年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 明治36年10月

2006年06月30日 | べったら市
明治36年10月20日都新聞
昨日のベッタラ市(午前の景況)
予記のごとく昨日日本橋区大門通り最寄の各町へ掛けてべったら市を開き浅漬大根を販売し始めたが大根は日照りのためには作柄が悪くいづれも小ぶりのものが多く、各漬物問屋は何れも愚痴をこぼしている程ならばべったら市の小売商は高値を言うだろう。さて本年の景況は朝8時頃から各商人は思い思いの出店の準備に忙しいもようにて浅漬商人、植木商,宮師、雑器店、手遊店(おもちゃ)等は昨年より出店数は多いように見える。日本橋署は例により非番の巡査等を総出でにて小伝馬町上町の祖師堂を出張所とし、それぞれ警戒に当たった。
(午後の景況)
人出が非常に多く、例年のごとく大伝馬町一丁目より通旅篭町田所町には車馬の通行を禁止した。浅漬大根の売れ行きが非常に良く、大は一本5~6銭、小といえども3~4銭より安物はない。その売れ行きは近年まれである。鉢植えの菊も出来がよく案外格安で販売されていた。

明治36年11月25日に品川・上野間に路面電車鉄道が通る。今の銀座通を走る。翌年2月25日大伝馬町・本町も路面電車が通る。従って明治36年のこの時期は大伝馬町にては馬車鉄道だった。東京馬車鉄道(都史紀要33)
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べったら市 明治35年10月

2006年06月29日 | べったら市
明治35年10月16日 都新聞

大根泥棒
近頃野菜が高く、大きい大根だと一本5~6銭するので野菜泥棒が横行していて新宿署で夜警していたところ、三尺大根を300本積んで運んでいる荷車を呼びとめて、尋問したところ「高井戸の何某」と名乗ったのだが折悪しく呼び止めた巡査は高井戸に駐在していため、うそがばれ、新宿署につれて行かれ尋問したところ、大根泥棒だった。

明治35年10月19日 都新聞
青物相場
大根は近年まれな高値なので有名な恵比寿講市・べったら市用としてでも売れず、その結果、高値を維持しているが、案外秋の長雨によって出荷が妨げられて荷が少ないこともある。云々

10月21日 都新聞
通常の年なれば恵比寿講のべったら用の大根の需要が多いのに、また涼しくなると共に消費が増えるのに、本年ように関東および三陸・東北の天災により市の寂しさは十数年来である。

10月22日 都新聞
青物相場(大下落)
大根の不出来と需要(べったら用)にあおられた100本4円と上がった大根の値段は秋の日和が良く、出来も回復し入荷が増え、2円10銭に下がった。並みの品質の物は70~80銭と下がった、先頃の半額の相場である。

明治35 年(1902 年)9 月28 日。足尾台風が栃木県全県に大被害。


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べったら市 明治34年10月

2006年06月28日 | べったら市
明治34年10月17日都新聞
本年の浅漬大根の相場は大根の作柄がよいので70本入りの樽,1樽3円50銭より2円50銭なりというが、最も本場練馬産は不足で、北豊島郡袋村付近(現・北区岩淵町)の みの種大根作付けたところ非常に出来ている。みの種は皮厚く葉が固くて虫が付くことが多かったのでべったら市の売物に麹を2箱用意して味付けたものが多いが、中には表面に麹をなすりつけただけの辛い浅漬大根もあるようだ。大抵5~6銭より、7~8銭までである。

