岡山県東部の和気郡和気町を通る鉄道がありました。
北部の柵原鉱山で採掘された硫化鉄を瀬戸内海の港町片上まで運搬するために、それまで、運搬の主流だった高瀬船にかわって敷設された片上鉄道です。昭和6(1931)年に
柵原までの全線が開通しました。
JR山陽本線、和気駅の南に片上鉄道和気駅がありました。
片上鉄道は、平成3(1991)年7月、全線が廃止されましたが、線路跡は平成15(2003)年から「片鉄ロマン街道」というサイクリング・ハイキングロードになっています。
今回は、「片鉄ロマン街道を走る」ことよりも、「かつての片上鉄道の線路跡をたどる」ことが目的でした。
この日は、JR和気駅から北に片上鉄道の線路跡をたどって、柵原方面に行くことにしていました。
線路跡は、吉井川に沿って北に向かっています。和気駅からJR山陽本線をまたいで進み、吉井川の支流金剛川橋梁を渡ります。昭和48(1973)年に建設された橋梁です。
「片鉄ロマン街道」と書かれています。
ロマン街道には、線路跡にかつての片上鉄道の雄姿を伝える写真が展示されています。
これは、橋梁脇に展示されていた、多くの貨車を牽引して橋梁を渡る貨物列車の姿です。
線路跡は住宅地に向かって下っていきます。下りきったところにあった勾配標です。
16.0パーミル、1000mで16メートルの登りであることを示しています。これは、金剛川橋梁に向かって行く側(和気駅に向かう側)にありました。
橋梁を下り、その先の住宅が並ぶ地域に「本和気」の駅標が設置されていました。しかし、ここは駅舎のあったところではなく、地元の方のお話しでは駅に隣接した倉庫があったところなのだそうです。
駅標のそばに展示されていた駅舎の写真です。当時はモダンな駅舎だったのですね。
かつての本和気駅舎は、少し先の現在北川病院がある場所に設置されていたそうです。線路の両側にホームがあり対向ができたそうです。近くにあった工場からの引き込み線も敷設されていて、かなり大きな駅だったということです。片上鉄道和気駅から1.5kmのところにありました。
右手の山に「和」の文字が見えました。送り火に使われる場所でした。
住宅地を抜けると鵜飼谷橋梁を渡ります。
橋梁にロマン街道の案内標識がありました。柵原と備前までの距離が表示されています。
その先の右側に鵜飼谷交通公園があります。交通公園の前には、列車の形をした掲示板(わけ号)と昭和44年・日本車輌製の貨車(ワム1805)が展示されていました。私は、ここでレンタサイクルをお借りして北をめざすことにしていました。
手動式信号機が交通公園に残されていました。
信号機の隣にあった「和気駅」の駅標です。
レンタサイクル置き場の近くにあった「通票閉塞器」(昭和24年11月製造)です。
300円を支払い、レンタサイクルをお借りしました。出発です。
交通公園を出たところに、益原(ますばら)駅標がありました。しかし、ここは益原駅跡ではありません。レンタサイクルのお世話をしてくださったシルバー人材センターの方がいわれた「益原駅跡は桜の木があるところですよ」を目印にして、田園地帯を進みました。
その先の左側に、葉っぱを落とした桜の木があるのが見えました。写真の建物があるあたりから左奥に駅舎があったようです。駅舎の右側の片面だけがホームになっていたようです。本和気駅から、1.5km。
益原駅跡からさらに田園地帯を進みます。やがて、吉井川沿いを走る国道374号線と並走
します。遠くに、新田原井堰(いせき)が見えました。
新田原井堰です。吉井川は流量の差が大きく農業用水の不足と洪水を繰り返してきました。それを解決したのが、岡山藩に仕えていた津田永忠が約300年前につくった田原井堰でした。そして、昭和61(1987)年に国営事業で完成したのが現在の新田原井堰です。ここで、吉井川の水をせき止め水利の調節をしています。
その先は、山を切り開いてつくった線路跡を走ります。
