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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

岡山県内最古の木造駅舎、JR弓削駅

2017年02月11日 | 日記

JR津山線の弓削(ゆげ)駅舎です。JR津山線はJR岡山駅と、県北部の中心都市にあるJR津山駅を結んでいます。JR津山線は、明治31(1898)年12月21日に、中国鉄道として開業したことに始まります。JR弓削駅も、このときに設置されました。開業当時の駅舎が、現在も使用されており、「岡山県下で最古の木造駅舎」とされています。

弓削駅の正面入口です。駅舎は建設以来、補修や改修を繰り返してきましたが、「建設当初の形を保存しようとする心意気を感じる(「岡山の駅舎」河原馨著・日本文教出版株式会社)」駅になっています。昭和19(1944)年6月1日に国有化され国鉄津山線となった後、昭和62(1987)年の分割民営化によって、西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)の駅になりました。

弓削駅は、岡山県久米郡久米南町下弓削にあります。久米南町は、昭和29(1954)年に、久米郡の弓削町、誕生寺村、龍山村と神目(こうめ)村が合併して、成立しました。2,277世帯、5,016人が居住(2017年1月31日現在)しておられます。

この日は、快速”みまさかノスタルジー”で、弓削駅に着きました。5~6人の乗客が下車すると、岡山駅行きの”みまさかノスタルジー”は、次の福渡駅に向かって出発していきました。

下車してすぐ目に入って来たのが、「途中下車 させた河童(かっぱ)の 弓削の駅」と書かれた川柳ののれんでした。久米南町は、川柳と河童で町の活性化を進めています。

弓削駅は、相対式の2面2線のホームになっています。駅舎寄りの2番ホームから向こう側の1番ホームへの移動は跨線橋を利用することになります。行き違いがなければ、上り(津山方面行き)列車も下り(岡山方面行き)列車も、2番ホームを使用する、いわゆる”一線スルー”になっています。向こう側の1番ホームには、行き違いのある場合だけ、津山方面行きの上り列車が停車するようになっています。

駅舎と一体になったベンチがありました。開業当初の形を残しています。

この写真は、跨線橋の上から見た津山方面です。中央の白い建物は、久米南町庁舎です。左が1番ホーム。右の2番ホームから出発した列車がそのまま進んでいけるレールの構造になっています。また、駅舎に向かって入っていく引き込み線もつくられていました。使われることがあるのでしょうか。

この写真は、岡山駅方面を撮影したものです。駅舎寄りの2番ホームから出る列車が、まっすぐ次の神目駅に進んでいくレールの構造になっています。行き違いのない場合には、すべての列車が2番ホームを利用しているのがよく分かる構造になっていました。

閉まっていたドアを開けて、ホームから駅舎内に入ります。駅舎の左側のようすです。外観に比べて新しさを感じる駅舎内でした。駅舎内外の改修が行われているからでしょう。「弓削駅」と書かれているプレートのあるところが出札口。中に男性の駅スタッフがおられました。弓削駅は、津山駅管理の簡易委託駅になっています。近距離乗車券のみを販売するなど一部の業務だけを、法人や個人に委託しています。出札口の右側のスペースはかつて駅事務所があったところですが、現在は、岡山県立誕生寺特別支援学校がアンテナショップ「夢元(ゆげ)」を営業しています。週2回(火曜日・木曜日)の昼間だけ開店し、生徒が制作した手工芸品や農産物の販売や喫茶コーナーの営業を行っているそうです。

こちらは駅舎の右側のようすです。テーブルやいすを置いて、列車の到着を待つ人がくつろげるスぺースをつくっています。写真の左側のケースの中には、町おこしに活用している川柳の雑誌が展示されていました。

ケースの中にあった川柳関係の雑誌や句集です。近くには、投稿用の受付も設置されていました。

駅舎の外に出ました。駅舎内は寒いため、入口は締め切っていました。「岡山の駅舎」には「建物財産票」(「鉄駅 本屋 明治31年12月」)の写真が載っていましたが、長い時間をかけて探したのですが、見つけることができませんでした。入口の右側には、川柳の色紙が掲示されていました。久米南町に合併する前の弓削町は、戦後の混乱期に農村の文芸活動は誰にでも気軽に参加できるものでなければならない、そして、川柳なら紙と鉛筆さえあればどこでも手軽にできると考え、日本一の川柳の町をつくることをめざしたのです。昭和24(1949)年に弓削川柳社が発足し、その年の9月には、第1回西日本川柳大会を開催したのでした。この大会は、現在も続いています。

駅舎への出入口にあった駅名標です。

駅名標の右側には、誕生寺特別支援学校の「アンテナショップ夢元(ゆげ)」があります。この日は土曜日でしたので閉店していましたが、ガラスにたくさんの掲示物がありました。「エスプレソコーヒー 100円」に少し興味が湧きました。

弓削駅前のロータリーにあった河童のモニュメントです。駅には、久米南町のマスコットキャラクターである河童の「カッピー君」がたくさん展示されていました。カッピー君の生みの親は、地元在住の國忠敬子さん。川柳とエンゼルによる町おこしを考えていた久米南町は、シンボルマークとともに、全国に公募しました。301点の応募の中から、國忠敬子さんのキャラクターを採用しました。町のマスコットとして定着していた河童がエンジェルになって町に夢や幸福を運んでくるイメージを表現しているそうです。

