年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

野菜の肥料史 江戸期

2006年03月31日 | 宅老のグチ
江戸時代は始めは大開墾の時代であった。しかし、開墾したばかりの土地は作物が育たなくて、肥料を必要としていた。当初は入会地で刈敷き(草・落ち葉)を利用していたが江戸の人口の急増によって、食料増産のため色々な肥料(刈敷き、下肥・人糞尿、堆肥・厩肥、すす・灰、ぬか・油粕、石灰・貝殻、ちり・ごみ・あくた、干し鰯・鰯肥、海藻、泥肥・沼土・壁土・土肥・川砂)が必要となった。特に野菜の肥料として適していたのは下肥だった。
 大根栽培で大量に必要な下肥は下掃除をした上、金銭や作物との物々交換であった。下肥の価格は幕府も農民にとっても重要視され、たびたび引き下げを行ったが効果はなかった。

入会権
入会権は民法第263条.264条規定されていて、ある一定の地域に住む人々が、一定の山林、原野などの収益を共同で上げる権利。主には、肥料を積んでおいたり、家畜飼料や燃料に用いる草をとるなどに利用されている。
 江戸時代、地域の資源を管理し、守ってきたのは村である。たとえば入会地の草は刈敷として重要な肥料源でありました。一定地域の住民が特定の山林や原野から、家畜用の草や燃料用の薪を採取するなど、共同の収益を得る慣習上の権利。民法は物権の一つとして認めている。入会権は地域住民全体に帰属していて登記することは出来ません。個人は山林などの入会地を使用して収益を得る権利があるが、地域の慣習に従い、入会地内の持ち分を勝手に譲渡することなどはできないとされる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沢庵漬は工業?

2006年03月30日 | タクワン
明治時代の沢庵需要の増大によって農家製造は増大し沢庵工場化していた。その影響か次のような記事が現れてきた。
明治34年10月15日 朝日新聞記事より

東京府にては昨年12月発布、本年4月より実施の府令を以って、従来東京府郡部営業税、雑種税科目中工業(製造業、印刷業、写真業)年税営業収入高千分の六となりしを単に工業と改めるために、これまで農業の片手間に種々の工夫をなし製出せる農産物、たとえば沢庵漬のごとき人工を加えたる工業製作品の一なりと収入高の千分の六の年税を課せられることなりたるは、甚だしく酷なりと一昨日府下6郡の農会の代表者が会して協議会を開き,結局参事会の賛助を求むることに決し、昨日の参事会は右工業の解釈を狭義に解することに決議したりによって、本月(東京)府会の議に附するべしと言う。
参考
農会とは
1899年(明治32年)の農会法では、政府助成による農業・農民の保護育成のため行政区画毎に農会(後の農業協同組合)が設置され、中央農業団体としての大日本農会も出現して農業発展に尽力した
参事会とは
郡には議決機関として郡会と郡参事会が設けられ、郡参事会は郡長と府県知事が任命する郡参事会員により構成された。
大化の改新(645年)後に律令制度が制定され、地方は国、郡、里の単位に分けられて支配されます。その後、郡制度は衰退しますが、近代明治に入り、郡区町村編成法(明治11年)が公布され、古来よりある郡が行政単位として復活することになります。大正15年に郡制度は廃止され、現在は住所を表す意味しかありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治後半期に於ける沢庵業の発展