みの種大根は早生の大根で辛味が強い。九日大根のことか。

明治34年10月19日 朝日新聞
本年のベッタラ市
例年のごとく、今19日より明20日にかけて日本橋大伝馬町より通り旅篭町にかけて,恵比寿講市,通称ベッタラ市と名称する市の当日なれば,例の浅漬大根及び縁起物の懸鯛というのが売り出されるのは知らぬ人もないようだけれど今の相場について記事にすると、本年は大根の出来すこぶるよろしく、昨年より2~3割かたも安値ならば浅漬も最上特別にて一組二本13~14銭,上物は10銭,中物は7~8銭下は4~5銭なりまた大根は西の本場練馬種に至っては少なく俗に美濃(みの)種というの物に多く自然の味わいは本場に劣れども浅漬には誠に格好のものなりという。また懸鯛は昨今品払底(品切れ)にしてすこぶる高値なるがゆえ最上物は75銭以上、上物は50銭並30銭位なので市中にては昨今金華糖細工の模造品を販売する者さえ増え、その価も真物に比べて2~30銭方安とのことである、本市について露店商人の世話役等地割りに奔走し日々そのすじ(警察?)への出願するもの引きもきらず、これに加えて土物と称する植木物すなわち菊の類上出来なるより、出店者多いので二番切三番仕立ての分は不出来のため値段はかえって割高といえる。

金華糖(きんかとう)とは、煮溶かした砂糖を型に流し込み冷やし固めて彩色された砂糖である。節句などの祝い事の際に用いられる。
明治34年10月20日 朝日新聞
戎講と魚市場
本20日は商業にとって大事な戎講の当日とて是非とも鯛その他魚類の需要が多いもかかわらず、魚市場は生魚の入荷ないので州崎の養魚場より、いな(全長20センチ程度のボラの幼魚)の二歳ものが少し回されたののみでばそれすら一尾六銭位の相場なれば、鯛のごとき、もし入荷なれば定めて相場は高値になっただろうと言う。

ベッタラ市の前景気
本日ベッタラ市は既記のごとくなるが、一昨日来昨朝に至る強風雨のために諸商人皆無だった、午前に至り少し晴れ模様となったため,俄かに景気付いたようにも見える,又日本橋署にては非番巡査をして警戒の手配をして、鉄道馬車会社にても人形町小伝馬町の両所付近へ臨時に線路取締員数名を特派せしめて過ちなきよう注意を加えていた。

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べったら市 明治30年10月

2006年06月27日 | べったら市
明治30年10月19日都新聞
恵比寿祭り
日本橋区瀬戸物町福徳神社にて例年今明日祭典を執行し余興等もあるゆえ彼のべったり市にかけて随分賑やかなりしが本年は大喪中につき社内の祭礼のみにしておくのことである。
10月21日
一昨夜のべったら市の景況
例年のごとく日本橋区大伝馬町12丁目,通旅篭町,本石町、人形町通り一帯、小伝馬町の方まで出店し、非常に多い人出であったということで、日本橋警察署の非番の巡査一同と刑事巡査で警戒を加えたことを知らせたい。浅漬大根の相場は上物18~19銭、下物は5~6銭にて売れていて昼12時頃には何れの店も売れ切れた程だったが宮屋及び桶類は年の市に見込みははずれて極めて不況だと見える。
 浅漬の切売り
前項のごとくべったら市は非常に多い人出だったので浅漬の塩と麹と大根が高いためにべったらの値段も高く、販売しにくいので一本を半分に切って売っていたとはこの市(歴史上)始まって以来のことである。

日本橋瀬戸物町(現・室町)にある福徳神社のこと。(東京都中央区日本橋室町2-4-14)建物の屋上にある神社です。都新聞には“べったり市”とある。
大喪 皇太后陛下崩御(明治天皇の母)のことか。

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べったら市 明治29年10月

2006年06月26日 | べったら市
明治29年10月21日都新聞
べったら市(昨日)
前日からの好天気なので午前9時から折り重なって人波を打つ賑わい、例の浅漬大根は例年の倍の価格で1本15銭位だったが,12時過ぎには売り切れて露天商は3倍以上の利益があっただろう。恵比寿講市の売物の王様である掛鯛は買う人に置いてあるのみで大伝馬町に1軒あるのみである。宮も材料が高値なので売れ足が悪かったが、他の物はかなりの売れ行きだった。