トイレの前にもいました。

色違いですが、ここにもいます。駅前広場には、カッピー君の姿が到る所にありました。

駅前を津山寄りに歩いて駅舎を撮影しました。先ほど跨線橋の上から津山方面を見たとき、本線から駅舎の側のホームに引き込み線が入っていました。これがその引き込み線です。駅舎の手前には車止めが設置されていました。

これは、駅前を岡山方面に引き返したところから、駅舎を撮影した写真です。「岡山の駅舎」には「駅構内の外れに駅長の宿直していた建物があって、現在は町の集会所に使われている」という記述がありました。たまたま、列車を待っていた方がおられましたので、お聞きすると「それは駐車場になっているところだよ」とのことでした。

駅長宿直室の候補として、私が気になっている建物があります。駐車場の岡山方面寄りにある、写真の中央の白い建物(久米郡商工会久米南支所)の手前にあった黒い建物です。この建物には「下之町集会所」という看板がかかっていました。どちらなのでしょうか?訪ねる機会があれば、もう一度、確認してみたいと思っています。

JR津山線は、概ね、江戸時代の津山往来(現在の国道53号)に沿って敷設されました。JR弓削駅のある久米南町下弓削は、江戸時代には美作国久米南条郡弓削村でした。弓削村など久米南条郡の28ヶ村は、幕末まで、下総国古河藩(茨城県)の領地(飛地)でした。弓削村には古河藩が領地の管理のために設けた陣屋がありました。そのため、江戸時代を通して、津山往来の宿場町として栄えました。やや見づらいのですが、写真は、JR弓削駅に掲示されていた商店街の案内図です。地図中にある最も広い道路は国道53号。弓削駅前から国道53号を横切って北東にむかって延びる細い道が津山往来です。ZAGZAGのところで右折し、その先ですぐ左折して、まっすぐ現在の国道53号に向かっています。ZAGZAGのところは、宿場町に多く設けられていた枡形になっていました。

下弓削の町を、津山往来に沿って歩いてみようと思いました。駅前広場の出口にあった「お瀧道」の道標です。左(津山方向)に向かうように案内がありました。「下之町集会所」という建物があるように、駅付近は下弓削の「下之町」と呼ばれている地域です。

駅から旧街道に向かって歩きます。すぐに国道53号に合流します。横断陸橋で国道を渡り旧街道に入ります。

国道53号を渡った旧津山往来です。静かな通りが続きます。土曜日だからでしょうか? 人通りはほとんでありません。

旧街道の辻に道標がありました。「おたき道」とありました。駅前の「お瀧道」に続く案内でした。近くに「弓削保育園 往生 七面山お滝 泰山寺」の案内看板もありました。

通りをさらに進みます。かつては賑やかだった通りだったはずですが、町並みには空き地になったところもありました。前方の白い建物はZAGZAGです。正面の民家の前で右折します。

枡形になっています。正面のお宅の前で左折します。

その先で振り返って撮影しました。正面のお宅には「優良百貨 本 郡屋商店」と書かれています。左のお宅は本郷商店、杉本商店、近藤書店の順に手前に向かって並んでいます。

白壁の美しい近藤書店の角を右に進むと弓削小学校。近代的な校舎とは対照的に、石の校門が残っています。そして、その上には木製の校名標が架かっていました。

理容室の手前の庭園には、駅にあったと同じ「川柳のれん」がありました。「先人の 汗を河童が 語り継ぐ」。やはり、町の活性化は、川柳とカッピー君ですね。

理容室の前に掲げられていた幟(のぼり)です。「河童街道散歩道」と書かれていました。上之町に入りました。

空き地が目立ちますが、比較的新しいお宅が続いています。「母が待つ ふるさとがある 蒸(ふか)しいも」と川柳のれんがありました。

伝統的なうだつのあるお宅がありました。重厚な造りの門も印象的です。宿場町弓削の資料がないことを悔やみました。のれんの句は、「魚屋も 下駄屋もあった 弓削の町」

「河童街道散歩道」のマップがありました。街道沿いの商家の屋号が書かれていました。二葉屋さんにあったのれんには「川柳で 賑わい戻る
 宿場町」の句がありました。

国道53号への合流点が近づいて来ました。閉店されていましたが、かつての繁栄がしのばれる建物が残っていました。

国道への合流点。「活性化で再発見 川柳のれんのまち」の幟が見えました。旧街道には「よき時代 あったと孫と 旧街歩く」「松屋 懐古する 町へ暖簾の  顔がある」「のれんに賭ける 夢が大きく 町興し」という句もありました。

川柳のれんに書かれた句には、かつての繁栄をしのぶ句や、川柳での町興しへの決意や努力を詠った句が多かった印象です。かつて、津山往来の宿場町として繁栄していた頃の賑わいを、川柳とカッピー君で取り戻そうとしておられる人々の熱い思いを感じました。弓削駅の建設から2年後につくられたJR建部駅は、すでに文部科学省(文化庁)の「登録有形文化財」に登録されています。岡山県に現存する最古の木造駅舎であるJR弓削駅も、地域の活性化への力になればと感じたJR弓削駅の旅でした。







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