物販売は気候変動に左右される仕事である。
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税制とか法制で

2011年01月20日 | 築地市場にて
食品は普通一般味とか価格とかの要素で存在するものだが長寿命の食品はその歴史の中に税制度とか法制度によって生き延び発展したものがある。途中経過が時間が経ってしまって忘れ去られ、由来がはっきりしないものが多い。
 最近の商品ではビールの業界の動きを見ると不景気による消費者の低価格志向が酒税の不備をついた形で少ない税金で済む商品を開発した。そこで税収が減ってしまったので徴税機構が法を変更して税収確保に動いたという。また酒酔い運転の罰金が高価となり、通夜の席にはアルコールなしのビール風飲料を出すようになった。これは福岡の飲酒運転事故の影響が大きい。
昨年の交通事故の減少は若者の車離れと飲酒運転の減少とシートベルトの着用が多くなったと思われる。この様な時、相も変わらず交通安全運動の指導を子供にしているが被害者・加害者の多い高齢者へ転換すべきであろう。
ついでに「なら漬」では酒気帯びになりません。

日本の食文化の根底には「樽」がある。この樽が発展したのは応仁の乱の頃で、酒壺税を逃れるため、壺で酒を造ることから樽で造ることへ変化したという。樽は壊して保存できる。つまり脱税できるから発展したのである。
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19日の変則的な築地の休み

2011年01月19日 | 築地市場にて
築地の市場で青果部が休市で水産部は開市という1月19日。青果門・城北信金の門は閉鎖されていて、青果部に入る車が混乱していた。朝から昼前の様子で混雑なし。青果部にはいると平日にも関わらず日曜より空いている気がする。観光客だけが目立って団体で築地に入る。大田市場の守衛の検査が厳しく、観光客など市場に用のない人たちに入り口で誰何をしていると不評である。市場の食堂は一般に開かれているはず。
 今回の休みは二度とない形になるだろうか?1月の多い休みは日給月給の人にはつらい。
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団団珍聞と小山郁子女史

2011年01月18日 | 福神漬
西国立にある都立図書館には雑誌等が所蔵されている。そこで共立女子大学文芸学部紀要を借りて読む。
 しかし、どの紀要に小山郁子女史の論文があるか図書館のデータからは出てこない。おおよその目星をつけて1995年頃の本を中心として借り出すが結果として、32集(1986)34集(1988)41集(1995)42集(1996)に小山郁子氏の論文があった。30集にあるはずの論文はなく、どうやら図書館には所蔵されていないようである。共立女子大学文芸学部30周年記念論文集から小山女史の団団珍聞の論文が現れてくる。それ以前の仕事は図書館学のようである。
 さて借り出した4冊の紀要からおおよそ感じるのは明治16年団団珍聞の姉妹紙である『驥尾団子』の自決集以前と以後とに団団珍聞の性質が分けられるように思える。社会や体制を鋭く風刺することで読者を獲得していた団団珍聞が政府の言論弾圧の的となり、次第に風刺力が弱くなったのが明治16年頃からである。風刺力の弱くなった雑誌は次第に購読者離れを招き、新しい切り口を模索していて、丁度その時明治15年頃からの投書人だった長井総太郎少年を団珍の社員とした背景があった。小山氏によると社主野村文夫と梅亭金鵞にかなり重要視されていた少年だった。
 今まで福神漬の命名時期を明治16年秋の福島事件高等法院の判決前後と考えていたが鶯亭氏が缶詰時報に語っていた明治18年夏というのも時期としては整合性があるように思えてきた。しかし福島事件への寓意として『福神漬』と命名したと考えるとなぜ遅れたのだろうか?明治17年9月に加波山事件というのがあった。栃木県令三島通庸を爆弾により暗殺する計画が失敗して、茨城県加波山で蜂起した自由党左派の行動である。梅亭が新しく団団珍聞に入った長井少年の生い立ちを知り、福神漬の命名を依頼された時政府の弾圧を受けないように商品に寓意を入れたのではないのだろうか。
加波山事件で逮捕された自由党左派16名中11人は福島県人でした。彼らは福島事件被告の同志で三島県令を恨んでいました。三島は密偵を多用して自由党左派を捜索したと思われます。福島事件被告で唯一東京士族だった花香恭次郎の周囲に捜査の手が伸びてもおかしくありません。そのような時、花香恭次郎と叔父甥の関係にある鶯亭金升が偶然反権力志向の強い団団珍聞にいるとなれば権力の捜査が伸びたと思われます。

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月報

2011年01月17日 | 福神漬
学海日録第二巻の本を借り出したら、そこに配本の中に月報があった。笠谷和比古氏の(佐倉藩江戸留守居役依田七郎)という文があった。留守居役の役割は江戸時代の時期によって必要性の重さが変化しているという。漬物の歴史に関しても、沢庵漬の名称に関しても品川御殿での会議に関しての情報収集が影響していると思われる。福神漬に関しては、佐倉藩と二本松藩の留守居役が多少関係してくる。二本松藩が明治維新後東京での留守居役(維新後の名称は公用人)となったのは服部誠一(撫松)だった。服部は公用人だった時の経験を『東京新繁盛記』として出版した。明治初期のベストセラーの本として、福沢諭吉の「学問のすすめ」に次いで売てれていたという。服部は出版で得た金で公益問答新聞社を作った。ここに福島事件被告花香恭次郎が記者として勤めたようである。明治初期の二本松藩(県)はかなり厳しい財政状態にも関わらず公用人の浪費があったように見える。二本松藩(県)の少ない金の運用を三菱の岩崎弥太郎に相談したところ、中古船の購入をして運営を三菱に任せる事をした。しかし、購入した船は直ぐに沈没し、二本松藩(県)は大損害したという。後に今の福島県が成立した時、二本松藩(県)の負債は福島県が引き継いだという。この時二本松の山田 脩(やまだおさむ).は岩崎弥太郎から製糸業をすすめられ、福島県の製糸工場を明治6年に創ったという。ここで気になるのは二本松と三菱の関係がどこから始まったのだろうか。二本松少年隊の悲劇を生じさせた攻撃軍は土佐藩が中心となっていた。
 この様に思っていた時、二本松菊人形(平成22年)の展示に岩崎と二本松の関係の案内板があった。やはり岩崎弥太郎が江戸に来て安積艮斎(で二本松藩儒士)で学んだ事があるという。
また二本松少年隊の話を土佐藩士から岩崎が聞いていたようである。
『二本松藩士岡山篤次郎十三歳』で死す。
介錯人は土佐藩士で岩崎弥太郎の知り合いだったという。
 福神漬は上野と福島県に縁があってどの様な展開があるか予想できない。
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