2006年03月29日 | タクワン
参考 練馬大根 練馬区教育委員会発行より
明治も20年代に入ると世情も落ち着き、東京の人口も増大し、練馬が再び大根の産地となった。維新のあとで奨励された茶、桑、藍の採算が取れなくなったためもある。東京に出来た工場の寮、学生の宿舎、軍隊の糧食の需要があらたに生じた。
明治30年3月刊の(日本園芸雑誌第80号)によると当時の沢庵漬・一反歩(10アール)の収支
支出の部 合計22円75銭
内訳 種子代 80銭・ 整地人夫代 60銭・播種及び施肥人夫代 45銭・ 肥料代 8円55銭・間引及び1番作人夫代 45銭・補肥及び2番作人夫代 30銭・収納人夫代 75銭・干燥人夫代 1円50銭・沢庵漬人夫代 60銭・塩及び糠代 5円・干し葉取人夫代 45銭・運送費 1円50銭・その他・樽代? 1円25銭・公費 60銭
収入の部 合計 26円
沢庵漬 24円 干し葉 2円
差し引き利益 3円25銭
収支をみると肥料代が収入の3割を占めている。各種人件費を加えると利益は少なかった。
この時代の沢庵漬の原価を分析すると、次のような対策が考えられる。
①大根栽培の中で肥料がコストの中で多いので削減する。化学肥料の導入
②塩及び糠代がかさむので、製造方法の革新。干し大根を漬け込むことから生大根を塩蔵し、仕上げに糠漬け(沢庵漬)にする。技術革新
③運送費・荷車から鉄道を利用し遠隔地に得意先を確保する。量的拡大政策
④品質を安定させるため、大根の品種、製造方法の確立によって、ブランドの確立。安定大量消費の軍隊・寄宿舎等の得意先の確保。
⑤自家製造の沢庵漬と明らかに品質の差が出る商品の製造。製品の差別化。
以上のような理由で練馬の農家の干し大根販売から野間稼ぎとしての沢庵製造が明治の半ば以後、沢庵工場化していく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸の東部地区 農業

2006年03月28日 | 趣味としての漬物
 利根川は江戸時代始めは東京湾に流れていた。太平洋に直接、流れ込むようになっても、江戸の東部の地域はたびたび水害に襲われた。葛飾区は江戸末期、田畑の耕地面積は全区域の63%を占め、水田と畑の耕作比は7対3となっていました。
 江戸の人口が増加するに伴い生鮮野菜が不足し、幕府はそのため天領の一つに葛飾を選びました。そのこともあって大消費都市江戸への野菜供給地としての役割が強まっていきました。江戸の東部は水路が発達しており、タ刻までに船に積み込み、夜間に運び、早朝市場に持ち込むことができました。坂の多い陸路を馬,大八車にたよる西部より運搬に有利だったようです。現在の東京で青果市場の物流システムと同じ前日取れた野菜を翌日青果市場で販売されました。。
 また、水運を利用して江戸からの下肥が持ち込まれ(下肥運搬船を葛西船と呼ぶ)、大量施肥による野菜の通年栽培が始まり、土地生産性の飛躍的な向上は、この時期に始まりました。また,江東の地域では初物作りが盛んになり、現在でも通用する野菜の促成栽培が始まりました。
 金町・新宿のねぎ、堀切のかぶ、上小松(東新小岩)の小松菜をはじめとした各種つけ菜、細田・曲金(高砂)のなす、猿ケ又(西水元)のもろこしなど、荒川区では三河島菜、江東区は亀戸大根等、産地形成の努力がありました。野菜などの作物は生産者が直接消費地(市場や料亭など)に持ち込んでいました。
農家の消費者への直接販売は、消費者の下掃除を通じて肥料の確保図る。東京の農業の特色です。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治前半の大根栽培

2006年03月27日 | 趣味としての漬物
明治維新によって、江戸末期の130万人程の人口が50万人程の東京となり、すっかり寂れた。更に横浜の開港に伴い、物資が江戸を素通りし、横浜に荷物が集中し江戸の物価が高騰した。また,維新前後の江戸市中の治安は悪く、更に人口の減少を招いた。
 練馬の大根と沢庵漬を出荷していた農民には大打撃であった。先ず、半数の消費者を失い武家屋敷や町民からの下肥供給源の半減と青果市場や沢庵問屋への出荷減となった。また、練馬より、東京に近い輸送に便利なところが大根の産地となり、練馬の大根栽培は一時的に衰退する。そして,明治政府の奨励で茶、桑,藍の栽培など他の作物に転換している。
 しかし、明治5年調査の「東京府資料」によると、沢庵漬の生産額は現在の練馬地区だけで東京の80%を占めていて、地場産業として括弧たる地位を占めていた。また、干大根は中野区と練馬区で東京の70%を占めていた。生大根は新河岸川の舟運を利用していた、板橋区と北区が多かった。今では大根の産地として考えられないのだが、明治の初期には千駄ヶ谷、渋谷、雑司が谷、王子、十条などの地が産地だった。池袋は大根種子の生産地であった。
 明治の東京は維新の混乱も西南の役(明治10年)が終わった頃、人口も江戸時代を超えたが練馬の大根栽培は北区や池袋、雑司が谷などの東京により近い所に需要を取られていた。明治20年頃になると人口の増加で東京に近い産地が住宅や工場用地となり、再び練馬が大根の産地として復活する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漬物の輸入と原産地表示

