年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

情報操作

2010年07月31日 | 築地市場にて
今築地市場で事件を起こすと話題性の鮮度が落ちたとはいえ、報道されると検索・転載されるので抹消できない。どの様な基準があって、プロバイダーの記録が消えるのだろうか。情報の質量の拡大と検索エンジンの効率化は気になるところでもある。文字から画像に向かってゆくとデータ量の増大がどの様な進歩又は退歩を招くのだろうか。覚せい剤の報道も消えたようだ。また朝日新聞築地本社はどの様な理由かiphone4の感度が悪いという。5万人ともいう築地市場で働いている人は一人で3~4個携帯を持っている人もある。みんなが使うと遅くなる。
 先日築地青果部で壁の崩落事故で一人怪我をした(7月23日)。しかし画像をみると小さな破片である。もっと大きい青果部の壁の崩落は偶然休市日に落下したので大きさの割にパイプ破損だけで終わった。通常の日なら駐車している車に当たる位置か作業している人に当たる位置だった。東京都はまだ『運』があった。情報公開にどの様な基準があるのだろうか。
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7月29日は福神漬の日

2010年07月30日 | 福神漬
記念日登録で7月29日は七福神(しちふく=7しち・2ふ・9く)ということで記念日登録となった。丁度この日は北海道函館市五稜郭で「箱館奉行所」が140年ぶりに再建されオープンした日だった。函館千代が台陣屋で戦死した行徳の漬物屋・喜兵衛はどの様な感慨があったのだろうか。想像だが喜兵衛は江東で栽培されていた『なた豆』を塩漬にしていて,
酒悦店主野田清右衛門と山田箕之助との関係で福神漬になた豆を入れる原因ともなった人と思われる。
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にっぽん音吉 1

2010年07月29日 | 福神漬
江戸内湾塩業史の研究から海運流通史を研究している斎藤善之氏の本を知る。北前船は良く知られているが江戸時代の終わり頃から明治にかけて、愛知県知多半島の内海付近の海運業者の活躍があった。行徳・神奈川・浦賀などの関東地域と全国を結んでいた。
 『江戸打越』という言葉が度々出てくる。しかし文章の内容から江戸問屋を経由せずに直送することを打越といい、その荷物を江戸打越荷物という。享保の改革で江戸の問屋制度が一時的に廃止された影響で黒船来航時前後に浦賀や行徳の塩問屋が混乱していた。幕府の財政改革の混乱が地場の商業の秩序を乱していた。さらに尾州廻船(内海船・野間船・半田船・常滑船)の活躍が塩という商品の流通を変化させていたようである。行徳の打越塩を扱う商人は江戸の商人の告発を予想し(江戸の問屋を経由しないで江戸を通過することはご法度だった)大量に打越塩を扱う行徳塩商人は諸家の『御台所御用達』の船印を掲げ中川船番所を通船していたようである。ここに行徳の喜兵衛が漬物を幕府に納入していた事が意味をもつようになる。打越の告発のリスクを避ける漬物による輸送とも考えられる。浦賀与力だった中島三郎助と行徳の漬物屋喜兵衛が函館で同じ日に戦死した理由の一つかもしれない。
 アメリカ合衆国の商船モリソン号が日本の漂流民7人を乗せてやってきたのが1837年(天保8年)である。16歳だった浦賀の中島三郎助が小船に乗り、モリソン号に砲弾を命中させた。
このモリソン号に乗っていた漂流民の一人が『にっぽん音吉』と後に言われた人だった。音吉は内海船の本拠地の隣の出身(美浜町)だった。
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カヤの外

