年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地市場移転1年延期のニュース

2012年12月31日 | 築地市場にて

12月31日の日経で築地の移転が1年延びるという。2015年3月に豊洲へ移転するということで移転準備していたが汚染除去工事の難航で延期という理由らしい。これは表向きの理由で水産部内部の移転準備が全くといってよいくらい進んでいない。ただ建物の老朽化はかなり進んでいて何時笹子のトンネル事故が築地市場内で発生することもありうる。すでに築地市場水産仲卸の数もバブルのときが1400あったのが今では700を割ったという。さらに金融円滑化法の影響で見放された業者の倒産廃業が加速するので豊洲移転まで500台になるのは確実だろう。築地の情報に詳しい食品情報誌によると水産仲卸は400ほどが適正で水産荷受の数も3社ほどという。今の水産荷受が7社もある。この延長された時間で業界の再編時間となるのが東京都の密かな狙いのような気がする。表向き自主的再編という形となる。
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築地本願寺の伝説の葬儀

2012年12月30日 | 築地市場にて

年末になると今年死去した人のテレビ番組がある。先日の築地本願寺の中村勘三郎さんの葬儀もすぐに伝説になるだろう。ところが築地本願寺葬儀で参列者の記録はXJAPANのHIDEの葬儀で5万人だったので今でも語り草となっている。どうやら戦後日本の葬儀で最大の参列者だったようだ。誰かが中村勘三郎の葬儀は1万2千人というので3位という。2位は誰かと調べても勝新太郎は1万人ほどで4位以下となる。今のところHIDEの何回忌かで3万人ほどの参列者があったのが2位かもしれない。やはり1位にならないと記憶からすぐに消えるのだろうか。新築中の歌舞伎座が見える本願寺で霊魂は安心できたのだろうか。
 
満員電車の中を隣の車両へ移動する人がいる。今の築地場外市場での買い物はこのような状態である。いつもの売り子と違って普段家にいる家族も売り子なって築地に出ている。場内に駐車位置を間違って留まっている車が東京都の放送で呼び出されている。セリも終わり年末の挨拶となるが、言葉だけで明日も出勤となる。
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ミドリ虫

2012年12月29日 | 築地市場にて

年末の混雑している築地市場へ配送している運転者さんが『今日はミドリ虫』が出ているという。早朝から築地市場周辺では駐車違反の取締りの監視員が多数出ているという。ここ1週間ほど複数のドライバーが助手付で配送に来ている。
 29日から買出しに築地市場に来る人は駐車場に車を入れないと高い買出しとなる。年末のこの時期に今年は比較的雨の降る回数が多い気がする。年明けから寒波による野菜の高騰が予想されるがすでに円安でガソリン価格が上昇している。年末には労働災害の多い築地市場で今年は今のところ救急車の出動回数が少ないようだ。昨日の市場内放送で自動販売機の前に外国人の運転免許証が落ちていたと日本語による放送があった。日本語で放送があっても落とした人にはわからないだろう。デジタル化に取り残された築地市場にレトロな雰囲気を味わう人でまた賑わうだろう。ただ混雑するだけで売り上げには繋がらずトイレだけが長い行列となる。
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年末の築地の葬儀

2012年12月28日 | 築地市場にて
築地本願寺で中村勘三郎さんの葬儀があった頃、隣の築地市場で大量の荷物と格闘していた。葬儀の見物客と参列者の人ごみでトラックが遅れて到着した。さらに寒波による延着も加わって大変だった。葬儀の参列者は1万人を超していたという。
 仕事収めも本日までで午後より雨天という予報では仕事は午前中で片付けなければならない。銀行の連休は長く29日より3日まで休み。明日でせり売りが終わり、年末年始の市休となる。しかし24時間営業の店が増えたことで休市期間中でも築地は動いている。特にごみの搬入の取締りを毎年やっていて何事か驚く。今年を含めあと3回しかない築地市場の年末風景となった。
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築地市場のガソリンスタンド

