風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

野蛮

2005年08月30日 | スピリチュアル
造反議員に対する刺客として送り込まれたのが、ほとんど女性議員であることが話題になっています。
誰かが、こういう機会でもないと、優秀な女性がどんどん立候補できないからいいことだと言っていましたが、同感です。
テレビで彼女たちの発言を見てますと、頭が切れ、品性もありそうです。
女性だから、男だからなんてことはいちいち意識するのも疲れます。
男であろうと、女であろうと、政治家として優秀ならそれでいいです。
一昔ですと、女性だからという理由だけで、わけの分からないおばさんが、続々国会に送り込まれました。
彼女たちの「台所感覚」が、どれほど国政の場で役立ったのか、聞いてみたいものです。
「庶民感覚」だの「台所感覚」だの「女性としての感性」だのという空虚な言葉が、
政治から聞こえなくなったのはいいことです。

女性の感性にしろ、庶民としての感性にしろ、そんな実体のない気まぐれな「感性」で政治を左右していいいのなら、
まだ中学生の感性を信用しますね、ぼくは。
色気づく前の中学生というのは、妙に健気で、真面目なところが残っていますから、「感性」ということで言えば、
生活に疲れ、うそをつくことも覚え、僻みっぽくなったおばさん、おじさんより信用できます。
一人一人の感性はもちろん大事なのですが、「庶民の感性」とか「女性の感性」とかいういい加減極まりない曖昧な
言葉を使って恥じない人には、少なくとも国政は任せたくありません。
そういう、言葉に対する感性が鈍い人は、ある意味危険だと思うんです。
逆に言うと、スローガンに酔いやすいということでもあるわけですから。
スローガンに酔って国政を動かすと、ろくなことがありません。
野蛮な民主主義になります。

野蛮といえば、ある学者が修験道は野生の、野蛮な宗教だと言っております。
この野生の、野蛮のというのは、既成宗教が形式的になり、その宗教的活力を失ってしまった状況に対しての、
好意的な意味で使われています。
修験には荒行といわれる命がけの修行がつきものです。
肉体的にも、精神的にも死のふちまで自らを追い込みます。
一例を挙げますと、比叡山の千日回峰をする行者は、その修行の終盤、一切の水も食も断って護摩焚きを行じます。
すると次第に行者の体から死臭が漂いだすのだそうです。
意識も朦朧状態になり、何もかも打ち捨てて、「行」になりきった時に、何かを掴むのだそうです。

このような行は、仏教(密教)というよりも、日本古来から伝わってきた山岳信仰、つまり修験の流れが
本流になっているようです。
それでは、その修験というのが何かといいますと、簡単に言いますと、「死」と「再生」を全身全霊で「体験」することです。
「死」の苦痛と断絶から「再生」の喜びと解放へ至る時、自然界すべての存在の有難さを全存在を上げて思い知る。
あくまでも、体験しなければ、何一つ先に進めない宗教です。
机上では、手がかりさえも掴めません。
宗教学者が修験に関してはあまり語らないのも、体験していないので、語ろうにも語れないからにほかなりません。
(ちなみに、上述の修験道が野蛮の宗教だと語った学者は、精力的に修験行者と行を共にしました)

ぼくらなども、真冬の身を切るような滝に打たれるわけです。
ちょー野蛮です(笑)
ところが、まだまだ死に切れていません。
こういうのを、往生際が悪いというのです。
ゆえに、再生もしていません。
でも、死に切れば、再生するのは確信を持ってはいます。