2010年07月28日 | 築地市場にて
世間の景気は酷暑中でも築地に寒風が吹きまくっていて、政治の施し(ばらまき)の効果も感じなく、消費は必要最小限度に向かっているようで、吉野屋の値下げも対抗措置を取られ苦戦しているのだろうか。こうなれば『冷やし牛丼』でも開発してくれなければ暑くてやっていられない。
 地方の方がみえて、景況感を聞くと一般に良くないという。漬物工場の稼働率を維持するため、低価格路線に対抗するしかないという。しかし以前は低価格にすると、販売数量で売り上げがカバー出来たのだが今は数量の落ち込みを防ぐ効果しかないので限界があるという。酷暑で一時的な効果のある商品の陰でどんな商品が売り上げ不振になっているのだろうか。今年の10月には車、12月には家電のエコポイントが終わる。税収の少ない状態では消費拡大する政策は殆どないと言って良い。
この様な状態で築地の市場移転の経済効果は1兆円をはるかに超える。しかも跡地再開発の効果を考えると、建設業界が築地の人達の思惑を超えて動き出すだろう。主な公共事業も東京付近の工事に限って、あと2~3年で終わってしまうので工事現場の人達の仕事の確保が必要となる。来年度(H23)の予算の目玉の特別枠の金額がやっと1億円強と言う。いかに築地市場の移転が公共事業として魅力的か解るだろう。東京都なら工事代金の取りはぐれの心配もなく安心して建設工事に参加できる。
 それにしても住宅販売時に汚染された土壌の状態を知らないで購入し、発病などから汚染を知り、不動産価格の下落を招いた事例が多数ある。豊洲の汚染の除去工事が否定されると彼らが絶望するしかないのだろうか?今の法律だと中古住宅販売時に告知しなければならないので厳しい価値の下落を招く。豊洲の汚染問題の本質はそこで働く労働者の健康問題で、食品に汚染するほどの管理が無いと思われているのが心外である。
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江戸内湾塩業史の研究 落合功著 2

2010年07月27日 | 福神漬
 塩が江戸時代では軍事物資であった。篭城戦の食料備蓄の中で米と並んで塩は重要視された。江戸時代初期は行徳が塩の産地として、徳川の保護を受けたのはこのような理由であった。江戸中期以後、異国船が日本近海を通過する頻度が増えるに付き、江戸湾封鎖される懸念から再び行徳の塩業が必要視され、さらに近郊の塩田開発も始まった形となった。
行徳の塩の行き先に江戸の豆腐屋とかまぼこ屋があった。かまぼこは今でも塩分が2%ほどある。豆腐屋は下り塩から出た『にがり』の納品先と思われる。行徳で下り塩が『にがり』を取り除かれ『古積塩』となり関東各地に販売されてゆくようになったのが幕末の頃となる。享保の改革で問屋が解体されて商品流通が混乱となった。一部の行徳付近の業者が江戸で塩の棒手売(ぼてふり)は、商品を天秤棒に担いで問屋・仲買の流通経路を省いて直接江戸の得意先に販売することあったようである。幕末の経済の混乱は黒船が来航しなくても予想される状況になっていた。
 この本の史料で行徳の伊勢宿村(市川市伊勢宿)の名主喜兵衛という名前があった。この人が福神漬に関係のある人物と同一なのだろうか。漬物製造にはある程度資本を投資する器量が必要である。
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うなぎと梅干

2010年07月26日 | 築地市場にて
うなぎと梅干
土用の丑の日で夏の食品のイベントとして定着している。今年の夏は予想に反して熱く梅干が良く売れている。漬物の原料原産地表示が梅干から始まったがウナギは苦戦しているようだ。
ウナギと梅干しは食べ合わせの悪い例として昔から知られているが実験してもなかなか症状が出ない。色々この言い伝えに関して理由付けしているが症状が出ないので納得がいかない。一般には消化の悪いものの組み合わせとかいう。
 しかし今風に考えると食品偽装に対応した『梅干』とまだ対応出来ない『ウナギ』と見ると良い。梅干しに関しては和歌山県が土壌の分析で中国産と国産を見分ける研究をしている。品種に関しての遺伝子分析は既に中国に南高梅の苗木が行ってしまっているので分別するのが困難である。また梅干しを販売するのに表示をしなければ流通出来ないので、偽装しても証拠となり、口頭で伝えたという言い訳は通じない。
 ウナギの表示に関してはまだ発展途上であるが、この問題を解決するには水産物流通の根本にかかわって来るので難問である。
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江戸内湾塩業史の研究 落合功著から

