トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
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三条大橋から追分へ、旧東海道を歩く

2016年10月06日 | 日記

京都の三条大橋です。江戸から西に向かう旅人にとっての京への入口、江戸時代の東海道の終点でした。この日、私は地元のバス会社が企画した「中山道69次を歩く」というツアーに参加して、たくさんの仲間とともに、ここ三条大橋から、東海道が伏見街道(奈良街道)と分岐する追分まで、三条通りを歩くことにしていました。

中山道69次の68番目になる草津宿からは東海道と同じルートになります。今回のルートは、かつて、現在京都市営地下鉄になっている京阪電鉄京津(けいしん)線の跡地をたどって歩いたとき(2014年12月12日の日記)と、半分程度が同じルートになります。京津線は大正元(1912)年、浜大津駅までの11.2kmが開業しました。しかし、平成9(1997)年に、三条駅から御陵(みささぎ)駅までの区間が廃止され、京都市営地下鉄東西線になりました。写真は、現在京都市営地下鉄東西線に乗り入れている京阪電鉄京津線の車両です。

三条大橋の西詰にある、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で知られる弥次郎兵衛と喜多八の像を見ながら三条大橋を渡ります。東詰には京阪電鉄三条駅があります。慶長6(1601)年、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は、本拠地の江戸と京を結ぶ伝馬制度を創設しました。里程124里8丁(487.8km)を53の宿場で結んでいました。これが東海道です。ちなみに、53番目の宿場である大津宿(中山道では69番目)と三条大橋間は3里(12km)ありました。京阪電鉄三条駅でトイレをお借りしてから出発しました。

三条大橋の東詰から見た三条通りです。左側の建物は京阪電鉄の三条駅です。かつての京津線の京津三条駅は現在の三条駅の南(右)側の奥まったところにあったそうです。そこから大きく右カーブしながら三条通に出ていたそうです。

京阪電鉄京津線は、京都御所に向かって土下座する高山彦九郎像のあるあたりから三条通りに出ていました。この先は、東海道のかつての面影をたどって歩く旅になりました。

その先で白川を渡ります。白川橋を越えた右側(東詰南側)にあった道標です。「是よりひだりちおんゐんぎおんきよ水みち」と、京からの旅人に向けて知恩院、祇園、清水寺方面への近道を案内しています。北面には「三条通 白川橋」、南面「京都為無案内人旅人立之 延宝6年午3月吉日 施主 為二世安楽」と刻まれていました。延宝6(1678)年の建立で、京都に現存する最古の道標とされています。

その先、右側にあった「坂本龍馬 お龍 『結婚式場』跡」の石碑。元治元(1864)年8月初旬、ここにあった青蓮院の塔頭の金蔵寺の本堂で内祝言を挙げたそうです。お龍の亡くなった父が青蓮院に仕えた医師だったことから、この地が選ばれ、金蔵寺住職の智息院が仲人をつとめたそうです。二人の結婚については、一般には、慶応2(1866)年に西郷隆盛(中岡慎太郎という説も)の媒酌で行われたといわれていますが、明治32(1899)年のお龍の聴き取りを根拠にしている、こちらの説の方が信憑性が高いそうです。ちなみに、お龍は、明治39(1906)年に亡くなったそうです。

左側に平安神宮の赤い鳥居が見えました。さらに、先に進みます。

粟田神社の鳥居です。鳥居の前に「粟田焼発祥の地」の石碑が建っていました。この先、蹴上(けあげ)の近くに「粟田口」という地名が残っています。粟田口は「京の七口」の一つで、山科方面からの京への入口になっていて、室町時代には関銭を徴収していたようです。石碑にもあるように、粟田焼で知られていました。

建て替えられていますが、京の町屋風の民家が点在する道を歩いていきます。

蹴上の交差点にあるウエスティン都ホテル京都です。私たちに同行している案内の方のお話では、旧東海道はこのホテルの敷地内を通っていたそうです。

ウエスティン都ホテルに隣接している京都市の浄水場です。旧東海道はこの中も通っていたようです。

三条通りの左側に展示されているインクライン(傾斜鉄道)の線路の下の蹴上トンネルです。かつて、琵琶湖疏水を通って南禅寺の船溜(ふなだまり)に着いた船を、台車に乗せて坂を乗降させていました。これがインクラインです。蹴上トンネルはその下につくられています。蹴上から南禅寺に向かう小さなトンネルで、「ねじりまんぽ」と呼ばれています。中のレンガは南禅寺にある水路閣と同じ素材で、負荷に耐えられるように斜めに積まれています。「ねじり」は「ねじった」、「まんぽ」は「間歩」。大森銀山の坑道である「間歩」は「まぶ」と呼ばれていますが、「ねじれたトンネル」という意味なのでしょう。

「ねじりまんぽ」を過ぎると、日岡峠に向かって上っていきます。その先で、東山ドライブウエーの高架の下をくぐります。現在は繰り返し行われた掘り下げ工事でかなりなだらかになっていますが、江戸時代にはかなりの急勾配で、旧東海道の難所の一つでした。

これは、九条山バス停(道路の向こう側を撮影したもの)です。日岡峠を越えたあたりにありました。以前、京津線の跡地を歩いたとき、地元の方から「京津線の九条山駅は、九条山バス停付近にあった」とお聞きしていました。