2006年03月26日 | 宅老のグチ
漬物原料は地域調達であったが,日本の農業の変化にと輸送技術の発達によって,次第に遠い地区と取引するようになって来た。タクワンを例に挙げれば,江戸時代から明治時代は練馬及びその周辺で作られていたが,鉄道や道路等の交通の発達に伴い次第に遠くなってきた。戦後、群馬県・青森県・北海道と移動し現在,干しタクワンはほとんど九州南部で生産されている。塩漬ダイコンは国産から中国産に変わりつつある。
 台湾より昭和37年頃から,また韓国から昭和42年頃からまとまった量の漬物原料が輸入されて来た。当初,台湾からの輸入には,多くの漬物業者が活躍していたが,台湾バナナの輸入と付随して輸入されるケースが主流を占めるようになると共に台湾系貿易商の扱いとなって来た。現在,中国から各種塩蔵漬物(茄子,胡瓜,生姜,梅干,わらび,レンコン等) タイから塩蔵生姜と塩蔵茄子,ベトナムから塩蔵胡瓜,台湾から梅干,ロシアからワラビ,アメリカからガーキン(ピクルス用胡瓜),アルゼンチンから梅干,スリランカ,ミャンマーから塩蔵胡瓜が輸入されている。
 この様な漬物原料輸入の質量の拡大に伴い,消費者や販売者の要求や国内産の原料を使用している業者から要望により,加工食品として食品業界の先頭を切って原料の原産地表示を開始した。
 
品目 義務付け日
梅干・らっきょう漬け 平成13年10月1日
農産物漬物(上記以外の漬物) 平成14年4月1日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漬物業の歴史 明治以後

2006年03月25日 | 築地市場にて
明治時代になると漬物は量的に発展する。日清,日露,昭和の戦役に軍隊の兵食とタクワンや梅干しが大量に船積みされ,戦意向上のため重要視された。また,産業の発達と共に学生や労働者の寄宿舎,食堂等の需要があらわれた。そのため,農家の漬物製造が忙しくなり,都市近郊の農業の副業から漬物製造企業と発展していく。漬物はその商品としての性格から自家製造が発展してきたものなので、商品としての漬物は原料野菜の価格や人件費の占める割合が多く,付加価値が少ない。原料の野菜が安価に入手でき販路を確保できれば新規参入しやすい業種である。そのため、野菜の価格変動・産地移動、景気の変動等によって江戸時代始めから続いている漬物専門の業者は京都にしかない。特に関東においては関東大震災や第二次大戦の影響で明治以前の漬物業者は少なく、ほとんどが戦後に創業した業者である。
戦後の食糧難の時代を経て、家庭で漬けられていた漬物は次第に小売店で購入されるようになった。また、同時に漬物はバラ売りから小袋詰めになり、保存食品から野菜をより美味しく味わう加工食品になった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泉州(大阪府南部)の漬物用すいか

