岡山市の西川筋と新京橋から西に向かう旧2号線が出会う、瓦橋の交差点の近くに、蔭凉寺という寺があります。
境内にある「水墓」は縁結びに御利益があるとして、若い女性の信仰を集めています。

その水墓は、参道の突き当たりにある石像の三重の塔です。
延宝元(1673)年11月27日、岡山藩士水野定之進は、朋輩の安宅彦一朗を切ったことで、蔭凉寺で切腹しました(説明によれば、享年22歳だったようです)。水野家の従僕七助は、主人定之進の菩提を弔うため、この寺の一隅に住んで、当時の庶民の飲料水であった西川の水を濾して、城下で売って歩いたそうです。
こうして少しづつ蓄えたお金で、主人の七回忌にこの三重の供養塔を建立したといわれています。
君ゆへに 身を黒々と染めなして
朝夕声をからす鳴くなり
説明には「七助の狂句」と書かれています。カラスの黒と「真っ黒になって働いた」と「カラス」と「声をからす」を掛けていて、狂句らしい作品ですが、自分のことを誇るような句を、七助は自分で作ったのでしょうか?どうも、彼の生き方からすると、違うような気がしてなりません。
後年、岡山藩主池田綱政は七助の行いをたたえ、出身地(現赤磐市山陽町馬屋)にちなむ、「馬屋三右衛門」の姓を与えたといわれています。

この蔭凉寺は、「寛永9年、当時の岡山藩主池田忠雄の師である江山和尚隠栖の寺として、忠雄が建立した寺院です」。
(ご指摘により訂正させていただきました。)
江戸時代には、西川にかかる八ノ橋から九ノ橋まで、100メートル近い敷地を持っていました。
お恥ずかしいことですが、長年岡山市に住んでいたのに、この話をまったく知りませんでした。町を歩いていると、こういう収穫が時々あって得した気分になります。
境内にある「水墓」は縁結びに御利益があるとして、若い女性の信仰を集めています。

その水墓は、参道の突き当たりにある石像の三重の塔です。
延宝元(1673)年11月27日、岡山藩士水野定之進は、朋輩の安宅彦一朗を切ったことで、蔭凉寺で切腹しました(説明によれば、享年22歳だったようです)。水野家の従僕七助は、主人定之進の菩提を弔うため、この寺の一隅に住んで、当時の庶民の飲料水であった西川の水を濾して、城下で売って歩いたそうです。
こうして少しづつ蓄えたお金で、主人の七回忌にこの三重の供養塔を建立したといわれています。
君ゆへに 身を黒々と染めなして
朝夕声をからす鳴くなり
説明には「七助の狂句」と書かれています。カラスの黒と「真っ黒になって働いた」と「カラス」と「声をからす」を掛けていて、狂句らしい作品ですが、自分のことを誇るような句を、七助は自分で作ったのでしょうか?どうも、彼の生き方からすると、違うような気がしてなりません。
後年、岡山藩主池田綱政は七助の行いをたたえ、出身地(現赤磐市山陽町馬屋)にちなむ、「馬屋三右衛門」の姓を与えたといわれています。

この蔭凉寺は、「寛永9年、当時の岡山藩主池田忠雄の師である江山和尚隠栖の寺として、忠雄が建立した寺院です」。
(ご指摘により訂正させていただきました。)
江戸時代には、西川にかかる八ノ橋から九ノ橋まで、100メートル近い敷地を持っていました。
お恥ずかしいことですが、長年岡山市に住んでいたのに、この話をまったく知りませんでした。町を歩いていると、こういう収穫が時々あって得した気分になります。
1点だけ、ご訂正頂けたらと思います。
弊寺は寛永9年、当時の藩主:忠雄の師である江山和尚隠栖の寺として忠雄が建立した寺院です。なので寺紋も旧岡山池田の横揚羽です。(國清寺など、旧鳥取池田は揚羽蝶を正面から見た輪蝶です)
以上、よろしくお取り計らいください。 合掌
遅くなってしましましたが、本日訂正いたします。ご迷惑をお掛けしたこと心からお詫びもうしあげます。