2010年07月25日 | 福神漬
江戸内湾塩業史の研究 落合功著から
中川船番所資料館の図書館でこの本をとって眺めていた。行徳の喜兵衛が気になって小名木川水運の関所でもあった船番所のところに行けば何か新しい切り口が現れるかもしれないと考えていた。
 行徳の塩は幕末には瀬戸内から船便で関東にやってくる『下り塩』が浦賀塩問屋から行徳で品質改良(古積塩=にがり分が少ない・ロスが少ない)されて江戸・関東に流通があったという。また元禄15年の塩田の検地以後、幕府への年貢が4分の1塩で、残りの4分の3が金納となったという。享保期には江戸の塩問屋、運搬船の船頭と行徳塩田との間で金銭の問題が生じていた。この関係の中で塩を原料とする漬物を行徳で製造を行うことはどの様な意味があったのだろうか。江戸での下り塩仲買の多くは兼業していて醤油などが多かった。
 弘化4年から嘉永7年までの期間は一部の浦賀の塩問屋、下り塩問屋、下り塩仲買で商慣行が混乱していたときもあった。丁度この頃は戸田伊豆守氏栄が浦賀奉行をしている時と重なる。何があったのだろうか。氏栄は黒船来航・日本の開港の交渉後、左遷されて西の丸留守居となる。中島三郎助は浦賀与力であったので、西浦賀の塩問屋とは当然交流があったと思われる。塩の行徳・喜兵衛と西浦賀の中島三郎助が明治2年5月15日、函館千代ヶ台陣屋で旧幕府軍の一員として偶然戦死したのだろうか?
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築地市場を回る新卒OA営業

2010年07月24日 | 築地市場にて

飛び込みで今年やっとのことでOA機器販売の会社に入った社員がやって来た。『なにか御用はありませんか』という。当然『市場移転問題が不透明なので設備投資は不明』と答える。
今日はどの辺を回ったのと質問すると『仲卸』 と答えが返ってきた、『どうOA機器はいっぱいあったか』と聞くと『少ない』と答えが返ってきた。『その理由はわかるか?』『狭いし、忙しいから手書きの伝票か。でもOAで処理すれば楽なのに・・・・』『答えの一つを教えようか。』『よろしく願います。』『狭いことは確かだがOA機器を入れる環境が整っていない。つまり電気の容量が少ない。照明と冷蔵庫などに殆ど電力を取られて、OA用の電気余力が無かった。』『どうして電気容量が無いのですか。』『築地市場の電気は東京電力から直接引くのでなく、東京都の管理しているトランスから引くから、トランスの容量が少ないので引けないのと、配電盤からの配線費用がかなり掛かるのであきらめる人が多い。これも市場の移転問題の決着が遅れた悪影響かもしれない。23区内で光ファイバーの普及率が少ないのは築地の水産仲卸と思う。ADSLだと回線の端子盤の汚れで雨天だと雑音が酷く、使い物にならなかった。NTTの光の営業も苦戦しているようで何か突破口がないかといっていたよ。』『『そうですか。』と驚いていた。何しろ江戸時代の風景が残っている。大八車も現役である。漢字が多い看板は昔の日本を思い出させる。
築地でOA機器を入れようとすると電気の容量から考えなければならない。何しろ今でも『暖房はレンタン』のところがあるようである。
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明治のおもかげ 鶯亭金升著

2010年07月23日 | 福神漬
明治のおもかげ 鶯亭金升著
岩波文庫 緑 162.1
この本の著者の経歴から、彼は黒船来航時、浦賀で応接した浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の孫である。日本史に必ず出る黒船に対する処置は戸田伊豆守と浦賀の与力達による準備の状況判断の結果でもあった。
 鶯亭金升は長井総太郎といい、父の桂三郎(氏栄3男)が筒井伊賀守政憲の世話で、跡継ぎも無く一人娘になってしまった幕臣長井家に養子に行った。戸田伊豆守氏栄と江戸南町奉行であった筒井伊賀守政憲との関係はかなり濃く、ペリー来航時、久里浜海岸で砲術訓練を指導し、米国国書を受領する場にも、筒井の実子でもある下曾根金三郎がいた。また西丸留守居役でも同僚の時もあったと思われる。また戸田伊豆守氏栄5男の鉄丸が2歳の時戸田伊豆守が大阪奉行の地位で死去し、孤児となった時、下曽根の弟子である内田弥太郎の学問上(蘭学)の弟子である花香恭法に孤児を託した。この件は鶯亭の父である長井筑前守昌信と浦賀の人脈によって話が進んだと思われる。これが明治の自由民権家花香恭次郎の誕生の経緯である。
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電動ターレーと電動フォークリフトの問題