三条通りの右側に「粟田口刑場跡」の説明版がありました。粟田口には、江戸時代に刑場が設置されており、磔(はりつけ)、獄門(ごくもん)、火刑(ひあぶり)などの重罪犯の処刑が行われる場でした。その所在地については、「京津線の旧九条山駅付近の山手側にあった」とか、「蹴上浄水場から京津線の九条山駅の間にあった」、「東山ドライブウエーの陸橋の西から、浄水場の東付近の間にあった」などと言い伝えられているそうです。この案内板は、最初にあげた「京津線旧九条山駅の山手側」に設置されているようです。

その先の山裾に「萬霊供養塔」(右側)、「南無阿弥陀仏」(左側)と刻まれた供養塔がありました。刑死した人々への供養塔だそうです。

その先で休憩になりました。旧東海道の難所を上り、下りしていた荷車の便宜のため、旧東海道には花崗岩の車石が敷かれていました。たくさんの牛車が通ったため、車石についた轍(わだち)の跡がくっきりと残っています。

ここは、京阪電鉄京津線の軌道跡だそうです。展示されているのは轍の跡のついた車石です。

これは、山科に掲示してあった車石の説明です。当時の運送業者の苦労がしのばれます。

この先で三条通りは大きく左にカーブします。旧東海道はここで三条通りから離れ、右側の細い通りに入ります。

三条通から別れ、旧東海道に入りました。旧東海道は「大海道」であり、「道幅6間(10.8m)」と規定してされていましたが、実際には川崎宿から保土ヶ谷宿の間が3間(5.4m)で、それより西は2間から2間半(3.6mから4.4m)となっていたようです。ここの道幅も3~4mぐらいです。当時の雰囲気を感じる通りになっています。

道路の右側にあった「旧東海道」の標石。

民家の壁につくられた「旧東海道」の案内板です。東海道の道筋では案内がとてもていねいです。地元の人々の東海道に寄せる思いを感じます。

しばらく進むと公園の中の道を渡ります。思い出しました! 京阪電鉄京津線の線路跡の公園「稜ヶ岡みどりの小径」です。かつて歩いた道でした。ここは横断して道なりに進みます。

その先で三条通りに合流して右方面に進みます。正面にJR琵琶湖(東海道)線の高架が見えます。

そして、陵ヶ岡みどりの小径と合流します。冠木門がある公園の出入口で休憩します。写真の中央にセブンイレブンがありますが、京都市営地下鉄東西線はこのセブンイレブンの向こう側で、地下から地上に上がっています。

再度、出発しました。三条通りを先に進み、JR琵琶湖線の高架下をくぐります。三条通りを進んでいきます。

三条通りです。道標もたくさん設置されています。

山科駅前方面に向かって歩きます。一緒に行った人たちの歩く姿が見えます。

進行方向右側に「五条別れ道標」がありました。北面に「右ハ 三条通」、東面に「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大仏 今く満きよみず道」、 西面「願主 沢村道範建立」、南面「宝永四丁亥年十一月吉日」と刻まれています。ここから、左に進めば 五条橋 今熊野観音寺、方広寺の大仏 清水寺付近にいたる さらに西に進むと 東本願寺 西本願寺に行くことができる道」と、大津方面から来た旅人に、五条橋 伏見方面への近道を示しているのだそうです。宝永4(1707)年に沢村道範によって建立されたものだそうです。

その先、旧東海道の左側にあった愛宕常夜灯です。これも、旧街道時代の面影を今に伝えてくれています。

山科駅前交差点の手前、進行方向の左側のビルの下に「旧東海道」の石碑がありました。

山科駅前の通りを越えて進みます。道路幅は広く交通量も多いのですが、それでも旧街道の雰囲気が伝わってきます。

住居表示です。「安朱東海道町」と書かれています。「東海道町」とはめずらしいと思い撮影しました。しかし、帰宅してから調べると「とうかいどうまち」ではなく、「ひがしかいどうちょう」でした。正しくは「あんしゅひがしかいどうちょう」と読むそうです。

徳林庵山科地蔵です。京の旧街道の入口、六カ所にある地蔵尊で、六地蔵と呼ばれています。六地蔵は天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道に迷い苦しむ人々を救済するために発願された仏様のことです。この六地蔵は、保元2(1157)年、伏見六地蔵の地にあったものを、この地に移して安置し、以後、東海道の守護仏になったそうです。

三井寺観音への道との別れ道。このまままっすぐ進むのは「小関越え」で、大津宿へ向かうメインルートである逢坂峠越えのコースになります。

旧街道沿いにあった車石です。ここに掲示されていた絵を最初の車石の説明のところで使わせていただきました。このあたりは大津市横地一丁目。いつの間にか、大津市に入っていました。

目の前に国道1号線が迫って来ました。旧東海道が国道1号線の擁壁のために行き止まりになりました。

その先にあった案内板です。旧東海道を進む人は、60m先を横断陸橋を使って渡るように案内がなされています。

横断陸橋に上りました。下に見えている通りが、歩いてきた旧街道です。

こちらは、その延長線上の通りです。自動車展示場の前から分断された旧街道が復活しています。

このあたりが追分です。東海道と伏見街道が分岐するところです。逢坂の関から1kmほど京都側に下ったところに位置していますが、古くから諸国の産物が行き交い、その荷馬を「追い分ける」ところから「追分」の地名になったといわれています。江戸時代には、ここ追分から逢坂の関にかけては、人家や土産物を売る店や茶店が立ち並び、大変な賑わいだったようです。


三条大橋の下の三条河原で昼食を済ませてからスタートした旧東海道を歩く旅でしたが、追分に着く頃には、秋の日はすでに陰っていました。ここまで、約7km。休憩を十分とりながら歩いて来たせいか、全員が余裕をもって到着したようです。この先でバスに乗車して帰路に着くことになっています。

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