年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治の食事情サッカリン使用禁止に至る政治事情

2006年05月31日 | べったら市
明治19年頃ドイツよりサッカリンの輸入があり、その用途はもっぱら砂糖の代用品とすることにあったが、糖業振興上これを放置できないという高等政策の見地と、砂糖消費税の減収を恐れ、大蔵省が先ず発議し、内務省は衛生上危害があるという予測のもとにこれを取締ることに同意した。当時の実験ではまだ有害か無害かの結論が得られていなかった。
日本食品衛生史 明治編より
1 サッカリンに害はない。ただし飲食物取締規則のある国では偽物として扱われる。
2 サッカリンは副作用として消化器障害の可能性があるが、それよりサッカリンの使用により砂糖の消費が減り、砂糖消費税の税収が減る。
明治30年頃より人工甘味質が衛生上問題視されたが、それはサッカリンに毒性があるからでなく、砂糖と競合する物質であるからという経済上の観点からの議論が多かった。

明治34年3月3日 読売新聞
近年輸入せられる甘精(サッカリン)は益々その輸入の増加傾向を呈したがって,需用せられるよしであるが、その筋の調査によると甘精は衛生上すこぶる有害物であるがゆえに、ラムネに其の混入を禁じていたが、いまだに一般人に於いて有害たるを覚えず、消費する状況なるにつき衛生局に於いて公衆衛生の保護のため、その取締を制定せんとxxxxという。
人工甘味質取締規則 明治34年10月施行
また、大正期に入ると食品衛生上でサッカリンの解禁が論ぜられたこともあります。
大正8年8月11日 読売新聞より
サッカリンの制限撤廃の研究  砂糖の価格が高いため使用許可が検討されたが砂糖税収に影響するので自然と消えた。
また、昭和期に入って戦争の激化に伴い国内に砂糖の欠乏していて人工甘味質を容認しようと動きがみられた。
日本食品衛生史 大正昭和編より
昭和16年8月4日公布 人工甘味質取締規則 改正(たくわん漬に使用許可)
サッカリンのタクワンの調味に使用の許可の理由
最近、国民の嗜好品であるタクワン漬に対する一般大衆の嗜好は甘味を要求する傾向にある。しかも、砂糖をタクワン漬の甘味料として使用すればその貯蔵熟成中に速やかに転化ならずに発酵をきたし,酸臭味また苦味を帯びてきて品質劣化の傾向を示す。ところがサッカリンを使用するときはこのような影響がないので、タクワン漬にサッカリンの加味を認めようとするものである。ただし,その量がどの程度であるかは国民保険上重大な影響があるので4000分の1以下の量に限定するものである。(現在タクワン1kgあたり0.2g)

