年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

「福神漬」は「ふくじんづけ」か「ふくしんづけ」か

2010年08月31日 | 福神漬
「福神漬」は「ふくじんづけ」か「ふくしんづけ」か。
日経新聞『新日本食奇行』のサイトに取り上げられたマイナーな漬物の話題です。関西にいた時、ある得意先の女性が『ふくしん漬け』と発音して注文をよこしてきました。確かに福神漬を素直に読めば『ふくしんつけ』と読めます。しかしプロの人がそのような言葉で注文してくるとは思いませんでした。
JAS規格にあるように福神漬は商標登録されていません。一般名詞として辞書にも載っていますが、見出し語は「ふくじんづけ」です。
『広辞苑』
ふくじん‐づけ【福神漬】
「酒悦」のショッピングサイトでも「がんそふくじんづけ」となっています。
そもそもの由来の中身から(なた豆=刃豆)考えると『刃=じん』からが正しいと思われます。しかし上野で発売された細かい経緯は西日本ではあまり考慮されずに(福神=ふくしん)と思われる。特に西日本の人達が『ふくしん』と発音しているのが多いようです。全国的には辞書が示しているように『ふくじん』と発音する人が多いようです。また一般に福神漬の名称は7種類の野菜が入っているので『七福神』から連想し、命名されたといわれます。しかし漬物の商品名として『七福神漬』は少数派です。
 戦争前の明治屋食品事典では(ふくじんつけ)と見出しではなっています。
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福刃漬

2010年08月30日 | 福神漬
大崎・本立寺を訪ねる
第二京浜国道を日本橋に向って走ってゆくと、山手線五反田駅を過ぎると登り坂となる。その途中右手に日蓮宗本立寺がある。そこに鶯亭金升の墓があるので墓を訪ねていくと、住職と一時間ほどよもやま話をすることとなった。話の途中で戊辰戦争の話題となり、住職の曽祖父が新撰組に参加していて、品川から榎本艦隊にのって函館まで行ったという。最後のところは弁天台場で土方歳三と一緒に戦ったと言う。もしかすると千代台陣屋で喜兵衛が用意していた漬物を土方と一緒に食べていたかもしれないと話した。福神漬の中に隠しメッセージがあると話したが『じん』とは何かと住職に問われた。思わず『今のところ何もありません』と答えてしまった。しかしよく考えてみると『じん』と言う音を発する漢字で『刃』と言うのがある。つまり『ナタ豆』を漢字で書くと『刃豆』となる。
 つまり福神漬を命名した梅亭金鵞は政府の言論弾圧を避けるため、食品に寓意を入れたので本来『福刃漬』とするところを『福神漬』としたのではないのだろうか。従って福神漬の最初からナタ豆が必ず入っていたことはこのような隠しメッセージを意味している。
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味の素食の文化センターで

2010年08月29日 | 宅老のグチ
久しぶりに高輪の味の素食の文化センターに向った。目的は利根コカコーラボトリング社の社史を読むためであった。利根コカコーラボトリング社は発足間もない時、千葉行徳の野田醤油行徳工場を本社工場とした。行徳になぜ野田醤油の工場があったか調査は結局味の素食の文化センターにあった社史ではわからなかった。
 仕方が無く、他の本で次の調査のために予備調査を行う。豆の本にはかなり『なた豆』があった。成熟したナタ豆の毒性はかなり強いようで漬物の福神漬には若い状態のとき塩漬にして使用しているので毒性の問題は無い。ナタ豆を食するにはかなりの手間をかけて毒を除かなければならないが収量の多い作物である。と言うことは大量の肥料を必要とすると思われる。
最初に来た時より漬物の蔵書が増えてきたようである。
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カニ密輸

2010年08月28日 | 築地市場にて
食品の情報誌にはロシアマフィアのカニ密輸の記事でいっぱいである。公式に日本に入ってくるカニより多いカニが日本に流通していると言う。例のイトーヨーカ堂関連のうなぎの事件も横浜南部市場の検査で発見されてから二年の歳月が経っている。一般紙上にカニ事件があらわれるのは何年後だろうか。不祥事の対応は細かい事件の情報をキャッチして、同様な行為をしていたら改めれば間に合う。ところが事件が公になると類似の調査が始まり、騒動が大きくなる。足立区の111歳の白骨指定事件で日本各地に確認できない住民登録が発見されたこと同じとなる。プライバシーの問題とか派生する問題を数々引き起こしている。
 
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他から観ると

2010年08月27日 | 築地市場にて
時々他人から指摘されるが漬物と言う仕事は地味な仕事で世間の風が中々やってこない。従って今の不景気がここまでなるとは思わないので食品はあまり消費量が減っていない。しかし高価な食品需要が消えて低価格の食品が売り場を占めている。従って売り上げが低迷することとなる。数量が減っていないので利益が減ることとなる。
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日本酒が大変なようで