その先の左側に、天瀬駅跡がありました。益原駅から2.9kmのところでした。現在、駅標とともに駅舎やホームも残っていました。
駅の一角に中元将人氏の写真が展示してありました。平成3(1991)年4月11日の撮影です。柵原方面から和気方面に向かって撮影したようです。桜が満開でした。
天瀬駅を出ると、すぐに、右側の「招き猫」の像が見えました。工場の入り口に鎮座しています。お客さんを迎えているのでしょうが、片上鉄道の用心棒のような猫でした。
5分ぐらいで、第一天神山トンネルをくぐります。片上・清水間の峠清水トンネル以来二つ目のトンネルでした。長さ、40.23m。電車でくぐると、ほんとにあっという間にぬけてしまったことでしょう。抜けるとすぐに、次の第二天神山トンネルに入ります。
第二天神山トンネルです。こちらはさらに短く、26.94m。チャリでもあっという間の距離でした。
第二天神山トンネルの出口はすばらしい景色でした。トンネルの上に大きな岩がそそり立つ様は、まさに水墨画の世界です。
この写真は吉井川のもっと上流から撮ったものですが、トンネルのあった天神山です。山頂に、享禄4(1531)年から天正5(1577)年までこの地に拠った武将、浦上宗景の居城である天神山城がありました。岡山県史跡。美しい山容を吉井川に映しています。
トンネルを抜けた下り坂には、天・神・山・城・跡 の大きな看板が掛かっていました。
国道374号線と合流します。天神山城が建設されたため、この地に遷座してきた天石門別神社を過ぎます。
その先でロマン街道は、国道のやや広い歩道部分を走ることになります。しかし、かつての片上鉄道は、国道とは別にその北側を走っていたようです。
右の山の中腹にある和気町立山田小学校です。この先から山田小学校の下のあたりに河本駅があったようです。天瀬駅から1.8km。
その先で、ロマン街道は国道374号線を渡ります。片上鉄道は、ここで国道と交差していたのでしょう。
渡ったところにあった休憩所のあたりは、「大舟着川市跡」。先の天神山の写真はここから撮りました。天神山が屏風のように立っています。説明がなかったのでよくわかりませんが、市があったのでしょうか。ロマン街道は、ここから国道の左(西)側を国道に沿って進みます。桜並木の道でした。
10分ぐらい走ると和気町立佐伯中学校が左側に見えてきます。
その先にあったのが備前矢田駅。河本駅からここまで2kmでした。左側のホームがそのまま残っていました。
列車の形をした掲示板(さえき号)。
駅標もありましたが、駅舎は残っていませんでした。
ここにもかつての写真が掲示されていました。それを見ると、かつては線路が3線あり、左側のホームには待合室のような建物が、右側に駅舎があったことがわかります。左側のホームには大きな松の木があったといわれています。
備前矢田駅を過ぎて、左側にかつての信号機が残っていました。
見つけることができて、ラッキーでした。線路跡ばかりに注意を向けていましたので。
その先で、再度国道374号線を渡ります。国道の右側を進みます。
山の中に入ると、赤いロマン街道の標識がありました。「備前から20km」、かなり進んで来ました。
次の駅は旧井ノ口駅でした。しかし、この駅は、部分開通していた大正12(1923)年8月まで片上鉄道の終点でした。全線が開通した昭和6(1931)年には廃止されました。そのため、地元の人でも場所がわからなくなっているようです。備前矢田駅から1.1kmのところにあったそうです。結局、位置を特定することはできませんでした。
途中で、トイレのマークを見つけました。左側のやや低いところを平行して走る国道374号線にログハウス風のトイレがありました。ちょうどいいタイミングでした。
その先に、駅のホームのように見えるところがありました。埋め込まれたプレートを見ると、「南山方架道橋」、「竣工 昭和51年7月24日」と読めました。橋の下は道路です。一瞬ここが「井ノ口駅跡?」とも思いましたが・・・。もちろん絶対に違います。