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明治の食事情 日本におけるサッカリン使用の歴史

2006年05月30日 | べったら市
1886年(明治19年)日本にドイツからサッカリンの輸入が始まる。コレラの予防になるという噂が立ってラムネ(炭酸水、レモネード、王冠でふたをした物がサイダー)が爆発的に売れました。コレラにきくと云うウワサで売れたラムネの製造にすぐに多くの業者が参入して、粗製乱造に陥った。すぐに、ラムネの甘味料にサッカリンが使われたのです。
1895年(明治28年)台湾を植民地化。砂糖の自給の可能性が出る。明治政府は台湾経済の基幹産業として製糖業の育成を図る。台湾製の砂糖の売り先を確保する必要が生じ、また砂糖の需要を減少させるサッカリンを使用制限する必要を生じた。
 1901年(明治34年)人工甘味質取締規則 人工甘味料の食品への使用を人体に有害との理由で禁止した。人工甘味料とタール系人工着色料の食品への使用は禁止された。人工甘味料といっても当時はサッカリンだけだが、禁止理由は表向きには人体に有害であるというものであった。
 人工甘味質取締規則により治療上の目的に供する飲食物以外の使用禁止
1907年(明治40年) 武田薬品工業、日本で始めてサッカリンの製造に成功。
昭和16年 戦争下、砂糖不足のため、サッカリンがたくわん漬に使用許可となる
 1946年(昭和21年)戦後、砂糖不足のため、サッカリンは一般飲食物に無制限に使用許可となり、国の専売となり課税されていた。(参考1)
 1973年 
 FAO/WHOサッカリンの暫定使用基準ADIは5mg/kg/dayであるがサッカリンの不純物に起する発ガン性に疑問があるので日本では1mg/kg/dayとし、各種食品への使用基準を設定し使用許可
 1975年 (昭和50年)
 新しく国立衛試の発ガン性動物実験により FAO/WHOの定めたADI 5mg/kg/dayが追試され、それに伴ない各種食品への使用基準を緩和する。
サッカリンは、明治時代から使用されている人工甘味料で、現在も使用されています。人工甘味料のズルチンが昭和42年に、チクロ(サイクラミン酸ナトリウム)が昭和44年に使用禁止となり、サッカリンも昭和48年に発ガン性の疑いがあるということで、使用禁止となりました。しかし、アメリカでは、この発ガン性の原因は、サッカリンに混じっていた不純物が原因であったとして使用禁止を解除、日本でも国立衛生試験所の出した「少量の使用は問題なし」との試験結果により、厚生省(現厚生労働省)は一定の範囲内で使用を許可しました。サッカリンの使用禁止期間は、ごく短いものでしたが、ズルチンやチクロの影響もあり、強く印象に残っているようです。欧米ではサッカリンの使用が緩和される傾向です。
参考1)
人工甘味料専売実施要領
     昭和22年8月12日 
第一、趣旨
 人工甘味料は栄養品と異るとともに嗜好品としては一般の需要が旺盛であるから、品質の向上、不良品の排除及び配給の適正を図り併せてこれを専売として財政収入の確保を図る。
第二、要領
 一、専売の対象はサッカリン及びズルチンとする。
 二、政府の許可を受けた者でなければ人工甘昧料の製造をしてはならない。
 三、人工甘味料はすべて政府が買取る。
 四、人工甘昧料の販売は医薬用、業務用、一般用等に区分し、それぞれの用途の性質に応じて差別価格制を設ける。
 五、配給機構は現在のサッカリン及びズルチンの売捌機構(薬店)を活用するとともに配給方法は指定配給物資の統制方式による。
 六、本制度は十月一日よりこれを実施する。
 備考
 (一)本専売創設により、本年度中に於て約十八億円の益金を収める計画である。
 (二)専売実施の具体的方法及び機構等については至急に経済安定本部及び大蔵、商工両省協議の上決定する。
 (三)サッカリン及びズルチンの生産計画及配当計画は経済安定本都に於てこれを策定する。

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明治の食事情 サッカリンの歴史

2006年05月29日 | べったら市
サッカリン発見
サッカリンは明治時代に発見した合成甘味料です。このサッカリンを発見したのはアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学の研究員コンスタンティン・ファルバーグです。1879年(明治12年)のある日彼は自宅でパンが異常に甘いことに気づきました。彼は色々な研究室の物質をなめ、甘さの元を発見しました。ベンゾイル-o-スルフォンアミドと言う化合物です。彼は自らが見つけだしたその化合物にラテン語の砂糖を意味するsaccharum(サッカラム)にちなみサッカリンと名付けました。サッカリンはその当時地球でもっとも甘い化合物でなんと砂糖の300~500倍の甘みがありました。
 科学者が発見したサッカリンに、当時の食品メーカーはすぐに飛びつきました。砂糖よりも何百倍も甘味が高いため、材料として安価になります。さらにカロリーが低く吸収率が悪いため、糖尿病患者は血糖への影響を心配せずに摂ることができ、また肥満の人はサッカリンの入った食品を甘い低カロリー食品として期待しました。
    
1884年(明治17年) アメリカにおいて、サッカリン製造の工業化に成功
砂糖の500倍という、極めて強い甘味が特徴です。すでに明治19年にドイツから日本に輸入されてから120年の歴史があります。
平成の今では日本の国内で使用されているサッカリンは食品では漬物用が使用量として多い。今でも、ネット検索してもサッカリンは危険性が指摘されているがアメリカやオーストラリア等のかって禁止または使用制限していた国が最近許可になっている。サッカリンナトリウムは、水に溶けにくいサッカリンを水に溶けやすくしたものです。濃度が薄くなっても甘味が長く残る、いわゆる後味を持つ特性があります。

