年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

鶯亭金升日記より 年譜3

2009年06月30日 | 福神漬
鶯亭金升日記より 年譜3
明治22年1月仁科の令嬢と結婚(歌舞伎役者岩井半四郎と縁続きとなる)。5月根岸から入谷の里坂本に移る。9月下谷池之端茅町2-18(池之端にある横山大観記念館付近)に借家する。この家のもち主は池之端御前といわれた福地桜痴の家であった。1月10日に柳橋亀清楼にて新聞記者達の新年会。
 2月に憲法発布、神田雉子町の團團珍聞の小改革によって隣地に新聞『日本』が来る。
明治23年1月梅亭金駕が脳卒中に倒れる。
 9月27日隣地の日本郵船重役浅田正文によって福地桜痴の土地を買収される。神田松永町23に引っ越す(今のヨドバシカメラ秋葉原付近)。
明治24年、團團珍聞社主野村文夫死す。滑稽社宮武(骸骨)に團珍を買い取らせようとしたが失敗。年末麹町区有楽町1丁目5に引っ越す。
明治25年有楽町3丁目1に引っ越す。改進新聞社(改進党の機関紙)に出勤することになる。柳橋の亀清楼にて度々新聞記者の懇親会が開かれる。
明治26年4月1日根岸党(饗庭篁村・森田思軒・幸堂得知・関根只好・幸田露伴)の一行を新橋停車場まで見送る。行き先は奈良の月ヶ瀬に観梅するためだった。6月30日梅亭金駕師死去。10月麹町区有楽町1丁目5のところに転居。
明治27年6月生母死す。行年53歳。年末京橋区元数奇屋町2-11に引っ越す。日清戦争始まる。
明治28年開花新聞(改進新聞を改称)を8月末退社。都都逸集の編纂に励む。金銭に苦労する。
明治29年萬朝報社に入る。
明治31年萬朝報社退社中央新聞に入社。森田思軒一周忌出席。親戚の連帯保証したため弁償。麹町区内幸町1-5に転居。都新聞社の隣。
明治42年大崎本立寺に先祖代々の墓を移す。
鶯亭金升は昭和29年10月大田区千鳥町にて死去。墓は本立寺にある。85年の人生で転居すること20回という。主に住んだところは初期には下町で麹町区(今の千代田区)に居を移した頃から新聞社・芝居小屋の多い地区に住んだようだ。
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鶯亭金升日記より 年譜2

2009年06月29日 | 福神漬
鶯亭金升日記より 年譜2
鶯亭金升は明治元年3月今の千葉県船橋市に生まれた。明治3年今の仲御徒町に住み、明治6年父が病にて死ぬと、母は明治7年根岸の里に転居した。服部波山翁の門に入り、書・画・漢学を学ぶ。服部校にてしばしば團團珍聞を持ってくる者があった。明治16年に團團珍聞に投書するようになった。16歳の時だった。投書度々するようになって團團珍聞の社員で編集者であった梅亭金鵞から声がかかり、明治17年團珍の社員となった。この年初めて小説を書き、鶯亭金升と名乗る。
明治19年、團團珍聞社長/野村文夫と関西を回る旅行をする。大阪にて後に根岸党の仲間に入る久保田米遷と知り合う。
従って小石川の梅亭金鵞宅において、酒悦からたまれた福神漬の引札の印刷は明治17年から18年のこととなる。

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鶯亭金升日記より 年譜1

2009年06月28日 | 福神漬
鶯亭金升日記より 年譜1
三代キシャ
祖父は徳川の旗下八万旗中騎射(キシャ)の名人長井竜太郎昌広という。竜太郎没後9歳の娘が一人残り、家が絶えようとしたとき、時の町奉行が心配して戸田伊豆守氏栄の三男桂三郎を養子に迎え、17歳になった娘と結婚させ、桂三郎は長井筑前守昌信となった。
 嘉永6年、ぺルリの黒船が浦賀に来た時、戸田伊豆守は浦賀奉行をして苦心した。開港後長崎奉行を父が勤めた。維新後工部省の役人となり、明治5年京浜間汽車(キシャ)開通の際は鉄道局に関係していた。父の子鶯亭金升は新聞記者(キシャ)を勤めた。親子三代にわたって(キシャ)を仕事とした。
小栗上野介の米国訪問の土産(菓子製造の道具)が長井家に届けられワッフルを作り江戸城中の人の賞賛を得たという。

 これだけでは中々わかりにくいが時の時の町奉行とは南町奉行を20年近く勤めた筒井政憲のことで同時期に火付盗賊改方 の職に御先手弓組(騎射)旗本長井家が勤めていた。また筒井の隠居の住居は長井家と筒井家は今の千代田区二番町でいくらも離れていない。
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雑俳と運座2