明治29年(1896)6月15日「明治三陸地震津波」
     樋口一葉24歳死す
恵比寿講で掛鯛は必需品なのに如何に高価とといえ1軒しか置いていないとはどういうことか。
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べったら市 明治26年10月

2006年06月25日 | べったら市
明治26年10月21日東京朝日新聞
べったら市
そもそも毎年10月19日大伝馬町より本町にかけて開くと言うべったら市というは今を去ること十百年の昔日と通ぶることはさておいて、一昨夜は(ベッタラ市としては)珍しい晴天なので浅漬大根を商う商人をはじめ大道の露天商は空き間もなく出店し、夜7時から8時頃からべったら客も盛んに押しかけ(べったら)大根は1銭より3~4銭にて販売していたが9時ごろ売れきれる店が少なくなかった。昨年に比べれば上々の売れ行きで、植木屋も持ってきた菊の類もほとんど売り切った。

べったら市は当時からあまり天気がよくなく人出を当てにしている露天商はハラハラして当日を迎えた。平成の今でも10月19日は雨天の多い日となっている。

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べったら市 明治33年10月

2006年06月24日 | べったら市
明治33年10月19日都新聞
浅漬の相場
氷売りの声は焼き芋売りの煙となり、秋の日足がかなり短くなるに従い,冷気も日増しに加わりベッタラ市の声を聞いて本年の日数もはや先が見えて、あわただしさを始める。例の浅漬大根の相場も本年の大根は平年作なので、本場練馬の上等品は1樽4円内外、一本売りは7~8銭、みの種の大きさは1樽3円40~50銭、一本売りは5~6銭の相場だろう。

みの種とは板橋の百姓みの吉が発見した早生夏大根の品種のこと。美濃大根と書かれているのが多いが美濃地方と関係ない。

明治33年10月19日都新聞
明20日は恵比寿講の日で例年の如く、鯛を神饌に供することになるが河岸の問屋は鯛の相場は尺より小八寸くらいの物は60~70銭小鯛は30~40銭にて本年は品不足で売り切れ、高値である。

長谷川時雨(旧聞日本橋・町の構成)に冬は焼き芋売り夏は氷売りとある。1879(明治12)日本橋通油町に生まれる。ベッタラ市の大伝馬町の源泉小学校という代用小学校に通う。十九歳で結婚するまでの情景が「旧聞日本橋」の随筆に描かれている。離婚後、作家として自立し、昭和期に入り、女流作家の発掘につとめる。
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べったら市 明治32年10月

2006年06月23日 | べったら市
明治32年10月17日 都新聞
べったら市と掛鯛
今年の前景気を聞くと、大根の作柄が悪くて、昨年に比べると半作という有様ゆえ,北豊島郡の袋村付近(現・北区岩淵町)の大根でも2円内外の相場なれば、練馬の本場ものは4円内外、また浅漬用の麹は昨年よりも一割方下落していて、べったら市の売値はまず一本売りが8銭より3銭位なるだろう、また、いかがわしい商人の中には大根の高値に便乗して、手間と麹を省かんとして、大根を甘塩に漬けて甘酒麹に浸し、本物のべったら漬を5~6本並べ、口上手に試食と言って本物を切り食べさせ、ニセ物の浅漬大根を売りつける商人がいる。
 また、恵比寿講の鯛は水戸方面より大分荷が入ったので、尺(33cm)以上は1円50銭がらみ、5寸(16cm)物は40銭くらいになる。

大根の相場は如何にも高く、何本かまとめた原料価格が2円になるのだろう。従って一本づつ売る価格が8銭となってもおかしくない。
ニセ物の浅漬大根はサッカリン入りのべったら漬のこと。麹を使わず,甘酒の麹汁に浸し、大根に米粒を漬けて販売する。天気が悪いと客足が少なく、商品を安く売らねばならないし、砂糖を使用しないので長持ちする。当時はまだ冷蔵庫はなく浅漬大根が残ると処分に苦労しただろう。この時はサッカリンの使用は違法ではなかった。使用禁止は明治34年で32年頃から食品にタール系着色料等の使用が問題となっていた。