2012年12月27日 | 築地市場にて

今年の4月に築地市場内のガソリン等を供給しているスタンドの1社が廃業した。跡地は地下のタンクが撤去されただけで更地のままである。当然給油で混雑すると予想していたが築地市場内を走行するターレーの電化が進み、今のところ混んでいるとは思えない。後2年で豊洲へ移転するのでますます電動ターレーが増えているようだ。東京都の電動ターレーへの新規購入補助金も来年3月までの申請で終わる。
 円安でガソリンの価格が急上昇するだろう。そして消費者は燃費の良い車を求め燃料の消費量を減らす。ガソリンスタンドは価格が上昇しても量が増えないので廃業するスタンドが増える。燃料過疎地ではこれからプラグインハイブリッド車で移動しなければガソリンを入れるためガソリンを消費することとなる。郊外の大型量販店は高価格となったガソリンによって来店頻度が減るだろうと予想される。毎日のように来店する顧客をひきつけるための対策が業績悪化の原因となるかもしれない。賞味、消費期限の見直しもこのような観点から必要となる。ガソリンが1リットル170円を越えたら消費者はどのような買い物行動をするのだろう。
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本物の三浦大根の日

2012年12月26日 | 築地市場にて
12月26日は一年で一日だけ築地市場に本物の三浦大根が入荷する。通常の三浦大根は青首大根のことで年末のナマスとかオデン用にはやはり本物の三浦大根が良い。ただ大きく太いので収穫時期に体力がいる。今の高齢化した農家にとってつらい作業だろう。最近の重量野菜で低価格の農作物は農家の人気がない。収穫時、機械化できたものしか生産されなくなるに違いない。昔の三浦大根が栽培されなくなった原因は色々あるが消費者の好みの変化と生産農民の高齢化がある。
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年末の行事の始まり

2012年12月25日 | 築地市場にて

クリスマスのセールが終わるとケーキが処分され、正月用品の販売となる。昔といっても小売店が元気だった頃は地域の風習が残っていて、古来の食を用意し新年を祝う演出をしていた気がする。今は大量仕入れ大量販売のため、一定の品質を持ち、大量の製品を準備するメーカーが残った。
 漬物においても機械化できるものが残り、玉椿(万両巻き)のような手作業でしか作れない商品は再び家庭の味となってしまった。自作しなければ多分料亭のようなところで作るお節料理しか見ることは出来なくなっただろう。この話を若い社員に話すと見たこともないという。今は古いカタログの中にあるという記憶遺産となった。移転の時の引越しで多分処分され記憶からも消えるだろう。
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最新の円朝物

2012年12月24日 | 福神漬

三遊亭円朝 新版 永井啓夫著2011.7
三遊亭円朝の終焉の地は最近の調査で日本キリスト教団下谷教会(台東区東上野3丁目37番地)である。円朝没後しばらく無住の屋敷で幽霊屋敷との噂も立っていた。明治36年に至って教会が土地と家を買収して新築したという。
 この頃山中笑牧師は下谷のどこにいたのだろうか。明治33年5月まで山中牧師は下谷教会で活動していた。円朝は明治33年8月死去している。ということは今の下谷教会のところの前の下谷教会はどこにあったのだろうか。この本によると円朝は死去するまえに根岸の笹の雪付近に一時住んでいたという。でもそこは下谷万年町ではない。
 山中牧師は下谷教会から離れた頃から徐々に民俗学者へ向い、明治45年牧師を辞めた。
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円朝ざんまい2