2009年06月27日 | 福神漬
雑俳と運座2
『月の輪書院それから』 高橋徹著から
鶯亭金升の雑俳弟子はかなり多い。弟子の俳号は○亭○升と名乗っていたため升連と呼ばれていた。禄亭永升は大逆事件の大石誠之助の俳号であった。明治百美人の一人『津の国屋吾妻』と浮き名を流した歌舞伎俳優の市川好太郎は好亭宣升。三田平凡寺(珍品蒐集家。特異な趣味人として知られた。)は明亭空升。鶯亭金升は明治36年12月に三田平凡寺の紹介で平凡寺の隣に引っ越したが名声と裏腹に家賃の不払いによって、明治41年暮れに追い出され大崎に引っ越した。このことが原因かどうかわからないが三田平凡寺は雑俳から珍品蒐集家になっていったという。東亭扇升は小山内薫(明治演劇界の革新する。)歌舞伎俳優二代目市川左團次は惣亭芸升。
鶯亭金升の雑俳弟子から色々な人物が出てゆくのは不思議な事である。東叡山寛永寺や彰義隊の事から始まった上野の怨念が導いたのだろうか。福神漬には近代日本が変化してゆく過程で敗者や弱者の人々の色々な事件が絡まってくる。




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なた豆と刃

2009年06月26日 | 福神漬
なた豆と刃
近代演劇の来歴 神山彰著から感じた事
武士の象徴である刀は明治の廃刀令によって身分の象徴から売買の対象となる商品となってしまい、権威の象徴として刀を取り戻す必要性が無くなった。また明治も20年頃になると文明開化の象徴である散切り頭が普通となり、ちょん髷姿は旧習を守る人と思われていた。明治10年代の河竹黙阿弥の芝居に現れているという。
福神漬に入っているなた豆(なた豆を塩漬にしてスライスした物)は当初にはカタナの意味することを暗示していたが明治20年頃から欧風主義から国風回帰によって暗示が忘れ去られたのではないのだろうか。
 その暗示をXとするとXは具体的に表すと明治政府を批判する事となり、商売上不都合だったのではないのだろうか。福神漬が創製された明治10年代には上野戦争の記憶と文明開化の状態から旧習に戻る事は無いだろうが恨みも残っている複雑な心境の時でもあった。検閲を避けるため伏せ字(○○等)を用いるがなた豆を毘沙門天の剣に見立たと言わないと判らない。毘沙門剣とか最近のゲームの影響で言葉の理解が進むが明治の10年代はこのような事を比ゆ的に漬物の中に入れることによって東叡山寛永寺・輪王子宮から店名を戴いた酒悦主人は自己の意思を表そうとしたのではないのだろうか。ただXした事が明治憲法制定後、戊辰戦争の恩赦が行われ隠す必要性が無くなり、忘れ去られたのでは無いのだろうか。リス等が冬眠の時に食物を隠したが、隠した場所を忘れてしまった時と同じ事かも知れない。
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午前2時出勤

2009年06月25日 | 築地市場にて
午前2時出勤
休市明けに再び午前2時出勤が始まる。予定された入院で心の準備があったため淡々と代替業務をこなす。それにしても築地の混雑が少ない事に驚く。とても休市明けの状態ではない。既に行列のできる飲食店は午前2時にはいつも開店の準備が行われている。
 こんな時間に出勤するには近所に住むか車通勤となる。人手不足が緩和されたみたいで日曜日の求人広告が市場関係のはほとんど無くなった。恐ろしい不景気。
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雑俳と運座1

2009年06月24日 | 福神漬
雑俳と運座1
『月の輪書院それから』 高橋徹著から
ネットの時代の恐ろしい事は探している当人の知らないところが検索によって探し出される。今年二月に和歌山に梅祭りに行った時、ヒマだったので観光案内を読んでいたら新宮の観光案内に大逆事件の事があった。別に梅以外は関係ないこととしていて記憶の隅に残していた。大逆事件の和歌山県新宮市の大石誠之助は和歌山県によって冤罪だったとされ名誉が回復されている。『新宮では「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が結成され、非戦・廃娼を唱えた人権の先駆者として新宮市議会で誠之助らの名誉回復宣言が採択されるなど活発な活動が行われている。』
 この人が福神漬の鶯亭金升の雑俳の門人だった。
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大通とは劇通とは

2009年06月23日 | 福神漬
大通とか劇通
大通とは辞書によると『遊里・遊芸などの方面の事情によく通じていること。また、その人。』遊び人ということになるが、劇通とは明治時代には歌舞伎通の事で他の芝居はほとんど無かった。
江戸時代は劇通が俳優評判記を出版していたが今の時代のような演劇評論ではなく役者の評判記で贔屓役者の評論という面が強く出ていた。
明治時代初めには六二連という劇通が歌舞伎評論を行っていたが、台頭してきた新聞の歌舞伎評論によって次第に駆逐されて行った。台東区根岸に集まった根岸党の人々はその多くは新聞の歌舞伎評論をしていた、饗庭篁村、幸堂得知、森田思軒など。宮崎三昧、幸田露伴、陸羯南、須藤南翠、岡倉天心も根岸党と目されていた。 根岸党は仲間内で酒を酌み交わして歓談し、またともに旅を楽しんで紀行文を残した。いわば芸術家の親睦会だった。その中で福神漬が酒の席で食されていた。(出典・露伴と遊び)

