年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治末期の金融危機

2008年09月30日 | 福神漬
明治末期の金融危機
福神漬の歴史を調べているうちに本筋から離れて上野公園・花柳界や金融市場の歴史を調べるようになってしまった。いまは大恐慌以来の金融危機であるといわれるが明治末期にも証券市場の金融機関のひとつである帝国商業銀行の経営危機は支援した渋沢栄一や中野武営も損失を被ったと言う。
 中野武営は数々の経営危機に陥った企業を再建した人だが日本醤油醸造株式会社と帝国商業銀行の再建は結果として失敗だったと言われる。
『中野武営と商法会議所』の本の宣伝には『中野武営は、今から100年も前に「官から民、中央より地方へ」「小さな政府」などを訴え、満州の植民地化に反対、排日に傾くアメリカと中国(清)との民間経済外交の道を切り拓いた実業界の指導者で、徳富蘇峰も「俗中の俗なる実業界にすみつつも一種出色の風格を持った中野武営。風貌を平人にして、その骨は武士たり。その志はつねに君国に存じたり」』
 とにかく分厚い本で東京都立中央図書館でも目立ち、必要な部分しか読んでいないのでどうして自らの資産を投じて損してまで企業を助けることになったかまだ不明である。
 帝国商業銀行の馬越恭平と浅田正文は危機のあと役員を退任するのだが、馬越はビール業に本腰を入れて働くようになって日本最大のビール会社となった。
 浅田が記憶から消された原因の一つは帝商の失敗にあるのかもしれない。彼は明治44年に主な役職を退任し翌明治45年に死去している。
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明治末期の金融安定化法

2008年09月29日 | 福神漬
明治末期の金融安定化法

明治41年に発覚した帝国商業銀行の不良債権問題は今で言うと株式市場に株券を担保として融資する銀行が日露戦争後の不況のため焦げ付きが増え危機をむかえた。帝国商業銀行の内部では営業優先の馬越と経理優先の浅田との二派に別れて不良債権処理が遅れたようである。その時第二代東京商工会議所会頭の中野武営が入ってとりあえず混乱を抑えたが浅田はこの年に22年取締役だった日本郵船の役職を降りている。東武鉄道等の役職を降りたのは彼の死期の迫った明治44年末頃に役職を降りているのでどのような関係があったのだろうか。
 三菱グループには三綱領と言うものがあります。どれかの綱領に抵触した部分があったのだろうか。処事公明=フェアプレーに徹する に反したのだろうか。
 馬越は後に日本のビール王となったが浅田の記録は少なく消え去ったとも言える。日本郵船の関係者の『福神漬』の記憶にあるが記録がない原因の一つかもしれない。
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京橋築地小学校の運動会

2008年09月28日 | 築地市場にて
京橋築地小学校の運動会
日曜日、日比谷線築地駅付近であまり聞きなれない音楽が流れてていて運動会をやっていました。周囲の道路を利用した運動会で周辺ではカメラを持った両親がうろうろ。どこにでもある小学校の運動会風景が築地にありました。中央区は大人の世界と思うとこれだけの児童がここに住んでいるのでしょうか。
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ぽちポチ店舗移動

2008年09月27日 | 築地市場にて
ぽちポチ店舗移動
 築地市場内の情報新聞が記事の中で店舗移動の話がでてました。
平成22年の5月の連休にどうやら店舗移動となりそうで、年明けには議論がまとまらず見切りとなるでしょう。次回の店舗移動は前回よりもかなりの水産仲卸業者の廃業が増えそうでバブル時1400あって、今が800弱で時によっては再編統合などがあって500台だって予想の範囲内となる。何かと経費がかかるし、まして場内の営業時間の早朝勤務で通える範囲内に住んでいるひとで若い人はあまりいない。人集めに大変だろう。
 場外の情報屋さんの話だと300もあれば十分だと言う。厳しい。
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市場4週4休みのアンケート結果

2008年09月26日 | 築地市場にて
都の4週4休みのアンケート結果
昨年から4週4休のアンケートが何回か出されたがその結果が届いた。都のホームページにも書かれているが概ね市場内で働いている人には好評であるが又24時間営業する人達の市場離れが加速するだろう。6月の毎週水曜日が休みだったけれど多くの仲卸は在庫品の受け渡しを行っていたようで今後休市が増えても『せり』を行わない日となるような気がする。
 徐々に市場が配送区分けセンター化になる一歩となるのだろうか。
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サライの別冊カレー特集から

