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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

国鉄の最短路線だった小松島線の跡地を歩く(2)

2018年06月04日 | 日記

小松島市が整備した「小松島ステーションパーク」の一角にある「SL記念広場」に展示されているC12280号機とオハフ50272客車です。ここは、かつて小松島港と徳島駅を結んでいた国鉄小松島線の小松島駅の操車場があったところでした。大正2(1913)年、阿波国共同汽船(あわのくにきょうどうきせん)が小松島港と徳島駅間に敷設した鉄道は、開業当初から国が借り上げて小松島軽便線として営業を始め、その翌年の大正6(1917)年には国有化されました。一方、阿南鉄道が、大正5(1916)年、軽便線の途中にあった中田(ちゅうでん)駅を起点に開業させた鉄道は、その後、昭和11(1936)年に国有化され牟岐線となりました。そして、昭和36(1961)年に小松島線と牟岐線の起点が変更され、小松島線の起点は中田駅となりました。こうして、小松島線は、全長1.9kmの国鉄の最短路線となりました。そして、民営化される前の昭和60(1985)年に廃止されました。

前回は、JR中田駅から小松島駅跡に整備されている「小松島ステーションパーク」まで歩きました(「国鉄の最短路線だった小松島線の跡地を歩く(1)」平成30年5月31日の日記)。写真は、小松島みなと合同庁舎(以下「合同庁舎」)です。小松島駅の駅舎とホームは、この敷地内に設置されていました。今回は、小松島駅跡から小松島港仮乗降場の周辺を歩きました。「仮乗降場」というのは、国鉄時代に、各鉄道管理局が利用者の便宜を図るため独自の判断で設置した乗降場でした。営業キロの設定がなく、全国規模の時刻表に記載されていない、いわゆる「幻の駅」でした。国鉄の赤字ローカル線が廃止されたときに、消滅したものが多かったそうです。

前回、SL記念広場、たぬき広場、合同庁舎と進んできました。写真の左側に一部写っている白い建物は、道路をはさんで向かいにあるミリカホール(小松島市保健センター)です。その先、港に向かって撮影しました。左側に切妻屋根の倉庫がありました。

交差点の手前左側、切妻倉庫のあるバスセンターの一角に、「国鉄」と書かれたコンテナが置いてありました。

コンテナがあったところの交差点の中央から見た左(北)側の風景です。錆がついているのか、茶色をした倉庫が見えました。このあたりに、小松島港仮乗降場の駅舎やホームがあったといわれています。

その先にある岸壁の向こうにデッキ広場がありました。

デッキ広場から見た南海フェリーの乗り場の跡です。現在は海上保安庁の巡視船が停泊していました。また、左側に、かつて、南海フェリーの乗船場であった、現在の小松島みなと交流センター(Kocolo)の建物が見えました。小松島港と和歌山港を結ぶ航路は、昭和31(1951)年に南海観光汽船(後に南海汽船)によって開設されましたが、昭和50(1975)年からは南海フェリーが運航するようになりました。

平成11(1999)年に、南海フェリーの航路が徳島港・和歌山港間に変更され、小松島港から撤退することになりました。小松島みなと交流センターは、デッキ広場の手前を左折して海に沿って北に向かって進んだところにありました。内部は、市民が制作された作品などを展示・販売するお店が並んでいます。お店の方にお聞きするとフェリーには「2階から乗車するようになっていた」とのことでした。

階段を上がって2階から撮影したフェリー埠頭の写真です。"JAPAN COAST GUARD" と側面に書かれた巡視船の「よしの」(左側)と「びさん」(右側)が停泊していました。埠頭にあった施設は、乗船のときに使用されていたものだそうです。

来た道を引き返して、合同庁舎の脇に戻りました。今度は小松島港仮乗降場の跡地をめざして、合同庁舎の脇の通路からミリカホールの手前を左折して北にむかって歩きました。左側に合同庁舎、右側にミリカホールを見ながら進むと、すぐに、右側に4階建ての集合住宅が見えました。

