年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地市場の戦車

2010年05月31日 | 築地市場にて
夕方、車のリース会社から電話があった。会社所有の車をリ―スにして管理等の手間を省きませんか?とあった。十数年前一回一台の車をリースで購入したことがあった。しかし修理等が指定した修理工場がかなり離れていたりして、不便を感じ、やめてしまった。しかし止めた最大の理由は築地市場内に駐車しておくと『当て逃げ』が多く、車の下取り価格がほぼゼロとなってしまい、リースする意味がなくなってしまった。大田市場は駐車区画が決まっていてこの様な事は築地より少ないと思われる。
 当て逃げの車は殆どと言って良い位ターレーである。狭い築地を走る車が擦ってゆくのは当然のことで、傷がいやなら場内に駐車しないことである。ヨーロッパでは駐車する時、バンパーをぶつけて駐車するそうだが築地市場も海外の人から見れば常識のことかもしれない。
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マンガの規制

2010年05月30日 | 福神漬
マンガの規制
今年の都議会で18歳未満の露骨な性描写のある漫画やアニメの販売・レンタルを規制する東京都の青少年健全育成条例の改正案が出された。しかしその内容の定義があいまいで規制案が否決されそうである。明治16年4月の新聞紙条例改正案で新聞だけでなく風刺画も狙われ、さらに発行禁止にそなえてあった予備紙までが一紙が停止されればその関係者は他の新聞発行を出来ないとなされた。この結果団団珍聞・驥尾団子連合は2紙発行する意味を成さなくなり、ついに自害という判断をし、5月に驥尾団子は廃刊となった。経営者の野村文夫・編集者梅亭金駕は政府の規制に抗する手段を考えていただろう。しかし実際は難しく団団珍聞は読者にとって精彩を欠き発行部数減少となっていった。この窮地を救ったのは読者による投書であった。福神漬の命名の時期にこのような社会情勢があった。従って都によるマンガの規制もその内容があいまいだと解釈の仕方でいかようにもなり、表現が難しくなり、精彩を欠き、衰退してゆくことになる。

 今ファッション雑誌に読者モデルというものがある。これも販売不振を補う工夫ともいえる。
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有機肥料

2010年05月29日 | 築地市場にて

宮崎・鹿児島畜産が盛んで農地に比較的化学肥料の使用が少ない県です。漬物用の大根産地で連作障害が少ないのは畜産物の有機肥料を利用しているといわれています。今口蹄疫が流行って畜産の一時的な途絶が起きていますが有機肥料の減少が今後予想されるのでどうなることやら。
漬物なんか食品の最末端なので忘れた頃影響が現れてくるのはいつ頃だろうか。
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徹夜明けで

2010年05月28日 | 築地市場にて
徹夜明けで
同僚のけがで久しぶりで午前2時出勤。情報によると、築地にある銀行の支店長一行がマグロのセリ見学のため、先着140名の列に並ぶという。また場外のすし屋と海鮮系の食堂が増えたようで、一応店舗数は変わらないように見えるが少しずつ場外でも変化している。日本全国に知れ渡った移転問題は格好の挨拶となる。政治・宗教とかの話題と違ってそれぞれの立場の違いを超えている。九州から来た人と大阪中央市場の話となって、大阪の財政が厳しいため、市場使用料がどんどん値上げとなり、市場から脱出する漬物業者が増え、残りの業者でエアコンとかエレベーター代の負担が厳しいという。これがためさらに撤退する業者が増える。東京だって財政が厳しければ同じ問題が生じる。つまり不景気によって税金が減れば市場の使用料が上がるということになる。しかし不景気なのだから売上が低迷しているので経費の増大は厳しい。東京の市場がのんびりしているのは神田にあった青果市場が移転した時のへそくりが残っているためで事情はどこでも厳しい。
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26日から水曜日は5回連続休み

2010年05月27日 | 築地市場にて
5月26日から6月23日までは築地市場の水曜日は休み。事情を知らない外国人観光客がウロウロとなる。例年ならば改修工事で水曜日は工事関係車両がうろうろしているのだが今年は雨漏り修理しかないだろう。魚価の低迷で実に静かとしか言いようが無い。昨年は休市カレンダー市が都議会選挙の影響でかなり発表が遅れたが今年は早くなるのでないだろうか。人手不足はないから休市は減るのだろうか?
 大相撲の暴力団観戦の話題も都の対策で都内の市場に入る業者の役員従業員は暴力団と判明されると排除される条例が既に出来ている。
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福神漬とは何だったろうか 11