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べったら市 明治31年10月

2006年06月22日 | べったら市
明治31年10月21日 朝日新聞記事より
ベッタラ市の夜況
その概要は昨日の紙上欄外に記事にした後は人出がますます減っていき、例の浅漬大根の出店が存外の売れ行き不振で、(浅漬大根を売る)商人の始めの価格から下げ、夜9時半ごろより一夜漬の見切売りを始めてから販売価格はとみに下落したので小1銭より大4~5銭の値段となったが、なお売り切りに至らず持ち帰る商人も多かった,また懸鯛、3寸物は20銭内外,4~5寸ものは30銭内外の相場だったがこれまた売れ行き思わしからず、神棚,枡、恵比寿、大黒及び諸荒物のごときはなおいっそうの売れ行き不振で、さしもの(えびす)福神も米価騰貴の後をうけて貧乏神がのさばっている。また鉢植えの菊は皆投売りしたので一鉢平均5~6銭にとまり夜11時ごろに至りて只商人の愚痴を言いつつ仕舞支度するものにて買う人更に寄り付かず、例年に比してこの上なき不景気だったがxxxと牛肉店,シシャモ屋、そばや、てんぷらや等の食事店のみは相応の繁盛した様子である。

朝日新聞はベッタラ市となっている。
明治31年(1898)日清戦争後の財政的要請で「葉煙草専売法」が施行。
農会法が設立し、全国各地に農会が出来る。農業協同組合の前身・今のJA。

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べったら市 明治22年10月

2006年06月21日 | べったら市
明治22年10月20日東京日日新聞
今日20日は夷講と甲子にて赤飯と茶飯の合併はちょっと不都合というか知らずかとにかく福の神の鉢合わせとて各商家にてはひときわ(祭りを)競い合っていた。昨日は大伝馬町の夷講市(くされ市・べったり市)にてその売物は年々歳々相変わらずだが景気のみがそうはうまく行かない。ことに朝より曇り空にて時折雨も交えれば浅漬大根(べったら)を軒の下まで高く積み上げたけれど買う人がごったがえすまで集まっていなかった。だだ、植木商の菊花のみはホクホクの顔にてまず笑って往来の客を引き止めて、値段の駆け引きをしていたのは当市らしい。

明治二十二年十月十八日(べったら市の前日)条約改正を強引に進めることに反対して大隈重信襲撃事件があり、恵比寿講の記事はほとんどない。

甲子(きのえね)祭りは甲子待ちともいい、甲子の日の夜、大豆、黒豆、二又大根などを供えて大黒天を祭り、子(ね)の刻(午前0時ごろ)まで起きていて、福運を祈る行事です。黒豆飯、茶飯を作る。
戎講・恵比寿講に供えるものは掛け魚、鯛の塩焼き、鯛の煮付け、赤飯など

明治22年(1889年)大日本帝国憲法の公布

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べったら市 明治21年10月

2006年06月20日 | べったら市
明治21年10月22日時事新報
べったり市と夷講
日本橋区大伝馬町旧牢屋跡には祖師堂も出来、勧工場もあれば本年は上景気になるだろうと(露天商たちが)待ち構え、浅漬大根を早朝より同所にも持ち出し、初市の利益を集めんと諸商人が張り切っていた。ベッタリ市も去る19日は雨模様で思うような売れ行きでなかったが、相当賑わった。また一昨日は20日の夷講と甲子と土曜日が重なれば各料理店、魚類商人は景気良いだろうと待ち構えていたが肝心の鯛が品不足にて、まれにある鯛は目下一尺が一円以上高値なれば商売にならず・メバチ・キハダも拾貫目5円ないし6円7~8銭位・総太マグロも一尾7銭~8銭の値をつけサシミ物も一段と高くなった。また同日は雨天なので東京市中の割烹店は客が少ないのをみこして各商店は休み。マツタケと鯛の吸い物にて夷講を迎えし商家も随分見かけた。

