樺太から引き上げ北海道の鉱山住まいの後、
開拓に入ったようです。
最初は、今の、秋田県鹿角市八幡平村トロコ。
(トロコはアイヌ語のようです。)
~こんな国立公園になるような地域で農業が
できるって考えた役人はバカです・・・
温泉由来の硫黄の採集が経済的になりたって
いるあいだだけは、生活できました。
朝鮮動乱が終わったから?硫黄の需要も無く
なり農業はハナから無理。(林業の需要は
ありましたから、伯父が握りましたw)
次が、秋田県由利郡矢島町谷地沢の西に
無理やり作った谷地沢西という開拓。
ここは、第2次大戦中の馬の放牧場でありました。
高さ2mにみたない土塁というか土を持った壁を
延々と作って囲いを作り、その中に馬を放牧=
放置していたようです。この成果は、地元
(距離は10km程)の方も知らないようでした。
放牧場だったんだから開拓にできると考えたんで
しょう。お役人は。
(当時の冬の積雪は、0mから4mまで。冬期の
馬小屋と世話人がいなければ無謀な話ですが、
馬小屋がどこにあったのか誰も知らなかったw)
さて、矢島(ヤシマと濁りませんw)町の問題は、
産業が無いのです。農業による産出しか無いのです。
父親は、春夏秋は開拓、冬は東京に出稼ぎという行動を
とりました。
一応町で人口1万はいましたので市場はありました。
母は、鶏卵+何かの野菜と頑張りました。野菜は、いろいろ
頑張りましたが、生計を支える程には至りませんでした。
結局は、父の出稼ぎが生活を支えたのでした。
(母に言わせると、最低限のお金しか送ってこなかった、
全部遊びに使ったんだろうと。酒飲めない、バクチ好か
ない父でしたので、女遊びか?)
覚えている野菜は:
菜種(自家用油で終わった)、ゴマ(自家用油で終わった)、
大豆(自家用油と豆腐用)、小豆(毎年の自家用分)、
ソバ(毎年完全に自家用分)、落花生(1年で終わったから
失敗だろう)、麻(自家用に麻の実を使うだけに終始した、
麻の実入りミソ炒めはうまかった、これも無許可栽培だった
かもだが、麻縄作って自家使用していた。ハッパ?いぶして
吸う?煙いだけ!羊や牛馬のエサにしたことも無い)、
タバコ(できが悪すぎた、背丈が1mにもなれないのだから。
婆ちゃんの使用分も賄えなかった。婆ちゃんが死んだ後、作る
のを止めた。植えていた場所も外れだったから無許可栽培だっ
たかもね)、
陸稲(自家用でしかありえない。小6の修学旅行で、真っ黒に
近い白米を持参して恥ずかしかった記憶が)、
水稲(丘陵地に水田を作るのはムズく自家用分で終わった。)
結局の所、売るだけの量は作れなかったのでした。
~街まで片道10kmの歩きで、毎日収獲するような野菜は
無理だとわかりますよね?
売れたのは鶏卵だけでした。(毎週100個を越える卵を担いで
売りに行かされたのでしたw)
さて、60年前の鶏卵の価格。分かりますか?
10円以上ですが15円に届いたことは多分無いです。
今の鶏卵価格・・・どれだけ経っても、安い。
ただし、元の西川議員が活を入れたといばっていましたから
少しは値上げできたようです。
で、3度目の開拓が現住所です。もっとも、土地は隠居様の
土地になっていたため、畑名目が300平米に足りず、
近くの土地を畑にするよと言って合わせて買うことで入手
したのでした。
~その土地、未だに原野でありまして、死んだ兄からの
名義変更ができなかった理由でもあります。
父は、農業を続ける気は全く無く、宇都宮に住みたがって
いましたが、義兄に逆らえなかったようです。
~父の義兄は最初のトロコで近所に同時開拓しましたが、
早い機会に、今住む近所に再開拓で入りました。
~同じ金額で宇都宮に家買えたんだとぼやいてました。
お墓は、父の義兄が嫁に出た娘達のために確保して
いて譲ってくれなかった。
~結局は娘達の誰も墓を作らなかったし、孫達も作らな
かった。
この地区のお墓、南向きと西向きが混在してゴチャ
ゴチャの雰囲気に。
~墓は隣の地区からわけてもらい、そこに作った。
こちらは、すべてが南向き。
さて、同じ樺太、コノトロ村からの開拓者も世代がすべて
代わりました。最近、私の下の世代の跡取りも、無くなり
始めました。
牛肉や牛乳に賭けた開拓も、借金を解消できないまま
終わるようです。
借金をなんとか解消できた家もあります。燐家は、牛と牛舎
と借金を知人に継承して貰って逃れたようです。知人には
赤字を利用できる理由があったということでしょう。
今回無くなった家の次男は東京に生活基盤があります。
入院中の母がいます。多分、破産にして終えるのでは
ないかと思います。死んだ長男は、今飼っている牛を
全部売って、家土地を売っても借金を消せないと言って
いましたから。
~長男は独身のままでした。
父の義兄の家は、今は孫娘の世代です。で、食えない家
3軒をまとめて牛乳をやっています。当然、借金だらけです。
当初の契約からしたら、全家の借金は昨年あたりでゼロと
いうことになっているようですが、契約期間がうん十年と