2010年05月26日 | 福神漬
ここまで来るとなぜ梅亭金鵞の寓意が伝わらなかった事が気になって来る。その主な理由は自由党幹部・板垣退助・後藤象二郎等の政府秘密資金での外遊があげられる。自由民権運動が過激化し、さらに内部対立によって解党まで行くようになった。さらに明治22年の憲法発布、23年の国会開設によって言論の場が新聞と議会に移った。また福島事件の悪役となってしまった三島通庸は明治21年10月に死去した。つまりあれほど盛り上がった自由民権運動が終息し、憲法発布後旧幕府の人々も語る事が自由となり江戸という時代が終わった。福神漬に寓意を入れたと思われる梅亭も明治23年2月には病床に伏し、言論の第一線の場から離れた。また明治23年夏には花香恭次郎・戸田欽堂も亡くなった。明治16年自由党党首だった板垣退助・後藤象二郎は三菱に外遊資金を頼んだが断られ、政府の秘密資金で外遊することとなった。この事が自由党内部や改進党系の新聞の攻撃を招き、自由民権運動が衰退した。また自由党は立憲改進党の資金源が三菱だと機関紙で攻撃していた。政府はこの時井上毅・渋沢栄一が海上輸送を独占していた三菱を攻撃するため共同運輸を設立し、激烈な運賃値下げ競争をしていた。つまり福神漬が作られた時池の端の隣の茅町三菱本邸では連日のように対策を考えていた時でもあった。 岩崎弥太郎が明治18年に亡くなり、日本郵船が発足した。福神漬の様々な経緯を考えると、日本郵船のホームページで株主の皆様へというところに社史がある。この1ページ目にエピソードとして福神漬が出てくるのが無難な話題でなく、三菱の日本郵船として記憶に残る食べ物だったことを表している。

新資料が出るまで 福神漬史は『完』 
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福神漬とは何だったろうか 10

2010年05月25日 | 福神漬
『福』とは何か。東京高等法院の福島事件の裁判で一番問題となったのは言葉だった。河野磐州が最初書いたのは「専制政府を改良して」であったが花香が主張して、「転覆」と改めたのであった。 この「転覆」という言葉と『福神漬』の命名に至る過程で何があったのか、又は何もなかったのかが問題となる。
 ナタ豆の花は根元から咲いて先端まで行って元に戻ってくる咲き方をするという。この事から旅立ちにナタ豆を贈る風習があった(無事に戻ってくる)。つまりナタ豆には『覆』という意味が隠されている。
 原胤昭が『天福六歌撰』と題して、浮世絵を出版したのは、明治16年9月福島事件の判決直後の話である。 『天福六歌撰』は歌舞伎の天保六花撰(てんぽうろっかせん)から来ている。幕末に書かれた松林伯円の講談をもとに河竹黙阿弥が歌舞伎狂言として書いたものの通称で通常『天衣紛上野初花』として上演される。明治14年3月に東京・新富座で初演された作品で極めて大入りした作品であった。この事から原は浮世絵の題を命名し、福島事件の6被告人と権威を笠に着る三島福島県令に当てつけたものだった。
『天衣紛上野初花』と『東山桜荘子=佐倉義民伝』は自由民権運動と関係があった。特に佐倉義民伝は松方デフレで不況となった農村に支持された演目で歌舞伎芝居に農民運動が登場する作品である。原と行動を共にしていた戸田欽堂の日本初の政治小説『民権演義 情海波瀾』の中で主人公が佐倉義民での芝居を観ている。自由民権運動が政府の様々な弾圧によって、小説・演劇・マンガ(戯画・風刺画)懇親会(政治の話をする)運動会(抗議や要求の主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すこと。示威運動=今のデモンストレーション)演歌(演説を面白くするため節をつけて歌った)等で表現する方法に向かっていた。
団団珍聞の編集者であった梅亭金鵞が政府の弾圧を避けるため、新商品の『福神漬』という漬物中に寓意をいれても不思議ではない。
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福神漬とは何だったろうか 9