2006年03月24日 | 趣味としての漬物

なら漬の中に入っている小さな丸いものが西瓜のなら漬です。小玉の西瓜は源吾兵衛西瓜(すいか)という特別な品種です。

源吾兵衛西瓜は泉州(大阪府南部)源吾兵衛さんという篤農家がおられ漬物用の西瓜の品種改良に努力を重ね作り出したで,現在この偉業と努力をたたえ今も源吾兵衛西瓜.と広く呼ばれている。産地としては紀ノ川の河口あたりから泉州地方で栽培されている。京都の老舗の漬物屋の社長さんの話では近年、鳥取県の砂丘が適地でもあり、かなり栽培されている。源吾兵衛西瓜は早朝の気温が上がらないうちに収穫しないといい品物が出来ないし,すぐに大きくなり、漬物としての商品価値がなくなるので西瓜の大きさを測りながら高齢の生産者が朝取りしている。源吾兵衛西瓜は塩漬けのときに一部に穴をあけ、塩が西瓜の中に浸透するようにして漬け込む。漬物にするときは塩抜きして、主に西瓜なら漬として生産される。京都の西瓜の茶丸漬は源吾兵衛西瓜があるとき消費者の嗜好の変化で西瓜の原料が余り、困り果てていたのでなら漬以外の商品として開発したもので、鳥取県の高齢者農民のために今後も国産原料のみで製造しようとしている。なお普通の西瓜を摘果しても源吾兵衛西瓜のように漬物の原料として到底品質に及ばない。
泉州(大阪府南部)は伝統野菜の宝庫です。源吾兵衛西瓜(すいか)のほか漬物用野菜があります。近年、その野菜の復活が図られています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カゴメのラブレ飲料

2006年03月23日 | 宅老のグチ
22日、カゴメの乳酸菌飲料のお詫び広告が新聞に載っていました。植物性乳酸飲料ラブレが予想以上売れて欠品とのこと。
「 ラクトバチルス ブレビ ス サブスピーシス コアギュランス 」が
ラブレ菌の正式名称です。通称を「 ラブレ菌 」と言います。
2~3年前でしたか京都の漬物の(すぐき)から特色ある乳酸菌が発見されたと漬物の業界紙に記事がありました。やっと、一般向けの商品になったと思えば、同じ日にキッコ-マンがラブレ菌を使った商品「ラクベジ」を発売したこと。日経産業新聞の記事に出ていました。
乳酸菌には、「 植物性乳酸菌 」と「 動物性乳酸菌 」の2種類があります。野菜や穀物など植物性素材を発酵させて、漬物や味噌を作る乳酸菌を「 植物性乳菌 」といいます。乳など動物性素材を発酵させてチーズやヨーグルトを作る乳酸菌を「 動物性乳酸菌 」と呼んでいるそうです。
動物性乳酸菌と比較して、漬物の(すぐき)から発見した酸や塩分に強く、胃液や腸液に耐えて腸内で生きぬく力が非常に強いのが特長だそうです。
早速、吉永小百合にだまされてコンビ二で買い飲みました。飲んだ感想は「ヤクルト味」だった。漬物の塩味なし。原材料には、植物素材(りんご、にんじんエキス、大豆飲料、ジンジャー、ライム)を使用していて、普通の飲みやすい若い人向けの飲み物だった。なお、良いことはミルクアレルギーの私はカゴメの製品を飲んでお腹がゴロゴロになりませんでした。
野菜や穀物を発酵させて漬物などを作る植物性乳酸菌は、酸に耐性があり、ミルクを発酵させチーズなどを作る動物性乳酸菌よりも胃や腸内での生命力が約十倍強いと言われています。
 漬物の乳酸菌はラブレ菌以外もあります。どんどん研究してください。
余談 カゴメの吉永小百合に対してキッコ-マンの「ラクベジ」の宣伝のタレントに誰がいいのかとの話で倍賞千恵子ではないかとまとまりました。お腹がゴロゴロするミルクアレルギー日本人に良いでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸・八百善の香の物(漬物)