2010年08月26日 | 宅老のグチ
日本酒が大変なようで
今年の夏の暑さで日本酒の売れ行きが良くないといわれている。ここ最近の飲酒運転の取締りでそれでなくとも売れ行きが落ちていているのにこの暑さでは新しい飲み方を推奨するしかない気がする。漬物は酒の搾り粕を利用しているので気になる事態である。縮小均衡をしているのでまだ酒粕の逼迫感は無いと思うが日本の食文化である廃物の徹底的な利用が崩れてゆくということになる。
それで無くともスーパーの棚から奈良漬が消えつつある。大型店は売り上げ不振となると構成比が長期的に低迷している漬物の売り場が減ることとなる。その中で奈良漬は削減の対象となることが多い。小梅のカップ類は小売売場から消えたと思われる。
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消えた三河島菜

2010年08月25日 | 宅老のグチ
今では絵でしか残っていない『三河島菜』と言う漬物用の野菜があった。江戸時代の産物帳には今では消えてしまったかまたは呼び名の変わってしまった日本各地の産物があった。細かく記述されている植物は細かい観察がなされていた。
 江戸中期享保年間に丹羽正伯という人が日本各地の動植物をそれぞれの地域ごとに『産物帳』としてとりまとめた。しかし江戸近郊の文献はなかった。
 三河島菜の明治中頃までは東京の漬菜として代表していたが中国大陸から日本に入り定着した白菜が東京市場を占めるようになり、何時の間に消えてしまった。あぶらな系の野菜は交雑しやすいので純粋な系統を保つのは難しい。『武江産物志』に東京近郊には普通の産物としてなた豆があったが明治になるといつの間に消えてしまったと思われる。そして福神漬の中に残り、いまでは『なた豆茶』として復活しようとしている。幕末から明治にかけてナタ豆にはどの様な効用が伝えられていたのだろうか。
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こころの景気対策

2010年08月24日 | 宅老のグチ
心の景気対策
ふるさと給食という番組を見ていたら、今の政府の景気対策がお金の量だけで心の景気対策が無いため、いくらお金を増額しても、貯金とか返済に回るだけで消費に繋がらず不景気が継続する事となる。地産地消の学校給食をもう少し補助すると地域が明るくなるような気がする。今少ない金で心が温まる政策が望まれる。少なくなった地域の子供のために地元で取れた農水産物を学校給食に結びつける運動を強化したほうがいいと思う。GHQに指導された戦後の栄養政策をそろそろ変えた方が良い気がする。
 それでも今の学校給食は魚食で御飯が出ていても、牛乳が出ている。これを何とかしなければ純粋の和食文化が消える気がする。今のところ寿司屋で牛乳が飲み物として出てくるところは聞いていない。
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沢庵ついたかついたか

2010年08月23日 | 宅老のグチ
中央区の図書館郷土資料室で変な本を出された。その中に『たくわんついたかついたか』という江戸時代の子供遊びがあった。
大勢でやる子供遊びの一種。一人が電柱などの柱に両手でつかまっている上に『沢庵、ついたか、ついたか』と言いながら多の者が次々と駆けて来て飛び乗ってゆく。一番下の子供がこらえきれずつぶれると、上に乗っている者も皆転んで終わり。
 今こんな遊びがあるのだろうか?
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江東区史 上巻 586ページ

2010年08月22日 | 福神漬
江東区史 上巻 586ページ
亀戸村 書上帳(文化2年1805)
五穀(米・麦・粟(あわ)・黍(きび)・大豆)以外の作物として18種類あったがその中にナタ豆がある。しかし明治11年の東京府志料では消えている。既に作物としてのナタ豆の効用が終わったということなのだろうか。それにしても幕末、いや江戸時代江戸という都市でナタ豆という作物に何か栄養摂取という意味以外、例えばまじないとか何かの言い伝えがあったのだろうか。明治という時代はかなり西洋の新しい作物が日本に導入されたし、また武士という消費者が消えた。さらに地方から上京して来た人達には江戸の旧い言い伝えは伝わらないものもあったと思われる。その中にナタ豆の消えた理由があるように思える。
 しかし福神漬には最初からナタ豆が入っていた。
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江戸の自然誌  野村圭佑著から

2010年08月21日 | 福神漬
江戸の自然誌  野村圭佑著から
『武江産物志』をよむ
江戸の農産物は今と違って季節や江戸との距離・輸送方法に左右されていた。ナタ豆の次に『 おしゃくらまめ 』『ふじまめ』『そらまめ』『えんどう』がある。今日本で流通している隠元豆は『武江産物志』では『いんげんささげ』で江戸時代前期に禅僧隠元が日本にもたらしたのは『ふじまめ』であるという。多くの豆類は『葛西領』で栽培されていたようである。今の小松菜も昔は『葛西菜』と呼ばれていたが江戸市民の下肥を運搬していた舟が『葛西船』といわれていたので故事を持ち出して『小松菜』となった。
 このような記述の位置に『なた豆』があることは江東方面で栽培されていたと思われる。