次に、苦木(にがき)駅跡が見えてきました。備前矢田駅から3.9km、旧井ノ口駅からは2.8kmだったそうです。
苦木駅跡には、線路の両側にホームが残り、左側のホームに駅標が、右側のホームに駅舎と駅標が残っていました。
左側のホームを支えているのはレールでした。他にもレールが放置してありました。
駅舎の軒下に残っていた碍子。ここに電線が入って来ていたようです。
多くの駅跡に立てられている美化を呼びかける子どもたちのポスターがここにもありました。
左側のホームから見下ろした吉井川。
ここは「河ノ瀬の石堤(こうのせのいしづつみ)」が復元されているところです。片上鉄道が開通してからは衰退しましたが、吉井川を往来していた高瀬舟の最大の難所でした。急流と大きなカーブが原因でした。上流からの急流はここで右側にカーブします。岸にぶつかって、けがをしたり、積み荷を流してしまったりする事故が後を絶ちませんでした。この地の大庄屋、佐分利勘四郎らが、明治14(1881)年から16年間をかけて、幅10m、長さ116mの船通しをつくり上げました。それが、左側をまっすぐ流れる流路でした。
船通しの石垣は、平成10(1998)年の台風により多くが流されてしまいましたが、残った石垣を参考にして復元したものです。当時の苦労がしのばれます。
苦木駅を出て8分程度で、国道に沿った和気赤磐コンポストセンターに着きます。
その玄関前に杖谷駅跡がありました。コンポストセンターができる前には民家の庭先に待合室とホームが残っていたような状況だったようです。
杖谷駅跡の碑が建ててありました。苦木駅から2kmの所にありました。
鵜飼谷交通公園から1時間45分。ロマン街道の標識にしたがって進めば、容易に片上鉄道の線路跡をたどることができました。線路跡はこの先で、吉井川を渡り赤磐市に入ります。
北部の柵原鉱山で採掘された硫化鉄を瀬戸内海の港町片上まで運搬するために、それまで、運搬の主流だった高瀬船にかわって敷設された片上鉄道です。昭和6(1931)年に
柵原までの全線が開通しました。
JR山陽本線、和気駅の南に片上鉄道和気駅がありました。
片上鉄道は、平成3(1991)年7月、全線が廃止されましたが、線路跡は平成15(2003)年から「片鉄ロマン街道」というサイクリング・ハイキングロードになっています。
今回は、「片鉄ロマン街道を走る」ことよりも、「かつての片上鉄道の線路跡をたどる」ことが目的でした。
この日は、JR和気駅から北に片上鉄道の線路跡をたどって、柵原方面に行くことにしていました。
線路跡は、吉井川に沿って北に向かっています。和気駅からJR山陽本線をまたいで進み、吉井川の支流金剛川橋梁を渡ります。昭和48(1973)年に建設された橋梁です。
「片鉄ロマン街道」と書かれています。
ロマン街道には、線路跡にかつての片上鉄道の雄姿を伝える写真が展示されています。
これは、橋梁脇に展示されていた、多くの貨車を牽引して橋梁を渡る貨物列車の姿です。
線路跡は住宅地に向かって下っていきます。下りきったところにあった勾配標です。
16.0パーミル、1000mで16メートルの登りであることを示しています。これは、金剛川橋梁に向かって行く側(和気駅に向かう側)にありました。
橋梁を下り、その先の住宅が並ぶ地域に「本和気」の駅標が設置されていました。しかし、ここは駅舎のあったところではなく、地元の方のお話しでは駅に隣接した倉庫があったところなのだそうです。
駅標のそばに展示されていた駅舎の写真です。当時はモダンな駅舎だったのですね。
かつての本和気駅舎は、少し先の現在北川病院がある場所に設置されていたそうです。線路の両側にホームがあり対向ができたそうです。近くにあった工場からの引き込み線も敷設されていて、かなり大きな駅だったということです。片上鉄道和気駅から1.5kmのところにありました。
