
”四国三郎”の愛称をもつ吉野川の右岸の深い渓谷を見下ろす位置につくられたJR土讃線の大歩危(おおぼけ)駅です。徳島県三好市西祖谷村徳善西にあります。写真の左下にホームの上屋と駅舎が見えます。駅舎の背後には四国山地の山々が連なっています。そそり立つ急斜面にしがみつくように民家の屋根が点在しています。

大歩危駅前からは、祖谷のかずら橋に向かう四国交通のシャトルバスが発着しています。

ホームで下車した訪問客を駅舎への入口で迎えているのは、平成23(2011)年4月から駅長に就任している妖怪の「子泣き爺(こなきじじい)」のモデルになった「児啼爺(こなきじじい)」の木像です。かつて、ここには、帽子を被ってきちんと正座して駅長の「児啼爺」とともに観光客を出迎えていた柴犬の「虎太朗(こたろう)」の姿もありました。虎太朗は、児啼爺の駅長就任から3ヶ月後の平成23(2011)年7月、2歳のときに、助役に就任し、毎週日曜日の午前9時から1時間、勤務していました。しかし、残念ながら、平成25(2013)年11月に「ストレスのため」(案内所スタッフのお話)に退任しています。

この写真は、木像の「児啼爺」の前から見た吉野川の対岸に連なる山々です。駅事務所を改装してできた観光案内所(「ほっと案内所」)の女性スタッフのお話では、「中央の山の右側のあたりが児啼爺の故郷で、そこにあるあざみ峠(あざみのたわ)には、児啼爺の石像と妖怪研究家である直木賞作家、京極夏彦氏の書かれた石碑がつくられています」とのことでした。

ホーム側から見た駅舎です。児啼爺の右側、「ほっと案内所」の入口のドア付近に樹木がありました。コンクリートのたたきと駅舎との間の狭い空間にカエデの木がありました。女性スタッフのお話では「最初は、1枚のもみじの葉ぐらいの大きさで、ほんとうに小さかったんです」。少し大きくなってから、大歩危駅を管理する兵藤文市阿波池田駅長が命名された「ど根性もみじ」でした。エアコンの排水で育ったといわれています。なお、兵藤駅長は、今も現役の阿波池田駅長で「この日も、朝は大歩危駅に来られていたよ」とのことでした。

地元の人々に見守られて来た「ど根性もみじ」ですが、最近、心配な状況に陥っています。写真は「ど根性もみじ」の根元の部分です。見ると、大きな穴が空いており、そこから蟻が出て来ていました。女性スタッフは「ど根性もみじが危機的状況です」とおっしゃって、この穴から、蟻除剤をスプレーしておられました。「2週間ぐらいで枯れてしまうのではないか」と言われる方もいて、危機感を募らせておられました。

岡山駅から乗車したJR高知駅行きの「特急南風1号」(右側)は、途中の宇多津駅で高松駅から来た「特急しまんと3号」を併結して、8時50分頃、大歩危駅2番ホームに到着しました。アンパンマン列車の岡山行き「南風6号」の到着を待って出発していきました。2面3線の大歩危駅ですが、発着ホームは特に一定していないようです。多くの特急列車は1番ホームから発着していました。上に見えるのは、吉野川に架かる大歩危橋です。

2番ホームに、かずらでつくった橋のオブジェが展示されています。その向こうには、ホームの上屋と「らぶらぶベンチ」があり、待合いのスペースになっていました。土讃線は、明治22(1889)年、讃岐鉄道によって丸亀駅・多度津駅・琴平駅間が開通したことに始まります。その後、国有化され高知側からも工事が行われて、昭和10(1935)年に多度津駅・須崎駅間が開業、そして、昭和26(1951)年には窪川駅までが開通して、全線開業となりました。大歩危駅は、昭和10(1935)年に三縄駅と豊永駅間が開業したとき、阿波赤野駅として開業しました。大歩危駅になったのは、15年後の昭和25(1950)年のことでした。大歩危駅は、祖谷地方への入口の役割も果たしています。ちなみに、「大歩危駅」は珍名として知られています。大歩危の「歩危(ぼけ)」は「切り立った崖」を表しており、付近の地形から名づけられたといわれています(「おもしろ地名・駅名歩き事典」村石利夫著 みやび出版)。