2010年07月22日 | 築地市場にて
築地市場でもかなり増えたが新しい市場には電動の運搬具が東京都から要請されている。狭い築地市場の中で排気ガス対策の無いターレーで空気が汚染されていることは築地で働いている人以外は知らない。今なら都内で築地市場が一番汚染されている空気かもしれない。東京都が補助金を出しているので増えてきたがまだかなりガソリンターレーが残っている。電池のパワーと充電時間が問題である。これは電気自動車の問題でもある。築地市場再建案の一番の問題点は仮に一部移転すると予定される晴海と築地の距離が2kmくらい離れているので往復に時間がかかると同時にバッテリーの電力で何回往復できるのだろうか。今でも東京都が禁止している新大橋通りでのフォークリフトによる荷捌きは出来ないことなる。フォークによって晴海までは行くことは出来ない。どこかで積み替えして晴海まで行くこととなる。
 この問題をどう考えているのだろうか。築地の人達がなぜ夜中に働いているか知っているのだろうか。この件をターレーの販売者に聞くと晴海との往復は小型トラックのほうが現実的であるという。しかしトラックはセリ場に入れず、どこかで積みかえなければならないだろう。しかし工事中の市場では場所はないだろうから、少人数の仲卸は脱落するからこの晴海分離案は現実的でない。
ターレーのカタログデータだと、平地で新品のバッテリーで40Km走行出来るという。何年か経ったターレーで勝どき橋等の高さの障害と早朝の晴海通りの混雑でうまく行くのだろうか。
 結局築地で再建する案で現実的なのは隅田川に永遠に残る蓋を架けるしかない。小汚い風景として都民の論争にもなりそうである。
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興味期限切れ

2010年07月21日 | 築地市場にて
数日前報道された件で、築地市場内で働いていた人が覚せい剤を使用していたので、市場を監督する東京都が覚せい剤に関しての『お触れ』が回ってきた。どうもこの暑さで世間の築地市場に関する関心が薄れたようで実に静かである。豊洲の汚染データ偽装も過去の経緯とつじつまを合わすためと思うが日本橋魚河岸移転問題も50年かかった位だから当然この様な事が起こると想定しなければならない。また反対する人もある程度『賛成』する余地を残しておかないといけない。今の築地市場のほうがはるかに汚染されている数字が出た時、立場がなくなる。とにかく何があっても不思議ではないから言葉に余地を残しておかないと最後に言行一致で苦しむことになる。
 移転問題は数年決着が遅れるのでそろそろ店舗移動の話を出すべきである。ここでも前回東京都は「最後の店舗移動」と言って設備投資をさせた。豊洲に行けず、再建も出来ず野たれ死にに向かうのだろうか。4年サイクルの店舗移動も既に前回の移動からかなり経過している。
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江東区立中川船番所資料館

2010年07月20日 | 福神漬
久しぶりに都営新宿線「東大島駅」付近にある船番所資料館に向う。船番所は今の税関と入国管理の機能を果たしている所であった。江戸における中川船番所は船輸送の要でもあった。行徳の漬物屋『喜兵衛』がなぜ行徳で商いが出来たのだろうか。
 今では日本全国に漬物を製造販売する業者が多数ある。しかしこれは戦後、消費者が漬物を自家製造することもなく、商店等で購入することから来ている。また戦前では軍隊とか工場の寮等が漬物を購入していた。自家製造していたので江戸時代の記録から漬物の史料等は少なく、今でも営業している漬物を主としている業者は京都のなら漬を商う店が一番古いと思う。もちろん片手間で酒やしょう油の業者の漬物もあるがこれは営業の余技のようなものである。
行徳の漬物屋『喜兵衛』が行徳でなぜ成立したかは行徳が安い塩の産地であり、行徳船という、物流利用も考えられる。江戸時代練馬等の漬物業者は武家とか商家の下肥(人間の排せつ物=うんこ・尿)と交換で沢庵を供給していた文献がある(練馬郷土資料館=石神井図書館内)。大正時代まで大八車でこの下肥を運搬して野菜の肥料としていたのは東京に下水が普及するまであたり前の光景だった。また船による下肥の運搬船は葛西船と呼ばれて、江東方面の農家の肥料となっていた。江東の野菜と行徳の塩で漬物を作って、江戸の人達に喜兵衛は供給していたと思われる。
さて『喜兵衛』が戊辰戦争の最後の戦闘(箱館の千代が台陣屋)で戦死したのだろうか。常識的には幕府歩兵隊とか小彰義隊に付いて北海道まで行ったと思われる。気になるのは多くの旧幕府系の武士が千代が台陣屋から最後には逃走したのになぜ武士でもない喜兵衛が残留したのだろうか。浦賀与力だった中島三郎助と浦賀衆と同じ日に討ち死にしたのだろうか。行徳と浦賀の関係が気になって来る。中川船番所資料館にはこの問題を解決する資料があるのだろうか。
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ノロ・カンピロバクタ―・O157