明治21年(1888)
勧工場は、「かんこうば」。明治期のデパート…種々の商品を一つの建物内に陳列して販売した。
旧牢屋跡は現在の十思公園あたり、安政の大獄で処刑された吉田松陰の終焉の地。
祖師堂とは現在の身延別院と思われる。
時事新報はべったり市としている。まだこの記事の時は浅漬大根の値段が出ていない。
磐梯山噴火する。
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べったら市 明治20年10月

2006年06月19日 | べったら市
明治20年10月20日東京日日新聞
くされ市
昨19日は大伝馬町からxxxxまでに立つ市は何故か古来くされ市ととなえ人々が集まる。この市の露天商の商品は通常の縁日と同じで、少し異なるものは恵比寿大黒の像、神棚,浅漬大根、塩漬の鯛・両尾台に乗せたものである。これは夷講に供えるものである。何にせよこの市は値が高いものが商売繁盛になるという。
天気の良いために人は集まり大伝馬町3丁目にだけでなく通油町や人形町・小伝馬町まで露天商が店を出したのでこれで夜に入ればさだめしとんでもない混雑になっただろう。

明治20年10月21日読売新聞
夷講の鯛の相場
 昨日の夷講とて商家にて棚卸し勘定となっていて銘々祝っている日だったがあいにくこの祝い用に使う鯛が品不足で7~8寸にが一尾1円以上だと言う。

東京日日新聞にてはこの頃はまだ“くされ市”である。この時期は恵比寿講の市の販売している商品の相場はまだでていない。
明治20年(1887年)の状況
1月には、鹿鳴館の舞踏会で白熱電球が灯される。
4月 鹿鳴館で仮装舞踏会開く (欧化主義への非難高まる)
大型の二輪車(自転車)が流行
日本で最初の水道給水が横浜で始まる。コレラ予防として急ぎ造られました。

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べったら市 明治17年10月

2006年06月18日 | べったら市
明治17年10月20日東京日日新聞
昨19日は大伝馬町1丁目あたりの夷講市にて俗に“くされ市”とも“べったり市”とも言う。この市の第一位を占める浅漬大根なればこの名を得たものであろう・維新の後にこの市もくされ果てしとまで言われたが、べったりとしてこの頃の景気となっている。両三年前よりそろそろと浅漬の臭いが増し、すでに本年のごとき中々の賑わいになった。植木屋の菊紅葉も盛りを表しひとしおの色を増した。この分では商家の中では不景気ながら本日の夷講は商家の祝いで賑やかだろう。

べったら市でなくべったり市となっている。明治15年頃から市が復活になったと言うことだろうか。

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べったら市 砂糖の関税

2006年06月17日 | べったら市
日本糖業発達史 生産編より
わが国の砂糖関税の沿革
第一期 旧条約時代(いわゆる不平等条約時代)
    慶応2年から明治31年12月まで 固定税率 5%