サッカリンの用途 昭和47年の統計によると、国内生産量2800トンの内 輸出用が 66.9%を占めていて、国内消費量は約900トンでその中で漬物の使用量256トンで、沢庵漬・甘酢しょうが・梅干等に使用されています。統計が古いので今ではもっと使用量は少ないとおもう。他に歯磨き用・清涼飲料水、冷菓、漬物、しょうゆ、こうじ漬、酢漬、かす漬、みそ漬、しょうゆ漬、魚介加工品、魚肉練り製品、つくだ煮、海藻加工品、煮豆、酢、シロップ、ソース、乳飲料、乳酸菌飲料、氷菓、アイスクリーム類、あん類、ジャム、発酵乳、フラワーペースト類、みそ。
    
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べったら市 甘いはうまい 壱

2006年05月28日 | べったら市
今、べったら漬を販売するには絶対に白くなければならない。しかし、大根を塩漬すると黄色く変色し、砂糖を使って甘味を付けると褐色化がすすむ。このため、冷蔵庫の中で、甘味(砂糖)を抑え造るかサッカリンを使うかのいずれかである。また、近頃は米麹の臭いを嫌う人が多くサッカリンを使うので砂糖なら出るベトベト感でない。そこで麹の感じを出すのに米の飯を袋に入れて昔の感じを出している。
新つけもの考 前田安彦著より

 サッカリンという人工甘味料を江戸時代からあったと言われる浅漬大根に添加したのはいつのことだろうか?そもそもサッカリンの歴史はどのような歴史があるのだろうか。
 明治末期の東京の様子を若月紫蘭(東京年中行事)が記述している中に、「いつの間に安くてうまい浅漬大根の店がベッタラ市の主役となっていた。」とある。日本語ではうまい=美味い=甘いは同意味である。江戸時代の浅漬大根の作り方では砂糖を使用せず麹や大根の秋から冬に向かうと増す自然な甘味で味を演出していた。
 明治になって急に甘くなったのは、砂糖を添加したと思われる。ただ味の秘密ため文献には記述されていない。大伝馬町は砂糖を扱う薬種問屋の町である。旧暦から新暦の10月に祭りの時期が変更となり、一ヶ月繰り上がったため、祭り用ベッタラ大根の自然の甘味不足は否めない。明治中期までは“くされ市”として主な商材は“鯛”であったがコレラの流行で魚類が嫌われ、ベッタラ漬が主役となったのはベッタラ漬の味の革新があったのである。大伝馬町の宝田恵比寿神社のベッタラ大根に安価に手に入る砂糖を使わない方が不自然である。
日本の砂糖は明治20年代に国内産の砂糖が衰退し、和糖を取扱っていた業者の没落期であり、輸入の砂糖の飛躍期であり,洋糖の取扱い商人の勃興期であった。砂糖市場が大阪を中心としていた時代から、輸入港から新しい砂糖商人が生まれた。安価な輸入砂糖がさらに消費量を増大させた。
明治の輸入統計から見ると、砂糖の輸入量は明治元年は700万斤、10年は5400万斤、15年は8000万斤、23年には1億斤を突破している。その後は、明治30年頃から国内産の砂糖業によって、輸入砂糖は減っている。

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べったら市の販売商品 明治時代

2006年05月27日 | べったら市
明治の東京の年中行事を扱った文献の大多数が明治後半の記述がおおい。その理由として、明治20年頃まではまだ江戸の名残が残っていたので新し物好きに東京のガイドブックとして出版する必要性が少なかったかもしれない。
代表的な本として、べったら市の文献としてかなり引用の多い若月紫蘭「東京年中行事」から恵比寿講の商材について。
夷講の支度に必要な土製木製の恵比寿大黒,打出の小槌,掛鯛、切山椒などを売るのが目的だったのがいつの間に安くてうまい浅漬大根の店が幅を利かせて恵比寿大黒の店を圧倒している。と記述している。明治40年代の話である。
恵比寿講の掛鯛について
えびす様はいつも鯛を脇に抱えている姿に象徴されるように、航海安全の神、豊漁をもたらす神として信仰されてきました。
掛鯛(懸鯛)とは、二尾の鯛の尾を奉書紙で包み双方の喉を藁縄で繋ぎ、これを歯茱と譲葉を挿み、頭から尾に紐を渡して吊す縁起物でだった、後には木鯛(木彫の鯛)で代用するようになった。
浅漬大根(ベッタラ漬) 恵比寿大黒と大根
大根は聖天信仰のシンボルマーク
違い大根と呼ばれる二本の大根が交差している形・大根はインドにおいてガネーシャ(大聖歓喜天)の持ち物で中国、日本、ネパール、チベットなどでも同じ。
 大根は形の上で象の牙の形に似ており、ガネーシャ(大聖歓喜天)の折れた牙が大根の変形したか、逆に大根が折れた形に変形したかは不明。とにかく牙と関係があり、性的意味を持っている。 大黒天変相 仏教神話学 弥永久信美著から
東京都民俗地図 東京都教育委員会
エビス講の地区では「この日は運がよくなるように うどん・みかん・だいこん・など“ん”のつく食べ物を食べる」と伝承している。また、所によって二股大根を供える