これが4階建ての集合住宅です。その先に、三角形のような形をした白色の建物がありました。壁面に「南海鶏飯(チキンライス)」と書かれています。

ちょうど、作業車が横付けされて樹木の伐採作業の最中でした。作業車や雑草で見えなかったのですが、ここが、小松島駅から小松島港仮乗降場へ向かう鉄道の線路があったところです。前回訪ねた小松島駅は、単式ホーム2面2線でした。その内の1線は中田駅側に寄ったところ、現在のたぬき広場があるあたりで分岐して小松島港仮乗降場へと向かっていたようです。その線路がここにつながっていたそうです。

この写真は、三角形のような形をしたお宅の前を抜けたところから振り返って撮影したものです。雑草に覆われていて地面がどうなっているか確認することはできませんでした。

その先を撮影しました。右側に先ほどの集合住宅、道路の先には南海フェリーの乗船場だった小松島みなと交流センターがあります。左側には、小松島港仮乗降場跡がありました。小松島港仮乗降場は、昭和15(1940)年、小松島駅構内に小松島港に上陸した貨物や旅客の輸送のために設置されました。昭和31(1956)年に、南海汽船が小松島港・和歌山港間に南海四国ラインを開設しました。南海フェリーが就航したのは、南海汽船から業務を引き継いだ昭和50(1975)年のことでした。

この道をまっすぐ進んだ先に、南海フェリー乗船場(小松島みなと交流センター)がありました。乗船場の手前に南海フェリーの看板が残っています。かつては「ちっか」(ちくわ)を売る女性の声がにぎやかだったといわれています。

小松島港仮乗降場に向かう線路は、道路を斜めに横断して中央の樹木の左側に向かっていました。車止めの手前の地面に線路跡を思わせる2本の亀裂が見えました。不思議なことに線路跡と位置が同じなのだそうです。線路の右側にはワシントンヤシの並木がありました。道路と線路を区別するために植えられたそうです。左の建物は手前がベルモニー会館小松島新港、その後ろに、バスセンターの交差点から見えた切妻屋根の茶色の倉庫がありました。このあたりに、小松島港仮乗降場があったそうです。その左側には道路をはさんで港がありました。

かつての写真をみると、切妻造りの駅舎には「和歌山、大阪なんば方面 南海フェリーのりば」と書かれた看板がありました。降車した乗客はフェリー乗り場に向かって、そのまま進行方向に歩いていたそうです。仮乗降場は「全国規模の時刻表には記載がない」と冒頭に書きましたが、小松島港仮乗降場は「臨時駅」と表記されて、時刻表にも掲載されていたそうです。小松島港仮乗降場跡の裏に回ります。あちらこちらに、釣りをしている人の姿が見えました。港と対岸の倉庫群です。

そこから東側を撮影しました。右側の切妻倉庫の左に停泊している船舶が見えています。南海フェリーは、就航から24年間後の平成11(1999)年、航路を和歌山港・徳島港間に変更するまで、輸送を続けました。

右側に小松島みなと交流センターの一部が、そして、中央に巡視船「よしの」が見えました。正面左に見えるのは徳島県内航海運組合の建物ですが、釣りをしておられた方のお話では「昔はもっと岸壁が近くて、この先には建物はなく、ホームの先端からすぐ先はもう岸壁だった」そうです。

小松島みなと交流センター付近から見た仮乗降場跡です。倉庫の近くの一段高くなっているところがホーム跡、その左側の部分が線路が敷設されていたところのようです。小松島仮乗降場は、小松島駅から300mのところに設置されましたが、構内駅としての扱いでした。出札口もあり、切符の販売もしていましたが、販売していた乗車券には「小松島駅発行」と書かれていたそうです。単式ホーム1面1線のホームでしたが、「機回し」のためにもう1線、線路が敷設されていたそうです。

国鉄の最短路線であった小松島線の跡地、1.9kmを歩いてきました。しかし、かつての面影を残す遺産はほとんどなく、当時のようすをイメージすることは難しいことでした。線路跡を歩かれた先人の記録と地元の人々の記憶が頼りでした。それでも、まだ、わからないところがたくさんあり、すっきりしない気持ちが残っています。




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