2012年12月23日 | 築地市場にて

三遊亭円朝の『七福神』関連の小噺は2種類ある。漬物『福神漬』に関連するのは『七福神詣』である。この小噺は円朝の最晩年の作品という。話は明治31年の設定となっている。
 円朝が付き合っていた当時の財界人が出ていて、その中に横浜富貴楼のお倉と浅田正文が出てくる。森まゆみさんの浅田の経歴はどうやら明治の財界人の経歴から取ったようで帝国商業銀行のことは書いていない。東洋移民、東武鉄道、日本郵船、明治製糖の取締役を勤めた財界人という紹介となっている。渋沢栄一、馬越恭平、安田善次郎、益田孝、岩崎弥之助、大倉喜八郎等が福人となっている。
浅田正文の住まいは今の横山大観記念館の隣にあった。不忍池が狭くなったのでイメージとしては道路の脇という感じだが当時は今より広く不忍池の端に住いはあった。明治22年頃の鶯亭金升の文ではかなり寂しい所ったようだ。
。明治13年と設定されている森鴎外の『雁』では主人公の出会いの場がほぼ同じ場所だがホンの少し道は異なる。明治の終わりころ池の端に住んだ横山大観は不忍池と岩崎邸よりのどちら道に玄関があったのだろうか?現地を尋ねると変な疑問が出る。
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円朝ざんまい 森まゆみ著から1

2012年12月22日 | 築地市場にて

最近再び円朝が気になってきて、再び『円朝ざんまい』を借り出す。七福神という落語をこの本で知った。明治31年と設定されているこの落語は前年の疫病の流行で不景気となった年から翌年に明るいのんきな話を作ったようだ。明治30年といえば伝染病予防法が出来た年であった。
 12月のこの時期となると初夢の話となるが今は宝くじしか初夢がないようだ。西川口の河鍋暁斎美術館に行ったとき、毘沙門天の絵を探していたとき、毘沙門天は初夢関連の絵が多かった。一説には『なた豆』は七福神の毘沙門剣を現しているといいう。暁斎は七福神を描いたものや宝船を書いたものが多い。これは年末に売り出されたものだろう。幕末明治の書画会という即興の絵画会は芸術家の年末資金稼ぎかもしれない。
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群盲象を評す

2012年12月21日 | 福神漬

福神漬のことを調べ始めて数年が経つ。当初の予定では1年か2年で調べつくされると思われていたが次々と現れてくる資料によって予定は未定となった。ゴールを設定しなければと思いつつ今日に至る。この原因はそれぞれの資料が『群盲評象』で福神漬に関して一部に現れたことが全体ではないこと今頃気がついた。
 もうそろそろエピソード毎に書いても全体に流れる福神漬というものを矛盾しないで書ける時期に来たようだ。福神漬に係る色々なエピソードは時代や地域が異なり、それぞれが相互に関係がないように思えるが実際はそれぞれが関係があってまるで「群盲象を評す』と同じように思えるようになった。
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ライターさんへの返信

2012年12月21日 | 築地市場にて
酒悦さんが福神漬を開発しようときっかけは上野戦争後立ち入りが禁止され荒廃した寛永寺一帯が上野公園として行楽地として復活する時期で明治10年代です。
全ての福神漬文献の始まりは大正12年7月に開催された日本缶詰協会の品評会から始まります。この時、東京毎日新聞記者鶯亭金升が師である梅亭金鵞が命名した時の話を缶詰協会の人に話し、缶詰時報2巻に掲載されています。命名の時期ははっきりとはしませんが第一回水産博覧会が明治16年3月に上野公園で開催されています。酒悦主人が上野で開催された水産博覧会で缶詰を見て、漬物を缶詰に入れようとこの時考えたと思われます。しかし缶詰に入れたため、高価となり(今の価格に換算すると1缶3千円程度)販売するにあたって様々な販売促進活動が必要となったのです。商品名を当時再発行された七編人の中の池之端の香煎とあったので著者梅亭金鵞に商品名の命名を依頼したのです。ただ江戸時代戯作者であったので単純に商品名を付けたとは思えません。この明治16年ころは自由民権運動が盛んな時で、福島事件の高等法院で裁判が行われていた時期でした。もしかすると福神は福島人-福人という意味を含んでいるかもしれません。このように考えると七福神と命名しなかったことも納得がいくと思います。すべてはペリー来航時に浦賀で応接した人たちの怨念が入っているように最近は思っています。高野長英が千葉の万歳村の花香家に逃亡先として紹介したのは内田弥太郎でした。この花香家にペリーの国書を受け取った戸田伊豆守氏栄5男鉄丸が養子となったのは内田の紹介と思われます。高野長英が惨殺されたとき、嘉永3年のことですが高野を匿った内田に疑いが出ました。この時庇ったのが戸田氏栄と思われます。当時、戸田氏栄は浦賀奉行で配下に下曽根金三郎と内田弥太郎がいました。蕃社の獄のリストにのっている人物です。下曽根は筒井伊賀守政憲の子供です。安政5年の頃幕臣長井家のひとり娘のところに戸田の3男が養子になりました。世話をしたのが筒井でした。この長井家に戊辰の混乱期に子供が生まれました。この子供が鶯亭金升です。花香家に養子となった鉄丸は花香恭次郎となり、自由民権運動福島事件被告人となり、有名となりました。彼は唯一東京士族で、美男で浮世絵にもなりました。この浮世絵を書いたのが最後の浮世絵師と言われる小林清親でした。小林清親は鶯亭金升の結婚の仲人となりました。仁科家の嫁さんでした。この縁者が昨年亡くなった岩井半四郎さんです。
 明治事物起源の著者石井研堂は福島県郡山市出身です。戊辰戦争での二本松付近の戦いに福島県の人々の複雑な思いがあります。彼が缶詰の始まりになぜ五稜郭の喜兵衛を書いたか不明ですが多分日暮里浄光寺の福神漬顕彰碑を見て書いたと思われます。一部に間違った事実があるため缶詰協会は日本の缶詰の始まりは北海道の開拓使となっているようです。この福神漬のトリビアを調べてゆくうちにほとんどが上野周辺の住人であることに驚きます。三菱の岩崎邸も池之端の隣にあります。
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バタバタも後10日