切山椒は上新粉(精白したうるち米を水に浸けた後、粉砕して乾燥させた米粉)に砂糖と山椒の粉を加えて搗いて薄く延ばして短冊形に切った餅菓子です。山椒は日本の香辛料で、葉、花、実、幹、樹皮に至るまで、全てを利用することが(有益である)との縁起から切山椒が商われるようになりました。又、江戸時代には甘い菓子は少なく、祭や市などの時には甘い菓子が大変喜ばれ、年の市の商品とされていました。 .
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べったら市 コレラの終息

2006年05月26日 | べったら市
明治時代の夏は東京の市民にとって「コレラ」の恐怖の季節となった。明治期の終わりの頃には俳句の季題にコレラが夏の歳時記となっていた。
明治16年
 ドイツ細菌学者、ロベルト・コッホがコレラ菌を発見
明治19年
 ようやくコレラ予防の原則が出来た。
(1)清潔な水を使う。上水道の整備。
(2)土地を清潔にする。ゴミを片付ける。
(3)家を清潔にし、排水設備と便所を作る。下水の整備
(4)多くの人々を集める集会をさせない。祭り・劇場の制限
 この年はコレラの死者が一番多かった
明治23年28年とコレラの流行にみまわれたがだんだんと下火に。コッホのコレラ菌発見から10年たち、検査法・予防法が知れて対策が立てられた。また、完全な検疫権を得たのは明治32(1899)年。これもコレラの流行を下火にした。
明治の終わり頃までに衛生対策がなされ、明治35年頃からコレラの予防注射が始まり今では忘れられた病気となった。
コレラによって変わったこと。上下水道の建設。水道菅が鉄製となる。検疫制度が始まり日本の主権となる。衛生という考えが広まり、コレラ対策として中核となったのは隔離と消毒であった。当時は警察が衛生維持を行っていたので、強権的措置は種々の別種の問題を引き起こしていた。
 完全な治療方法は戦後まで完成しなかった。今では初期判断を間違えなければコレラはほぼ治療できるようになった。

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べったら市 祭礼とコレラの影響

2006年05月25日 | べったら市
京都市 祇園祭巡行日
明治6年(1873)太陽暦採用。太陽暦上で、旧暦6月7日、14日に該当する日をもって巡行日とされた。
明治10年(1877)祭日を一定にするため7月17日、24日を巡行日とする。
明治12年(1879)6月からコレラ流行につき、祭礼11月7日と13日に延期。
明治19年(1886)5月、コレラ流行のため11月に延期。
明治20年(1887)コレラ流行の恐れあり、5月に繰上。
明治28年(1895)コレラ流行のため、10月に延期

東京都 千代田区 神田祭り 
江戸時代は旧暦9月15日だったが明治になって、コレラ騒ぎのあと現在5月15日の祭礼となった。
 若月紫蘭「東京年中行事」によると、明治の終わり頃は寂れた祭りだった。江戸時代は天下祭りと言われていたのに明治になって、電線等で通行が妨げられ、造り物も小さくして氏子の町内を練り歩いている。
余談・浅草の三社祭りは江戸時代は旧暦3月17・18日が祭礼だったが今は5月になっている。

大阪市 薬の道修町にある少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)の神農祭
祭礼は当初9月11日に行われていましたが、明治になり旧暦から新暦への変更、コレラの流行等種々の事情により、明治10年に現在の11月22・23日なりました。
伝染病予防法
明治30年4月1日 法律第36号 明治30年5月1日 施行

第十九条 1 都道府県知事は伝染病予防上必要と認めるときは左の事項の全部又は一部を施行することができる
三 祭礼、供養、興行、集会等のため人民の群集することを制限し若しくは禁止すること

