年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

梅干の日

2009年07月31日 | 梅干
梅干の日
夏の土用に梅を干すのが最適な梅干しです。今年の夏は天気が悪く、ビニールハウスの中で干しているでしょう。もちろんうなぎの日でもあります。7月30日に梅干を食べて難(7月)を去る(30日)という。申年の梅ということもあった。食べ合わせの悪い例で「うなぎと梅干し」があります。
いろいろ語呂合わせの日があるが次は8月21日はつけものの日、萱津神社の例大祭となる。
欲しいイベントは年金支給日の漬物販売記念品。2ヶ月無事生きたご褒美として食べる漬物。年金は死んだら支給されない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬の見立て

2009年07月30日 | 福神漬
福神漬の見立て

大根、茄子、瓜、ナタ豆、しその実、生姜、レンコン、胡麻の七種ならば

大根は大黒天 インドのガネーシャ神はゾウの折れた牙。
浅草待乳山聖天の境内にある大根・巾着の印は御利益を示すもので大根は健康で和合、巾着は商売繁盛を現すものだという。

茄子は初夢に出てくる茄子で縁起が良いもの。布袋様のおなかの姿にたとえられる。

瓜は 弁財天は瓜実顔(ウリの種に似た、色白く中高でやや細長い顔)の美人になっている。

なた豆 毘沙門天の剣。刃物の形に似ているので英訳でもSWORD BEENSと表記する。

しその実は縮緬状の葉っぱから寿老人だろう。

胡麻はエビス神。夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などとも表記される。
福禄寿は一番難しい。星を表すならばシソの実か胡麻だろう。しかしもう取上げてあるのでしょうがないから生姜。
レンコンは蓮。蓮っ葉はおてんばとなると吉祥天か。
見立てだから適当に納得すればよいだろう。とにかくコジツケだから根拠はない。

こんなたわいのないことを考えていた。確固とした伝説があるわけでもないから福神漬の野菜と七福神とのこじつけは失敗したのだろう。従って今に伝わらなかったともいえる。今のJAS規格の福神漬はきゅうりが入っているが
江戸時代は下品の野菜であった。切り口が徳川の葵の紋に似ていたから東叡山寛永寺のおかげで繁栄していた下谷の人達がキュウリを入れる必要性はない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅亭金鵞をめぐって

2009年07月29日 | 福神漬
梅亭金鵞をめぐって
幕末、幕臣の次男として生まれ、武道で名を知られていたが維新後戯作者となった。経歴はとにかく福神漬の創製者とどのような交流があったのだろうか。
 一番気になる七種類の野菜(特になたまめ)である。七偏人・竹林の七賢人をもじったもので七変人の行動を書いたおふざけ本。こんな作家に野田《福神漬創製者》は缶詰をどうして持っていったのだろうか。
 この辺の影響は当時明治初期広告の先駆者と知られていた池の端・守田宝丹だろうか。福神漬の広告案文を考えたのも梅亭金鵞ならば十分考えられる。当時は團團珍聞の主筆として梅亭金鵞は活躍していた。
 梅亭金鵞の経歴は松の家露八の経歴に似ている。幕臣の子息が明治になって片や戯作者(小説家)もう一方は吉原のタイコ持ち(男芸者・幇間)となった。どんな心境で明治政府の人達を眺めていたのだろうか。下谷周辺の人達の応援でしぶとく生き抜いてゆく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルビコン岬

2009年07月28日 | 福神漬
ルビコン岬
今の横須賀市走水と千葉県富津岬を結ぶ線を幕末江戸湾防衛のラインとしていた。ペリー等はこの線をローマの故事にたとえて、ルビコン岬と名づけ、ここを平和に超えて通商を結ぶ作戦を立てていた。
 日本側も浦賀衆の人たちと.幕府幹部の危機意識の差が表れていた。現場を預かる戸田氏栄は予算不足で台場の建設も遅れたし、ペリーの黒船以前に浦賀に来たアメリカの軍艦の大砲の数より、江戸湾を守っている大砲の数が少なく、威力も弱かったことを知っていた。この事実を浦賀与力から知らされていた戸田は異国船を武力で打ち払うことは不可能であったことを知っていた。黒船来航時、戸田は浦賀に集まった見物人の対応に苦慮したと思われる。ヤジ馬の暴走を抑え、戦争の口実を与えないで速やかに退去させることに成功した。
 武力を背景として開国をせまる人と平穏に退去させようとする人の駆け引きが浦賀衆に委任された。前例のない黒船来航を無事終わらせた。
 浦賀衆は鎌倉時代北条時宗が竜の口で蒙古の使者を切り捨てて国論を統一した前例を避けたのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戸田伊豆守から

