goo blog サービス終了のお知らせ 

トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

変わり行く倉敷市藤戸町天城地区

2011年07月20日 | 日記
源平の藤戸の合戦で知られる倉敷市藤戸町。
ここは、かつての備前の国、陣屋町天城(あまき)と備中の国、藤戸寺の門前町藤戸が合併してできた町です。

元和元(1615)年、幕府の一国一城令によって、下津井城が廃城となり、寛永16(1639)年、下津井城主だった岡山藩次席家老池田由成は、天城に陣屋町(3万2千石)を構えました。陣屋(お茶屋)は、県立倉敷天城高校の第2グラウンド(野球部練習場)がある、桜山につくられました。
 
県立倉敷天城高校の正門前には、当時の武家屋敷の雰囲気が残っています。

倉敷天城高校をはさんだ向かいの山の陣屋とほぼ同じ高さのあたりには、家老池田家の墓地があり、2代由成、3代由孝、4代由勝、6代政純、8代政孝、9代政徳、10代政昭、明治になってからの、11代政和(男爵)、12代政佑らの墓標が残っています。きれいに整備されていて、平素から手入れが行き届いている印象でした。
池田家の菩提寺、海禅寺。

 
3代由孝が火災後再興し、寺領130石を寄進したといわれます。明治になって、寺領が縮小し池田家からも離れたそうですが、長い参道と門前の石橋、屋根の瓦の家紋などが、菩提寺らしい格式を伝えてくれています。
天城池田家といえば、大石内蔵助の赤穂事件。関係者ということで、4代由勝のとき2千石減らされてしまいます。2代由成の六女熊子は、3代由孝の姉であり、大石内蔵助の母でした。

天城の正覚寺は、大石内蔵助のゆかりの寺として知られています。寺の説明によれば、3代由孝が、貞享5(1688)年、覚誉上人を開祖として、浄土宗の寺院として建立しました。父である2代由成の側室が浄土宗に帰依していたからだったようです。
 
寛永19(1642)年、岡山藩から「在町」に指定されてからは、この地域の商業の中心地となりました。また、金比羅街道や天城街道の宿場町、倉敷川の港町としても栄えます。

天城に残る大庄屋の邸宅の玄関には、「龍吐水」という消防ポンプがつり下げられて残っています。

倉敷市藤戸には、岡山県で2番目に古い(明治23年建築)といわれる天城教会。
 
「藤戸饅頭本店」の建物(万延元年現在地に店を構えた)も残っています。(藤戸饅頭本店は「ALWAYS 三丁目の夕日」の撮影で使われたようです。)
 
歴史のある建物が自然な形で残る藤戸の町は、遠くから訪ねて来られる旅行者からも親しまれて来ました。

ところが、最近、びっくりすることが起きていました。

古い民家のあったところが更地になって売り出されていたのです。すでにいくつかの区画は「売約済み」になっていました。
  
裏側からみた教会ですが、つい最近まで、このように教会の先にも建物がありました。また、大庄屋の建物の前にもたくさんの民家が残っていました。


更地になった所には、やがて新しい近代的な建物が建っていくのでしょう。しかたのないことですが、町全体で一つの雰囲気をつくっていた藤戸地区が、どんどん変わっていくのは、ほんとに残念なことです。 

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
見ました (山田の)
2011-07-21 07:56:04
 快調に更新できていますね。藤戸饅頭本店にはよく行きます。ゆっくり歩きたくなりました。
返信する

コメントを投稿