2008年09月25日 | 福神漬
別冊サライ 大特集「カレー」平成12年(2000年4月)
松浦裕子
明治時代の酒悦においての福神漬の缶詰の作り方
『明治の頃の缶詰、茶筒のような形の缶に詰め、熱して空気を逃し、あいている穴にハンダで止める。』
なぜ酒悦が福神漬を缶詰にしたかというと酒悦店頭で対面販売したところで発売当時は人力車の時代で販売数量はたかが知れているので、持ち運びの移動に便利、荷積みが容易であること、長期の保存が出来ることで福神漬を缶詰としたと言う。
このことによって船舶に積むことが出来たし、戦争時の携帯食として軍隊に普及した。

松浦裕子さんはどんな方かわかりませんが福神漬のことを本だけでなく色々調べたようです。
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カレーライス本の誤り

2008年09月24日 | 福神漬
明治屋食品辞典 (中)昭和42年刊第三版
ふくじんづけ(福神漬)
『『福神』とは七福神の略であるが、明治18年(1885年)東京市下谷仲町・酒悦・野田清右衛門がなた豆、だいこん、シソなどを醤油で煮込んだものを漬物として売り出そうとし、梅亭師に命名と引札を書くことを頼んだところ、師は酒悦が上野不忍池のほとりにあること(弁天島が池の中央にある)と材料を7色に増やすことによってこの製品を七福神と見たてて『福神漬』と命名した。発売の翌年明治19年上野公園にて大日本水産会第一回品評会があり、その品評会の売店に出陳し好評を博した。その後各地に類似品が出て、みな福神漬と称したので、やがて福神漬という名称は普通名詞となった。そこで野田氏は『酒悦』を登録し商標に用いている。そんなわけで福神漬には規格も定義もない。酒悦は江戸時代から老舗であってもともと、カラスミ、うに等の珍味を売る店であった。その後経営者は変ったけれども今に至るまで福神漬の秘伝の造り方を守り伝えている。
 酒悦の発表によれば材料はナス、カブラ、ウド、しいたけ、なた豆、割り干し大根等の7種を用いる。まず始め水洗いし圧搾し水分を抜き秘伝の特別な漬け込みを行う。一方割り干し大根は切り刻んで、圧搾、特殊漬け込みを行う。そこで各材料を調味液に漬けて仕上げる。調味液はみりん、砂糖、しょうゆで製する。』

明治屋食品辞典は食の歴史の基本文献でまして創業が明治18年となればそれ以後の年代ならば創製年月が不明であってもだれも疑わないだろう。この文にある上野公園で開催された第一回水産博覧会は明治19年でなく明治16年3月から開かれている。従って多くのカレーライス本に書かれている福神漬の創製年月は誤りで酒悦サンの話だと明治10年代との事となる。
 この辞典ではっきりしていることは『福神漬』が普通名詞となった理由でJAS規格に『ふくじんづけ』がある理由がはっきりした。
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明治屋食品辞典/食料編より

2008年09月23日 | 福神漬
明治屋食品辞典/食料編より
ふくじんづけ
7種の野菜をしょうゆとみりんで煮て漬け込んだもので福神漬けという名を付けたもの。現在は名が違っていても、同じような漬物があるが福神漬けという名では酒悦製が品がよく、他品は及ばない。これが普及したのは日露戦争のころからで、戦後軍の払い下げ品が市場にでたものがそもそもであった。
 味の素食の文化センター所蔵の本は戦後の本で明治屋食品辞典は昭和9年に最初に出版されているので最初の本と『ふくじんつけ』がどのように変化しているのでしょうか.
辞典にある戦後とは日露戦争のことである。奉天会戦時には日本軍隊の食事は毎食時には漬物としては福神漬であった。