2009年07月27日 | 宅老のグチ
戸田伊豆守から
福神漬の歴史を調べているうちに黒船来航時に対応した浦賀の人たちのことを調べることとなった。横須賀市中央図書館にはたびたび訪問して図書を読んでいたが、どちらかといえば海軍カレー関係の本を読んでいた。まさか浦賀の黒船が福神漬の歴史に加わってくるとは想像もしていなかった。福神漬は明治18年前後からのことでぺりーの時代とはかなり離れていたのでワザと調べなかった。
 戸田氏栄はかなり自意識の強い官僚であった。老中安部正弘によって日光奉行から浦賀奉行に抜擢された。しかし老中安部正弘にはかなり厳しい意見を述べていたようで、黒船再来航時には外されていた。彼の三男や五男の息子にはどんな言い伝えを残したのだろうか。三男の子鴬亭金升・五男の花香恭次郎も体制派ではない生涯を送っている。

 郷土史料という時代に影響されない場所もかなり司書によっては分類を変えるようで関連書籍が移動してゆくのに最近気がついた。まえにあった本がどこに移動したのだろうか。海軍関係のところから食に関する本が消えたような気がする。一般書のところに移動したのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横浜開港150年

2009年07月26日 | 宅老のグチ
横浜開港150年
黒船来迎時活躍した浦賀奉行与力 香山栄左衛門は戸田伊豆守と同様に翌年再来航したとき、交渉の場から外されていた。しかし米国艦隊から信頼を獲得していた香山が難航していた交渉に参加し浦賀と江戸の間で東海道から外れた横浜の地を選んだ。香山は以前から横浜を調べていたという。戸田の影響なのだろうか。
戸田や香山らがペリー応接の功で出世すると周囲から妬まれた。幕臣となった与力中島三郎助はこの恩によって浦賀衆とともに函館で戦死している。石井研堂の缶詰のはじめにでてくる人も函館で戦死している何かの縁だろうか。
 浦賀の地は今横須賀市で横須賀海軍カレー・横浜カレーもある。福神漬もこれに参加している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日の丸の軍艦掲揚の始め

2009年07月25日 | 築地市場にて
日の丸の軍艦掲揚の始め
1853年(嘉永6年5月)ペリー来航の一か月前、薩摩藩は洋式軍艦“昇平丸”を着工した。19ヶ月後1854年(安政元年12月)に竣工した船に船籍を表す印として日の丸が掲げられた。しかし、実際はペリー来航後一週間で大型船建造が解禁されて、浦賀で日本初の国産洋式軍艦が着工し、8ヶ月後、嘉永7年5月10日に竣工、翌11日に試験航海を行いました。この船は(鳳凰丸)と言い日の丸を掲げて航海をおこないました。従って軍艦の旗印として航海したので日本初となる。しかし試走した時の評判が悪く次第に忘れ去られた。時代が帆船から蒸気船に移る時だったこともあるが最大の理由は外海航行に適さない船だったことにある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久里浜を歩く