2006年03月22日 | 趣味としての漬物
八百善は文化文政の頃(19世紀初め頃)に江戸で繁盛した料理屋です。料理屋を開業する以前の八百善は、明暦の大火(1657)後に、で八百屋を始め、八百屋の善四郎の名から八百善とよばれました。
江戸時代・文化文政の景気の良い時代の頃、贅沢な食事に倦きた客が八百善の座敷に上がって極上の茶漬けを注文したところ、少々お待ちください言う。客はどんな茶漬け来るかと期待して待ったが、一向に料理が出てこない。そうして、半日も待たされてやっとお茶漬けと香の物(漬物)を食べることが出来た。その香の物というのは、春には珍しい瓜と茄子の粕漬を切り混ぜにしたもので、八百善らしい美味しい味であった。さて帰る段になって勘定を聞くと1両2分(現在の価格で約10万円)だという。驚いた客が問いただすと、八百善の主人が出てきて説明した。 季節外れの珍しい(温室栽培)の瓜と茄子を使い、茶は宇治の玉露、米は越後の1粒選り、中でも最も金のかかったのはお茶に使った水だと言う。宇治の上茶に合わせるには江戸の真ん中の水ではよくないので、わざわざ早飛脚を仕立てて玉川上水の取水口まで水を汲みに行かせたと言うのである。そのため時間もかかったし、運賃も高くついたわけで、それを聞いた客は"さすが八百善"と感心して帰っていったといいます。当時、玉川上水は途中で分水され、末端では必ずしも良い水質ではありませんでした。
 江戸時代・八百善は江戸の料理屋番付では別格扱いでした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地下鉄サリン事件と築地市場

2006年03月21日 | 築地市場にて
今から11年前、3月20日・日比谷線築地駅にて事件がおきた。世に言う、地下鉄サリン事件である。その日、事件が起きた時間は、築地市場にいて仕事をしていた。当然、仕事をしていたので事件を知ったのは上空を旋回していたヘリコプターがうるさく留まっていて、誰かが地下鉄でガス事故があったらしいと話していたのを憶えている。丁度、通勤時間で2名欠勤していた。不安になったが、欠勤の連絡あったので安堵した記憶がある。ほんの少しの距離なのに築地市場内の案内もなく、淡々と仕事をしていて大事件だったと知ったのは昼過ぎのことだった。社外から安否の確認も昼過ぎからだったと思う。
 上久一色村の捜索のとき、機動隊の弁当需用のため、急に富士吉田方面の注文が増えた。事件と関係があったのはこのくらいだった。
 随分昔のようであるが裁判はまだ続いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇太子氏殿下の講演

2006年03月20日 | 趣味としての漬物
メキシコで開催された世界水フォーラムにて,3月18日皇太子殿下が「江戸と水運」をテーマとして講演した。江戸の環境が保たれたのは郊外より食料を舟運により運ぶ一方、江戸市中より下肥を肥料として、郊外に舟で運搬し循環型社会を作り、江戸の水質の汚濁を防いでいた。このような趣旨の基調演説を初めて講演したと新聞は報道している。
大根河岸から豊洲までをテーマとして、伝統野菜を追いかけると、同じ研究になってしまうのは驚きである。江戸時代は今と違って、舟運が安価に重い品物を運んでいた。重量野菜である大根は大量の肥料が必要となる。下肥の問題も練馬大根の歴史を調べると避けて通れない問題となる。
 昨年、韓国と中国との下肥による寄生虫キムチの問題はまだあとをひいて、国内の漬物需要はまだ元に戻っていない。一般の日本人は下肥の不潔なものとして思っているだろう。しかし、ほんの25から30年前は、日本でも畑に撒いていて、下肥を使用していない野菜は清浄野菜として販売されていた。つまり化学肥料のみ使用して栽培していることが良いと思われた時代だった。
 下肥については、どのように記述すれば良いか只今研究中。戦後,西武鉄道,東武鉄道、舟運による下肥を輸送していた。また、海洋投棄も東京都は最近までしていた。東京都葛飾区の「葛飾区郷土と天文の博物館」で、特別展『肥やしのチカラ』(平成17年年3月20日~5月8日)での展示で東京都による糞尿の海洋投棄は平成9年3月末で正式に終了したという。
 寄生虫を防ぐため,合成洗剤を使用して野菜を洗っていた。大量の合成洗剤の使用で、河川や琵琶湖等の水質が汚染された。江戸時代のほうが循環型社会として進んでいたと思われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産物輸出規格2