いうのが実際だったようです。
開拓に入ったようです。
最初は、今の、秋田県鹿角市八幡平村トロコ。
(トロコはアイヌ語のようです。)
~こんな国立公園になるような地域で農業が
できるって考えた役人はバカです・・・
温泉由来の硫黄の採集が経済的になりたって
いるあいだだけは、生活できました。
朝鮮動乱が終わったから?硫黄の需要も無く
なり農業はハナから無理。(林業の需要は
ありましたから、伯父が握りましたw)
次が、秋田県由利郡矢島町谷地沢の西に
無理やり作った谷地沢西という開拓。
ここは、第2次大戦中の馬の放牧場でありました。
高さ2mにみたない土塁というか土を持った壁を
延々と作って囲いを作り、その中に馬を放牧=
放置していたようです。この成果は、地元
(距離は10km程)の方も知らないようでした。
放牧場だったんだから開拓にできると考えたんで
しょう。お役人は。
(当時の冬の積雪は、0mから4mまで。冬期の
馬小屋と世話人がいなければ無謀な話ですが、
馬小屋がどこにあったのか誰も知らなかったw)
さて、矢島(ヤシマと濁りませんw)町の問題は、
産業が無いのです。農業による産出しか無いのです。
父親は、春夏秋は開拓、冬は東京に出稼ぎという行動を
とりました。
一応町で人口1万はいましたので市場はありました。
母は、鶏卵+何かの野菜と頑張りました。野菜は、いろいろ
頑張りましたが、生計を支える程には至りませんでした。
結局は、父の出稼ぎが生活を支えたのでした。
(母に言わせると、最低限のお金しか送ってこなかった、
全部遊びに使ったんだろうと。酒飲めない、バクチ好か
ない父でしたので、女遊びか?)
覚えている野菜は:
菜種(自家用油で終わった)、ゴマ(自家用油で終わった)、
大豆(自家用油と豆腐用)、小豆(毎年の自家用分)、
ソバ(毎年完全に自家用分)、落花生(1年で終わったから
失敗だろう)、麻(自家用に麻の実を使うだけに終始した、
麻の実入りミソ炒めはうまかった、これも無許可栽培だった
かもだが、麻縄作って自家使用していた。ハッパ?いぶして
吸う?煙いだけ!羊や牛馬のエサにしたことも無い)、
タバコ(できが悪すぎた、背丈が1mにもなれないのだから。
婆ちゃんの使用分も賄えなかった。婆ちゃんが死んだ後、作る
のを止めた。植えていた場所も外れだったから無許可栽培だっ
たかもね)、
陸稲(自家用でしかありえない。小6の修学旅行で、真っ黒に
近い白米を持参して恥ずかしかった記憶が)、
水稲(丘陵地に水田を作るのはムズく自家用分で終わった。)
結局の所、売るだけの量は作れなかったのでした。
~街まで片道10kmの歩きで、毎日収獲するような野菜は
無理だとわかりますよね?
売れたのは鶏卵だけでした。(毎週100個を越える卵を担いで
売りに行かされたのでしたw)
さて、60年前の鶏卵の価格。分かりますか?
10円以上ですが15円に届いたことは多分無いです。
今の鶏卵価格・・・どれだけ経っても、安い。
ただし、元の西川議員が活を入れたといばっていましたから
少しは値上げできたようです。
で、3度目の開拓が現住所です。もっとも、土地は隠居様の
土地になっていたため、畑名目が300平米に足りず、
近くの土地を畑にするよと言って合わせて買うことで入手
したのでした。
~その土地、未だに原野でありまして、死んだ兄からの
名義変更ができなかった理由でもあります。
父は、農業を続ける気は全く無く、宇都宮に住みたがって
いましたが、義兄に逆らえなかったようです。
~父の義兄は最初のトロコで近所に同時開拓しましたが、
早い機会に、今住む近所に再開拓で入りました。
~同じ金額で宇都宮に家買えたんだとぼやいてました。
お墓は、父の義兄が嫁に出た娘達のために確保して
いて譲ってくれなかった。
~結局は娘達の誰も墓を作らなかったし、孫達も作らな
かった。
この地区のお墓、南向きと西向きが混在してゴチャ
ゴチャの雰囲気に。
~墓は隣の地区からわけてもらい、そこに作った。
こちらは、すべてが南向き。
さて、同じ樺太、コノトロ村からの開拓者も世代がすべて
代わりました。最近、私の下の世代の跡取りも、無くなり
始めました。
牛肉や牛乳に賭けた開拓も、借金を解消できないまま
終わるようです。
借金をなんとか解消できた家もあります。燐家は、牛と牛舎
と借金を知人に継承して貰って逃れたようです。知人には
赤字を利用できる理由があったということでしょう。
今回無くなった家の次男は東京に生活基盤があります。
入院中の母がいます。多分、破産にして終えるのでは
ないかと思います。死んだ長男は、今飼っている牛を
全部売って、家土地を売っても借金を消せないと言って
いましたから。
~長男は独身のままでした。
父の義兄の家は、今は孫娘の世代です。で、食えない家
3軒をまとめて牛乳をやっています。当然、借金だらけです。
当初の契約からしたら、全家の借金は昨年あたりでゼロと
いうことになっているようですが、契約期間がうん十年と
いうのが実際だったようです。