2010年05月24日 | 福神漬
東京士族花香恭次郎がなぜ福島の自由民権運動に参加したのだろうか。千葉県干潟町史(現旭市)に花香恭次郎の経歴がある。一般には花香の経歴は千葉の出身となっているが高等法院の経歴でも東京生まれの士族である。
 明治9年頃、銀座にあった公益問答新聞社に勤めた。ここは福島県二本松出身の服部誠一(撫松)の経営する雑誌社であった。花香は明治10年西南戦争が勃発すると社の方針と合わず、同僚の佐藤清と共に退社し、東北遊説に向かった。花香はどうして公益問答新聞社に就職出来たのだろうか。服部は明治維新後二本松藩(一時二本松県)の東京での交渉役(江戸時代は留守居役=各藩の情報交換役)をしていて東京の新情報に精通していた。旧藩主夫人丹羽久子とも交友があったと思われる。この久子は大垣藩主戸田氏共の娘であった。大垣藩の助力によって、維新後間もなく旧藩主は赦免され、服部が東京での交渉役となった経緯がある。従って戸田家の縁者である花香が服部の公益問答新聞社に就職したのもこのコネ(縁)と思われる。同様に花香が学んだ共慣義塾は南部藩の学校で南部藩は横浜の豪商高島嘉右衛門と関係がある。
2歳の時、父の戸田伊豆守氏栄を亡くした孤児は氏栄3男(長井昌言=鶯亭金升の父)の尽力によって、高野長英を一時かくまった干潟町の花香恭法の養子とし育ててもらった。ペリー来航時に対処した、浦賀の人脈がここに現れてくる。高野長英が死去した時、長英をかくまった(浦賀奉行へ出向していた)内田弥太郎(五観)はどの様な理由か処罰されず終わった。内田は弟子である花香恭法を孤児の養子先として長井昌言に推薦したのではないのだろうか。内田は戸田伊豆守の恩義を感じて幼い5男を学問上の弟子に託したのではないだろうか。花香恭法にはすでに一人の養子がいて、恭次郎は次男となる。(谷中墓地にある花香恭次郎の墓誌から)
服部誠一(撫松)は二本松藩儒官の子として生まれたが、同じ二本松出身の安積艮斎の直接の弟子という記録はないが艮斎が一時的に教えた二本松藩校に通っていた。三菱の岩崎弥太郎が初めて江戸に上った時、安積艮斎の所で学ぶことが目的であった。

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福神漬とは何だったろうか 8

2010年05月23日 | 福神漬
団団珍聞は今日の週刊誌が絵探しやクイズを毎回のように出していた。例えばセミの犬の絵は「ミン・ケン」と絵解きし、民権運動のことを示していた。同様に黒い貝殻は「コッカイ」国会開設、大きな熊は大隈重信、海坊主は三菱の岩崎弥太郎を示している。これらの比喩や寓意や似顔絵らを使って、読者に中味を伝えようと努力していた。
 明治14年頃から自由民権運動の高揚に危惧した明治政府は新聞雑誌等の弾圧を強めていった。そして団団珍聞が発行禁止を恐れの風刺力が弱くなっていった。しかし購読者が参加する投書によって風刺文芸の最後の花を咲かせた。雑誌の中身を編集者と読者が言葉遊びで反明治政府意識を交換する場だった。これはまだ主たる読者層が教養のある都市民衆の多数が東京では反明治政府意識の高い人達だった。
御用新聞と言われた東京日日新聞の読者は官員が多かったといわれる。明治の20年頃まで主な読者、作者が旧世代の人達で20年頃から維新後の世代となり、文芸・演劇改良が始まる事となる。根岸に集まった根岸派と称される人達は旧世代の文人を新世代との交流の場で福神漬の缶詰を酒の友としていた。
 少年投書家(鶯亭金升16歳)が団団珍聞に投書し掲載され頃、福島事件の高等法院の裁判が東京で始まった。明治15年1月に福島県令となった三島通庸は土木工事を推進し、福島県民に労力の提供を迫った。しかし松方デフレで不況となっていた福島県の自由党員・農民は三島の圧政に対して反抗した。ここで三島県令は福島の自由民権運動を警察力で弾圧した。これが福島事件である。そしてただ一人の東京士族被告人花香恭次郎で鶯亭金升の叔父にあたる人だった。
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福神漬とは何だったろうか 7