明治19年頃はまだ“くされ市”となっていて、恵比寿講の商材として、鯛が中心であった。しかし、コレラの影響で、徐々に砂糖で甘味を付けた浅漬大根(べったら漬)の出店が増えた。しかし、それには別の理由があったと思われる。
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べったら市 明治19年⑤

2006年05月24日 | べったら市
ラムネとコレラ 
明治19年、東京ではコレラの流行があり、死者が10万人を越えたという。当時、ラムネがコレラの予防になるという横浜毎日新聞の記事からうわさが広まって品不足となった。
ラムネ・LAMUNE・らむね 野村鉄夫著から
ラムネの定義は特許庁によると「甘味・香料を加えた水に炭酸ガスを溶かし壜に詰めてガラス玉にて密栓することを特徴とする清涼飲料水の一種。」となる。つまり、王冠で瓶詰めしたのはラムネで無く・サイダーとなる。ガラス玉にて密栓したラムネは明治20年から日本で始まった。現在、ガラス玉にて密栓した清涼飲料水は日本とインドしかない。
 明治19年、コレラにラムネが効くというウワサからラムネが関東でも関西でも売れ、製造が間に合わなくなり、ビンにコルクで栓をし、針金で口金を締めたりするのが間に合わなかった。そこで、ガラス玉にて密栓するビンを明治20年から輸入し使用した。しかし、あまりにもラムネが売れるので、その後ラムネ製造業者が乱立した。製造技術が未熟なうえ、粗悪な原材料が横行、十分な包装材料もなかった時代であったから、いきおい粗悪品、品質劣化品が続出した。また、ラムネのビンはその構造上洗いにくいので手を抜くと不衛生になりがちだった。ゴミ・ラムネの残りの砂糖にアリやハエが入りこみやすく洗浄しにくかった。

 このことが原因で明治32年、「清涼飲料水営業取締規則」が内務省から分布され、翌33年から施行された。現在の厚生省の業務は当時内務省の管轄であった。東京は警視庁が取締った。
 この取締規則には清涼飲料水は透明でなければならないこととされていた。細菌等の繁殖によって飲料が劣化すれば液が混濁する。混濁した飲料を陳列、販売すれば違反であった。違反には罰金刑が科せられた。そのため、砂糖を使うとラムネが濁りやすく腐敗しやすいので人工甘味料(サッカリン)や人工着色料を使用して、炭酸ガス圧を高くしたがかえって風味を阻害し消費者から敬遠され、ラムネが駄菓子となってしまった。

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べったら市 明治19年④

2006年05月23日 | べったら市
コレラと日本橋魚河岸 魚河岸100年史より
 コレラの話は魚河岸の人は話したがらない。しかし、語らなければ“くされ市”が“べったら市”にならない。
 明治の中期になると、東京の人口も江戸と呼ばれたときの人口を越し、100万人をはるかに越し、日本橋魚河岸も問屋,仲卸をあわせて800名を越すようになっていた。東京の人口の増加は日本橋魚河岸の人、品物を増やし混雑を際立たせてくることになる。毎朝数千人の買出し人は日本橋のたもとにある一つしかない共同便所を使い汚物をたれながした。売場を洗った水も日本橋川に流した。日本橋川は悪臭を放っていて、コレラが流行りだすと、生魚を食べないように衛生当局から注意がでていて、食物はよく火を通して食べるように通達されていた。しかし、当時生で食べるのは魚だけであったから魚が嫌われた。魚というと魚河岸、魚河岸は悪臭を放つ不潔な所、東京の真中において置くのはけしからんとなった。東京一の繁華街の隣に魚市場があることは、都市美観のうえからも、都市衛生の画からも好ましいことではない。首都の中心繁華街から、魚市場をとりのぞくことは近代化都市計画にとって重要懸案である、との当局の考え方が移転問題の底流にあった。コレラが流行るたび、魚河岸の移転の話が出てきた。魚河岸は明治19年コレラの影響で不潔が指摘され、終に明治21年「東京市区改正条例」が出来、具体的に移転計画の話が出た。
その後、東京府の食品市場は警視庁の管轄になり、延び延びとなった魚河岸の移転は何かとあると警視庁から移転を迫られた。また、魚を扱う高級料理店の中には夏は休んだので影響はかなりあった。