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明治屋73年史・100年史より

2008年09月22日 | 福神漬
明治屋73年史・百年史より
明治屋の創業は明治18年10月頃で磯野計は郵便汽船三菱が明治18年9月30日に解散する以前に三菱を退社したと思われる。磯野計は三菱の給費留学生としてロンドンに派遣された。彼は日本における複式簿記の先覚者でもあった。ロンドンから日本に帰国する時郵便汽船三菱会社(現、日本郵船)の新造船「横浜丸」を英国のグラスゴーから横浜へ事務長として回航した。船舶事務長の仕事は船舶に必要な物資を調達する業務を執り行うがとかく現在でも不正が付き物の仕事であった。この船には川田竜吉(第三代日本銀行総裁川田小一郎の子息)も乗っていた。彼はこの仕事の経験から横浜に帰ると横浜で居留地の外国人商人にシップチャンドラーの仕事を独占されていて暴利を取っているのを知り、三菱の近藤廉平(こんどうれんぺい)に働きかけ、日本郵船の発足と共に日本人による船舶納品業を始める機会と思っていて三菱を退社し明治屋を創業した。
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男女の仲 山本夏彦著 2

2008年09月21日 | 福神漬
男女の仲 山本夏彦著
 スキャンダル 今の感覚と明治時代のスキャンダルの感覚は違っていました。いわゆる大新聞は取り上げていないかほんの少ししか取り上げていなかったが庶民を読者層とした小新聞は積極的にスキャンダルを取り上げて時には捏造してまで読者の興味をそそる新聞を発行し赤新聞と言われていて販売部数が増えても軽蔑されていました。
 その赤新聞の代表は黒岩涙香の『萬朝報』で新聞の三面にニュースを載せ泥棒・強盗・詐欺・横領・不倫の記事が中心でした。
 特に『弊風一斑蓄妾の実例』は大人気でした。明治の年代は妾をもつことが男の甲斐性と思われていた時代で権妻(妾のこと)と言う言葉もあり妾を持つ習慣がありました。明治になって少し経つと妾を持ってもよいという法律は消えましたが明治30年代になってもこの習慣が残っていました。有名人の妾宅の住所付きで記事が書かれ、男の面目が失われました。その記事となった有名人の中には森鴎外・馬越恭平などがいて福神漬人脈の中心と思われる浅田正文も書かれました。妾を囲っている有名人は涙香の『まむしの周六』として恐れた。彼はスキャンダル記事は新聞部数を増やす手段として考えていました。彼のニセモノの正義は妾を持ちたくても持てない大衆の嫉妬に支えられていました。大衆の嫉妬に支えられた新聞は部数が拡大し一流新聞となりました。涙香は後に新聞の内容も一流となりたくて日露戦争直前に内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦を論説委員に抱えましたが日露開戦論に転向し急に部数が減りました。
 
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男女の仲 山本夏彦著より 1

2008年09月20日 | 福神漬
男女の仲 山本夏彦著
だいたい図書館の本の置いてあるところは分類に従っているので歴史それも明治時代の本が置いてあるところに『男女の仲』と言う本が置いてあったので思わず誰かがまちがって置いたのかと分類を見ると正しいので思わず中をパラパラとめくって読んだ。
 明治時代の着物と言葉の流行は花柳界と歌舞伎の世界からでました。明治は芸者の時代で大正はカフェー昭和はバー・キャバレーの時代となったと言う。
 この本で気になるところは『大正の震災まで山の手と下町では言葉が違った。着物の柄の好みも着付けも違った。その分かれ目が上野でした。上野仲町通りに小池屋という呉服屋があった。そこから下町好みになった。』
 上野仲町通りとは今の場所と同じだろうか?福神漬の創製地が下町と山の手の分かれ目だったりして、江戸時代上野寛永寺の前の門前町としてや出合茶屋がにぎわっていたし上野公園として明治時代に行楽地として発展した背景があるのだろうか。
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事故米不使用の証明