2010年05月22日 | 福神漬
 明治14年の政変後、松方正義のデフレ政策で農産物価格が下落し、地方の農民・小規模地主が困窮した。自由民権運動が激化し、福島事件が起こった。明治16年には少年投書家長井総太郎は團團珍聞や驥尾團子のたびたび投書が掲載されるようになった。團團珍聞の身代わり雑誌の驥尾団子は明治政府が新聞紙条例の改訂を行った際、抗議の思いを込めて「自害」を決行、明治16年5月に235号で廃刊した。明治政府を批判する報道を強権で弾圧する時代だった。驥尾団子が自害した後、團團珍聞の風刺が弱くなり、発行部数が減ってゆく。この後新聞は大新聞(政治を論ずる)から小新聞(芸能・小説等をふり仮名付きで読ませる)の時代へ、政党機関紙という新聞から中立新聞となってゆく。
 この時期に色々な小説が現れた。明治16年1月から高知の自由民権派の新聞土陽新聞に連載された『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)がある。作者坂崎紫瀾が坂本竜馬の活躍を描いた小説である。この小説を貫いている思想は竜馬の意思を明治に継承するのは自由民権運動だと主張し、小説の最後に甥の坂本南海男を登場させている。坂崎と坂本南海男は明治23年8月谷中墓地での花香恭次郎の葬儀に参列している。鶯亭金升は親族の一員で参加していたと思われる。
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福神漬とは何だったろうか 6

2010年05月21日 | 福神漬
 明治16年のこの様な社会状況の時、上野池の端の酒悦主人が商品名の企画を團團珍聞の梅亭金鵞に持ち込んだ。明治16年3月上野公園で水産博覧会があり、そこには水産缶詰が出品されていた。当然酒悦主人は博覧会を見学し、試作品だった福神漬を缶詰に入れて保存性を高め長期輸送に耐える食品にして、店頭に来る客だけでなく広範囲に販売することを考えていた。この当時池之端で盛業していた守田宝丹の影響を受け、商品名や宣伝の必要性を感じていた。そして当時の売れっ子戯文者であった梅亭金鵞に商品名を依頼したと思われる。ただ團團珍聞の主筆だった梅亭は商品名に密かにある寓意をいれ、材料に『なた豆』を入れるように仕向けた。『なた豆』にはちょん髷姿の酒悦主人の姿を見て、梅亭金鵞が廃刀令に対する寓意を入れたかもしれない。また明治14年から15年にかけて上野東叡山に元輪王寺宮(当時は北白川宮)が邸宅建築のため、一時滞在していて懐旧の情が出ている時でもあったと思われる。まだ堂々と旧幕府時代を懐かしむことはできず,密かに語る時でもあった。明治22年憲法が発布された時、恩赦が行われ、堂々と旧幕時代を語る事ができた。
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福神漬とは何だったろうか 5

2010年05月20日 | 福神漬
 大垣藩主戸田氏正と側室(高島嘉右衛門の姉)との間に生まれた戸田欽堂は日本で最初の政治小説といわれる『民権演義情海波瀾』(明治13年)を書いた。戸田氏正と欽堂は明治4年アメリカに向かったが翌年には欽堂は帰国し、築地で知り合ったキリスト教徒原胤昭らと共同でキリスト教徒のための十字屋を創業し、聖書などを販売しました。原等の活動資金は戸田家と姉の弟である豪商高島嘉右衛門の資金援助があったという。戸田欽堂は横浜高島別邸で明治23年8月10日死去。41歳だった。福島事件被告花香恭次郎もほぼ同時期に亡くなっている(明治23年8月)。
 江戸町奉行の与力の子として生まれた原胤昭は築地でキリスト教徒となり、銀座で十字屋を営んでいたが店員に店を譲り、自身は神田須田町で錦絵を扱う店を開いた。明治16年福島事件を主題として『天福六歌撰』という錦絵を販売したが政府によって販売禁止となり、配布するなら問題ないだろうと配布したが直ぐに投獄され、石川島に留置された。この時、原と福島事件の被告田母野及び花香恭次郎と獄中で知り合ったという。田母野は獄中で病死した。この事から原は監獄の酷さを知り、日本で最初の教誨師として一生を過ごすきっかけとなった。花香は戸田伊豆守氏栄の5男であるので原は戸田欽堂から、福島事件を聞いていた可能性があり、最後の浮世絵師といわれる小林清親に絵をかかせ文は原胤昭で出版した。原胤昭の須田町の浮世絵屋と取引先でもある神田雉子町の團團珍聞とは近距離である。当然投獄された諸事情を梅亭金鵞が知っていたと思われる。
 福島事件の東京高等法院での裁判は数少ない傍聴席をめぐって徹夜の傍聴する人が現れたという人気であった。明治16年7月20日過ぎからの公判は連日新聞紙上に公判記録が記事となって掲載された。その中で唯一の東京士族被告人花香恭次郎は一番若く美男子だったので東京婦女の人気は絶大だったという。この事は内田魯庵の少年時期の思い出とし随筆に書かれている。9月初めに判決が出て、原は憤慨して浮世絵を出版した。