右手の山に「和」の文字が見えました。送り火に使われる場所でした。
住宅地を抜けると鵜飼谷橋梁を渡ります。
橋梁にロマン街道の案内標識がありました。柵原と備前までの距離が表示されています。
その先の右側に鵜飼谷交通公園があります。交通公園の前には、列車の形をした掲示板(わけ号)と昭和44年・日本車輌製の貨車(ワム1805)が展示されていました。私は、ここでレンタサイクルをお借りして北をめざすことにしていました。
手動式信号機が交通公園に残されていました。
信号機の隣にあった「和気駅」の駅標です。
レンタサイクル置き場の近くにあった「通票閉塞器」(昭和24年11月製造)です。
300円を支払い、レンタサイクルをお借りしました。出発です。
交通公園を出たところに、益原(ますばら)駅標がありました。しかし、ここは益原駅跡ではありません。レンタサイクルのお世話をしてくださったシルバー人材センターの方がいわれた「益原駅跡は桜の木があるところですよ」を目印にして、田園地帯を進みました。
その先の左側に、葉っぱを落とした桜の木があるのが見えました。写真の建物があるあたりから左奥に駅舎があったようです。駅舎の右側の片面だけがホームになっていたようです。本和気駅から、1.5km。
益原駅跡からさらに田園地帯を進みます。やがて、吉井川沿いを走る国道374号線と並走
します。遠くに、新田原井堰(いせき)が見えました。
新田原井堰です。吉井川は流量の差が大きく農業用水の不足と洪水を繰り返してきました。それを解決したのが、岡山藩に仕えていた津田永忠が約300年前につくった田原井堰でした。そして、昭和61(1987)年に国営事業で完成したのが現在の新田原井堰です。ここで、吉井川の水をせき止め水利の調節をしています。
その先は、山を切り開いてつくった線路跡を走ります。
その先の左側に、天瀬駅跡がありました。益原駅から2.9kmのところでした。現在、駅標とともに駅舎やホームも残っていました。
駅の一角に中元将人氏の写真が展示してありました。平成3(1991)年4月11日の撮影です。柵原方面から和気方面に向かって撮影したようです。桜が満開でした。
天瀬駅を出ると、すぐに、右側の「招き猫」の像が見えました。工場の入り口に鎮座しています。お客さんを迎えているのでしょうが、片上鉄道の用心棒のような猫でした。
5分ぐらいで、第一天神山トンネルをくぐります。片上・清水間の峠清水トンネル以来二つ目のトンネルでした。長さ、40.23m。電車でくぐると、ほんとにあっという間にぬけてしまったことでしょう。抜けるとすぐに、次の第二天神山トンネルに入ります。
第二天神山トンネルです。こちらはさらに短く、26.94m。チャリでもあっという間の距離でした。
第二天神山トンネルの出口はすばらしい景色でした。トンネルの上に大きな岩がそそり立つ様は、まさに水墨画の世界です。
この写真は吉井川のもっと上流から撮ったものですが、トンネルのあった天神山です。山頂に、享禄4(1531)年から天正5(1577)年までこの地に拠った武将、浦上宗景の居城である天神山城がありました。岡山県史跡。美しい山容を吉井川に映しています。
トンネルを抜けた下り坂には、天・神・山・城・跡 の大きな看板が掛かっていました。
国道374号線と合流します。天神山城が建設されたため、この地に遷座してきた天石門別神社を過ぎます。
その先でロマン街道は、国道のやや広い歩道部分を走ることになります。しかし、かつての片上鉄道は、国道とは別にその北側を走っていたようです。
右の山の中腹にある和気町立山田小学校です。この先から山田小学校の下のあたりに河本駅があったようです。天瀬駅から1.8km。
その先で、ロマン街道は国道374号線を渡ります。片上鉄道は、ここで国道と交差していたのでしょう。