駅名標です。小歩危駅から5.7km、次の土佐岩原駅まで7.2kmのところにあります。次の土佐岩原駅への途中で、全長4,179mの大歩危トンネルで県境を越えて高知県に入ります。また、土讃本線(当時)の沿線は土砂崩れなどの災害の多発地帯で、土讃本線ならぬ「土惨(ドサン)本線」と言われていました。そのため、国鉄は、川に近いところを通っていた路線から、トンネルを抜けるルートへの転換を図って来ました。大歩危トンネルは、昭和61(1986)年犬伏トンネル(6,012m)を抜けるコースに変更されるまで、四国の鉄道で最長のトンネルでした。

2番ホームにある「祖谷のかずら橋 ここで下車して下さい」と書かれた案内板です。ホームのオブジェやこの案内から、かずら橋など祖谷地方を訪ねる観光客がたくさんいらっしゃることがわかります。ちなみに、大歩危駅の1日平均乗車人員は、73人(2014年)だそうです。

構内踏切を渡った3番ホームの吉野川側に「展望台」がつくられていました。吉野川の渓谷が見えました。白い岩肌に映える木々の緑のコントラストがすばらしかったです。

展望台への入口付近から見た駅舎です。現在は上屋を金属で覆っていますが、木造平屋建ての駅舎です。ホーム寄りの屋根に「大歩危駅」と大きく書かれているのが見えました。

駅舎に入ります。まず、目に止まったのが、上敷を張った1畳ぐらいの台でした。少年の頃やっていた縁台将棋を思い出しました。縁台に座って世間話をするという雰囲気の待合いスペースでした。 大歩危駅は平成22(2010)年から無人駅になっていて、近距離の乗車券と自由席特急券を販売する自動券売機が設置されていました。

駅事務所を改装した「ほっと案内所」です。待合室側の右側にあるのが自動券売機です。駅が無人化されたとき、地元の人たちは「JR大歩危駅活性化協議会」を結成し、平成23(2011)年から、72人の住民によって案内所への改装が行われました。また、児啼爺駅長や虎太朗助役の任命も行われました。住民の方々がこのような行動を起こしたのは、「特急が停車する駅に、迎える人がいない!」という状況に危機感をもったからだったそうです。平成27(2015)年からは、三好市観光協会が運営するようになっています。

駅前広場からから見た駅舎です。右の建物はトイレです。

駅舎の横から始まる側線に駐車していた保線工事用車両です。車両の側面には、「Plasser & Theurer 」と書かれています。1953(昭和28)年に設立されたオーストリアの線路工事用重機メーカーの企業名(「プラッサー & トイラー」)でした。大歩危駅に常駐している訳ではないそうで、いつ移動するかなど「詳しいことは阿波池田の保線支区に問い合わせてみないとわからない」とのことでした。

この日、もう一つ、道の駅大歩危(ラピス大歩危」)にある「妖怪屋敷」を訪ねたいと思っていました。駅舎から坂道を上ります。「歩危(ぼけ)マート2号店」の店舗が両側に並んでいます。食料品や土産物を扱い、そばも食べることができる旨の案内も書かれていました。

上り坂の途中からみた駅前のロータリーです。さほど広くはない駅前広場でしたが、駅に向かう車は大きく右カーブして入っていました。

上りきったところが大歩危大橋。祖谷地区に向かうため、右側から大歩危大橋を渡ってやって来た車は、この三差路で右にカーブして、この道をまっすぐ向こうに進んでいきます。徳島県道45号西祖谷山山城線です。

大歩危大橋です。大歩危駅に到着したとき、ホームの上を跨ぐように架かっていた橋でした。駅で助役をつとめていた柴犬の虎太朗は助役を引退した後、この橋を渡った付近のお宅で元気に過ごしているそうです。

大歩危橋の上から見たJR大歩危駅の全景です。2面3線のホームと阿波池田駅方面の光景です。保線工事車両は、右側の駅舎の手前側にある側線に駐車しています。

橋のこちら側が、三好市西祖谷村徳善西、橋を渡った向こう側、吉野川の対岸が三好市山城町です。山城町は県境の町で、西は愛媛県、南は高知県と接しています。四国山地の山深いところにある町でした。大歩危橋を渡ると、国道32号に出ます。右折して阿波池田方面に向かって歩きます。