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福神漬とは何だったろうか 4

2010年05月19日 | 福神漬
福神漬とは何だったろうか 4
福神漬の語り部ともいえる鶯亭金升は当時の人気雑誌(団団珍聞)に17才で就職できたのはコネ縁故)であると思える。しかし、旧幕臣で工部省鉄道局の役人だった彼の父は新橋-横浜間の鉄道開業して間もなく明治6年に死去していて。明治の士族で生計を立てることは厳しかった上さらに未亡人と一人っ子の生活が下谷根岸で始まった。しかし下谷・下町の人々の援助によって彼らは育てられた。しかし旧幕臣の経済力は弱く、大垣戸田藩関係の援助があったと思われる。しかし大垣戸田藩は彼を援助する必要性はどこにあったのだろうか。鶯亭金升の父は長井昌言でペリー来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の3男である。
 異国船渡来時、浦賀奉行だった戸田氏栄は防備の不備を浦賀与力から指摘されたが、幕府財政が逼迫していたため、いざ異国船渡来時の警備の不足を予想し、親族でもあった大垣戸田藩の重臣小原鉄心の応援を依頼していた。ペリーの艦隊を見た小原はこの後大垣藩の兵制を改革してゆく結果となり、鳥羽伏見の戦い後、大垣藩を東軍から西軍支持に変更させ東征軍の先鋒として江戸へ進軍した。もし大垣藩の武力が東軍支持となっていたら、西軍の江戸への進軍がかなり遅れただろう。維新後大垣藩はその功績により優遇された。
 幕末大垣藩主戸田氏正の側室に高島嘉右衛門の姉が嫁いでいた関係で、新橋-横浜間の鉄道敷設時に横浜の埋め立て事業で活躍した高島の口添えで工部省鉄道局に長井昌言が就職できたと思われる。長井昌言の早すぎる死はこの間の事情を推測するしかない。
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福神漬とは何だったろうか 3

2010年05月18日 | 福神漬
福神漬の語り部ともいえる鶯亭金升は明治元年生まれである。彼が団団珍聞の投書が載り始めたのは明治16年頃からである。団団珍聞には竹葉亭昌安、驥尾団子には総多楼昌安という名前で投書文等が掲載されている。16歳の少年とも言える人物が度々、この当時の人気雑誌に掲載されている。資料によると明治13年の最盛期に団団珍聞と驥尾団子の発行部数は34万部を超えていたという。才能のある投書少年だか簡単に団団社に入社できたのだろうか。別の要素があったと思うのが一般に想定される。つまりコネ入社ということになる。しかし、明治6年には父である元幕臣長井昌言が工部省鉄道局の地位で死去し、根岸に母と生活していた少年にどんなコネがあったのだろうか。
 明治17年8月には団団珍聞に入社し、19年には社主野村文夫と共に紀州・関西旅行をしている。しかし新聞『日本』が団団珍聞の隣(神田雉子町)に発足した時(明治21年末頃)団団社の経営状態は厳しく、野村に対しての元芸州藩主浅野長勲の資金援助だったという。
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福神漬とは何だったろうか2

2010年05月17日 | 福神漬
福神漬とは何だったろうか2
様々な関係から福神漬が命名されたのは明治16年から19年の頃と推定されるが命名者梅亭金駕が病床に付したのが明治23年2月で26年に死去している。しかし福神漬の缶詰入りは酒悦店主の努力にもかかわらず、高価のため一部の人達に売れたに過ぎないと推測される。酒悦主人の思惑もあり、戯作者梅亭金鵞に商品の販売促進法を依頼したと思われる。
命名の由来は『七福神めぐり』からと思われるのは当然の事となる。ただ梅亭が明治16年頃の政情から商品名に何か寓意(隠れたメッセージ)を入れなかったのだろうか。人気風刺雑誌であった団団珍聞に対して藩閥政府が新聞雑誌に対する弾圧を強めていた時でもあった。様々な手段によって政府の意に沿うような報道が要請されていた。しかし読者の希望する記事とはならず編集者の創意工夫が試されていた時代でもあった。もし寓意が漏れて裁判沙汰になった時十分勝訴できることを梅亭は命名時考えていたのではあるまいか。明治憲法が出来るまで日本の裁判で裁判官が政府の意向に沿わない判決を出すことは裁判官の地位が危険だった。
 ここに『なた豆』という野菜が福神漬にはいっている事が注目される。福神漬が売れてきたときには命名者が死去していてその中に寓意が入っていたかどうか語らず終わってしまった。
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