渡ったところにあった休憩所のあたりは、「大舟着川市跡」。先の天神山の写真はここから撮りました。天神山が屏風のように立っています。説明がなかったのでよくわかりませんが、市があったのでしょうか。ロマン街道は、ここから国道の左(西)側を国道に沿って進みます。桜並木の道でした。
10分ぐらい走ると和気町立佐伯中学校が左側に見えてきます。
その先にあったのが備前矢田駅。河本駅からここまで2kmでした。左側のホームがそのまま残っていました。
列車の形をした掲示板(さえき号)。
駅標もありましたが、駅舎は残っていませんでした。
ここにもかつての写真が掲示されていました。それを見ると、かつては線路が3線あり、左側のホームには待合室のような建物が、右側に駅舎があったことがわかります。左側のホームには大きな松の木があったといわれています。
備前矢田駅を過ぎて、左側にかつての信号機が残っていました。
見つけることができて、ラッキーでした。線路跡ばかりに注意を向けていましたので。
その先で、再度国道374号線を渡ります。国道の右側を進みます。
山の中に入ると、赤いロマン街道の標識がありました。「備前から20km」、かなり進んで来ました。
次の駅は旧井ノ口駅でした。しかし、この駅は、部分開通していた大正12(1923)年8月まで片上鉄道の終点でした。全線が開通した昭和6(1931)年には廃止されました。そのため、地元の人でも場所がわからなくなっているようです。備前矢田駅から1.1kmのところにあったそうです。結局、位置を特定することはできませんでした。
途中で、トイレのマークを見つけました。左側のやや低いところを平行して走る国道374号線にログハウス風のトイレがありました。ちょうどいいタイミングでした。
その先に、駅のホームのように見えるところがありました。埋め込まれたプレートを見ると、「南山方架道橋」、「竣工 昭和51年7月24日」と読めました。橋の下は道路です。一瞬ここが「井ノ口駅跡?」とも思いましたが・・・。もちろん絶対に違います。
次に、苦木(にがき)駅跡が見えてきました。備前矢田駅から3.9km、旧井ノ口駅からは2.8kmだったそうです。
苦木駅跡には、線路の両側にホームが残り、左側のホームに駅標が、右側のホームに駅舎と駅標が残っていました。
左側のホームを支えているのはレールでした。他にもレールが放置してありました。
駅舎の軒下に残っていた碍子。ここに電線が入って来ていたようです。
多くの駅跡に立てられている美化を呼びかける子どもたちのポスターがここにもありました。
左側のホームから見下ろした吉井川。
ここは「河ノ瀬の石堤(こうのせのいしづつみ)」が復元されているところです。片上鉄道が開通してからは衰退しましたが、吉井川を往来していた高瀬舟の最大の難所でした。急流と大きなカーブが原因でした。上流からの急流はここで右側にカーブします。岸にぶつかって、けがをしたり、積み荷を流してしまったりする事故が後を絶ちませんでした。この地の大庄屋、佐分利勘四郎らが、明治14(1881)年から16年間をかけて、幅10m、長さ116mの船通しをつくり上げました。それが、左側をまっすぐ流れる流路でした。
船通しの石垣は、平成10(1998)年の台風により多くが流されてしまいましたが、残った石垣を参考にして復元したものです。当時の苦労がしのばれます。
苦木駅を出て8分程度で、国道に沿った和気赤磐コンポストセンターに着きます。
その玄関前に杖谷駅跡がありました。コンポストセンターができる前には民家の庭先に待合室とホームが残っていたような状況だったようです。
杖谷駅跡の碑が建ててありました。苦木駅から2kmの所にありました。
鵜飼谷交通公園から1時間45分。ロマン街道の標識にしたがって進めば、容易に片上鉄道の線路跡をたどることができました。線路跡はこの先で、吉井川を渡り赤磐市に入ります。