道の左側に「大歩危診療所」と書かれた案内標識があるところに「赤野台 山岳武士 木地師の里 国境武士の道 登り口」と書かれた看板が見えました。約700年前から、国境を守る武士たちは、徳島県最西端に位置し、土佐国、伊予国と国境を接するこの地域に、急斜面を開墾して村をつくって来ました。全国有数の地滑り地帯の急峻な斜面にある村で、身を守るのが難しく一歩あやまれば命を落としてしまう危険なところでした。平地が少ない土地のため、生活を続けていくにも厳しいところでした。

大歩危峡です。源流を愛媛県の瓶が森(かめがもり)に発する吉野川のつくったV字谷が、小歩危峡まで6kmに渡って続き、奇岩が連なっています。山城町は「児啼爺」だけではなく多くの妖怪伝承が残っているところです。厳しい地理的な条件の下で生きてきたことによります。崖や淵など事故や災害の多いところには、必ず妖怪伝承が残っています。これは、危険から子どもを守るために、この地に生きた人たちが、妖怪伝承を子どもの教育に利用してきたからでした。

山城町は、昭和30年代には1万5,000人であった人口が、現在では3,000人を切るような状況になっています。町の活性化をめざし、平成10(1998)年、地元のボランティアグループ「藤川会」の人たちを中心に、町の魅力を再発見する活動を始めました。その時に着目したのが妖怪伝承でした。

地元の人たちは、平成13(2001)年、全国に呼びかけ「児啼爺」の石像を建てました。それが、駅の観光案内所のスタッフの方からお聞きした、あざみ峠の石像でした。児啼爺は、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる「子泣き爺」のモデルで、「爺さんみたいな顔をしているが、赤ちゃんみたいな声で泣く。山の中で泣いているのでかわいそうだと思って抱いたらどんどん重くなってくる」のだそうです。

大歩危橋から徒歩20分ぐらいで、道の駅大歩危の駐車場に着きました。大きな「妖怪屋敷」の看板がありました。看板の下で、突き出た大きな鼻をもった妖怪、オオテングの木像が立って訪問客を迎えています

道の駅大歩危への入口です。地元の人々の活動はさらに続きます。地元の諸団体が結集する形で、平成20(2008)年に「四国の秘境 山城・大歩危妖怪村」を結成しました。そして、その年、世界妖怪協会(水木しげる会長)から「怪遺産」に認定されました。山城町の妖怪は50種、妖怪伝承のある場所は110ヶ所以上という妖怪の多さが、認定の大きな理由でした。また、民俗学者、柳田国男の著書である「妖怪名彙(ようかいめいい)」(昭和13年発行)の中に、山城町の妖怪4種類が掲載されていることも影響したといわれています。

道の駅の内部です。道の駅の「妖怪屋敷」がつくられたのは、平成22(2010)年のことでした。地元の人々の活動の賜物で、道の駅の利用者は着実に増加しているとお聞きしました。500円で入場料を購入して入場しました。

入口にいたのは、予想通り「児啼爺」でした。さて、柳田国男の「妖怪名彙」に掲載された山城町の4種類の妖怪は、「コナキジジイ」、「タカニュウドウ」、「ヤギュウサン」と「クビキレウマ」でした。「タカニュウドウ」は「下から見れば段々背が高くなり、上から見下ろせば、しだいに小さくなる」といわれ、地元にある大日如来像の前で山伏が供養を行ってからは出現しなくなったそうです。「ヤギュウサン」は、「クビキレウマ」という首のない馬に乗って現れる妖怪で、「これに会うと蹴り殺されるので親の言葉を守って、わがままを言ってはいけない」と教えられて来たそうです。
JR土讃線の大歩危駅周辺を歩いてきました。
雄大な自然の中を歩き、愛媛県や高知県の県境に近い厳しい環境の中を生きてきた人たちが、子どもの安全や命を守るために伝承してきた妖怪に触れた旅でした。地域の活性化のために尽力する人々の工夫と努力に触れる旅にもなりました。