第二期 明治32年1月より明治43年 新条約時代
固定税率と協定税率となる。
粗糖は恩恵を受けたが精糖は不利だった
明治35年5月 輸入原料糖戻税法が制定され、国内精糖が保護される。  税負担の軽減。日糖事件が起こる。
日糖事件とは
大日本製糖株式会社は1906年に日本精製糖株式会社(創業社長鈴木籐三郎)と日本精糖株式会社(創立者・渋沢栄一)が合併して誕生した。渋沢栄一は相談役を務めており,農商務省農相局長で農学博士の酒匂常明を社長に推薦している。
1909年に粉飾決算,株価操作,会社の実情を反映しない高配当などが表面化し,経営危機が問題となり,渋沢栄一は調査を開始した。原因の一端は政府の台湾粗糖の保護のための内地製糖業者への加重課税であり,過剰な税を納めるため,粉飾決算,株価操作等によって資金を捻出し,借入担保作りがおこなわれた。さらに取締役が中心となって恩恵の大きい輸入原料砂糖戻税法の効力延長を求めて国会議員に収賄をおこない,疑獄事件に発展した。
当時、検察権力は非常に力を持ち、政治的疑獄に対して積極的に介入する姿勢を持っていました。これは、政治を担う政党にとっては、大きな脅威でした。この日糖事件で、多くの議員が拘束され、検察に過酷に取調べを受けました。後の首相・原敬の検察の暴走を感じ陪審制への強い意欲をもち更にその意欲を強めたのは明治43年の大逆事件でした。原敬は後に裁判の陪審制をつくり、陪審裁判は一時期ありました。また日糖事件によって会計監査制度の必要性が出ました。夏目漱石の小説「それから」にも日糖事件を扱ったところがあります。酒匂常明は予審終了後自殺する。当時としては大事件だったと言えます。

第三期 明治44年(1911年)
日米新通商航海条約調印、初めて関税自主権確立  独立関税・不平等条約の終わり。

砂糖はつくづく政治が絡む商品で,浅漬大根に砂糖で味付けた時からべったら漬になり、政治に翻弄されていたとは当時は知る由もなかった。

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べったら市 明治23年10月

2006年06月16日 | べったら市
明治23年10月21日朝日新聞
ベッタラ市
恵比寿講 昨20日は商人社会にて縁起を祭る戎講なのだが近年この祭りが文明風のために中断した向きが多かったが今年は不景気風を吹き飛ばすためにと大伝馬町付近の大店(問屋)にて(祭りの)再興の景気をあらわしてどの大店も大賑わいしたようだ、或いは日本橋魚河岸には不漁続きのため鯛の相場非常に高くて昨朝ごときは尺5寸1円50銭より2円、尺物1円20銭より30銭の高値なり。1尺は約33cm
ベッタラ市
一昨夜大伝馬町に開催したベッタラ市は諸商人大門通りより通旅篭町へ出店を並べたが、近日の天気続きゆえおびただしき人出にてどの商品も不景気知らずの商売だった、とりわけ名物の浅漬大根は宵のうち大6~7銭中3~5銭の相場だったが上景気に乗じて尻上りに高くなり9時すぎ10時ごろには大8~9銭中小5~6銭位で、言い値で販売された由、暮れ市の口切の市がこのようであるとどの年末の市も本年は商売繁盛だろうと諸商人は大喜びしていた。

文明風という言葉の明治時代の使い方
古島一雄(九州日報・西日本新聞の主筆)の言葉(2006年6月4日付 西日本新聞朝刊)
1898(明治31)年、時の福岡県知事と警察が「(丈の高い山笠が)頻繁に電線を切断する」「半裸の舁(か)き手が野蛮」などの理由で山笠廃止を打ち出した。明治政府は条約改正のため近代化政策の一環として旧来の風習を悪風とし欧風化しようとしていたのが背景としてある。
 古島は、九州日報に「博多人民が流(ながれ)を組織する山笠は、地方自治の精神に適合する」「山笠を蛮風と言うなら、鹿鳴館で踊る男女の醜聞は文明風か」「(山笠廃止は)地方の事情を解さぬ議論だ」と論陣を張り博多・祇園祭を守った。
鹿鳴館の醜聞とは
伊藤博文と戸 田 極 子(岩倉具視の次女、旧大垣藩主戸田氏共の妻。社交界の華、鹿鳴館の華と呼ばれた)の不倫疑惑がマスコミで噂された
東京と福岡の距離が時間のずれが生じていて、東京では極端な欧風化政策の反動が明治23年頃には現れていたのだろうか。

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