2009年07月24日 | 宅老のグチ
久里浜を歩く
京浜急行久里浜駅で降りて港に向う。ペリー記念館のあるペリー公園まで歩いてゆく約20分。巨大な記念碑設立・碑が倒された時や再建した経緯も記念館の中に掲示されていた。
 記念館の入り口にこの地で国書を受け取った戸田伊豆守氏栄の大きな胸像が建っている。同様な胸像が内部にもあるのだが、彼の功績が評価されたとは思えない。彼等(戸田伊豆守と井田石見守)が日本を代表してアメリカ大統領の国書を受け取ったのだが浦賀奉行としては儀式においては完全に飾りであって、平穏無事に浦賀奉行として黒船を退去させることが優先されていた。
 戸田伊豆守氏栄ら浦賀の在住していた与力等の提案や準備によって黒船来航後速やかに時代が動いて行った。大型船建造の解禁などは間もなく行われ、国産洋式軍艦(鳳凰丸)は1853(嘉永6)年9月に起工、嘉永7年5月10日に竣工、翌11日に試験航海を行いました。薩摩の洋式軍艦(昇平丸)は手探りで建造したので着工は鳳凰丸より早かったが竣工に時間がかかり日本で二番目の洋式軍艦といわれる。浦賀衆がたびたび来る異国船の構造を与力舟大工等によって偵察調査していたという。
 横須賀市中央図書館郷土資料のところには戸田伊豆守の本は一冊しかないが中島三郎助ら浦賀衆の本は多い。黒船再来航以後、横浜に応接の場が行き、浦賀の街も寂れていったという。
福神漬の調査には関係ないことかもしれないが知らないことがまた増えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浦賀の十日

2009年07月23日 | 福神漬
浦賀の十日
南浦書信 浦賀近世史研究会監修より
ペリー来航と浦賀奉行戸田伊豆守氏栄書簡集
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)から12日(7月17日)まで10日間はこの地でどのようなことが起こったのだろうか。
 弘化3年(1846年)アメリカ軍艦コロンバス号ヴィンセンス号2艦が清国政府との条約批准書交換の帰途、日本との通商条約締結の可能性の打診のため浦賀に現れた。コロンバス来航のあと老中阿部正弘は浦賀奉行を更迭し、5百石の戸田伊豆守を任命した。異例の抜擢であった。戸田は浦賀の与力中島清司・三郎助親子、与力香山栄左衛門、通辞堀達之助を指揮してこの難局にあたった。アメリカとの交渉は香山らが当たり戸田は幕府から視察に来た人達や応援の人達の応対に追われていた。その中で老中阿部正弘に国書を受け取る他ないと書状を送っていた様である。結局幕府は浦賀奉行に一任して久里浜でアメリカ大統領の国書を受け取るようになる。(日本の開国)

戸田はその先見力や発言の過激のため、周囲から疎まれ、ペリー再訪日の際、応接の場から外された。このような経緯から直ぐに戸田伊豆守は幕末史から消えて行った。戸田の三男を父に持つ鶯亭金升は彼の本や彼の経歴にも旗本長井家が出ているほうが多いが戸田氏栄から見ると金升は孫に当たる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人の命の長さ

2009年07月22日 | 宅老のグチ
人の命の長さ
人は生まれたら必ず死ぬ。同僚が亡くなった。闘病数年,ガンの転移で命が尽きた。
自分の余命の長さは計算方法。両親の生きていて年齢とその二親の生きていた年齢を足し、つまり6人の平均年齢をだし、それに医学の進歩を加える。ただし事故等によって死亡した時は兄弟親族の血縁に近い人を当てる。
 自分の余命の長さが基準として蓄えを用意すれば貯金の量や保険の金額を計算できる。貯金をのこし人生を終わることは何とか避けたい。
今年は何とか福神漬の本をまとめる事。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浦賀奉行史 高橋恭一著より

2009年07月21日 | 福神漬
浦賀奉行史 高橋恭一著より
享保5年より浦賀に船改めの番所を下田から移し、浦賀奉行の手で江戸に出入りする廻船の取り締まりすることになった。江戸に出入りする船を調べることで治安維持と経済の安定を図る目的の奉行となった。今だと税関の役目を果たしていたといえる。しかし18世紀になって外国船が我が国沿岸に頻繁に出没するに従い、江戸湾防備の役目を果たすべき地位の向上を図られた。さらに外国船応接の役目も加わり、黒船来航の交渉を幕府によって一任されようになった。戸田伊豆守と井田石見守がアメリカ大統領国書を日本の代表として受け取ることとなった。遠国奉行だった浦賀奉行が日本開国の重責を負わされたのである。
 欧米列強によって中国が蹂躙されているという情報が入っていて、紛争になるような口実を与えないようにし、浦賀奉行二人に対して黒船を穏便に退去させることが幕府の方針であった。
 久里浜での無言の応接によって日本の歴史から彼等の名前が消えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄2