安政6年に出版された「青物魚軍勢大合戦の図」 歌川広景画の解説で、安政の当時から、青物(野菜)は魚に比べてコレラに安全な食物と考えられていた。
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べったら市 明治19年③

2006年05月22日 | べったら市
わが国のコレラ史
文政5年8月に流行する。朝鮮より、九州・中国・大坂・京都の順に蔓延し沼津まで流行し箱根は越えなかった。
次回、安政年間江戸に流行する。武江年表によると8月1日より9月末までに患者28000人。死者9900人、十月に至って終息する・
第三回流行は安政6年から万延元年で9月に終息する。
武江年表によるウワサ
この頃魚類を食べると、これに当たり終に死に至ると言って魚類を買う人少ない。故に漁民・魚商はヒマになった。食堂も同様である。鰮(いわし)は鮮魚であるのに買う人はいない。従って、(代替の食品として)鶏卵や野菜は価格が上がった。
当時はコレラの原因がわからず、その対処法として文久2年10月に出た「官版疫毒予防説」洋書調所によるとコレラ病の予防方法として検疫の必要性が説かれている。
「流行病発生(コレラ)の疑いのある国より来る船舶及び旅客を用心のために、その地に交通させないで、別に建築した館(避病院-隔離用)に居住せしめ。40日間無事なるもの病気伝染せざる者とする。またこの期間中には貨物・書物等も煙にていぶすことにする。」とある。しかし、日米和親条約は不平等条約で、日本の検疫権がなく、このあともコレラの流行が続いた。
日本国の自主検疫制度が確立するのは不平等条約改正後、明治32年「海港検疫法」の成立まで待たなければなりませんでした。
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べったら市 明治19年②

2006年05月21日 | べったら市
明治19年10月21日 東京日日新聞より
一昨日は大伝馬町でくされ市といい、浅漬大根を商うことが江戸といった時分から恒例にて、毎年大伝馬町1・2・3丁目とも大群衆が集まるところ、今年は運悪く大雨にてかき入れの浅漬大根も売れず、市を当てにしていた植木屋も売れ残ってしまった。
 ところが、20日の恵比寿講の日は晴天で各商店の出入りの魚屋は流行病(コレラ)のため、久しく低迷していた売上げを(えびす)神が助けてくれ、(魚の)販売金額を計算していた。
 いまだに東京府下にコレラ患者がちらほら出ているので、新聞記事には恵比寿講を一ヶ月つまり旧暦の頃に延期してはどうかとあったが、魚屋はそれまで延期したら,とため息していたのだった。
 当時は多くの人が集まる行事等が行政によって規制されていた。
同日の記事
東京府下はまだコレラ流行地と呼ばれているが神事・祭礼・劇場・手踊り・その他遊戯等の興行ものを解禁のことを警視庁より内務省に伺ったところ、19日より興行が許可になった。
また同日の記事に
今日の交通事故死者数の集計のように日本全国のコレラ患者数が官報に記載されている。
明治19年10月20日官報
新規患者227人・新旧患者死者数227人
コレラが終息に向かったとはいえ、全国ではかなり患者が多かった。東京では10月19日・駒込の避病院が患者減少のため閉院になった。
 駒込病院は明治12年(1879)にコレラの避病院として設立された。現・都立駒込病院は伝染病・感染症の専門病院として知られる。
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べったら市 明治19年①

2006年05月20日 | べったら市
横浜開港資料館で資料捜索の続き
郵便報知の記事より
 明治19年10月20日
くされ市
(10月19日の)早朝よりの降雨にて、恵比寿講の出店をしない商人も多く、また顧客も少ないため、午前 大きい大根は 一本二銭五厘という浅漬大根が午後には一銭八厘より一銭三~四厘位に値下がりした。

郵便報知は“くされ市”と記事に書いている。
 明治19年はべったら市にとっては変化のあった年と言える。このあたりから“くされ市”から“べったら市”と記事の題が増えてくる。
明治19年東京は死者が最大になったと言われるコレラが流行していた。
 7月9日 日本橋浜町3丁目でコレラ発生、本所緑町などから,京橋。日本橋でも発生する。日本橋魚河岸、大伝馬町の付近の患者の発生である。魚商にとって商売上、かなり影響があった。
警視庁史 明治編より