2010年07月19日 | 築地市場にて
築地市場の食品安全の回覧がやってきた。6月7月は食中毒が多いという。ノロは冬に多く、O157何時でもある。肉関係の食中毒ではカンピロバクタ―菌で汚染された肉を生で食して腹痛。・発熱の症状が出る。市場衛生の人達の話によると今の日本の食肉市場で生食用として肉を処理・出荷しているところはないという。つまり肉は汚染の可能性があるので必ず加熱して食しないと食中毒になる可能性があるという。
 誤った知識で風評被害を受けることがある。ノロウィルスで食中毒になった時、一番疑われたのが貝類であった。今は吐しゃ物によって拡散することが知られている。漬物は塩分とか酸によって食中毒の発生数は少ないがO157やノロに関しては避けられない。
 またクジラやイルカを多食している和歌山県太地町の住民は毛髪水銀濃度が他の日本人より著しく濃度が濃いという。食物連鎖の結果である。築地にいると他の食物の知らないことまで知ることとなる。
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忘れ去られた人

2010年07月18日 | 福神漬
人は祖先なくして生まれない。しかし当事者の子孫以外は記憶に残ることも無く消えてゆく。明治の博物学者といわれた石井研堂が缶詰の始まりという項目で項目と直接関係のなさそうな『喜兵衛』をなぜ登場させたのだろうか。
石井研堂 山下恒夫著から
石井研堂は今の福島県郡山市に生まれた。ここは幕末二本松藩であった。二本松藩主の住んでいた今の二本松市と交通の中心でもあった郡山は商業の町でもあった。ここに彼の複雑な故郷への思いが残る。二本松少年隊の悲劇は武士階級の話と残り、商業の郡山は会津と西軍の攻撃の間で無政府状態となり、破壊された。維新後猪苗代湖から降水の少ない郡山へ水を引き、維新で失業した武士に開墾させる計画を立てた。1883年(明治16年)6月 安積疏水灌漑開始が始まり、福島県では郡山付近は公共事業の恩恵があったので、自由民権運動は無かったという。石井研堂は明治事物起源で福島事件について語ることは無く、加波山事件のみ言及している。
 石井研堂は明治18年元仙台伊達藩士岡鹿門に漢学塾に入門する。岡は江戸で安積艮斎に学んでいた。岡鹿門もまた維新の混乱期に投獄されるなど生きることに苦労した東北の知識人であった。このような人達の影響で東北人として冷静な目を通して、さり気なく缶詰の項目に『喜兵衛』を入れたと思われる。
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手抜き調査

2010年07月17日 | 築地市場にて
梅雨明けも近く、ワールドカップの後遺症で寝不足。図書館通いも途中の暑さを考えて、専らネットによる問い合わせをするが、マイナーな調査は中々返信が無い。
 キムチの文化史から野菜と日本の漬物の関係が戦争前の状態の見地が異なる。どこで確認すればよいのだろうか。これからプロの人達の応援を頼むしかない。
 色々な人と話をするが、今の食品デフレについて、そろそろ限界まで来ていて、消費者の安値嗜好のデータをどう解釈するか議論している。価格低下によって客が増えず、利益がでない吉野家が話題の中心となる。一方の牛どん店はさらに低価格で利益が出ているのをどう見るか。結論として吉野家のこだわりコンセプトが疲労気味である。これはマックとモスの行き方を話すことに通じる。
 7種類入っていない低価格の福神漬が売れていてこだわりの福神漬が売れない。対処を誤ると工場の稼働率が下がることとなる。手抜きの仕方も時代によって異なる。
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