2006年03月19日 | タクワン
南北アメリカ以外の地区向け
たくわん漬の包装条件
樽を用いる場合は、次の基準に適合すること。
イ 樽材は清潔で死節、虫食い,割れ等の欠点により樽漏れしない物であり、樽の内容積が72リットル未満であるときは厚さ7ミリメートル以上。樽の内容積が72リットル以上の場合は厚さ14ミリメートル以上あること。
ロ 鏡ふたは、はぎ4枚以内とし、たくわん漬用いたたるで内容積が36リットル以上のものには中ふたを用いること。
ハ 上さんは二本で、その厚さは7ミリメートル以上とし、底さんはたるの内容積72リットル以上の樽にあっては二本で,その厚さは20ミリメートル以上であること。
ニ 樽漏れする場合は、清潔な資材を用いて目打ちを完全に行うこと。
ホ くぎ打ち,縄掛けその他荷造りが堅固であること。
抜き取り方法
合格または不合格の判定は次の表により荷口の大きさに応じて抜き取った数量について行う。
20こおり以下は2こおり
21こおり以上50こおりは3こおり
51こおり以上150こおりは5こおり
151こおり以上300こおりは7こおり
301こおり以上10こおり
合格の表示は PASSEDとする
南北アメリカ向けの規格
たくわん漬の包装条件
樽を用いる場合は、次の基準に適合すること。
イ 樽材は杉またはさわらの割り材で死節、虫食い,割れ等の欠点がなく、樽の内容積が72リットル未満であるときは厚さ7ミリメートル以上。樽の内容積が72リットル以上の場合は厚さ14ミリメートル以上あること。
ロ 鏡ふた 南北アメリカ以外の地区向けと同じ
ハ 上さん 南北アメリカ以外の地区向けと同じ
ニ 樽漏れする場合は、清潔な和紙を用いて目打ちを完全に行うこと。
ホ 縄は,稲縄,あし縄、マラオン縄.麻縄またはまこも縄を用いること。
へ くぎ打ち,縄掛けその他荷造りが堅固であること。
抜き取り方法
南北アメリカ以外の地区向けと同じ
合格の表示は PASSED FOR N&S AMERICAとする。

芝浦にあった、農林水産省輸出検査所にアメリカ向けの渥美タクワンの輸出をしていたときの話。当時は寿司ブームが始まったときで、塩辛い渥美たくわんが寿司まき沢庵用として輸出していた。9時30分頃に検査所について、検査をお願いして、検査するたくわんを検査室の前に並べる。検査員が抜き取り検査の商品を指定して、検査が始まる。たくわんを容器から抜き出し、糠をしごいて、目方を量り、傷を検査する。合格するとまた元のように容器に詰める。これが難かしい。きっちりと入っていたので元に入らなかったのもある。その間に書類が出来、商品に検査合格印のスタンプを押してもらう。時計は10時半ごろになっている。指定された倉庫会社は大体11時が午前の搬入書類作成の打ち切り時間なので急ぐ。遅れると1時までどこかで待機しなければならない。
輸出検査のおかげで、戦後塩分の低下した国内産の漬物は特別に旧規格の商品をつくらないと不合格になっていた。特になら漬は酒粕が重量の50%なければ不合格、ラッキョウの糖分不足が目立った。
今は輸出検査がなくなり、どうかと思う商品も海外に出ている、国内の価格の3倍になってしまう事を考えるとやむを得ないかも知れない。ただ、海外にいて日本の人たちの活力を与える漬物なので、良い漬物を安価に供給したいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産物輸出規格 昭和33年