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べったら市 明治編5

2006年05月19日 | べったら市
ベッタラ市の開催の暦が一ヶ月ずれることは気温が違うだけでなく、天候の安定度が違っていた。明治の東京の天気は今と比較しにくいので。最近30年間の天気出現率のデータから、比較すると
10月の天気
天気出現率とは過去30年間の大気現象や日降水量、日平均雲量から割り出した天気の出現率です。
10月19日(今のベッタラ市開催日)東京の天気出現率
天気  雨  出現率  43.3%
    晴れ       40.0%
    くもり      16.7%
平均気温 17.6℃   最高気温21.1℃ 最低気温14.4℃
10月20日(東京)の天気出現率
天気  晴れ  出現率 53.3%
         雨       36.7%
        くもり     10.0%
平均気温 17.4℃  最高気温21.0℃ 最低気温14.2℃

11月19日(東京)の天気出現率 (旧暦でこの日あたり)
天気  晴れ  出現率  66.7%
     雨       20.0%
   くもり       13.3%
平均気温 12.4℃  最高気温16.1℃ 最低気温 8.8℃

11月20日(東京)の天気出現率
天気  晴れ  出現率  46.7%
     雨       36.7%
   くもり       16.7%
平均気温 12.2℃  最高気温15.9℃ 最低気温 8.6℃

この天気出現率のデータから、10月19日は10月としては雨天の確率の高い日で、明治時代の新聞記事にもしばしば出ていて、雨による客の出足の鈍さは市に出店している業者を困らせている。明治の頃は1日限りの市だったらしい。また、ベッタラ漬の味に関係する気温が10月と11月では平均で5度C違うので、冷蔵庫や氷等が普及していない明治時代は大変だっただろう。
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べったら市 明治編4

2006年05月18日 | べったら市
横浜開港資料館は、昭和56年、日米和親条約が結ばれたこの地(横浜市中区日本大通3)に開設されました。 日本の開国と開港をめぐる内外の歴史資料を集め、広く展示・公開しています。 江戸時代から大正・昭和初期までの資料と図書があります。地下一階の図書室(利用料100円)に明治時代の新聞の複製があります。交通機関 横浜 みなとみらい線「日本大通り」駅徒歩2-3分くらい
日本語新聞―横浜毎日新聞、横浜貿易新報、横浜貿易日報、東京日日新聞、時事新報、郵便報知新聞、朝日新聞など があります。  
明治14年10月21日 東京日日新聞(今の毎日新聞の前身)の記事から
恵比寿講
一昨日(10月19日)の“ベッタリ”市は人がかなり出たけれど大根の直近の高値ゆえ、浅漬大根(べったら漬)一本十銭で売ろうとしても買う人もなく、べったり付けると言えど驚く人がいない,海がシケ続きにて鯛も少なく,わずかの品(タイ)に朝の間に売り切れ思わず,高くて節約と旦那が言えば鰮(いわし)の崩し汁で追払われるとこぼす丁稚(でっち)おおし。

膨大な新聞記事の中から、ベッタラ市の記事を探すことは難しい。ただ、記事を探すうち紙面に散らばる明治の風俗が平成の今から見るとおかしく、しばしば記事捜索を中断し、読みふけった。
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べったら市 明治編3

2006年05月17日 | べったら市
日本新聞博物館にて
横浜にある新聞の歴史や、新聞・通信社の活動が分かる日本新聞博物館(ニュースパーク)は、わが国の日刊紙の創刊号から最新号までを所蔵する「新聞ライブラリー」公開されています。ニュースパークの4階に新聞ライブラリーにおいてパソコンで記事を検索することが出来ます。明治の初めの読売新聞はCD ロム化されていて、検索の言葉を入れると記事が出てきます。
 係りの人に操作方法を教えていただき、(べったら市)と入力しました。何も記事は出て来ませんでした。(恵比寿講)でやっとヒットしました。詳しく記事の内容を読んで次に(腐れ市)と入力し検索すると、明治9年の記事が出てきました。
明治9年10月20日 読売新聞より
 昨日は相変わらず大伝馬町のくされ市(ベッタリ市ともいう)は可なり賑わいました。
 明治9年当時は腐れ市と呼ぶのが普通だった。また,ベッタラでなくベッタリと記事に書かれている。明治6年に暦の改変が行われたので10月20日は新暦ということなる。旧暦のまま開催だったら11月20日前後だろう。明治政府の東京では恵比寿講・腐れ市(ベッタラ市)は新暦での開催にすぐに変わったといえる。
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