2009年07月20日 | 福神漬
戸田伊豆守氏栄
寛政5年6月29日生まれ。安政5年7月20日死す。父は御所院番戸田主膳氏友。祖父主膳氏孟は天明4年から天明7年長崎奉行を勤む。
鎖国していた日本近海に異国の船が文化・文政期(1804年~1830年)の頃から頻繁に現れていた。このような時期に戸田氏栄は日光奉行から浦賀奉行となった。(弘化4・1847年2月)8月には浦賀奉行の地位は長崎奉行の次席となった。(幕府における浦賀奉行の重要性の認識、戸田は500石から加増され2千石となる。)老中阿部伊勢守の指示は防備を固め、極力外国船との応接は穏便主義で行くようにしていた。嘉永5年9月(1852)幕府は浦賀奉行としての戸田伊豆守を報い勘定奉行の次席とした。嘉永6年4月末、井戸石見守が江戸在府の浦賀奉行として勤務するようになった。
このような状況下にぺリーが黒船とともに浦賀にやってきた。

日本史に残る戸田伊豆守氏栄は久里浜でアメリカの国書を受け取っただけで実際の交渉は浦賀与力・通訳の活躍だったため、幕府においては井戸石見守の活躍で意外と文献が少ない。

嘉永7年7月戸田伊豆守西丸御留守居役に転出。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観音崎の戦没船員の碑

2009年07月19日 | 宅老のグチ
観音崎の戦没船員の碑
やすらかに ねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに
駐車場わきの道から登っていくと観音崎の頂上とも言うべきところにこの慰霊碑は建っている。眼下に浦賀水道があり、波の音がかすかに聞こえる。ウグイスがしきりに鳴いていて福神漬関係者の鶯亭のことと絡めて感慨にふける。第二次大戦で亡くなった商船乗組員は6万人をはるかに超えるという。慰霊碑に敷地にアジアの海が描かれているがこのどこかで待っているのだろうか。
 第一次大戦で亡くなった船員はここには祀られていないようで、インド洋で沈没した「常陸丸」船員らの歴史追跡でカレーライスと福神漬の関係を調べている者にとって残念なことである。
 7月20日は海の日であるが慰霊碑の下には砲台があって、さらに防空壕跡らしき物もある。下では海水浴客が戯れていて平穏な風景だった。嘉永の時はこの辺はどんな騒ぎだったのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島事件 高橋哲夫著より

2009年07月18日 | 福神漬
福島事件 高橋哲夫著より
花香恭次郎 《はなかきょうじろう》 東京府深川区深川伊勢崎町士族(今の江東区清澄公園の近く)
福島自由新聞記者。ペルリ日本来航のとき応接した浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の五男として安政3年香取に生まれる。香取とは今の千葉県香取市のことか。
明治時代自由民権運動の弾圧として知られる福島事件の時、過激な発言で投獄される。
明治16年判決 禁固5年の不当判決
明治22年の明治憲法発布による大赦で釈放となる。明治23年7月1日の第一回衆議院議員選挙で千葉3区で自由党から立候補し348票を取るが落選する。同年に死す。34歳?今のところこれしか資料が見つからない。しかし反政府の行動が読み取れる。鶯亭金升とは親戚関係となるのだが交流があったのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記念硬貨IN築地市場

2009年07月17日 | 築地市場にて
記念硬貨IN築地市場
地方自治法施行60周年記念貨幣が15日に市場内の金融機関で引き換えがありました。ブラジル移民100周年の記念貨幣は数日経っても残っていました。仕方がなく引き取りましたが今回は長野県と新潟県なので引き換え当日午後までで全部配布が終わったようでした。築地市場の人達は貨幣収集の趣味のある人は少ないがすぐに消えたのは地元意識はかなりあるようです。元県民に渡しました。
 飲料の自動販売機には使えないので何処かに死蔵されるのでしょう。
高速道路1000円の影響で地方から東京に旧盆時に東京へ向かう人が多いでしょう。こんな時でも結構24時間営業の築地市場・場外のすし屋は無休で稼いでいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする