トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

岡山市の地名由来碑を歩く(4) 旧瓦町 旧下田町 旧桶屋町

2011年01月01日 | 日記
岡山市街地を南北に流れる西川には、江戸時代、
一ノ橋から十二ノ橋まで、12の橋が架けられていました。

平成3年に岡山市が設置した、
「岡山城下町の地名由来碑」をたどりながら、
西川の流れをさかのぼって、南から北に歩きました。

今回は、新京橋から西に向かう旧2号線が、
西川をまたぐところにかけられた九ノ橋、
瓦橋からスタートして、桃太郎大通りまでを歩きました。

   
現在の瓦橋は、当然ですが、江戸時代よりも
ずいぶん広くなっています。
瓦橋という名を探しましたが、なかなか見つからず、
やっと信号機のそばに見つけました。


橋の名の由来は、瓦町から付けられたようです。
江戸時代、九ノ橋の東側は瓦町となっていて、
「かわらし」の次郎左右衛門、左兵衛、清右衛門らが
住んでいたということです。

岡山市が設置した「旧瓦町」の地名由来碑は、
旧2号線の北側、西川よりも東の歩道の、
花壇の中に設置されています。


絵図からは、九ノ橋の両側には木戸があったことがわかります。
また、九ノ橋の西は、「庭瀬口」まで
足軽屋敷が並んでいたこともわかります。
岡山城の外堀にかかる大雲寺町口門から西に向かって九ノ橋に来た庭瀬往来は、
庭瀬口で岡山城下町を出て、庭瀬から倉敷、鴨方に向かっていました。

また、北から流れてきた西川は、九ノ橋のところで、
まっすぐ南に流れる枝川を分流して、
西川自身は南東方面に向かって流れていきます。

枝川沿いは、西川から続く緑道公園として、整備されています。


九ノ橋を左に見、八ノ橋をめざして北に向かいます。
江戸時代には、西川沿いの西側の道が
まっすぐ南北につながっていましたが、
緑道公園が整備された現代では、
東側の方が、歩きやすくなっています。

すぐに、蔭凉寺の山門が東側に見えて来ます。
寛永9(1632)年、池田光政が鳥取から移って来たとき、
いっしょに岡山にやってきた寺です。
絵図では、九ノ橋から八ノ橋までの広大な寺域を持っていました。

蔭凉寺を過ぎると、橋の手前左側に、
三叉(三俣)川の取り入れ口が見えてきます。
絵図では、三叉川は「野田川」と書かれています。
ここから、西に流れ、城下町の西部の村を潤す農業用水でした。

その先が、薬研堀橋、江戸時代の八ノ橋です。
蔭凉寺の境内に、薬研堀橋のかつての標柱が残っています。

薬研堀橋の写真の奥には、下田町公園が見えています。
この中に、「旧下田町」の地名由来碑が建っています。
このあたりは、かつて農地であったところを、
侍町に替えたことから田町と名付けられたところです。
中級武士の屋敷が続いていました。

七ノ橋は、あくら通りの出石橋です。
   
七ノ橋の東側は、西田町、その東は、東田町、
下級武士の屋敷や足軽屋敷でした。

橋の対岸の下石井公園の前には、
「西川筋」の地名由来碑が建っています。

六ノ橋は、県庁通り(平和橋)の一つ南に架かっている、
幸(さいわい)橋です。 

上の絵図では、東側の道からまっすぐつながっていましたが、
現在は、少し鍵形にまがって橋に行くようになっています。

五ノ橋は、野殿橋です。 

八ノ橋からずっと侍町が続いていましたが、
この橋の手前から野殿町(現・平和町)の町人町になります。
江戸時代の前期までは、西国往来(山陽道)は、
東の上ノ町方面からこの橋を通って西に抜けていて、
野殿口(市役所筋に面したみずほ銀行のあたり)から
城下町を出ていっていました。
そして、津高郡野殿村を経て笹ヶ瀬川にかかる野殿橋をわたって、
備中の国に向かっていました。  
町名は野殿村へ行く道ということから命名され、橋の名もそれに
ちなんでいるようです。

絵図を見ると、野殿口までは武家地が並んでいました。

野殿町の北は桶屋町、現在の平和町です。
野殿橋のすぐ北の、西川の東岸に、旧桶屋町の地名由来碑が建っています。
町人町で小早川秀秋の時代に成立した町といわれています。

平和町まで来れば、すぐに西川交番です。
桃太郎大通りに着きました。

<参考>
 「絵図で歩く岡山城下町」 「岡山市の地名」
http://www.city.okayama.jp/museum/yuraihi/index2.html

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