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農家の集荷の休み

2009年06月22日 | 築地市場にて
農家の集荷の休み
群馬のJA(昔の農業協同組合)に行ったら、JAに出荷する日が関東の青果市場の休市日に合わせていました。6月は毎週火曜日と土曜日が休みです。従って農閑期となる6月は意外と農家の観光行事が多く、築地市場も視察を兼ねて関東地方の農協がやってくる。昔の農協と違うのは女性の多い事だろうか。今週も6月最後の休みとなって梅の集荷出荷が23日は出来なくなる。この日が雨天ならば良いのだが晴天だともったいない気分になるのだろうか。市休と天気状況は研究する余地はある。
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メロンの俳句

2009年06月21日 | 宅老のグチ
メロンの俳句
6月20日日本経済新聞夕刊にメロンを題材とした俳句があった。昭和37年当時のメロン事情と作者の複雑な個人事情と絡み合って、俳句に先の見えない人生を詠んでいたようである。
 明治時代、上野根岸周辺の人物によって次第に口コミで評判が伝わり拡大していく過程がわかるに連れ、福神漬の事情も次第に複雑化していってこの先どのような展開があるのだろうか。今に残る味に繋がるにはもう少し時間がかかるような気がする。
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甲子の日

2009年06月20日 | べったら市
甲子の日
明治の東京生活 小林重喜著より
べったら市の新聞記事から甲子の日の様子がわからなかったがこの本によってようやくわかった。明治32年ころ大倉組に勤めていた人の話である。十干十二支の組み合わせで最初の日が甲子の日です。60日に一度やってくるので次第に廃れたという。
 大黒様の像を版木に起こして刷り、多くの家に配る。千枚単位で刷るので500軒ほどに配ることになる。甲子の日に大黒様を祀り、掛け軸をかけて『七種菓子』という7種類はいっている菓子を供える風習があった。
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みつばちと梅

2009年06月19日 | 梅干
みつばちと梅
JAはぐくみの職員の意見では今年の梅の不作の原因はまだわからない。しかしミツバチの数は間に合っていたが開花時期が早く、昨年の梅マラソンの時は咲いていなかったのに今年は十分咲いていたという。
 ミツバチは5度以下になると動かなくなるので開花時期に天候が悪いと結実率が下がるという。今年の桜の満開に至るまでの開花の長さは記録であったように開花時期の低温が受粉を仲介するミツバチ不足で結果的に不作であったという。
 最近の生産者の履歴表示はかなり進んできたがこれを完全に行うには兼業農家の負担はかなり掛かるだろう。米の規制が始まりそうだが費用が掛かりそう。又米離れが進まねば良いのだが。
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梅施設

2009年06月18日 | 梅干
梅施設
JAはぐくみは群馬県の中央部よりやや西に位置し、高崎市西部(旧倉渕村、旧榛名町、旧箕郷町、旧群馬町)を管内としています。それぞれの頭文字から合成した言葉とのこと。今年の梅の作柄は二割くらい出来が悪いそうで、そのため一回りから二周り粒が大きい。町の農協の施設や農家の家の立派さにはあきれるくらい。中学校の体育施設は時間差で割り振る必要がないという。
 梅酒需要と梅干需要の微妙な自給バランスが取れていてJA職員の顔もにこやかだった。農業は加工との適切な付き合いから発展する。
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梅仕事

2009年06月17日 | 梅干
梅仕事
群馬県は日本の中で和歌山県に次いで梅の生産量が多く、見学に行くこととなった。梅は昔、大分県で『梅栗植えてハワイに行こう』というくらいの産物だったが今では安価な中国産の梅に抑えられて価格が低迷している。大分でも漬物屋さんの評判では梅干に関して、一地域しか話題とならなくなってきた。残念ながら本物はいくつも残らない。群馬の梅は量は多いが宣伝が下手である。
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鉄道から見える日本

2009年06月16日 | 築地市場にて
鉄道から見える日本 
NHK H21・06・08
『関東の鉄道沿線に住むということは、その沿線文化あるいは地域の個性といったものに、実は深く規定されることなのではないか。本人は意識しないままに、そこからものを発想することがあるのではないか―。』作家の目線で鉄道沿線とそれが作品に与えた影響を読み解かれている。横須賀線には基地の問題が見えるし、京成線にはまた違った階層の人たちが住んでいて微妙に人の感性に影響を与えている。
福神漬は単なる漬物だが明治の中頃からの販路の拡大は時代と上野周辺地域の影響がある。時代と地域の影響が福神漬の販路拡大となってゆく。逆の見方から歴史を見ることもできるという事。

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