2008年09月19日 | 築地市場にて
事故米の不使用の証明
色々なところから最近騒いでいる事故米を使用していない証明を求められています。しかし、日本の食文化と商慣習を知らないためどんどん事故米を使用したところが増えています。
 こんな時に事故米の不使用の証明を出せといっても『今のところ事故米は使用していません』としか回答できないでしょう。事故米からヌカだって出るからどんな展開があるから可能性がないとはいえない。日本の食品の商慣習では価格の取り決めが中心で特に価格の安いものは規格が緩やかで品質はあまり追求されません。ここ何年の低価格食品の追求で安い価格が優先され、どのような理由で安いのかが無視されてきました。今築地では多くの商材がダダ市場を通過しているだけでテレビ等での報道されている部分は例外で日本全国から集まった食品を築地で乗り換えているだけです。開封されないことが今の築地では安全なのです。
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シップチャンドラー(船舶納入業)

2008年09月18日 | 福神漬
シップチャンドラー(船舶納入業)
あまり聞いたことのない言葉ですが築地市場にもシップチャンドラーがあります。主に漁船向けの納品となります。
 1970年代初め日本人に海外旅行の外貨の持ち出しが緩やかになってグアム・サイパンへの旅行が盛んになった時。観光客への食品は当時マグロ船の基地だったグアムへエサと共に冷蔵庫に日本食を入れて供給しました。後には野菜を空輸していました。
 明治18年に横浜で開業したシップチャンドラーの明治屋は日本郵船にあらゆる物を納品したと思われます。後に明治屋は海外の高級食品輸入の会社になって行きますが当然日本人乗組員のための味噌醤油米等も納入したと思われます。その中にも当時発売されたばかりの福神漬が入っていたと思われます。文献はまだ見つかりませんが。

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明治・大正・昭和の新語・流行語辞典 米川明彦編著

2008年09月17日 | 福神漬
明治・大正・昭和の新語・流行語辞典 米川明彦編著より
福神漬 この本によると命名者は戯作者鶯亭金升となっているが師匠の梅亭金鵞が正しい。
さて明治18年に発売されたと書いてあるがこの件で書いてある根拠ある文献が見当たらない。
 ところで気になるのは創業が明治18年の明治屋である。磯野計(いそのはかる)は明治13年に三菱の給費留学生としてロンドンに派遣され4年間商業実務を習得後日本に帰り三菱に入りました。明治18年日本郵船の発足と共に独立し船舶納めの横浜で明治屋を開業しました。磯野は経理畑の人間でしたから、当時の三菱・郵船荘田平五郎・浅田正文とも交流があったでしょう。又磯野計はキリンビールの拡販者(キリンビールの命名者は荘田平五郎)としても知られていますがエビスビールの馬越恭平(当時は三井物産横浜)は横浜で富貴楼のお倉のところで浅田と交友があったし、後にビール販売合戦ともしらず横浜で共に遊んでいたかもしれません。
 明治18年明治屋はシップチャンドラー(横浜に入港する船舶のために食糧や消耗品・船具・ 船舶機械部品等の船用品・食材・飲料の納入、免税酒類・免税煙草・肉類他の卸売を商う)として発足しました。当然日本郵船の船舶にも納品していました。明治屋は輸入食品の草分けですが日本郵船の乗組員には日本人もいますので漬物の沢庵漬や梅干も日本郵船に納品されていたと思われます。
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こしかたの記 鏑木清方著より

2008年09月16日 | 福神漬
こしかたの記 鏑木清方著
戦後まで生きていた日本画家鏑木清方の随筆は明治の下町の風景がよく見える。今の東京都中央区にある京橋税務署・都税事務所は関東大震災まで新富座という歌舞伎等を公演する劇場であった。鏑木清方は少年時代に彼の自宅から歩いていける範囲内にあったせいか頻繁に出入りしていて後に新聞挿絵画家としての素養を得たような気がする。
 明治23年新富座で上野の戦争を題材として『皐月晴上野朝風』が上演された。上野戦争で亡くなった人達の23回忌とかで明治も落ち着いて明治政府も武士の時代に逆戻りしない自信が付いていたのか上野戦争(彰義隊)物が上演できた。まだ戦争の関係者も生きていてかなり評判がよく、江戸と呼ばれた時から東京に住んでいた人々には涙を誘ったようである。
 明治23年にはすでに福神漬が発売されて時間が経っているので普及は何処まで進んでいたのだろうか。福神漬の中身の7種の野菜は上野池之端周辺で手に入りやすい野菜である。当時のレシピを見ると今では手に入れにくい松茸などが入っていた。どちらかと言えば精進料理のようにも思える。
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