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トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

「海上一里」、旧東海道舞阪宿

2012年09月16日 | 日記
旧東海道、三十番目の宿場、舞坂宿は浜名湖の東岸にあります。中世まで淡水湖だった浜名湖は、明応7(1498)年の大地震と津波で湖岸が崩れ、外海とつながりました。切れた所は今切(いまぎれ)と呼ばれていました。対岸にある新居宿との間は「海上一里」(実際には一里18町)、旅人は船で渡っていました。写真は、北雁木(きたがんげ)跡。大名や公家が乗降した船着場の跡です。
これは、歌川広重が描いた「東海道53次」、舞阪宿です。帆を上げた船が描かれ、海が広がる風景が描かれています。ただ、実際には、この地は平坦な地形で山はありませんし、富士山もこの位置にはないのだそうです。

掛川宿から、袋井宿、見附宿と西に向かって歩いて来ましたが、この日は、30番目めの宿場、舞阪宿を歩くことにしました。

JR舞阪駅です。駅を降り南に歩くと、舞坂の松並木の入口、馬郡バス停に出ます。
舞坂の松並木です。慶長9(1604)年、江戸幕府の指示で黒松を植えたのが始まりで、旧馬郡村から舞坂宿の入口(見附の石垣)まで、8町40間(900m)の両側に1420本植えられていました。
昭和13(1938)年、国道の付け替えのときに堤を崩して、両側に歩道をつけて、今の姿になりました。
この松並木は、後に新たに植え直したもので、今も約700mの間に330本が残っています。

国道との交差点近く、松並木を抜ける手前に、「浪小僧」の像がありました。遠州灘の浜で、漁師が地引き網にかかった浪小僧を助けてあげたそうです。浪小僧はそのお礼に、海が荒れたり風が強くなったりする時には、海の底から太鼓を鳴らして教えてくれるようになったということです。浪小僧への感謝を込めてつくったものです。

浪小僧のモニュメントを過ぎると、国道1号線と斜めに交差しているところに出ます。

国道1号線の向こう側に、舞阪宿の案内標識がつくられていました。標識にしたがって、交差点を横切ってまっすぐに進みます。

旧東海道の両側に、見附の石垣が残っていました。ここが舞阪宿の入り口になります。宝永6(1709)年の古地図には石垣が載っているそうで、江戸時代の中期にはつくられていたそうです。ここに、6尺棒をもった番人が立って、人馬の出入りを監視していました。

舞坂宿は東西6町。天保14(1843)年には、2つの本陣、1つの脇本陣と28の旅籠など541軒の建物があり、2475人(男1254人・女1221人)が居住していました。

左側に「秋葉の常夜灯」と一里塚跡がありました。常夜灯は文化12(1815)年の建立。文化6(1809)年、宿場の大半を焼く大火があり復興に苦労したそうです。「火幸を恵み、悪火を鎮める」秋葉信仰の高まりを受けてつくられたといわれています。宿場には、この他に、文化10年(1813)年につくられた2つの秋葉常夜灯が残っていました。

一里塚は、慶長9(1604)年の幕府の指示によってつくられましたが、通常は、京に向かって、左側には榎、右側には松が植えられました。天保年間の「左右の木共松」という記録があるそうで、両側とも松だったようです。しかし、「大正時代まで1抱えもある大きな榎が生えていた」という古老の話もあり、榎が植えられていたときもあったようです。

現在の舞阪宿の家並みです。建物はすべて建て替えられていましたが、宿場町らしい雰囲気は残っていました。舞阪宿は
東西6町余り、約650mほど続いていました。
茗荷屋脇本陣。街道の左側にありました。旧東海道中53宿の中で、脇本陣の遺構が唯一残っているのがここ舞阪宿です。天保8(1837)年に建築されたものを、平成9(1997)年に解体修理して復元されました。

脇本陣の入り口です。提灯が雰囲気を醸し出しています。

藩主が宿泊、休憩した上段の間です。

中庭をはさんで、上段の間が見える美しい光景です。

旧舞阪宿には、2つの本陣と1つの脇本陣があったといわれています。脇本陣の向かいに源馬徳右衛門本陣の東隣、百姓十右衛門邸をはさんだ東側に、宮崎伝左衛門本陣がありました(脇本陣にあった説明)。「本陣跡」の案内標識は、駐車場の脇に建っていました。

脇本陣を過ぎて、左側に秋葉常夜灯(文化10=1813年建立)を見ながら進むと本雁木跡に着きます。雁木は三カ所ありました。本雁木は中雁木ともいわれ、主に武家用につくられていて、最も多くの旅人に利用されました。「雁木」は石垣を階段状に積み上げたつくりで、船着場として利用されていました。舞阪宿では、「雁木」は「がんげ」と呼ばれていました。

本雁木から、南に下っていきます。神社の鳥居の前に「渡荷場跡」の案内板が立っています。本雁木の南にあった南雁木。ここは、庶民が乗降したところですが、それとともに荷の積み降ろしも行ったところです。「渡荷場(とうかば)」と呼ばれていました。ここの石垣は、昭和25(1950)年の漁港修築工事で姿を消しました。そのとき、30m東にあった水神様を移しました。

本雁木に向かって引き返して、本雁木を越えてさらに北に向かいます。「渡船場跡北雁木」の標識が見えます。明暦3(1657)年から寛文元(1661)年にかけて構築された北雁木。大名や公家が乗降した乗降場です。街道から幅10間(18m)の石畳が水際まで敷き詰められています。

江戸時代には、船一艘貸し切るのが普通だったようで、天保8(1837)年には、貸切りで、332文ほどかかったようです。個人旅では、天保10(1839)年には、一人16文必要だったということでした。また、渡船の業務は、新居宿が請け負っておりました。舞阪宿から新居宿に向かう船は、新居の関所との関係で、一番方は午前4時、夕方の最終が午後4時でした。舞阪宿も、その莫大な利益のために、たびたび渡船業務を請け負うことを提案しましたが、かなえられることはありませんでした。

石垣の白い部分は、昭和28(1953)年の台風で崩れた石垣を、積み直したところです。東側に「浜松宿に二里半(12町)」と書かれた北雁木常夜灯がつくられていました。

ぎらぎらと夏の日差しが照りつける日でしたので、松並木の緑と今切の渡しの海の青色、空の青色と雲の白色が目にしみました。本当に美しい宿場町でした。

雁木から、船で「海上一里」。
向かいは、関所で有名な新居宿(あらいしゅく)です。



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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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見ました (山田の)
2012-09-17 11:44:17
 浜名湖が淡水湖であったこと初めて知りました。よく調べているので、分かりやすいです。ありがとうございます。
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