著者は最近亡くなった様で色々聞きそこなった気がする。

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武江産物志から

2010年08月20日 | 福神漬
武江産物志并武江略図-影印-岩崎常正著
築地1丁目にある京橋図書館郷土資料室で持ち出し禁止の貴重書となってしまった『武江産物志』を出してもらった。
驚くほど小さい本でまたページ数も少ない。今から200年ほど前の江戸の中心地から20kmほどの距離以内の産物を記述している。著者の岩崎常正は下谷御徒町付近で生まれ、晩年は谷中で過ごした。江戸付近の植物の本は少なく、武江産物志に『刃豆』が最初の部分で出てくるのが気になる。明治10年の日本産物志・伊藤圭介著には武蔵の産物には『刃豆』はない。
岩崎の時代はナタ豆はどの様な用途があったのだろうか。ナタ豆は-大きく育つ植物なので大量の肥料がいると思われるので薬効のある植物でなければならないだろう。福神漬につかうナタ豆は若採りなので栽培期間が比較的長くても江戸近郷で栽培できたと思われる。
 
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交通データ

2010年08月19日 | 宅老のグチ
今日の朝日新聞の夕刊で高速のスピード制限を実情に合わせて改定するという。昔アメリカでの交通のスピード制限の決め方が一律の部分と走行する車が安全運転していると思われる車の80%のスピードを制限速度としている町があった。実に合理的で説明しやすい。
 日本では一律のほうが説明要らず簡単であるが過度な制限速度を落とすことは違反者増大を招き法規範遵守を減らす。
制限速度の決め方がABC分析のような方法をとっていたので驚いたことがある。
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ゴミ処分場

2010年08月18日 | 宅老のグチ
どの様な食品でも需要と供給のバランスが崩れる時が必ずある。その様な時、本来はセリ等で価格を自由化して荷物をさばけばよいのだが自身の失敗を公表することとなり、皆はこの事態を避けようとして画策することとなる。そして過去の経験から方法・手段・価格が決まり、実行される。
 しかし、この様な賞味期限切れ近い食品の販売先の力が昔より弱くなっていること知られていない。いつ出るかわからない掘り出し物を待っていては商売として成り立たなくなって来ている。メーカーだってロス商品は基本的に出したくないので出物が少なくなっていた。特に賞味の短いものは輸送価格に左右されて、廃棄処分の方が安くつくことがある。東京都の場合、1kg30円が損益分岐点となる。
 野菜が安くなって、白菜の15kg入りが450円以下となる時がある。この時、値段をつけないとゴミ処理代の方が高くなると思う。農家の手取りが政府の保証によって保護される。漬物は野菜の需給の調整役をしていたのだが今では役に立たなくなった。
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慶應4年行徳の春

2010年08月17日 | 福神漬
葛飾風土史 川と村と人 遠藤正道著から
 慶應4年が明けると直ぐに上方で戦闘が始まった。戊辰戦争の始りとなる鳥羽伏見の戦いである。そして終わりは明治2年5月18日箱館で榎本武揚等が降伏した時、戦争は終わった。江戸市内では鳥羽伏見の戦い以前に情勢は緊迫していた。秩序を保てなくなった江戸近郷ではそれぞれの村で自衛を強化していった。幕府直轄の行徳領では湊新田の松原家(今の地下鉄東西線行徳駅南付近)が組織の中心となっていた。同家の土地に剣術道場があって、自衛の指揮者をつくるためだったという。明治元年閏4月3日の市川船橋戦争が始まる前に、福岡藩兵が行徳に警備に来ていて剣道場が宿舎としていた。この中の隊長格は薩長の侍であって、およそ半月ほど行徳で待機していた。この間元幕臣だった山岡鉄舟が船橋方面で不審な動きを見せていた旧幕臣・浪人の軽挙妄動を説得するために来ていたという。市川船橋戦争が西軍・官軍の勝利となり、上野戦争で彰義隊が敗北すると、行徳領の役所のようになっていた松原家の剣術道場へ行徳付近の人々が幕府に対する恩義を忘れ、ご機嫌伺いにやって来たと言う。このことを薩長様参りと行徳の人は言っていた。
 このような時勢に行徳伊勢宿に住んでいた幕府の漬物納入商人『喜兵衛』が地元を離れ、函館に向ったのは理解できる。幕府によって行徳塩業はその特権を保護されていたが度重なる高潮等の天災で瀬戸内塩業よりコスト高で次第に衰退していた時期が幕末であった。幕府に対する恩義を忘れ新政府の援助を期待することが『薩長様』参りとなったと思われる。逆賊となってしまった旧幕臣等は歴史から消され、行徳では『喜兵衛』のことを知っている人はいなくなった。この後行徳の人達は鉄道の敷設の判断を誤り、地下鉄東西線・京葉線が来るまで過疎地となってしまった。
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