2012年12月20日 | 築地市場にて

図書館で本を借り出したら返却期限が1月になっていた。もう10日ほどで年末のバタバタが終わる。後懸念するのはクリスマス寒波だけで開き直るしかない。野菜等の商品価格が安定しているが円安でガソリン価格が上昇してきた。寒さのため年明け後キュウリ等の価格が上がるだろう。
 テレビ局の経費節約番組として築地場外市場にお笑い系タレントが番組制作クルーを引き連れて歩く姿が目立つ季節となった。ここだけが景気の良い姿となっている。人が多いだけd今は価格を調べている人が多いという。
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円朝全集

2012年12月19日 | 宅老のグチ

日曜日の新聞に円朝全集の広告があった。そういえば福神漬の調べる過程でしばしば出る三遊亭円朝の本を今頃なぜ岩波書店が出版するのだろうか。著作権の継承問題では円朝は結構難しい課題があるようだ。
 さて今円朝を気にしだしたのは再び円朝の伝記を読んでいるうちに、南茅場町に明治2年頃から5年にかけて、茅場町薬師境内に在った宮松亭というところに出演している。丁度この頃は花香恭次郎も南茅場町に勤めていた。さらに三菱がこの地に東京支店を開設したのも同時期である。今より狭い南茅場町で明治3年から5年頃何があったのだろうか。
 円朝はこの明治5年に一人芝居のような落語話と道具を弟子に譲り、今の扇子一本の素話に転向したという。
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自然は人の予想を超えて

2012年12月18日 | 築地市場にて
農産物のような自然を相手にする産業はいつも人の予測を超える。これに対抗するように工業的に農産物を超えようと考える時代にきたが、それでも自然は工業的農産物の生産に対して、抵抗し、実に安定した天候を提供し、自然栽培の低価格生産を可能にし、農産物の工業的生産を採算割れにする。
 震災のあと、日本経済を心配させる天災は当分ないと思っていたがタイの水害で再び起きた。今は何があっても驚かないようにするだけである。結構、漬物原料にタイ産があって吉野家の生姜はタイ産と表示している。
フィリッピンのミンダナオ島の台風被害がバナナの価格を高騰招くという。この島は台風が小さいときに上陸するので被害が少ない島だったという。気候の変動は過去の事例が役に立たたなくなりつつある。日本の豊富な雨は資源となることもありうる。
 今年の12月はとても寒い。
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