2006年03月18日 | タクワン
戦後、輸出検査法によって、ある種の漬物は輸出検査を受け合格しないと輸出が出来なかった。中曽根内閣のとき、漬物の輸出検査制度は廃止された。
この輸出検査の目的は粗悪品の輸出を阻止し日本品の名声の維持向上を目的としていた。関東では横浜と芝浦に輸出規格検査所が在った。
漬物の検査規格の一例として
たくわん漬の規格 南北アメリカ以外の地区
調製 新漬沢庵にあっては塩押しが、古漬沢庵にあっては干し揚げが良好であること。ヒゲ根および葉の除去が完全であること。ただ,葉つき沢庵にあっては,枯れ葉、腐れ葉の除去が完全であること。
米糠の重量は正味量の7%以上であること.ただし特殊副原料を用いた沢庵漬にあっては、その香味、肉質、色沢及び保存力が規定量の米糠も用いた沢庵漬と同等以上の場合は、この限りでない.奇形の物または傷の程度の著しい物の混入が本数で5%以下であること。
正味量 正味量が内容積18リットルにつき13・6kgの割合以上であること。ただし、長さ20cm以下の詰め沢庵,充填用大根の葉及び米糠の重量を除く。
注 脱脂した米糠及び破砕された籾殻が一部混入している生米糠は、米糠としてとり扱う。
たくわん漬の規格 南北アメリカ向け
調製 新漬沢庵にあっては塩押しが、古漬沢庵にあっては干し揚げが良好であること。ヒゲ根および葉の除去が完全であること。一本あたり平均重量の上下各々30%をこえるものの混入の本数が5%以下であること。異品種のもの、奇形のもの及び傷物が混入していないこと。
米糠の重量は正味量の7%以上であること.ただし特殊副原料を用いた沢庵漬にあっては、その香味、肉質、色沢及び保存力が規定量の米糠も用いた沢庵漬と同等以上の場合は、この限りでない.
正味量 南北アメリカ以外の地区の規格と同じ

注 脱脂した米糠及び破砕された籾殻が一部混入している生米糠は、米糠としてとり扱う。
色沢、形状の著しく異なるものは、品種として取り扱う。

アメリカ向けの方が不揃いの規格がうるさい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

缶詰規格 漬物 (戦前)

2006年03月17日 | 趣味としての漬物
戦前・漬物は海外に輸出するときは、主に樽詰めか缶詰で輸出していた。行き先としては、日本人が移民していた国や朝鮮・中国・台湾・南洋諸島が多かった。行き先として布哇という地名が良く出てくる。

輸出漬物缶詰は京橋にあった川村与兵衛の漬物缶詰が知られている。ほまれブランド(川村与兵衛)の沢庵はアメリカに向けて輸出されていた。
戦前の漬物缶詰の規格
缶詰要覧より 横浜開港資料館所蔵
葉唐芥子味付け
しょう油の良否,質の多少を主として見る。大きく実のないこと,あっても小さめがよい。味は軽い辛目を持ったもの、なるべく葉が多いほうがよい。
福神漬
まず,香気の良否を見る。沢庵臭の残ったものは良くない。光沢はなるべく自然色でよいものが良い。味醂や飴を使用したものは光沢が出る。しょう油の良否、混合材料の種類、刻み方、歯切れの良否を見る。
味醂漬、奈良漬
原料、味醂,酒粕の質、色合い、歯切れ等も見る。始めから粕漬にしたものは半透明で、塩漬後脱塩しアルコールに漬けたものは鼻を刺激する。
芥子漬
加熱期間が長ければ、歯ごたえがなくなり、歯ごたえを良くすれば膨張しやすいので、長期の保存は困難である。この漬物の特徴は,噛み締めるときスッと鼻に締め付ける辛い匂いがよいので品質の良否を決定する用件である。ナスはちいさい物で丸いものが良い。

昭和の終わり頃、グアムに日本人観光客が多数旅行していたとき、定期的にベッタラ漬が航空便で行っていた。グアムに行ってまでなぜベッタラ漬食べるの?と質問したら辛く味付け,スライスして現地の人が食べているよ答えが返ってきた。川村与兵衛さんの缶詰漬物の中にベッタラ(浅漬大根)漬があった。パラオ諸島は戦前、日本が信託統治していたので漬物が行っていた。今でも人口が少なく、日本人の観光客もあまり行かないのに沢庵漬の注文が来る。
現在、日本で漬物の缶詰は福神漬位で、市販の店では手に入れにくい。ただ、自衛隊では戦闘食の中に沢庵漬と福神漬の缶詰があります。特にタクワンの人気があるようです。

布哇とはハワイのことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする