万葉集には、防人の詠んだ歌が数多く収録されています。
~いくつかを中学・高校で聞いたようなのですが流石に記憶に残っていません。
防人の起こりは、大和朝廷の支配が北九州に及んだ頃=邪馬台国が滅んだ後、
垂仁天皇・景行天皇の西暦290~349の北九州平定以後と推定されます。
九州には常に海賊が襲来するととが知られ、太宰府を中心とした防人体制が敷かれ、
防人になることが男の責務の一つとされたようです。
武士階級が発生・発達してから、防人体制に綻びが生じ、海賊被害が大きくなったようです。
9世紀から11世紀は被害収奪を数十回受けた記録があるそうです。
菅原道真公が太宰府に流された頃には(西暦901~903)、太宰府は形骸化
していたと思われます。
事件の結構な記録が残っているものは、次の3つです。
後の2つは元寇と言う呼び名で纏められています。
刀伊の入寇(西暦1019年):地元の武士集団が対応
文永の役(西暦1274年):日本兵5000、モンゴル軍3万。
死者:日本200人、モンゴル1万3000。
弘安の役(西暦1281年):日本兵7万、モンゴル軍14万。
死者:日本資料不足で不明、モンゴル10万。
元寇に先立ち、元(モンゴル)は、2回の使節を派遣したようです。
1回目(1266年):朝鮮半島南岸の巨済島までは行ったものの日本海の荒波を見て諦めたようです。
2回目(1268年):太宰府に文書を渡したようです。
時の権力者、北条時宗は降伏勧告を蹴って使節を殺害し、元を迎え撃つ準備を進めたようです。
元寇襲来時には、準備済みだったので、壱岐・対馬の被害は大きかったものの九州の被害は
小さかったと理解できます。
~三橋貴明氏の講座では西暦年に異同があるようですが、とりあえず無視しておきます・・・
こちらの記事もネットで集めた年号なので不確かです。
モンゴル軍(モンゴル+高麗軍)は、神風で壊滅したという話が出てきたのは大学時代以後でした。
最近の検証では
気象学や歴史から神風は無かった。
日本とモンゴルの戦後文書には、台風の記事は全く出てこないようです。
モンゴル船が沈んだのは、老朽化と荷物の載せすぎだったとあります。
未だに海底に沈んだ船が見つかるのは驚きです。
軍を維持するための食糧と水を積んできたのですから、さもありなん。
鎌倉時代には、集団戦法があった。
我こそは・・・なぞの名乗りは、話しを面白くするための後世の講談者の脚色でしょう。
実際、マイク無しで、がなってみても、どこまで届くんだいってこと。
応援団長がマイク無しでがなっても、最後尾までは届かないっぽい・・・
有名な絵図:3対1で馬が出血している絵ですが、範囲広げると9対1で、内3人は逃げている図です。
日本武者の鎧は、すごく有効だったようです。
武器のメインは弓矢だったことが示されています。モンゴル兵の強さは馬によるものでした。
立場が逆の乗馬日本兵に蹴散らされるのは当然だったのです。
日本刀は、護身用です。打ち合ったり骨に当たったら欠ける・曲がる・折れるのです。
一人切れるかどうかという半端な武器です。神器とするのが妥当かも。
日本刀の集団戦法は、全員が振り下ろすか突くだけですから、竹槍戦法の距離に一方的に負けます。
過去の侍番組は飾りすぎました。
過去の日本は弱かったとする集団が広めた話のようです。
~いくつかを中学・高校で聞いたようなのですが流石に記憶に残っていません。
防人の起こりは、大和朝廷の支配が北九州に及んだ頃=邪馬台国が滅んだ後、
垂仁天皇・景行天皇の西暦290~349の北九州平定以後と推定されます。
九州には常に海賊が襲来するととが知られ、太宰府を中心とした防人体制が敷かれ、
防人になることが男の責務の一つとされたようです。
武士階級が発生・発達してから、防人体制に綻びが生じ、海賊被害が大きくなったようです。
9世紀から11世紀は被害収奪を数十回受けた記録があるそうです。
菅原道真公が太宰府に流された頃には(西暦901~903)、太宰府は形骸化
していたと思われます。
事件の結構な記録が残っているものは、次の3つです。
後の2つは元寇と言う呼び名で纏められています。
刀伊の入寇(西暦1019年):地元の武士集団が対応
文永の役(西暦1274年):日本兵5000、モンゴル軍3万。
死者:日本200人、モンゴル1万3000。
弘安の役(西暦1281年):日本兵7万、モンゴル軍14万。
死者:日本資料不足で不明、モンゴル10万。
元寇に先立ち、元(モンゴル)は、2回の使節を派遣したようです。
1回目(1266年):朝鮮半島南岸の巨済島までは行ったものの日本海の荒波を見て諦めたようです。
2回目(1268年):太宰府に文書を渡したようです。
時の権力者、北条時宗は降伏勧告を蹴って使節を殺害し、元を迎え撃つ準備を進めたようです。
元寇襲来時には、準備済みだったので、壱岐・対馬の被害は大きかったものの九州の被害は
小さかったと理解できます。
~三橋貴明氏の講座では西暦年に異同があるようですが、とりあえず無視しておきます・・・
こちらの記事もネットで集めた年号なので不確かです。
モンゴル軍(モンゴル+高麗軍)は、神風で壊滅したという話が出てきたのは大学時代以後でした。
最近の検証では
気象学や歴史から神風は無かった。
日本とモンゴルの戦後文書には、台風の記事は全く出てこないようです。
モンゴル船が沈んだのは、老朽化と荷物の載せすぎだったとあります。
未だに海底に沈んだ船が見つかるのは驚きです。
軍を維持するための食糧と水を積んできたのですから、さもありなん。
鎌倉時代には、集団戦法があった。
我こそは・・・なぞの名乗りは、話しを面白くするための後世の講談者の脚色でしょう。
実際、マイク無しで、がなってみても、どこまで届くんだいってこと。
応援団長がマイク無しでがなっても、最後尾までは届かないっぽい・・・
有名な絵図:3対1で馬が出血している絵ですが、範囲広げると9対1で、内3人は逃げている図です。
日本武者の鎧は、すごく有効だったようです。
武器のメインは弓矢だったことが示されています。モンゴル兵の強さは馬によるものでした。
立場が逆の乗馬日本兵に蹴散らされるのは当然だったのです。
日本刀は、護身用です。打ち合ったり骨に当たったら欠ける・曲がる・折れるのです。
一人切れるかどうかという半端な武器です。神器とするのが妥当かも。
日本刀の集団戦法は、全員が振り下ろすか突くだけですから、竹槍戦法の距離に一方的に負けます。
過去の侍番組は飾りすぎました。
過去の日本は弱かったとする集団が広めた話のようです。
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